小鳥遊ホシノにとってのトリニティ総合学園は、とにかくただひたすらに面倒な場所という印象だった。
“好き”でも“嫌い”でもなく“面倒”。好きになるほどの関わりも無いし、情報だけで嫌いになるほど狭量でもない。ただ、色々とややこしい事情を抱えていることだけは知っていて、だからこそ、関わり合いにすらなりたくなかったというのが正直な感想だ。
『右前方5人、左前方4人、正面に3人。距離は120、140、190。武器種は全員がバラバラで、先の戦闘と同様に小隊単位で動いてると予想されます。接触時間についてはそれぞれ──』
しかし、だからこそ。そんな面倒な場所を管轄するトリニティの生徒会はと言えば、普段から見栄を張り合って威張り散らしてるだけあって、治安に関しては特に基本隅々まで手を行き届かせていた。
それでも犯罪件数を0に出来ないあたりがこの街の治安の悪さを物語っているが、少なくとも自治区内での騒動に治めてはいるようで、だから厄介ごとばかり持ち込むゲヘナとは違い、トリニティは自治区間の壁を越境してくるような馬鹿は本当に驚くほど少なく、そういう面でも、関わり合いが薄い以外の表現をする機会が訪れなかったのだろう。
『ホシノさん、スズミさん。それぞれ1分以内には接敵。スズミさんは部隊から先行して──』
毒にも薬にもならない関係。共生とも違う、単に棲み分けが出来ているというだけの隣人。所詮私たちは他人同士で、互いに傷つけ合うような恨みも、また助け合うような義理もない。だから“先生”にトリニティを助力するよう請われても、それはあくまで“先生”への義理立てであって、トリニティに対して何を思うこともなかった。
『ホシノさんは──……ホシノさん?』
「大丈夫。聞いてる……正面の3人を引き受ければ良いんだよね?」
『ええ。ホシノさんであれば問題はないと思いますが、無理そうなら間もなく西部の制圧が終わりそうなので、もう少し待って頂くと──』
「いや、問題ないよ」
例えばトリニティが犯罪者を頻繁に流出してくるような場所であったなら、こちらも警戒を強めるなり文句を垂れるなりの関係を築けた可能性はあるだろう。好きの反対は無関心とはよく言ったもので、良くも悪くも互いに波風立たぬようにした結果、気付いた時にはある意味でゲヘナよりよほど壊滅的な関係が出来上がっていた。それを悲しむでもなく嘆くでもなく、こうして改めて懸念しても特に何の感慨も抱かない時点で、少なくとも私からのトリニティに向けた感情はかなり終わっていると本気で思う。
(まあ、尤も──)
羨ましい、とそう考えたことが無いかと問われたら否定はしない。なにせトリニティ総合学園と言えば、ゲヘナと並ぶ三大校の一つでもある、キヴォトスでも有数の超マンモス校。こちとら貧困に喘いでいるのに、奴らはお茶菓子の一つがどうのこうのと喚いている。そんな光景が容易に想像できて、けれどそれも単なる偏見でしかなく、結局は食わず嫌いでしかないのだろう。
一方的に決め付けて、勝手に自分で見切りを付ける。知り合いの一人でも居れば違ったのだろうか。それもまた無意味な仮定だ。自治区内に怪しい組織があると聞かされても“へぇ、そうなんだ”以上の感想は湧かなかったし、意外だと思うこともない。無知は罪というのなら、今の私は大罪人だろう。なんだ、お誂え向けじゃないか。汚れ仕事にはピッタリだ──なんて自虐は、流石にノノミちゃんに怒られそうだから辞めておこう。
「さて、と」
一度思考を止め、一呼吸。軽く銃をコンコンと叩き、特に意味も無く手慰みにひと回し。そして銃が元々の位置に戻ったタイミングで大地を蹴り出し、200の距離を一息に詰める。
「な、貴様は一体……?!」
突然現れた(ように見える)私に対し、狙われたアリウスの生徒が声を上げるが、判断が全体的に遅い。おそらくそれは、彼女たちの意識がどこまでも“襲う側”であるが故の弊害。奪われる物も何もない極貧生活を強いられていたならそういう認識となるのも理解はできるが、それでもこれはあまりにも──
「ふぅ」
3発で3人。それぞれ続け様に眠らせて一息。けれど、先ほど覚えたこの違和感は何だろうか。単に慣れない土地だからとか、そういうのとは異なる妙な違和感が拭えない。
敵が弱すぎる──というのは、いくら訓練を積んでいても、こんな閉塞した環境では実戦経験に乏しいから、という理屈でそれなりに納得はできる。けれど何かそれ以上に、もっと根本的なところでどこか噛み合っていないような、変なズレがあるようなないような
──貴様は一体……?!
