生徒に舐められていると勘違いしているけど、実は裏で生徒全員からめちゃくちゃ慕われている魔法学校教師 作:アスピラント
新米教師は懐かしむ
期末試験が終わり、我らがメガロマギア高等魔法学校に全生徒待望の夏季の長期休暇が訪れた。生徒たちら全寮制のため、こうした約2ヶ月弱という非常に長い期間に帰省する者が多い。
ただ全員が全員帰省する訳じゃない。
例えばクラブに所属している生徒は、長期休暇中に練習なり活動があるから帰省せずに学校に残っているし、学校に残りたいからという理由でそのままいる事も出来る。
過ごし方はまさに生徒それぞれ……自由な学舎が売りのメガロマギア高等魔法学校らしい校風だが、先生はどうだろうか。
国内有数の進学校であるという事は、当然……先生のタスクは並大抵じゃない。
つまり何が言いたいのかというと……。
「――俺にも夏休みくれぇぇぇぇ……」
クラヴィスが忙殺されて怨嗟の声を学校に垂れ流してしまうという事である。無論……前の職場に比べたらめちゃくちゃマシだが、生徒たちが青春を謳歌しまくっている中を目に焼き付けながら働くのは、なかなか効く。
「君……さっきからそればかりだな、職員室では静かにしなよ」
「てぃ……ティナーシャ先輩」
職員室ではクラヴィスと同じ1年生を受け持つ教師達が、仕事に勤しんでいた。彼らが今取り組んでいたのは、成績評価と報告書の作成だった。
学期末の魔導実技・座学の評価や個別成績の精査、特に魔法行使に関するアドバイスや安定性のレポートを、保護者・学内関係者向けに作成している。
「そうですよクラヴィス先生、第一この仕事も生徒の為です。仕事に向き合うという事は、生徒と向き合うも同義ですから」
ウンディーネクラスの担任教師のヴィヴィアンは、おほほと優雅に笑いながら言った。確かに……それは間違いない、クラヴィスは口を噤むが……彼女の机を見て、真顔になる。
(いや滋養強壮の魔法薬が転がってやがる……めちゃくちゃ働いてるな……ヴィヴィアンさん……)
早い話……エナジードリンク的な魔法薬だ。
彼女は研究者でもあるのだが、実はこれとは別に論文も控えている。もはやブラック通り越してベンタブラックな有様になっている。
つくづく自分は普通の新米教師で良かったと安堵していると、目の光が消えたヴィヴィアンがにっっこりと暗黒微笑を浮かべた――怖い。
「クラヴィス先生……他人事みたいに思っているみたいですけど、貴方も同じですよ?」
「え……なんで考えている事がわかって――」
「新米教師には実は特別な仕事があるんです、学長からそのうち説明受けると思いますが……」
それってどんな仕事――と思っていると、ドアが開いて誰かが職員室に入ってきた。
「クラヴィス先生」
「っ!!」
凛とした声が響く。
クラヴィスは恐る恐る振り返ると、そこに居たのは教頭先生だった。
銀の縁の眼鏡に、常に乱れひとつない制服。直立した姿勢に加え、背筋の伸びたあの立ち姿はまさに“氷の規律”。生徒はもちろん、教師からも畏敬を込めて“副学長”とも呼ばれている、セレスティナ=グレイシャその人である。
「クラヴィス先生。少しよろしいですか」
低く、しかし通る声。
騒がしさが吹き飛ぶような静けさが職員室に流れ、周囲の教師たちが一斉に書類の手を止めた。その誰もが息を呑む中、クラヴィスだけが見事に固まっていた。
「っす、はいっ!?」
思わず背筋が伸びる。どこかの生徒ばりに返事をしてしまった自分を内心で叱りつつ、クラヴィスは目を逸らせないまま、セレスティナの表情を伺った。だが当然のように、彼女は氷のように感情を読ませない。笑わない、怒らない、揺れもしない。
――何かやらかしたっけ?
テストは無事終わった。成績評価もまだ進行中だし、生徒とのトラブルも無かったはず……。
顔に「心当たりありません」の文字が出そうなクラヴィスに、セレスティナはひとことだけ淡々と告げた。
「学長がお呼びです。至急、学長室へお願いします」
「……学長、ですか?」
驚きと疑問が同時にこぼれた。
この夏休み中、学長は基本的に執務棟に籠りきりで、めったに人を呼ばないはずだ。それも特定の上級職や幹部でもない限り、新米教師が呼び出されることなど滅多にない。
(いやちょっと待ってくれ、もしかして……あれか? 新米教師にしか出来ない特別な仕事ってやつ……?)
