生徒に舐められていると勘違いしているけど、実は裏で生徒全員からめちゃくちゃ慕われている魔法学校教師 作:アスピラント
本年も当作品をよろしくお願いします。
「――ありがとうございました」
「はーい」
明くる日の夕方――ジルガは図書室にいた。
彼女は試験期間前に借りていた本を返す為に、ここにいた。とても面白そうな小説を借りたはいいが、読み終わる直前で藍羅達を教えないといけなくなってから、タイミングが遅くなってしまった。
(評判も良いから読んでみたけど、結構意外性あって楽しく読めたなぁ)
才女たるジルガは今回の試験に関しても、全く問題ないと見ていた。だからこそある程度の息抜きしても、全然余裕があった。
尤も他の生徒からしたら余裕なんてないに等しい。特に1年生でそんな人物は数える程度しかいない。ジルガを含めたTOP10番以内の生徒があたるだろう。
「ジルガさん、奇遇ですね」
「アダスさん……」
そしてその中に、彼女が密かに苦手意識を抱くアダスもいた。
「奇遇と言いましたが、本当ですか? 何やらストーカーじみたものを感じます」
「そんな人を犯罪者みたいに言わなくてもいいじゃないですか、同郷の者を」
「同郷だからこそ警戒するんです。あなたが何を考えているのか分からないのは昔からですから」
ジルガが冷ややかな視線を送ると、アダスは肩をすくめて笑みを浮かべた。
「警戒されるのは心外ですが、今日は別に嫌がらせをしに来たわけではないんです。少し話したいことがありまして」
「……要件だけ言ってください。私も暇じゃないので」
そう言いながら、ジルガは本を抱えた腕を少しきつく締めた。この男が話したい内容など、ろくなものではないだろうという予感がしていたからだ。
「クラヴィス先生のことです」
「クラヴィス先生を……? またどうしてですか?」
聞き返しながら、ジルガの頭にはクラヴィスの欠伸をしながら怠けてる姿が思い浮かんでいた。ただジルガは彼を心底尊敬してやまない。今まで話して来たどの大人とも違って、同級生のように親しみやすしくて、しかも面倒見も良い。ジルガだけじゃなくルーメンクラス全員が彼を慕っている。
そんな彼に対して、アダスは何を言うつもりなのだろうか。
「あなたも彼を尊敬していると聞いていますが……。どうやら彼には、意外な裏の顔があるようですよ」
アダスの声にはどこか含みがあった。
「裏の顔……? 何の話ですか?」
「クラヴィス先生が国家安全保障局の治安維持課で働いていたことをご存じですか?」
「は?」
一瞬、ジルガは彼が何を言っているのか理解できなかった。組織の名前についてはもちろん知っている。世界で1番優秀な魔法使いばかりが集う諜報機関……ただどんな事をしているのかは、ほとんど公にはなっていない。
「治安維持課ですよ。つまり国内の反乱分子を排除するための部門です。文字通りの汚れ仕事をしていた、と私の父から聞きました。彼のような人がそんなことをしていたなんて、驚きですよね」
アダスの言葉に、ジルガは呆然とした表情を浮かべた。
あの教師がそんな危うい仕事をしていたなんて、とてもじゃないが信じられない。
「ちょっと待ってください。クラヴィス先生が……そんな汚れ仕事を? あり得ません! あの人、鈍感すけこましですよ? それに、どこからどう見ても諜報機関のエージェントというより……ブラック企業で潰されて地元帰ってきた若者でしょう!」
「尊敬……してるんですよね?? やたらディスが多い気が」
「してますが、それとこれは違いますので」
えらい言われようにさすがのアダスも同情したが、気を取り直して話を続けた。
「まあ、そういう部分もあるかもしれませんね。でもね、ジルガさん。人は見かけによらないものです。特に国家の裏側で動く人間というのはね」