(…………)
「お一人でこうもあっさりと……流石は“先生”が直々にスカウトした人材です」
「お強いんですね……! 私も負けてはいられません!」
「えへへ、ありがとね。いやぁ、おじさんも伊達に最高学年じゃないってことさ」
何かが引っかかりそうだったが、ちょうどそんなタイミングで、いつの間にやら両脇を片付けて来たらしい、“トリニティ自警団”を名乗る二人の少女が代表して私に話しかけて来る。名前は確かそれぞれスズミちゃんにウザワレイサちゃん、だったか。真っ直ぐな尊敬が少しだけこそばゆい。
(……)
正直なところ、私はトリニティの構造について何も知らない。自警団の存在はもちろんのこと、正義実現委員会とかいうやたら胡散臭い名前の正式な治安維持組織に関しても、つい昨日スカウトに際してたまたまその場にいたアヤネちゃんから軽く教えられたくらいだ。だから『どうして他に正式な治安維持組織があるのにわざわざ自警団なんてあるんだろう』とは思っても追及するつもりはないし、どちらが立場的には上なのかとかも興味ない。
ただ、それにしてもこの2人は相当の実力者であるように思う。なんでも聞くところによると、彼女たちはその自警団の中でも上澄みも上澄み、事実上の創始者とその後輩である切り込み隊長とのことだそうで、実際、暴徒を私にも負けず劣らずの速度で手早く鎮圧しているあたり、単なる道楽で“自警団”を名乗っているわけじゃないのは伺える。
(……この子たちレベルで、正式な部隊ではない)
私が配置されていることから分かるように、私が此度の“学園交流会“において任された役目は後詰──つまるところ、敵の逃げ道を塞ぐこと。ならば、本当の本当に、トリニティでも最上級の精鋭が集う、“先生”率いる西側は、果たしてどのような惨状になっていることか──
(………ん?)
逃げる? いや──そうだ。なら、どうして。
点が繋がったというか、ある疑問が浮上してきて、思わず私は二人に問いかける。
「ちょっといいかな? 2人の服装なんだけど……それって一目でトリニティって分かる感じ?」
「え? いえ、どうでしょう──私もレイサさんも、一般的にトリニティをイメージする制服とは色調がかなり違うので、一目では厳しいかと思います」
「白を基調とする一般生徒と、黒を主とする正義実現委員会。我々自警団はその隙間に寄り添い、彼女たちの目が届かない細やかなトラブルを解決するのです!」
なるほど、それでグレーの制服と。良く考えられてるなと感心する──ではなく。
「見る人が見れば分かる? 例えば、トリニティを目の敵にしている人とか」
「そう、ですね……私は左肩に、レイサさんであれば右胸に、一般的な制服であるなら首元に。ティーパーティーなら刺繍で。それぞれ目に付く形で必ず制服に校章を貼り付けています。ぱっと見、となるとやはり厳しいですが、それさえ知っていれば数秒。そうとは知らずとも、ご存じのように校章を探すのは身元特定の常套手段ですので、特にトリニティ自治区内となれば、一分かけることはないでしょう」
じゃあ、やっぱり勘違いのセンは薄いか。そもそも敢えて確認を取るまでも無く、これだけ堂々と騒ぎを起こしておいて、仮にも自治区内の人間が分からないとなると、つまりその理由は、
『
答え合わせは、通信越しに至極あっさりと行われた。指揮官がいない。情報の共有もされてない。即ち先の違和感というのは、単に判断が遅いのではなくて、その材料もないが故にただただ突然の脅威に戸惑っていただけだと。
(……というか“先生”、当たり前に思考に割り込んできたけどもしかして心を読んだ? 通信越しに? いくら映像で顔が見えるからってだいぶ荒いんだけど……何それ怖い)
『予想されていたケースの一つではあります。今の段階であれば、まだ知らぬ存ぜぬが割と通用しますからね。
証言は戯言。通信記録はでっち上げ。設備は勝手に拵えたもの。全ては私を陥れるための罠。或いは行き場の無い生徒たちを養っていたこの私に、なんと不当な扱いをするのか──』