ヴィヴィアンの不穏な笑みが脳裏にフラッシュバックする。
気づけば、職員室中の注目がこちらに集まっていた。
ヴィヴィアンは何故か優雅に紅茶を啜りながら微笑んでおり、ティナーシャは「合掌」と口パクし、手を合わせてきた。やめてくれ、死にに行くみたいじゃないか。
クラヴィスは一瞬だけ逃げる選択肢を脳内で模索したが、教頭の双眸と目が合った瞬間、その考えは凍りついた。
「……了解しました。すぐに伺います」
「ご案内します。こちらへどうぞ」
セレスティナが身を翻すと、クラヴィスも仕方なく彼女のあとに続いた。背中からは同僚教師たちの静かな声が聞こえてくる。
「頑張れよ」
「死ぬなよ」
「生きろ」
(え……何、殺されんの)
などと小さくため息をつきながら、クラヴィスは学長室への廊下を歩き出した。
◆
クラヴィスはセレスティナのあとに続いて、執務棟の廊下を歩いていた。
夏の光が廊下の高窓から差し込んでいる。陽光が床の大理石に跳ね返り、長く美しい影を描く。だがそんな美しい景色も、クラヴィスの心を癒すものではなかった。
(くっそ緊張するなぁ……)
さっきから心臓がうるさい。ティナーシャやヴィヴィアンの不穏な笑みが、脳内で反復再生されている。逃げるという選択肢は早々に凍結されたが今でも若干足が重い。
そして立ち止まった先が学長室だ。
重厚な黒檀の扉には、古代の魔術式が刻まれており、魔力の気配がほのかに漂っていた。それを前にして、クラヴィスは自然と背筋が伸びてしまう。ここに来るのは、教師になってからは初めてだった。
「お入りなさい」
中から聞こえたのは、優しくも深みのある声音だった。
セレスティナが軽く会釈し、クラヴィスに視線を向けると、彼はうなずいて扉を開ける。
「失礼しま――」
「おお、クラヴィス。よう来てくれたな」
途端に、懐かしさが胸に満ちた。
部屋の奥、巨大な書架と魔導具が並ぶ執務室の中央に立っていたのは、長身で穏やかな笑みを浮かべた、銀髪の老人だった。
メガロマギア高等魔法学校の学長、ノイエル=フェル=マギステリア。
クラヴィスが幼い頃から世話になっている、いわば“恩師”その人だった。
「……学長」
自然と頭を下げていた。何も言えない。どれだけ年を重ねようと、教師になろうと、この人の前に立つと昔に戻ったように思える。
何度も叱られ、何度も励まされ、それでも逃げずにここまで来られたのは、目の前の人がずっと導いてくれたからだ。
「まぁ、座りなさい。そんな緊張せずともよい」
そう言って手を差し伸べられると、クラヴィスは「はい……」と小さく返事をして、対面の椅子に腰を下ろす。
部屋には静かな風が流れていた。壁の一部は一面の窓となっており、そこから見える広大な校庭が、まるで絵画のように美しかった。
……まずは、おめでとう。ルーメンクラス、期末試験で見事一位じゃったな」
学長の言葉に、クラヴィスはわずかに肩を揺らし、照れたように頭をかいた。
「ありがとうございます。……でも、あいつらが頑張っただけです。俺は、なんも……」
「謙遜はいい。君が信じて見守ったからこそ、生徒も自分の力を信じて戦えたのじゃ」
そう、柔らかく言われると、思わず言葉を失う。
静かに、クラヴィスは目を伏せた。
教員として自分が未熟であることは、痛いほど自覚していた。だが、こうして結果を認められたことが、どこかくすぐったく誇らしくもある。
「やはり、君には教師の才能があったのだな」
その一言はまるで魔法のように胸の奥に染み渡った。
「……ありがとうございます」
素直に心からそう返した。
学長はしばらく黙ってクラヴィスを見ていたが、やがて机の上の資料を手に取ると、話題を切り替えた。
「さて……もしかすると、他の教師から耳にしておるかもしれんが、君にはこの夏、少々特別な研修に参加してもらいたい」
「特別な研修……?」
クラヴィスは思わず眉をひそめる。
やはりヴィヴィアンの言っていたことは本当だったのかと、内心で軽く舌打ちする。
「それって、どこで……?」
問いかけに対し、学長は微笑みながら静かに答えた。
「……君が教師を目指すきっかけとなった場所と聞けば、分かるかな?」
その言葉を聞いた瞬間、クラヴィスの表情が変わった。
「……まさか、聖ディヴィアンヌ……?」
その名を口にすると、学長は頷いた。