「冗談でしょう? そんな話、どこで仕入れてきたんですか?」
「父から聞いたと言いましたよね。父はこの国の大評議会で議員を勤めています。そんな父が言っているのだから、まず間違いないでしょう」
アダスの父のことはジルガも知っている。
それに彼がわざわざ嘘をつくとも思えなかった。
「……そんなの、信じられるわけがない。クラヴィス先生はそんな人じゃない」
「そう思うなら、それで構いません。でも、一度考えてみてはどうです? 本当に彼があなたが思うような尊敬に値する人物なのか」
そう言うと、アダスは一歩後ろに下がり、軽く手を振った。
「貴女がもっとも嫌悪する人種が、狡猾である事を……誰よりも知っている筈ですよ?」
「……っ!」
ふとジルガの脳裏によぎる――父と周りの貴族たち。
忌まわしい記憶が蘇ったジルガは目を伏せた。
「それでは、また会いましょう。お話できて楽しかったです」
彼が去った後、ジルガは動揺と不安を抱えたまま立ち尽くしていた。本当にクラヴィスがそんな過去を持っているのだろうか。もしそれが真実なら、自分が抱いていた尊敬の念はどうなるのだろう――。
「…………先生」
ジルガの不安気な声が図書室に虚しく響いた。
◆
そして放課後、ジルガはそんなモヤモヤを抱えたまま、いつもの3人に勉強を教えていた。ユスティは遅れて来るらしく、今日は先んじてはじめていた。
「ちょっとよ、ここどうすりゃいいんだ?」
藍羅が乱雑にノートをめくりながら、面倒くさそうに質問してきた。書かれた計算式は途中で線が引かれ、別の数字が付け足されている。いつものことながら、雑さ全開だ。
「ここはね、まず最初に魔力変換係数を整理する必要があります。それをしないと計算結果が大きく変わるから」
ジルガは自分のノートを使い、丁寧に説明しようとしたが、どこか普段の滑らかさが欠けている。
「……なんかさ、お前今日説明が雑じゃねえ?」
「そんなことはありません。ただ、藍羅さんが普段からもう少し綺麗にノートを取っていれば、私も教えやすいんですけど」
藍羅の言葉に淡々と返しながらも、ジルガの声には微妙な引っかかりがあった。
「おいおい、そりゃあたしが雑なのは分かってるけどよ、今日はお前の方が調子悪そうだぜ? なんかあったのかよ?」
「ななな何もありません。いたって普通です」
「壊れたブリキみてぇになってるぞ」
少しだけ語尾が硬い上に噛みまくりなのに、ジルガは毅然と答えた。それを見て藍羅は鼻を鳴らし、「へぇ」と笑っただけで深追いはしなかった。
「ジルガさん、私も少し教えてもらえますか?」
皇が穏やかな声で尋ねてきた。その声は場の緊張を和らげるが、ジルガの胸の中にあるモヤモヤは消えない。
「ええ、どこがわからないのですか?」
「この術式の応用問題なんやけど、エネルギーの計算が合わへんの」
皇のノートには丁寧に書かれた式が並んでいる。ジルガはそれを見て一瞬のうちに問題点を見つけられるはずだったが、どうしても頭が働かなかった。
「えっと……それは、あの……」
言葉が出ない。頭の中を占めているのはクラヴィスの話ばかりだ。あの怠惰そうな教師が、治安維持課で働いていた――。
「ジルガさん? 大丈夫?」
「あ……ごめんなさい、ここは……その……」
ジルガは慌てて説明を試みるが、口から出た言葉は自信のないもので、皇は首を傾げた。
「あんさん、ほんまに大丈夫〜? 今日、どこかおかしいように見えますえ」
「……大丈夫です。ただ、少し寝不足なだけですから」
ジルガは視線を逸らしながらそう答えた。しかし、彼女の言葉には説得力が欠けている。
「……あの、僕も、ちょっと聞いていい?」
ノストラがおどおどと手を挙げた。彼の控えめな声に、ジルガは少し気を取り直そうとした。