すらすらと、つらつらと、あからさまに建前だと分かる文言が連ねられて嫌な気分になる。確かに“黒服”辺りなら言いそうというか、然も“自分は無関係ですよ”みたいな顔をしながら実はガッツリ関わっていた過去の黒服の姿が連想される。アリウスの内情は知らないが、あの手の人間(?)がトップであるなら、それは厄介なことになりそうだ。
『まあ、そこまで心配しなくても大丈夫かと。証拠隠滅を図った、つまりは私との対面を避けているのであれば、この私がトップである以上は、あちらも干渉を露骨に避けるはずです』
「それはどうして……?」
『多分、良くも悪くも、あちらが大人だからですかね。カイザーPMCの基地を襲撃……おっと、見分させていただいた際、そのことについてあちらから謝罪を要求、ないしは借金の上乗せ等は特に行われなかったでしょう?』
それは確かにあのカイザーにしては妙に素直だなとは思ったけど、っていうか普通に心読むの辞めてくれないかな? なんか当たり前のように会話が続いてるけど、別に私口に出してないよね?
『推測混じりになりますが、カイザーは──“黒服”さんのスタンスは──多分これが──この法律に引っ掛かるので──ですから──つまりはアリウスも──……所詮はフィクサー気取りの根性無し。この程度でキヴォトス全体を敵に回す度胸はありませんよ』
私の困惑をよそに、“先生”はよくもまあそんなの思いつくなって感じの悪辣な理論をどんどん展開していき、『ああ、やっぱりこの女も方向性が違うだけで“黒服”と同類なんだな』と改めて実感した辺りで、何やら周囲がガヤガヤして来たことに気づく。
『さて、少々拍子抜けですが、ひとまず一通りの制圧は完了です。懸念すべき点としては、“ここまで好き勝手しておいて無事に帰れると思うなよ”的な、要は嫌がらせとか最後っ屁の類ですが、まあ事前に聞き及んでいた“秘密兵器”とやらを本拠地で証拠隠滅も兼ねて暴走させるとか多分そんなんでしょうし、パパッと片付けてしまいましょう。……さて、そろそろですね』
そんな不穏な呟きを押し潰すような轟音、破砕音、衝撃が鳴り響き、咄嗟に身構えると、近くの廃墟がまるで真横から薙ぎ倒されたように吹き飛ばされて、そこから四脚の化け物が姿を見せる。
それは戦車にそのまま四つのアームを取り付けたような異形の機械。大きさとしてはそこいらの家屋にギリギリ高さで勝るくらいだろうか。けれど家屋を横倒しに出来るということは質量もとんでもない。自然とこれが先の話に出ていた“秘密兵器”だと当たりをつけて、ひとまず様子見としてポシェットから取り出したグレネードを投擲──するも、それは中空で一発の弾丸に撃ち抜かれて破裂する。
「『やはり事前の説明は必要でしたか……とはいえ急ピッチで仕上げたものですし、ではなく、驚かせてしまったようですが、これは“味方”ですので攻撃はやめてください」』
先の破砕音よりマシとはいえ、結構な爆音に衝撃や煙が巻き起こるも、通信と肉声の両方から“味方”というワードが飛び出して来て咄嗟に次の攻撃を控える。とはいえ警戒は怠らず、当然のこと後ろの自警団の子たちもそれぞれ武器を構えている。
すると丁度その異形の機械と私たちの中央、まるでその兵器を庇うような位置関係で、着地音が警戒や緊張で静寂した空間に鳴り響き、土煙の中でも一目で分かる特徴的なシルエットが徐々に私たちの前に姿を現す。
流石に少々汚れが散見される豪奢な制服。空色の髪を大胆に飾る白いリボンのついたカチューシャ。最近導入したというショルダー形式のタブレットケース。ごく稀に所持が確認される傘を模した仕込み銃からは、それがジョークグッズではないと主張するように硝煙が上がっている。
「紹介します。こちらは先日の“ケセド”のデータを元に地区侵攻用として拿捕し掌握したデカグラマトンの信奉者がその一体……その名を“ケテル”と言います」
