表情筋が死んでしまったかのように眉尻すらピクリとも動かない上司。短く刈り上げた金髪に濁った青い瞳、キッチリと着こなしたスーツには皺一つ無く、無駄な動作も全くない。上層部が試しに導入してみたロボットだと言われても信じられる。
それに、彼を前にした者は皆、彼の真似をしてロボットになってしまうのだ。私だってそう。だから、普段聞き返すことなんてしない。誓って言える。でも、今日だけは別。
「外勤ですか・・・・・・?」
彼は短く、そうだと言った。盗聴が主な仕事の私に外勤なんて縁遠いものだったはずなのに、どういった風の吹き回しだろう。言っちゃなんだけど、私はそこまで態度の良い職員でも無い。だからこんな任務を任されるとは思えなかったんだけれど、彼はそれ以上答えてくれなかった。
冬が近くなり、肌寒さを感じる外と一転して室内は随分暖かい。それが冬国の日常的風景。
カフェの窓側席、道を眺められるその席に座る銀髪の少女。ポケットから懐中時計を取り出し、時刻を眺める物憂げな横顔が美しい。けど、時計を見たって事は時間を気にしている。つまり誰かと待ち合わせでもしているのか。私は事前に貰った資料の内容を思い出す。
ターゲットは女性。名前はヴェルティ。年齢はちゃんと分かってはいないけど多分ティーンエイジャー。それなのに服はジャケットにハイウェストパンツ、コートにシルクハットと不思議な格好。うちの国では、そんな格好は若者どころか大人でも着ている人がいないと思う。
数日前に突然東ベルリンに現れたらしい彼女。それだけ聞けばすぐに拘束してしまえばいいと思うのだけど、聖パブロフ財団が彼女の身元を証明しているらしく、表立っての手出しは出来ない───らしい。だから、私の神秘術にお鉢が回ってきたといったところかな。
私は首に掛けていたヘッドホンを耳に装着する。これ自体はただのヘッドホン。だけど、私にとってのワンドである。
神秘術を発動すると、膨大な音が溢れる。店内にいる人どころか道を行く人の吐息も心の声も密やかに聞き取れる。この国には秘密を抱えた人が多い。なにせ、シュタージの関係者が数十人に一人はいるんだから。それを家族にも言わずに働いてる人ばかり・・・・・・この店内にも私や彼女を見ている職員が三人もいる。そんなに信頼が無いのかな?
と、今は任務のことを考えようか。周波数を合わせるように神秘術を調整していく。聞こえてくる音を選んで、彼女を聞き取るのだ。
『───あの小説は、面白かったな』
遠くを見つめた萌浅葱の瞳の奥、彼女の心の中には白い大地の光景が広がっていた。その大地を何頭もの犬が曳くソリが走る。まるでシュトーレンに振りかける砂糖みたいにサラサラとした雪が舞い上がる。彼女はそれを南極大陸横断の一時と言葉無く評していた。作者の名前はマリオン・スミス───聞いたことの無い名前、きっとこの国には届かないところにいる作家なんだろうね。
・・・・・・少し、気になっちゃったな。よし、計画変更といこう。何をするかは私の裁量があるからね。そうと決まれば。
私はカップを残して席を立つ。そしてゆったりと何気ない足取りでシルクハットのお嬢さんに近づいた。
「相席、いいですか~?」
彼女は驚いた表情を見せる。でも、その表情をツンとした疑問顔で蓋をして、私が元々いた席の方に視線を動かした。そこにあるのは私が飲み終わったコーヒーカップ。再び私に視線を戻した彼女は、警戒の声色を聞かせてくれる。
「席は余ってた気がするけど?」
わかり切っていた答え、それに対し私はまぁまぁと言いながら彼女の対面に座る・・・・・・それと後ろ手にハンドサインも忘れずに。シュタージの中に混ざっている店員の人がサッと私のカップを片付けてくれる。
「それより、珍しい格好だねぇ? なんだか大人びていて素敵かも」
テーブルに両肘をついて、手は指を組んで、顎をその上に載せて、小首かしげて相手を見つめる。自慢になっちゃうけど、これは私が一番可愛く出来る上目遣いだ。
「───これが、東ドイツ名物なのかな?」
彼女はふっと笑って、メニューを私の方へ差し出した。でも、きっとその質問の意味は、またシュタージ? という意味なんだろうね。