「そうじゃ。聖ディヴィアンヌ魔術学院での、短期教育研修。そこで数週間に渡って、他校の教育理念や指導方針に触れてきてほしい。君にとっても、かけがえのない学びになるだろう」
「……!」
クラヴィスはその名を心の中で何度も反芻していた。
聖ディヴィアンヌ、メガロマギアとは違って進学校ではないが人格育成に定評がある学校であり、魔法の「力」よりも「思想」や「学術」……そして「倫理観」を重んじる校風だ。
クラヴィスは教職に就く前に、聖ディヴィアンヌのとある教師の下で学んだことがあった。教師としての心構えや、生徒との向き合い方と言った基本的なものから、悩みまで聞いてもらっている。
(
クラヴィスは一瞬視線を泳がせる。
恩人とまた会うのはいいが、次会う時は先生として一人前になってからと考えていた。
「……俺はきちんとやれてますかね」
思わず漏らした弱音に、ノイエルはふ、と笑った。
「魔法の能力だけ優れていても教師にはなれん。だが君は人を見て、人の力を引き出す能力を持っている。まさに教師として必要な力と言っていい」
そう言って、静かに机の上の魔導記録紙をめくる。
「この一年のルーメンクラスの成績推移、それに生徒たちの生活態度・知力……見事な変化じゃ。とくに、期末試験前の最後の一ヶ月で、君はあの子たちに火を灯した」
クラヴィスは小さく息を飲んだ。
「火……」
「うむ。競い合うだけでなく、支え合い、互いの魔法の形を認め合う火だ。君が灯したものが、あのクラスに強き心を生んだ」
その言葉は学問の場にいる者らしい精密さを持ちつつも、どこか温かかった。
「だが、それでも……」
クラヴィスは小さく、拳を握った。
「ルーメンクラスは……前回、最下位でした。他の先生方に、最優秀クラスの名を地に落としたとまで言われて。今でも、俺がこのクラスを率いてることを快く思ってない人もいます」
それは嘘ではなかった。
勿論全員がそう言っているわけじゃないが古株の教師――特に伝統を重んじるエリート主義の者たちは、彼の教育法――甘さとも思われる寄り添い型の指導に批判的だった。
「教え方も……戦術評価も……俺は全然まだ未熟で――」
とそこまで言いかけた時だった。
「クラヴィス」
学長の声が不思議な静けさで彼の思考を止めた。
顔を上げると、ノイエルは真正面からクラヴィスを見ていた。その瞳はクラヴィスを穿つようだった。
「教師というものはな、常に未熟なのだよ。十年経っても、百年経ってもな。目の前の生徒にどう向き合い、どう支えるか――その問いに正解はないのだから」
静かな声にクラヴィスはしばし沈黙した。
ルーメンクラスの生徒たちが必死に魔法に向き合い、誰かのために魔法を使いたいと願っている姿。
落ちこぼれだと言われた生徒が必死に自分と向き合い、時にはぶつかり合う。
あの姿を見て、
(ああ、あいつらを見てたら……)
クラヴィスは、ゆっくりと頷いた。
「……あります。俺が続ける意味。あります」
まるで誓うように言ったその言葉に、ノイエルは微笑んだ。
「うむ。ならば、今回の研修は旅だと思えばよい。新しい景色を見て、違う空気に触れて、また帰ってくればいい。それだけのことじゃ」
クラヴィスは思わず苦笑した。
「そんな……軽く聞こえますけど」
「うむ。わしは基本、軽口しか叩かん」
学長は茶目っ気たっぷりに言って、椅子に深く腰を下ろした。
「それに――」
その時、ノイエルの声色が一瞬、低くなった。
「君がこの学院で教師を続けるためにも、今回の外部研修は必要な布石になる。学院の方針も大きく変わりつつある。生徒に寄り添う教育を正当に評価させるには……外部からの実績が要るのだ」
「……!」
つまり、それはクラヴィス自身を通して学校全体を変えていこうということ。
自分のやり方を他校でも通用する形で証明すること――それが今回の研修の本当の意味なのだと彼は理解した。
ノイエルは言葉を続ける。
「この学院の未来を担う教師として、君にはもっと高みに立ってもらわねばならん。そのためには学校を一度飛び出してもらう必要があるのだよ」
そう言って学長は立ち上がり、窓際へと歩く。
夏の陽が燦々と差し込む学長室。外にはまだ若い草木の緑と魔法の光の軌跡が見えていた。数人の教師が何やら談笑しながら、実験棟へと向かっていく。