自慢げにその兵器を紹介する姿は、本当に嬉々とした感情に溢れていて──そんな彼女を見て私は、どうしてあんな日和見主義の女がこの薬莢と硝煙に溢れる街の頂点に選ばれたのか、その片鱗を少しだけ垣間見たような気がした。
☆☆☆
案の定というか何というか、やはりキヴォトスの頂点を冠するだけあって、アロナを名乗る少女は色々と凄まじい存在だった。
「な、なんですかこれは……?!」
「ふふふ。これこそが今回の秘密兵器です。市街地でのデータ採りも兼ねて、今日はこれに乗って出撃しますよ」
「これでこの地区は完了。他の生体反応は……」
「ひ、ひぇぇ、街が……こ、こんな、その、大丈夫なんですかぁ……??」
「?? キチンと住民は巻き込まないよう配慮はしていますよ?」
「そ、そうではなく……ひぇっ?!」
「“先生”!! この兵器は“ケテル”と言うそうですが、やはり他にもセフィロトを肖った古代兵器は存在するのですか!??!」
「現状では他に“ホド”と“ゲブラ”の存在が確認できていますね。既に“有る”のか新たに造られるものなのか、それはまだ確証はありませんが、まあそれなりにストックが無いとセフィラを自称はできないでしょう」
「栄光と峻厳を冠する古代兵器……! どのようなモノなのでしょうか……!」
「あ、あれはミサキさん……!」
「あの人が例の“家族”の一人ですね。それなら……へっへっへ、そこの嬢ちゃん!! 見ての通りテメェの家族は俺様の手の中だ! こいつの命が惜しけりゃ武器を捨てて──なんか普通に撃ってきましたけど?」
「み、ミサキさんにそういう冗談は通用しないと……ひぃっ!?」
「何をバカやってるのよ……」
「言うなコハル。“先生”もきっと彼女たちを傷つけないよう必死なんだ」
「そうは見えませんでしたが……あはは」
「この“ケテル”という兵器、良いね。多脚戦車などサブカルチャーの産物と思っていたが、こうして現実に持ち出すと戦車の問題点をほぼ全てクリアしたような逸品だ」
「あらゆる地形を走破し、機動性も抜群。古代兵器をそのまま流用しているため装甲も現行の機体を大きく上回っている。最大の問題である視認性も、上部に座席を備え付けることでクリア……まあこれは些か強引というか本末転倒な気はしますが、いずれにしろ外部の端末を用いて動かすなら、このキヴォトスの住民であれば大した問題にはならない……と」
「それで、モノは相談だが……この兵器、トリニティに卸すとなるといくつの問題がある?金銭の都合であればとりあえず即金で30億くらいなら私個人でも用意できるが……」
「現状だと3体しかいないのがやはり厳しいですね……今回の交流会の結果次第では破損した機体を流す選択も可能でしたが、それも当然DUが優先になりますし、量産できるようになってようやくワンチャン、あと単純に資金的にもその10倍は無いと厳しいかと」
「金銭面はなんとでもなるが、そうなると卒業までに仕入れるのは難しいか……」
「というかセイアちゃん、まさかこれをトリニティで乗り回すつもりだったので……?」
「す、すみませんサオリ姉さん……このようなことになってしまって」
「──いや、いい。思うところが無い、と言えば嘘になるが……どこかでこうなることを望んでいた自分がいる。まあ、噂の“先生”が誇る戦術指揮もクソも無い、こんな兵器で雑に薙ぎ倒されたのは今でも納得していないが……」
「サッちゃん、言葉遣い。確かにホコリみたいに吹き飛ばされて、空き缶のように回収されたけど、その巨大兵器に跨って学園に反逆ってシチュエーションは悪くないと思う」
「事の発端が間抜け過ぎて、素直には喜べないけどね……」
──本当に色々とあったというか、もはや何もかも忘れて全部夢にしたいくらい激動の一日だったが、その甲斐あってか、マダムの不在という追い風もあり、侵攻は既に完了間近まで迫っている。