「ええ、どうぞ。どこが分からないんですか?」
「この、防御魔法の問題なんだけど……」
ノートを指さしながら説明するノストラの質問はシンプルだった。それでも、ジルガは思考を整理するのに時間がかかり、すぐに答えられなかった。
「……あー、なんだよ、ジルガらしくねえな。いつもはパッと答えんじゃねえか」
「だから、今日はちょっと寝不足なだけ。心配は無用よ」
ジルガは冷静を装いながらも、自分の言葉にどこか嘘くささを感じていた。
「でも、あんさんがここまで様子おかしいんは、珍しいことどすなぁ……」
「本当に問題ありませんから! さあ、次に進みましょう」
少し語気を強めてそう言うジルガに、3人はそれ以上追及しようとはしなかった。しかしジルガの頭の中ではクラヴィスの話がぐるぐると回り続けている。
(あのクラヴィス先生が、治安維持課なんて……。アダスの話、嘘だって思いたいけど……)
ジルガの心のモヤモヤは、まだ晴れる気配がない。
いつになく険しい表情をしている彼女を見ていた藍羅達は、コソコソと話し合う。
「なぁ、皇、ノストラ。このままじゃジルガ、ヤバくね?」
藍羅はジルガをこのままにしておきたくない一心で、どうしたらいいかを相談する。藍羅はこれまで全部気合いでやり切ってきたため、こうした繊細な問題は苦手だった。
「確かに、ジルガさん、今日は様子が変でしたねぇ」
「なんか、こう……ピリッとしない感じどすなぁ。ジルガさんらしゅうない」
ノストラと皇も同意する。あのジルガが問題を解くのに手間取るなんて、普段では考えられないことだった。天才少女の危機を救わないと、こっちもやばいのだ。
「よし、決めた! こうなったらクラヴィス先生に頼んで、なんとかしてもらうしかねえな!」
「えぇっ!? 先生にですか?!」
「せやけど、ジルガさんが怒りはらへんやろか……」
二人が不安げに眉をひそめるが、藍羅は拳を握って自信満々だった。
「いいか? ジルガがあんなに調子悪いってことは、普段の何倍も鈍感なクラヴィスでも気づくはずだろ? それに、ジルガが慕ってるんだから、先生が声かければ絶対に元気になるって」
「そ、そうなんですかね……?」
「やるっきゃねえだろ……」
改めてクラヴィスの評価が慕われているわりに、ぞんざいな扱いされているが、事実だから皆否定しない。
「あの……何をコソコソ話を……? 一応私が教えてるのだけれど……ちゃんと聞いてくれない?」
「「「ごめんなさい」」」
――それから自習が終わり、夕方になった。
「クラ先!!!」
「どわっ!!」
他の乱入者たちと同じく3人はクラヴィスの部屋へと突撃していた。無論……アポ無しであり、夕陽を見ながらゆっくりしていたクラヴィスは椅子から転げ落ちる。
「ってぇ! お前らノックはしろよ!!」
「緊急だったから……!」
「それもかなーり重要な内容だ!!」
「……別に良いけど、最近俺の憩いの場とか時間とか全然ないの可哀想とか思わない?」
「思わない!!」
「さいですか…………」
堂々と答える藍羅と、後ろで頷くノストラと皇を恨めしげに見たクラヴィスは、肩を落としながらも一応ちゃんと聞く体勢には移る。どんな悩みでも聞いてやる事をポリシーにしているクラヴィスは、咳払いした後に向き直る。
「んで? 相談ってなんだ?」
「ジルガの調子が悪いんスよ!」
「ジルガが?」
クラヴィスは目を瞬かせた。あの才女がどうかしたのかと、クラヴィスは心配になった。
「そうどす。今日の授業中も、なんや落ち着きがなかったし……」
「問題の解き方も、珍しくモタモタしてたんです……」
藍羅、皇、ノストラが次々に訴える。クラヴィスは少しだけ考え込む素振りを見せたが――。
「……ふーん。それだけ?」
「はぁ!? それだけって、先生それでいいんスか!」