「君のような教師がきっとこの学院を変える。いや、既に変え始めておるよ。ルーメンクラスを見ておれば、誰もがそう思うじゃろう」
そして学長は言った。
「まだ未熟でもいい。迷ってもいい。だが歩みを止めてはならないのだ」
「……ありがとうございます」
まっすぐにそう言って彼は立ち上がった。
◆
学長室を後にし、クラヴィスは自分の担当分の成績報告や保護者向けのレポートなど、一通りの業務を終え、職員室を抜けて校庭へ出ていた。
日は沈みかけた校庭は美しかった。
風に揺れる草の香りも心地よい。魔法学校としての設備が整った広大な校庭では、いくつかのクラブ活動が活発に行われていた。箒を使ったブルームレースクラブ、魔法楽団、錬金術実験を重ねる研究会――真剣な顔つきで何かに打ち込む学生たちの姿が遠目にも眩しく見える。
クラヴィスはベンチに腰掛けて、それをぼんやりと眺めていた。ふと、額の汗を袖でぬぐいながら小さく吐息をこぼす。
――懐かしいな……聖ディヴィアンヌの名をここでまた聞くなんて。
そして気づけば意識は自然と過去へと引き戻されていく。
あれは――数年前に前職を辞した直後だ。
心身ともにボロボロだった。ハードな職場、理不尽な人間関係、何より魔法というものに誠実に向き合えないばかりか、手を汚す日々が続いていた。眠れず、食えず、吐き気と焦燥感と自己嫌悪に支配され、まるで生気の抜けた人形のように日々をやり過ごしていた頃だ。
そんな時に担当医師から療養を勧められ、半ば逃げるようにして向かった先が――王都近くの街にある小さな教会だった。
名前は聖ディヴィアンヌ教会だった。
信仰にはそれほど興味がなかったが、ここのシスターたちが心を病んだ人々のケアにも積極的であると聞いたことがあり、試しに訪れたのだった。
初めて訪れた日、教会の周囲にはラベンダーの香りがほのかに漂い、鐘の音が微かに響いていた。建物は古びていたが、温かい雰囲気に満ちていた。クラヴィスは無言で石畳を歩き、入り口の扉をそっと開いた。
礼拝堂には誰もおらず、静寂の中でステンドグラスから差し込む陽光が美しく床を彩っていた。まるで時間が止まったかのような空間に、クラヴィスはしばし言葉を失って佇んでいた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
そんな声が背後から優しく響いた。
クラヴィスが振り向くと、そこには白衣のシスターが立っていた。長い銀髪に透き通るような肌、優しげな翠色の瞳を持つその女性は、どこか儚げで、それでいて芯の通った雰囲気を纏っていた。
「あ、あの……」
あまりにも綺麗な彼女を見たクラヴィスは言葉に詰まり、目を逸らす。するとシスターは困ったような微笑をした後に言葉を続けた。
「よければどうぞ中へ……迷える子羊よ……」
そう言って、彼女が一歩こちらに歩み寄ろうとした、その時だった。
――ズルッ。
突然彼女の足が躓いた。
「ぎゃび」
「ちょっ!!?」
すってんころりんと見事に転んだ。しかも顔面から。あまりの急展開にクラヴィスは思わず固まる。
「し、シスターさん!? だ、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、彼女は鼻の下に鮮やかな赤を滲ませながらうつ伏せのまま手を挙げた。
「だ、だいじょぶです……! よくあることですので……」
「よくあっちゃダメですって……!」
クラヴィスは呆れながらも彼女の手を取ってゆっくり起こす。顔には土がついていたがそれでも彼女はにっこりと笑った。
「ありがとうございます。ああ……こうして誰かに手を引いてもらうのも、久しぶりかもしれません」
「いや言い過ぎですって……」
その笑顔は、どこか寂しさと温かさが混ざり合った、不思議な色をしていた。
「初めて来られた方ですか……?」
「は、はい……」
「あら、そうでしたか。なら今日がお初のご縁ということですね」
鼻血をティッシュで押さえながら、そう言ってまた笑うユスティに、クラヴィスは言葉を失った。なんというか、この人はとても不思議な人だと思った。癒されるような、でもちょっと抜けてて、近くにいると自然と肩の力が抜けてしまうような人だった。
「貴方の名前は?」
「クラヴィス……です」