正直なところ、彼女の権限がこれほどのものだとは思っていなかった。いくら学園都市の頂点とはいえ、それは法律をほんの少し弄れるような、規則をちょっぴり曲げられるような、そういう地味な方向性のものと誤解していた。いや実際、連邦生徒会長としてはその通りなのだろう。しかし今の彼女は、それ以前にこのキヴォトスを掌握できるほど出鱈目な役職に就いている。
「………」
既にもう、彼女の手腕については疑っていない。噂通りに、噂以上に理性の枷が吹っ飛んだような豪快な人物ではあるのだが、その能力が本物なのは間違いなく、このような古代兵器を平然と持ち出したり、その兵器を操りながらも各地にいる部隊へ指示を出したり、しれっと投擲されたグレネードを撃ち抜いたりと、あの“マダム”が避けるのも納得というか、彼女でさえそうせざるを得ない理由があるのだろう。
しかし、
(だからこそ、もしも、彼女を失えば……)
記憶に新しい連邦生徒会長の失踪騒動。その実態は冗談のような洒落にならない珍事だったのだが、皮肉にもその一連の騒動を経て、彼女の存在はこのキヴォトスに無くてはならない存在として刻み込まれた。最終的な判断を下したのはマダムとはいえ、誰が原因となったかは明らかだ。
ならばあのマダムが、このように考えないはずはない。即ち、
「………」
もしも再び彼女を失えば、どれほどの混乱がキヴォトスを襲うか予想も付かない。けれど、
(アンブロジウス……)
連想のように浮かび上がるは、エデン条約に向けマダムが指向性を持たせるべく苦心していた、“失敗作”と呼ばれる秘密兵器、怪人アンブロジウス。
曰く過去の偉人の複製であるだとか、複製の複製が更に劣化したものだとか、聞けば聞くほど不安になるようなアレな代物ではあるのだが、単に爆弾として見れば極上のもので、銃弾が効かない、害意あるモノに敏感となると、まず間違いなくアリウスを侵略しに来た我々に襲いかかってくるだろう。
アレに人格らしき何かがあるのかは知らない。けれど本能的に彼女が指揮官であるのを見抜いてもおかしくはない。あるいは単に流れ弾の類であろうとも、そういった不慮の事故がいくらでも起こり得るポテンシャルを秘めている。
今のキヴォトスで彼女を失えば、その要因となったアリウスがどんな目で見られるかは想像に難くない。下手をしなくても、マダムに支配されていた頃の方がマシと思うような日々が待っている。それでは意味がない。
(……いざという時、は──)
怖い。嫌だ。恐ろしい。そうすべきだと分かっていても、そこまでしなくても大丈夫だと甘える自分がいて死にたくなる。でも、それじゃあ駄目なのだ。その必要がないとしても、それくらいの覚悟が無ければ、きっとこの世界は何も変わらない。
Vanitas vanitatum ──全ては虚しいこと。きっと私の決意も覚悟も、世界を変えるには至らない。私がいてもいなくても、世界はぐるぐると回り続ける。だから、私の人生に価値なんて──
「コヘレトの言葉……ですね」
「え?」
気づけば。
どこで言葉が漏れてしまったのか、いつしか私の隣に座っていた人物が語りかけてくる。橙色の髪をふたつに分けるチェック柄のリボンが特徴的なトリニティの生徒。こんな状況にも関わらず抱えている文庫本は、彼女にとってよほど大切なものなのだろうか。
思わず固まった私に対し、彼女は更に言葉を重ねて、
「遠い昔、誰よりも知恵者であった王。金銀財宝に数多の奴隷と、かつてエルサレムで最も富を蓄えたという類稀なる賢者。しかし彼はある日こう考えた。私は、王は、その後継は。果たして今の私と同じように優秀であるのだろうか──と」
「………」
彼女は見た目の印象に違わず博識のようで、手に持つ本や携帯端末等を用いることもなく、スラスラと何かしらの昔話をする。察するに、これは“あの言葉”の由来なのだろうか? そういえば、言葉の意味を刻まれただけで、元々はどのようにして使われた言葉なのかはまるで知らない。
「誰よりも知恵者であった王。当然彼は理解していた。そんなはずはない、賢者も愚者も等しく生まれ、また等しく同じ道を辿ることになる。王であれば優秀である保証はなく、そうでなくても格差は必ず存在する。然れど、私はそれを知ることはない。そして、
