克巳が徳川邸を訪れて数日。
すなわち、独歩と克巳による
東京ドームが地下闘技場。満員御礼。
未だ史上最強の親子喧嘩の興奮冷めやらぬ中、突如として降って沸いた
神心会の新旧館長同士の直接対決。空手界が誇る武神と
血は繋がらなくとも愚地の姓を冠する両者。なるほど
地下闘技場を知る者たちは元より
通常であれば他の仕合も組まれるが、本日はメインのみのスペシャルマッチ。
彼らは仕合、否。義親子喧嘩が始まるその時を、今か今かと待ち続けていた。
ざわめき続ける観客席。それとは反対に闘技者の控室は静寂に包まれている。
神心会所属が仕合に望む場合、同門の空手家が傍に控えているのが常。だが今回の仕合は同門対決。さらに言えば、共に館長を冠する者。
愚地独歩だろうが、愚地克巳だろうが、門下生はどちらに立つこともできない。どちらに背くことも出来ない。故に彼らは控室に居ない。
したがって、どちらの控室にも本人以外は不在――否。人影が一つずつ存在した。
「睡眠不足かねぇ……最近どんな鍛錬中でも頻りに欠伸が出てきて参ってたが、この戦いが決まってからは一つもしてねぇんだ。全く良い息子を持ったもんよ」
張り詰めた空気、静かなる緊張感が漂う室内で愚地独歩は型を一つずつ確かめながら、いつの間にか入室していた人影に声を掛ける。
「で? お前さんはオイラを襲いに来たのかい?……なぁ、オーガよ」
声かけた先に居たのは、例え何者であろうが無視することは能わぬ『存在感』という言葉が物質化したような男であった。
宙を漂うように波打つ長髪。黒い衣服を纏って、なお隠せぬ
今や日本の誰もが知る存在であるオーガ。史上最強の親子喧嘩の立役者の一人、範馬勇次郎その人が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
彼は愚地独歩の問いかけを鼻で笑い飛ばす。
「フン、せっかくの親子水入らず。そこまで無粋な真似はしねぇよ」
「ほーう。まさかお前さんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったぜ」
意外なことを聞いた。想いをそのまま口にした独歩。
勇次郎は笑う。否。嘲笑う。
「ああ。ここまでお膳立てしなきゃあ喧嘩の一つも出来ない憐れな親子。気の毒過ぎて、邪魔する気にもなれやしねぇよ」
底意地の悪い笑み。愚地独歩と克巳の義親子関係を蔑むように吐いた言葉は、しかしてそれはオーガの本心。
範馬親子の喧嘩は大きな騒動になったが、それはあくまで結果論。事前に囃し立てるようなこともなく些細な切っ掛けで始まった、
言ってしまえばどこかの無人島で、どちらが魚を獲ってくるかで争うようなちょっとした理由で、初めてしまっても構わなかったのだ。
普通の理由で、普通に始まった、
翻って、今回の
わざわざ大げさな銘を打ち、大げさに場を整え、大げさに始めようとする、そも親子ですらない親子喧嘩。
否。ここまで来れば最早これは
格闘家としては何ら問題はない。
だが曲がりなりにも親子喧嘩の冠を被っているのであれば、これは
異常。ただ異常。
「オーガよう、そりゃあ……完璧に正論だなァ」
反論の言葉が一つも出て来やしねぇ。
独歩はそう言って、あっさりと勇次郎の言葉を認めた。
「だが克巳の奴に言われたんだよ。『これこそが俺たちなりの義親子喧嘩』だってな」
独歩は思い返す。克巳に喧嘩を売られた日のことを。
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克巳が光成に義親子喧嘩の提案をした、その日の夜。
灯りが落ちた神心会の道場内で独歩と克巳の両名が対峙していた。
克巳は独歩をしかと見据え。
独歩は目を合わせることなく伏せていた。
「ご老公から聞いたぜ克巳……義親子喧嘩、したいんだってな?」
「耳が早い。いや、逃げられないように徳川公が先手を打っただけか」
克巳の予想通り、この喧嘩が流れないように光成が先んじて外堀を埋めに掛かった結果である。
同時にこれは、彼の期待通りの展開でもあった。
「俺と喧嘩してぇ。それは分かった……だったらよう、何故今襲わねぇ? こんな回りくどい真似をわざわざしやがって。舐めてんのか?」
床を眺めていた独歩の視線が正面を向き、相対する克巳を捕える。
剣呑な気配は物語っていた。
向けられる克巳はしかして、一触即発の殺気をさらりと受け流す。
館長としての、上に立つ者の風格を感じさせる克巳の態度に、独歩は殺気を引っ込める。