「まぁ、ジルガも魔族とは言え無敵じゃないし、疲れる時くらいあるだろ。そういう時はゆっくり休ませれば――」
クラヴィスの返事に、藍羅が机をバンッと叩いた。
「今までとは違うんすよ! 何か上の空というか……何かショック受けてそうなんだよ!」
「……おいおい、藍羅落ち着けって」
クラヴィスは呆れたようにため息をつきつつ、肩をすくめた。
「わかったよ。ジルガの様子、俺がちゃんと見てみるよ。これでいいか?」
「それなら最初からそう言えっての!」
藍羅は満足そうに腕を組む。クラヴィスは半ば諦めたように立ち上がり、軽く伸びをした。
「しかし、ジルガが調子を崩すなんて珍しいな……さて、どうやって声をかけたもんか」
「そこは、先生の鈍感さを活かして何とかしてください!」
「俺鈍感って思われてんの……!?」
「「「はい」」」
まじかよ――クラヴィスは白目を剥いた。
結構アンテナ張ってたつもりなんだけどなとか、本当は空回りしてたとかマイナス思考が駆け巡った。
「…………俺ってダメダメ教師か……?」
「まだ違う!」
「まだっていずれなんのかよ!!」
藍羅から容赦ない意見をぶつけられたクラヴィスは思った。
もっと頑張らないと、いよいよ威厳とか不可能な領域まで落ちると。
◆
ジルガは昔を思い出していた。
この学校に来る前のことを。
夕日の赤い光がどこか懐かしいはずの屋敷を照らしていた。古びた石造りの壁は荘厳でありながら、どこか寒々しく、重苦しい空気が漂っている。ジルガはその廊下を小さな足音を響かせながら足早に歩いていた。
(――あの部屋には、行きたくない)
胸がざわつく。足を止めてしまえばいいと分かっているのに、どこか身体が言うことを聞かない。知らなければよかった。見なければよかった。そう思うのにこれから目撃するものへの恐怖と好奇心が背中を押していた。
「ギラヴィア家の者達は邪魔になってきたな」
「奴らが我が物顔でいる限り、我々も好きには動けませぬ」
その日、屋敷の一室では「粛清」が行われていた。ジルガの父――世界を支配していた大魔王の直系である家の現当主が、己の意に沿わない者たちを失脚させるための会議を開いていたのだ。
その光景を、ジルガは幼いながらも何度も目にしてきた。
意見の食い違った親戚が、誰かに裏切られたと言い放ちながら冷たい視線を浴びている姿。人目を憚らず権力にすがりつくように懇願する者たち。そのすべてが、ジルガにはひどく恐ろしく、そして醜く見えた。
ある時、父に疑問を口にしたことがあった。
「どうして、みんなを許さないの? 間違っていることがあったなら、直せばいいんじゃないの?」
その時の父の表情を、ジルガは今でも忘れることができない。
冷たく凍りついた目、口元には微かな嘲笑が浮かんでいた。
「ジルガ、お前はまだ若いから分からないだろうが、力を持つ者にとって許しとは、すなわち弱さだ。相手に隙を与えるということだ。隙を与えれば敵は必ずそこを突いてくる。お前が未来を担う者である以上……必ず覚えておけ。情けは愚か者のすることだとな」
父の言葉に、ジルガは何も返せなかった。ただ胸の奥が重苦しく、何か黒いものが広がるような感覚だけが残った。
さらに記憶は遡る。ジルガが10歳の頃の出来事だ。
その日はいつもと違って、庭で遊んでいた彼女の前に一人の親戚が姿を現した。その人は、ジルガが密かに慕っていた遠い親戚のおじだった。彼は、父や他の親族たちが執拗にこだわる「支配」や「権力」といったものに背を向け、平穏な生活を望んでいた数少ない人物だった。
だが、彼が家の権力を放棄した直後、彼の存在が「不都合なもの」として扱われるようになった。
「ジルガ、私はね、お前みたいな子供たちにこそ自由を与えたいと思っているんだ。この家に囚われず、自分の生きたいように生きてほしいとね……」