──ならば、私の人生に何の意味があろう。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。私が知恵と知識と才能を尽くして栄えたこの国を、どうしてまったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか」
それは何とも悲しいことだ。それは何とも悔しいものだ。しかしその憤りにも価値はない。何故なら全て無くなるのだから。全ては無意味だ。全ては無価値だ。虚しい。空しい。何をしても、どう足掻いても、私の心は満たされることはない。
「Vanitas vanitatum et omnia vanitas ──ああ、全ては虚しい。全てはただ虚しいものだ。どうせ最後には賢者も愚者も、等しくみな死に果てるのなら、私の人生に何の価値がある──?」
「──………」
なん、と……いうか。
重苦しい言葉だとは思っていた。悲観的とも感じていた。世界に絶望でもしない限り、こんな思想は生まれないんじゃないかと考えていた。そして、それはあながち間違いではなかった。
共感できるとは思わない。彼の思想は、あまりに常人のソレとは逸脱している。だけど、ほんの少しだけ理解できそうなところはある。“死ねば終わり”という、単純だが絶対の真理。彼の言葉はそれに怯えてのものなのか、彼の言う“愚者”である私には分からない。
(死ねば、全てが──)
聞き入る間に、気付けば我々は随分と入り組んだところを進んでいた。狭い道を無理やり突き進んでいるからだろう。四方から舞い踊る瓦礫の崩れる音が、やがて迫るその時を主張する。
僅かな時間。背中を伝う冷や汗が乾き、私の体温を急激に奪う。しかし、抱いたその緊張もまた虚しく、彼女は先程と同じ調子で、更に饒舌に言葉を重ねた。
「ですが、この話はこれで終わりではないのです」
「………え?」
「むしろこの話は序章です。やがて彼は、生命の死生の概念を見届ける太陽の存在に神を見ました。人は等しく死ぬ、しかし、それは神に見守られてのこと。若者よ、我が道を征け、神は、お天道様はそれを見守って、いつかお前の罪を裁くだろう──」
「………な、」
なんだ──それは。そんなのが結論であると? この際、解釈の是非は置いといて、そんな聞き齧ったような嘆きの言葉を、それを理解しようともせずに、私たちは生きてきた……?
「第六の古則、非有の真実は真実であるか。人生の価値なんて分からない。誰がそれを決めるかなんて知らない。でも、それを決めるのは貴女以外に誰もいない。なら、貴女のその
全ては虚しい。全ては無意味だ──だからこそ、自由に。いつか神が我々を裁くその日まで。けれど私はそうじゃない。私たちはそうではない。それは何故? それはどうして?──全てが虚しいというのなら、何故私たちは縛られている。
『目標を確認。外的特徴が事前情報と概ね一致。個体名“アンブロジウス”。120秒後に接敵します』
どこからか流れてきたダウナーな少女のアナウンスは、まるで狙い済ませたかのようなタイミングで訪れた。きっとそれ自体に罪はない。意思も何も、そういう存在ですらないかもしれない。だけど、アレが最後に残された私たちの鎖だと思うと、武器を握る手に自然と力が入っていく。
「……血気盛んなのは良いことだが、一先ずは落ち着き給え」
標的との距離が500メートルを切った辺り、こちら側が作戦を立てるためであろう、一旦停止して静寂が訪れた“ケテル”の上で、百合園セイアが突然に告げる。
「見ての通りと言うのかな、私は耳がそれなりに良くてね。悪いとは思ったが、君たちの話を聞かせてもらった。
君がこの地に持つ確執。抱いた感情は私には計り知れない。ならば自らの手に依って──そういう思いは理解できるし、否定するつもりもない」
「……なら、どうして」