「クラヴィスさん……なるほど、ここに来たのは心を癒すためですね」
どうやら話がいっているのか、シスターはクラヴィスの名を聞いて言った。
「は、はい……」
「ふふふ、そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。ここでは貴方を脅かすものはありません」
そして彼女はにこりと笑ってから口を開く。
「私はローズ、こう見えても神学校の教師もしているんですよ」
この時クラヴィスはまさか彼女が転機を齎すとは思わなかった。
――懐かしい。
そしてクラヴィスは現在に戻る。
中々強烈な出会いだったが、あの人が自分の人生を良い方に変えてくれたのだ。
「あの人またドジしてんのかなー」
などと何気なく口にすると――
「だれがドジしてんの? クラっち」
「ぱぅわ」
いきなり声をかけられたせいでクラヴィスは奇怪な声を出す。慌てて振り返ったクラヴィスの目に入ったのは――ユニフォーム姿のエリス・ヨハンソンだった。
「え、エリスか……びっくりした」
胸を押さえつつ、クラヴィスは深く息を吐く。突然の声に驚いたせいで心臓が跳ねるように脈打っている。
「なんだその反応……人のことボーっとした顔で考えてるからだぞ、クラっち」
エリスは小さく呆れたように言って軽く笑った。夏季用のユニフォームに袖を通し、髪を後ろでまとめている。レース用のブーツにはまだ土埃がついていて、ついさっきまでクラブの練習をしていたことが窺えた。
クラヴィスはわざとらしく一つ咳払いをし、気を取り直すように背筋を伸ばす。
「で、帰省してなかったのか? この時期は家に戻ってるもんかと思ったけど」
するとエリスは、少し驚いたように目を丸くしながら、楽しげに言う。
「え? まさかー。ブルームレースクラブってむしろ夏が本番なんだよ。大会近いし、練習メニューも増えるし」
そう言って、彼女はクラヴィスの横に立った。まぶしい夕陽を受けて、彼女の髪が金に染まる。熱気を残した風がすっと吹き抜け、髪とスカートの裾をなびかせる。
「でもまあ……過半期になったらちょっとだけ顔出すよ。実家にも。でも……今度、ユスティたちとも遊びに行く予定なんだ。街まで出てさ」
「……へえ、楽しそうだな」
「うん! すっごく楽しみ」
エリスは笑った。少し眩しそうに空を見上げるその表情は、無邪気で屈託がなくて、クラヴィスが教師としてもひとりの人間としても好きだと思える今どきの学生そのものだった。
クラヴィスはそんな彼女を見ながら、ぽつりとつぶやく。
「学生は楽しそうでいいな、ほんと。毎日がキラキラしてる」
「あのさぜっっったい誤魔化したよね、私の質問をはぐらかした! 何考えてたか顔に出てるぞ?」
「え」
「はい、質問。誰のこと考えてたのか、白状してくださいクラっち先生」
ジト目で見上げてくるエリスに、クラヴィスはわずかに苦笑する。ごまかしても無駄だという空気が、ひしひしと伝わってくる。
「……昔、教師を目指そうと思ったきっかけの人がいてな」
「うん、それで?」
「その人が、すごくドジだったんだよ」
「……女の人?」
「うん、そうだよ」
クラヴィスがあっさりと肯定すると、エリスの顔がわかりやすくむすっとなる。頬をふくらませ、腕を組み、わかりやすく視線を外していた。
「あーあ、やっぱりかー……」
「いや、何だその反応」
「別に何でもないけど……そういう人、特別なんだなって思っただけ」
クラヴィスは眉をひそめるが、すぐに表情を和らげて、ベンチに視線を戻した。夕陽がさらに傾き、校庭は茜色に染まりつつある。
「……実はな、来週その人に仕事で会うかもしれないんだよ」
「えっ?」
「正式に決まったわけじゃないけど、たぶんまた会う。久しぶりだからさ、何て声をかけようかなって思ってたんだ」
「へえ……」
エリスは視線を落とす。すぐに反応せず、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「じゃあ、今思い出してたのはその人とのこと?」
「まあな。あの人がいなかったら、俺は教師になってなかったと思う。……あの人がくれた言葉も、あの人の失敗も、全部が今の俺に繋がってる。だから――感謝、してる」
その言葉に、エリスは小さく息を吸った。