その日、おじがそう言い残して去った後、彼の名前は親族の記録から抹消された。彼がどこへ行ったのか、何をしているのか、誰も口にすることはなくなった。
ジルガは知っていた。父たちが裏で手を回したのだと。
彼女がかつて慕っていたその人が、「反逆者」という烙印を押されてしまったのだと。
(――あの時からだ。私がこの家を、そしてこの家を支える連中を嫌いになったのは)
――そして今のジルガは図書室の窓辺で、そっと目を閉じた。
(人の弱みにつけ込んで、失脚させて、言うことを聞かせる……そんなやり方は……間違っている)
幼い頃から目にしてきた家族のやり方。それはジルガにとって恐怖の象徴であり、また自分がそうした権力を受け継ぐかもしれないという嫌悪感の源だった。
その思いが、ジルガの胸を締めつけ続けていた。彼女の心の奥底で、その影響は今なお色濃く残り続けている。
だからこそクラヴィスだけは違うと信じたいのだ。
将来の夢を応援してくれた優しいあの人が、そんな真似をする人じゃないと。
「……やっぱりいつもここにいるな、ジルガ」
「……先生……」
近寄る優しい魔力でジルガは声をかけられるより先にわかった。クラヴィスはジルガの側に近寄ると、穏やかな口調で語りかけた。
「藍羅から聞いたぞ、何か様子おかしかったと」
「……そっか、やっぱ心配かけてしまったのね」
「何かあったか? 指導法とか……勉強面? 何でも言ってみな」
ジルガは言い淀む。
素直に聞くのが不安でたまらない。聞いてしまったら二度と戻れない気がした。だけどこのモヤモヤを抱えたままは無理だった。
「先生……」
「ん……?」
ジルガの瞳が、まるで逃げ場のない追及のようにクラヴィスを捉えていた。
「私……聞いたの」
その小さな声には、何かを確かめたいという純粋な願いが滲んでいる。ジルガは自分の膝の上で両手を握りしめ、やや俯いたまま続けた。
「……アダスが、先生のことを……その……治安維持課に所属していたって……言ってました。これまで数々の仕事をしてきたと……汚れ仕事をしてきたとも」
「……!」
その言葉に、クラヴィスの眉がわずかに動いた。表情は崩さないよう努めていたが、内心で大きな波が立つのを感じていた。
(そうか、アダスの奴……自分の親父さんから聞いたな。それでジルガに教えて揺さぶりをかけたと……参ったなぁ)
一瞬、彼の脳裏に浮かんだのはジルガに対して真実をどう伝えるべきかという葛藤だった。
治安維持課――それは魔法と武力を行使して国内の治安を維持する役目を負う組織だった。確かにクラヴィスはその一員として動いていた過去がある。しかし、そこで彼が担っていた任務は平穏なものではなかった。むしろ、時には己の倫理を揺さぶられるほどの判断を強いられる、冷酷な現実の連続だった。
(……言い訳は出来ない。俺がそこにいたのは事実で、誤魔化すことも出来ない)
クラヴィスは目を閉じ、わずかに息を吸い込む。
ジルガがここまで直接的に尋ねてくるとは思わなかった。だからこそ、軽率な言葉で誤魔化すわけにはいかなかった。
「……治安維持課、か」
クラヴィスはあえて時間を稼ぐように口にした。慎重に言葉を選びながら、彼女の顔を静かに見つめる。
「……確かに、昔俺はそこにいた。所属していたよ」
その言葉が、ジルガの中で何かを引き裂いたように感じた。
「……そうなんですね……」
彼女は口を開いたものの、次の言葉がすぐには続かなかった。ただ自分の膝を見つめ、沈黙の中で何かを飲み込むように俯く。
「……嘘じゃないんですか?」
ようやく絞り出されたその言葉は、かすかな震えを伴っていた。
「先生がそんなところにいたなんて、信じたくありません。私は……先生が優しい人だって、信じてたんです。私はずっと尊敬していたんですよ?」