「死ねば全ては終わりだ。勇気と蛮勇は異なる。貧弱な私が君を弱いと評したところで説得力は皆無だが、君が単身であの怪物に勝るほどではないのは分かる」
「………」
少し落ち着いた。違う、最初から頭は冷静だった。そう、私ではあの化け物に敵わない。だから私は、せめて私の大切な人を、その大切な人たちを守れる人の盾になるつもりだった。それがほんの少し前のめりになっただけのこと。
「なら、どうすれば」
「この世界はあらゆる不条理を許容して成立する。好きな人は人知れず虐げられ、大切な物ほど早く失い、嫌いな人種ほど世に憚る──そんな腐ったもののために、君がその手を汚す必要はない。適材適所、量才録用──仮にも我々は、この地区における責任者だ。普段から偉ぶってる分、こういうところで泥を被らねばならない」
そこで百合園セイアがある一点を見つめる。釣られて私もその方向を見ると、そこには百合園セイアと同様の、一目で高級品と分かる豪奢な刺繍の入った白い制服を着た、一人の華奢な体格の少女がいる。
戦場においても一際白く輝く大きな羽根。それを覆うように靡く桃色の髪。銀河のように渦巻くヘイロー。私たちが姫ちゃんに対して用いる言葉とはまるで違う、本当の意味でこのような薄暗い場所とは不釣り合いな本物のご令嬢、トリニティ総合学園生徒会長が一人、ティーパーティー所属の聖園ミカ。
「ようやく出番? もー、ホント退屈だったよ〜。けどまあ、私が事の発端だし、私が一番頑張るのがスジってやつだよね☆」
どうして彼女が、そう私が疑問に思うその前に、彼女はその派手な外見とは裏腹に、実に簡素で無骨なサブマシンガンを構えると、
「は──?」
音は3発。おそらくは小銃の類に搭載されている3点射機能に由るもの。つまりはただの一度、彼女が引き金を引いただけで、標的であるアンブロジウスの
「え……?」
6発。9発。12発。15発。その度によろめき、穴が空き、四肢は崩れ、反撃は届かず、ただ一方的に、どこまでも暴力的に、音が30を超え、彼女が再び弾倉をリロードするころには、もはやアンブロジウスは怪人とも呼べないボロ切れに成り下がっていた。
「アビドスのような零細校と違い、キヴォトス内でも規模で頂点を争うトリニティ総合学園ともなれば、如何に連邦生徒会と言えども、武装の持ち込みは慎重にならざるを得ない。細かい条件は様々だが──ミサイルのような大規模破壊兵器、装甲ヘリや戦車の類も、規模によっては当然アウトだろう……ある一つの前提を除けばね」
「前提……?」
「
何を──彼女は一体、何を言っている? それじゃあつまり、この地区を制圧した兵器が、あのアンブロジウスさえも真正面から殴り合えそうな古代兵器が、ただの平和ボケした学園の生徒に、そうも気軽に対処できると、そう断言できるようなものであると?
「さて、君たちには不要かもしれないが、ティーパーティーのホストとして、私から紹介しよう。彼女の名前は聖園ミカ。今回の案件、アリウス分校とトリニティ総合学園の和解を志した愚か者であり──その主張を押し通せるだけの、キヴォトス有数の神秘をその身に宿す、我がティーパーティーの誇る戦略兵器だ」
一際大きな轟音、衝撃と共に、アンブロジウスが地に伏せる。何の気概もなく、特に被害もなく、至極当然に、それが当たり前のように。ただの一人の力によって、アリウスの脅威は無に帰した。
『“アンブロジウス”の沈黙を確認。その他敵性反応は確認できません』
「あれ? これで終わり? なぁんだ、大したこと無かったね☆」
「………」
井の中の蛙とはまさにこのことか。その戦果を誇ることもなく、少女は暢気に勝鬨を上げる。その姿を見て私は、元より規模の格差から考えて、人材の質でトリニティを超えられるはずはなかったと、そんな至極当たり前の結論を、今更のように実感するのだった。
もう聖書なんて二度と読みたくない。
※アビドス3章を見て、最強格の生徒が思った以上に強かったので描写をやや上方修正しました。