「確かに。義理とは言えど俺たちは親と子。喧嘩したければどこだろうとすればいい。だが親子である以前に、俺たちは空手家だ。であれば喧嘩の作法は親子のそれではなく、空手家のそれであるべきだ。違うかい?」
この言葉を聞き、独歩の殺気。再度噴出。
「バカタレがッッ!! 試合ならばともかく、喧嘩っていうなりゃそんな作法は不要っ! 空手家であるということは格闘家であることッ! であれば常在戦場であるのが至極当然! いちいちオウカガイなんか立てずに、
「そこだよ」
怒れる独歩を前にして、克巳は何事もないかのように涼しく笑う。
「格闘家にとって常在戦場は世の常。いつ何時襲われても一向に構わない。なるほど如何にも最もらしい
「言い訳だァ?」
「違うかい? 病や怪我の有無。寝食の最中。いつ如何なる時であっても迫りくる脅威に対処すること……なるほど正しい。人であるならば好調不調。弱いときと強いときがあって当然。かの勇次郎氏であろうと例外ではないだろう。弱くなっている時に襲われたからと言って負けるようでは格闘家として落第。故に常在戦場。なるほど道理だ。だがこの言葉には常にこの言い訳が含めている。『弱い時に襲われたから負けた』ってね」
「~~テメェ……ッッ!!」
克巳の暴言に独歩、キレたッッ!!。
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「……カァ~~ッッ!! 言っちゃったんだ克巳さん! あの愚地独歩に向かって!! 常在戦場なんざ言い訳に過ぎないって!!!」
愚地克巳の控室。こちらも選手以外が席を同じくしていた。
感嘆の声を上げるは範馬刃牙。
奇しくも義父子揃って、史上最強の親子喧嘩を演じた当事者たちと会っていた。
「独歩さん、キレてたでしょ?」
「そりゃあもう。顔真っ赤っ赤にして怒髪天を衝くってもんよ。髪ねェけど」
クスリと笑い、克巳は言葉を続ける。
「あくまで自論。俺が常々思ってたことを口にしただけだ。無論、急襲を非難しているわけではない。例え俺自身、不意を打たれて敗れたとしても言い訳をするつもりは一切ない」
「だろうね。こうやって話をしていても、俺に対して微塵も油断していないのが証拠でしょうよ」
彼の存在を気にすることなく、独歩と同じように克巳を自らの型を確認していく。
演武を眺める刃牙の額から、自然と冷汗が流れている。
克巳が問題視しているのは
「ただ勝ちてぇだけなら寝込みでも何でも襲っちまえばいい。常在戦場とはそういうもんだ。だが100%の相手と
「
「その通りだよ。刃牙さん」
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「『万全じゃないから負けた』だァ!? 俺がそんなツマラネエ台詞を吐くとでもっ!?」
隠す気もなく発される総身を包む怒り。自然と取られた構えは、導火線に着いた火そのもの。手が出なかったのが奇跡に等しい。
迫る明確な危険。だがそれを前にしても克巳は自然体そのもの。
「まさか。問題なのは『俺がそう思う』ということだ。
常在戦場。時と場所を選ばず
即ち正真正銘、
血走った目に、更なる力が籠められる。
「……なるほど。つまりは俺は準備期間を貰ったってことか? テメェのお情けで?」
「そうとも言う」
「それが舐めてるって言ってんだよッッ!!
相手が強くなるのを待つ。師が弟子に、親が子に対してであれば有る意味当然。
だが反対に、弟子から師へ、子から親へと与えるには余りに過ぎた行動。
一武術家からしてみれば、それは余りにも屈辱であった。
「ツマラネェ喧嘩の売り方をしやがってッッ! 俺が付き合うと思ったかッッ!?」
克巳の思惑を無視して独歩が打ち込む――その直前、克巳は絶妙なタイミングで言葉を挟み
「い~や、付き合ってもらうぜ親父には。そも、付き合わない選択肢がアンタにはねぇ」
「なんだと?」
疑惑の声。それに応える様に克巳は窓の外に目を向ける。
「この神心会のドでかい看板に何が描かれてるか、知ってるかい親父?」
知らぬはずがない。描かせた本人であり、何よりも独歩の異名が一つ、『虎殺し』の象徴でもあるのだから。
「かつてアンタが虎と戦った時、わざわざ極限まで飢えさせたと聞く。何故なら野生にとって飢餓状態……飢え死に寸前こそが
「……ああ。その通りだ。今となっては若気の至りって奴だ」
「そうかよ。だがアンタはテメェの
もう分かるだろ?