クラヴィスはその声に痛むような胸の奥の鈍い感覚を覚えた。ジルガがこうして自分に対して信頼を寄せていたことが嬉しくもあり、同時にその信頼を裏切ってしまったような罪悪感が押し寄せてくる。
「ジルガ……」
彼はゆっくりと頭を振り、苦しげに言葉を繋ぐ。
「確かに俺はそこにいた。非道な事をしたのは本当だ。だけど……今はそんな昔の自分を恥じているよ。人の未来を摘み取るんじゃなく、未来を作る立場になって……生徒たちが正しい道に進められるよう教えている」
クラヴィスは嘘偽りのない率直な思いを正面から見つめたままジルガに言った。その目は真剣そのものだったが、ジルガの心の中の痛みを癒すには遠く及ばなかった。
「……っ」
ジルガは彼の言葉を黙って聞きながら、ゆっくりと首を横に振った。そして、震える声で呟いた。
「……すみません、ちょっと……整理させてもらってもいいですか……?」
「ああ……いいよ」
その問いかけにクラヴィスはただそう言うしかなかった。
混乱しているジルガはそのまま急ぎ足で去っていくと、クラヴィスは額に手をつけて深くため息を吐いた。
「……あ〜……参ったなぁ」
励ますつもりが逆に彼女を傷つけてしまうとは思わず、クラヴィスは猛省する。ただあそこで誤魔化すのは絶対に違うと思っていた。
「いずれ言わなきゃいけなかった事とはいえ……なぁ」
さてどうしたものかと項垂れるクラヴィス。
しかし彼は気づいていなかった。
「……マジで……?」
少し離れた柱の影に、ユスティが隠れて聞いてしまっていた事を。
◆
「……はぁ」
クラヴィスはジルガとの会話を終えた後、長い溜め息をつきながら自室へと戻ってきた。彼の部屋は、整理整頓が行き届いた落ち着いた空間だったが、今の彼にとってその整然とした空気すら、どこか自分を追い詰めるように感じられる。
ドアを閉めると同時に背を預け、そのまま頭を壁に軽く打ちつけた。
(……俺は、正しかったのか?)
ジルガの言葉が、今も耳元に鮮やかに蘇る。
『本当なんですか、先生……?』
『信じていたんですよ』
その声には明確な期待と、同時に裏切られた時の悲しみが込められていた。
(彼女は俺を信じていた……それを傷つけたのは間違いない。だが――)
クラヴィスは自分に問いかけるように目を閉じた。ジルガだけではない。これまで彼が築いてきた生徒との信頼、その根幹を揺るがす可能性がある言葉を、自分の口から語るべきなのかどうか。
本棚に向かい、雑然と積まれた資料や記録の中から、一冊の古い手帳を取り出す。そこには、治安維持課時代に彼が記録した数々の任務の記憶が綴られていた。
ページを捲ると、記憶が鮮明に蘇る。
秩序を守るという名目のもとで行われた仕事――時には相手の自由を奪い、時には正当性のある行動を封じ込めた。彼の手が関わった多くの出来事が、今も心の中に深い傷跡を残している。
(過去を隠して生きるのは簡単だ。生徒たちの信頼を得たまま、教師として日々を過ごしていくこともできるだろう)
机の上に手帳を置き、クラヴィスは自嘲気味に笑った。
(けど、それじゃあ俺が守りたいと思ったものを裏切ることになる……ジルガだけじゃない。俺は、あの子たちに嘘をつく教師でいるつもりはないんだ)
彼は立ち上がり、窓の外に目を向けた。夜空には無数の星が瞬いている。その中で一際明るい星を見つめ、静かに自問する。
教師を目指した時も確かこんなふうに星を眺めていた。
(もし、彼らが俺の過去を知って、失望したり、怖がったりしたとしても……それは仕方がないことだ。それでも――)
クラヴィスは拳を握りしめ、心に決意を固めた。
「俺の過去は変えられない。だが、それをどう向き合うかは自分次第……か」
クラヴィスは教室で全てを話す覚悟を決めた。