クラヴィスの言う「ありがとう」は特別に響いていた。普段は軽口ばかりで本音をあまり見せない彼が、真っ直ぐな眼差しで誰かに感謝していると口にする。それはきっと、その人が彼の中でどれほどの意味を持っているかを物語っていた。
――でも。
それでも。
エリスの中に小さな感情が渦を巻いていた。
ヤキモチ――というにはささやかだけれど、確かに心をくすぐる何かだった。
「……ふーん。ドジで、綺麗で、優しくて、特別な人、かあ」
「何だよ」
「なんでもないよ。ただ……」
エリスは笑った。それはほんの少しだけ、強がりに似た笑顔だった。
「ヤキモチ妬く気持ちは、消えないと思う。けど……その人がいたから、クラっちがここにいて、先生してくれてるなら。やっぱりその人、すごく素敵な人なんだろうなって思うよ」
クラヴィスは一瞬目を丸くして彼女を見た。そして苦笑するように、でもどこか誇らしげに言った。
「……うん。そうなんだよ」
その声には深い敬意とあたたかな情が宿っていた。
「でもさ。今、俺がこうやって生徒たちと過ごせてるのは……エリスたちが、こうしていてくれるからでもある」
「ん?」
「お前らが笑って、泣いて、怒って、バカやって……それに付き合ってるうちに、気づけばここが俺の居場所になってたんだ」
エリスは目をぱちくりさせた後、ふいに笑った。
「それ、いま結構キたんだけど。反則でしょ、その言い方」
「別に狙ってないぞ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ふーん。じゃあ……まあ、許す」
エリスはどこか納得したように頷いた。
次の瞬間……また空に視線を向ける。
「ちなみにさ、仕事場所はどこ」
「聖ディヴィアンヌだ」
「え、王都の近くにあるあれ?」
「ああ、間違いないぞ」
エリスは何か考える素振りをして、にこりと笑う。
「ううん、なんでもなーい」
「絶対何かあるだろ……」
そう言ってエリスはいきなり立ち上がって言った。
「そろそろ戻る、じゃあ……
「クラヴィス先生な! ったく……」
クラヴィスはそのまま去っていくエリスの背中を見ながら思う。なんか企んでるな――と。
◆
クラヴィスと別れたエリスは、校舎裏の小道を通って、寮棟へと向かっていた。
日が傾きはじめ、校舎の影が長く地面を伸びていく。生徒たちの声が遠くに聞こえる中、彼女は片手で三つ編みの一房をくるくると指に巻きながら、何かを考えるような顔をしていた。
「……聖ディヴィアンヌ、ねぇ」
ぽつりと呟いた声は、誰に聞かせるでもなく、風に消えていった。
寮棟の中は静かだった。
みんなまだ外にいるか、クラブに出ているか、部屋で休んでいるか。廊下をひとり歩く足音が石造りの壁に柔らかく反響する。
部屋の扉を開けると、そこは几帳面さと奔放さが同居したような空間だった。
机の上は散らかっているのに、本棚はきっちり背表紙の高さで揃っていて、ベッドの上にはふかふかのクッションが無造作に積み重なっている。窓辺には風に揺れる薄手のレースカーテンと、小さな鉢植えのドラゴンアイビー。
エリスは靴を脱いでそのままベッドにぽすんと倒れ込む。天井を見上げたまま数秒間ぼうっとしてから、ふと脇の引き出しを開けて、小さな木箱を取り出した。
丁寧に開くと中には片耳用のイヤリングがひとつ。
淡い銀色の土台に、薄紅のクリスタルがはめ込まれている。見る角度によって、光がやわらかく反射して、内部に星屑を閉じ込めたように煌めいた。
「さてと……」
エリスはニッと笑ってイヤリングを耳に装着する。
カチ、と小さな機構音がして、クリスタルの表面に淡い光が灯った。ほんの数秒の沈黙のあと、イヤリングの奥から、ノイズ混じりの小さな声が響く。
「――――」
「やっほー、すぐ出てくれてありがと。ん? いやいや、クラブ活動だから学校だよー」
エリスは通信の向こう側にいる相手と親しげに話すと、クッションを抱え込みながらにんまりと笑った。
「……遊びに行く場所、ちょっと行きたいとこあるんだよね」
その提案がちょっとした一悶着を起こすとは、この時誰も思わなかった。
宣伝になりますが、カクヨムでもこの作品を投稿してます!
お話の進行は全く同じですが、こちらでも応援お願いします!
◆リンク
https://kakuyomu.jp/works/16818622172423965859