克巳は言葉なく問い掛ける。
「それと同じさ。俺も
自分が昔やったことだ。やられて怒るなよ。
克巳は涼しい顔をして言ってのけた。
聞き終えた独歩は困ったように頭を掻く。一触即発の気配はいつの間にか霧散していた。
「なるほどなァ。テメェの言い分は理解した」
「助かるぜ。加えてだ。武人であれば常在戦場。俺はそれを否定する気はない。確かに不意の闘争はある。それに備えるのは武人として当然のこと。だがそれと同様に、来ると分かっている脅威があるのならば! 来たるべき争いの場があるのならば! それに向けて牙を研いでおくこともまた当然! 否、もはや武に携わる者として嗜みと言っていい!」
「アンタが真に常在戦場を掲げるならば、俺と戦う時には
これが俺なりの喧嘩の売り方だ。
克巳はそう言葉を締めくくる。
「なるほど。なるほど。なるほどなァ」
独歩は納得したように同じ言葉を繰り返し。
そして嘲笑うように笑みを浮かべ、言い放った。
「つまりオイラは用意しなきゃいけねぇわけだな。『万全の愚地独歩と戦ったから愚地克巳は負けたのだ』っていう言い訳を」
応える様に克巳もまた笑みを浮かべる。
「そうそう。良いんだよ、それで」
「ああ。俺に時間に与えたことを。本気にさせたことを。万全にさせたことを。後悔させてやるよ」
夜の道場の対峙を終え、二人は肩を並べてそれぞれの寝室に帰っていく。
一見すると和やかの風景。だが近づけばその内側で絶えず燃える闘争心が僅かに湧出しているのが感じ取れるだろう。
これにて両者は認識を共通させる。
決められた日時、決められた場所で両者ともに本気で戦りあう。
親子喧嘩あるまじき義親子喧嘩の開催が二人の間で決定したのだった。
******
係りの者が外から時間を告げてくる。
型の確認と当時の状況説明を終えた独歩は、すれ違いざまに勇次郎に問いかける。
「オーガよう。おめえさんはここまで言われてスゴスゴその場で殴れるかい? 少なくともオイラにゃあ無理だった」
独歩が笑う。嗤う。
肉食獣染みた獰猛な笑み。
「アイツが用意したこの場でボッコボコにしなきゃあ、気が済まねぇってもんよ!」
「……へっ、違ぇねぇ」
******
「武術家であれば有り得ざる
「そう可笑しなことじゃない。強い奴と
「果たし合いなら百点満点だ、けど親子喧嘩として見れば落第点もいい所だ」
「いいんだ。示し合わせて拳を交える。それこそが俺たち空手家の義親子喧嘩ってものさ。それによ刃牙さん」
振り返り、いつか見たイタズラ小僧のような笑顔を、刃牙に向けた。
「俺たちは腐っても神心会の館長。立場っていうもんがある。どっかの親子のようにホテルのレストランで突然おっ始まるような人様の迷惑を考えない親子喧嘩は、ウチじゃあ出来ないのさ」
「……ちぇっ、言ってくれるじゃん」
「ただの事実さ」
その言葉を最後に克巳はリングに向かうため部屋の外へと歩み始める。
「完成させていたんですね。片腕という
ドアノブを回した彼の背に向けて刃牙が声を掛ける。
「たっぷり見させてもらいますよ。アナタが手に入れた新しい力を。そして――空手の新しい姿を」
克巳はクスリと笑みを零し、言葉を返すことなく扉を開いた。
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「せぇいっ! せぇぇいぃッッ!!」
控室からリングに続く廊下。
そこでは異様な光景が広がっていた。
花道を彩るように、両脇に数多の男たちが並んでいた。
老いも若きも、体躯の大小も問わず、等間隔に並ぶ彼らの胸には神心会の文字。
乱れることなく並び、乱れることなく胴着と帯を締め、一糸乱れぬ正拳突きを放つ彼らの姿は、さながら統率された軍隊のようで。
敬意。激励。感謝。
今から戦う二人の館長。彼らに対して様々な意味が込められた、神心会門下生による応援歌であった。
どちら一方のみを与することは許されない。故にそれは両者に分け隔てなく送られる。
示し合わせたように控室を出た二人は、示し合わせたように苦笑を浮かべた。
他人に応援される親子喧嘩とは全く以って
しかしだからこそ、血縁ではなく空手で繋がっている義親子の喧嘩には
花道を抜けて、無数の歓声が二人を包む。
そしてついに。
続きは本日5/24の20時頃を予定してます。