それはクラヴィス自身の過去との決別であり、生徒たちとの新たな関係を築くための第一歩でもある。
「よし……」
静かに机に座り、手帳を再び開くと、その表紙に目を落とした。そこに刻まれた治安維持課の紋章を、彼は軽く指でなぞる。そしてそっと手帳を閉じると、深呼吸をして自分に言い聞かせるように呟いた。
「……明日は、ちゃんと話そう。逃げるのは、もう終わりだ」
彼の瞳に揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
◆
翌日、教室には妙に緊迫した空気が漂っていた。普段はざわざわとした雑談や笑い声で満ちているはずのクラスが、どこかぎこちなく、ひそひそと交わされる小声の会話に満たされている。
「なぁ、ユスティ。昨日から様子おかしくない?」
メアが声をかけると、ユスティは一瞬びくっと肩を震わせた。
「え、別に何もないし! 何もないったら!」
「その反応、絶対なんかあるやつじゃん」
メアが詰め寄ると、ユスティは顔を俯けながらも、視線をそらすことができないようだった。
「……あの、昨日、ちょっと聞いちゃったんよ。先生のこと……」
「先生? クラヴィス先生の?」
その名前が出た瞬間、ギャル達が鋭く光った。何か重大な秘密があると察したのか、さらに声を低くして問い詰める。
「何聞いたのですか? 気になります」
「近いよフラン! だから……その……クラっちの昔の話を聞いちゃって……」
ユスティはついに観念したように、昨日耳にした内容を小声で打ち明けた。すると、それを偶々聞いたメアの表情がみるみる驚きに変わり、興奮を抑えきれない様子で立ち上がる。
「え……本当……に?」
「クラっち自身が言っていたから……」
ユスティの話はジワジワと広がり、近くの生徒たちも「何の話?」と耳を傾ける。そして噂はあっという間にクラス中に広がり、どこからともなく「クラヴィス先生が昔治安維持課にいたらしい」という話が広まっていった。
「…………」
その様子を、ジルガは黙って見つめていた。彼女の表情は硬く、唇を引き結んで何も言わない。周囲のざわめきが耳に痛いほど響いても、ただ俯いたまま動かなかった。
そんな中、教室の扉が開き、クラヴィスが姿を現した。
「さて、席につけーお前らー」
穏やかな声でいつも通りに話し始めたクラヴィスだったが、教室内の異様な空気にすぐ気づいた。普段なら活気づいているクラスが妙に静まり返り、全員の視線が彼に集中している。
「……どうした? 今日はやけに静かだな」
クラヴィスは少し困惑したように目を細めながらクラスを見渡す。その時、ユスティが意を決したように席を立った。
「せ、先生……」
「ユスティ、どうした?」
ユスティは周囲の視線を感じて少し戸惑ったが、深呼吸して続けた。
「その……昨日、先生とジルガが話してるのを、私……こっそり聞いちゃって……その……治安維持課にいたとか……それ、本当なんですか?」
教室内の空気がさらに張り詰める。みなの視線がジルガとクラヴィス、そしてユスティに集中していた。
クラヴィスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。
「なるほど。昨日の話を聞いていたのか……」
彼は少し思案するように視線を伏せた。噂がクラス中に広まっていることを察した。
「実はな……まぁ丁度その話をしようかなと思ってたんだよ」
「え?」
ユスティは意外そうな顔をする。
ジルガも少し顔を上げてクラヴィスの方を見ていた。
「俺がどうして……先生になると決めたのか、それを順に説明する」
クラヴィスは教材を一旦横に置くと、咳払いした後に語り出した。
「これは俺がまだ学校に入る前の話だ」
間違った道を歩んでしまった哀れな大人の話を。