「まさか! 自慢じゃ無いけど食べ物の味気なさじゃ、イギリスにだって負けないよ」
組んでいた指を解いて、ひらひらと手を振った。冗談めかした動きは少し演技くさかったかな?でも、馬鹿正直に答える義理もないし、しらばっくれないと周りの目がうるさいからね。
私はメニューを差し戻して、さっと手を挙げる。指をピンと伸ばして、呼んだ店員にコーヒーのおかわりを注文した。
彼女は少しあきれた表情をしていたけど、特に文句も続かずにそのまま自分の分の飲み物を注文していた。
「・・・・・・ここのコーヒーは絶品だよ」
届いたコーヒーにミルクを流し込み、ティースプーンでかき混ぜる。ここの店が絶品なのは本当、何故なら観光向けの店だから。見栄っ張りで人の顔色どころかお腹の中まで知りたがる不安症の国なので、外に向けるものには品質のマシなものを出してくれる。
彼女はそうなんだ、と短く答え、カップを口に運ぶ。ピクリと眉の端が動いた。心を聞かなくても分かるよ、そんなにおいしくないでしょ。
「ふふっ、お口に合わなかった?」
私がそう言うと、彼女は少し答えを考えてから、ちょっとねと、ばつが悪そうに答えた。だけど私の質問ターンはおしまい。私が何か続ける前に彼女が質問してきた。
「君の名前は?」
私の名前、私の名前かぁ。シュタージでの呼び名は、味気ないし言うわけにも行かないから勿論ナシ。本名も伝えてあげるほどの関係じゃ無いし───でも、答えないというのもおかしいよね。
「私の名前? ジークリンデだよ」
何かの時はこれを使えと言われてる名前。まぁ珍しくは無いし、疑われることはそこまで無いかな。
彼女は私の答えで満足したのか、よろしくと言ってきた。私もこちらこそと答え、逆に名前を聞き返す。
「私は、ヴェルティ」
彼女の名前に資料と齟齬は無い。私みたいに用意された偽名を使っていないのであれば、彼女の本名なのだろう。
「ヴェルティは、何でまたこんなところに?」
そう聞くと彼女は少し戸惑ったような顔を見せる。答えを探すような瞳の揺れ、伺うような吐息、逡巡を見せる胸の上下。心の音はやっぱりという確信が半分、困ったなと正直さが半分。
「・・・・・・もしかして、言えないようなことだったり?」
冗談めかして、クスクスと悪戯好きのペルソナを貼り付けて言ってみる。けれど、彼女のターンには回さず、さらにもう一押し。
「待って、当ててあげる! う~ん───人を待ってる、そうでしょ?」
目が開かれ、瞳は小さく、元々白い肌から血の気が少し引いている。ちょっとわかりやすいよ?
彼女は何でそう思ったのかなという言葉を絞り出した。ふふっ、なんだか探偵もので犯人を追い詰めた時みたい。
「だって、窓の外を見てたり、時計を気にしたり。それって誰かを待ってるんじゃないかなって」
「名探偵だね。でもそれが分かってて私に声を掛けたの?」
「レディを待たせるようなら、盗られても仕方ないと私は思うけどなぁ」
キミは違うの? と続けたら、彼女はクスっと笑った。確かにそうかもなんて言ってね。
さて、とりあえず、目的は人と会うことなのは間違いないとして、どんな人かな? 財団の人ならこんなところで会う必要は無いし、きっとこの東ドイツ、東ベルリンの中の人だろうね。それでも十分候補は多いけど。
「また推理中?」
そんな風に考えているとヴェルティが聞いてきた。私はそう、と肯定する。
「さっきキミが言っていた小説ってどんなのだろうなって、考えてた」
これは半分本当。だって、気になるでしょ?
私がそう言うと、彼女は今日で一番びっくりした表情をしていた。声に出てたよと言うと、耳が良いんだねってごまかしながら視線を外す。その仕草は、普段だったら帽子のつばで顔を隠しているのかな? 残念、今は横に置いているから、頬が染まっているの分かるよ。
「・・・・・・秘密だよ、ミス・ジークリンデ」
最終的にはそんな答えが返ってきた、残念。だけど、それも仕方ないか、誰しも秘密はいくつか持っておきたいもんね。こんな国じゃ特に・・・・・・。
そこからも私達は他愛の無い会話を続けた。でもその中でヴェルティは、この国の事を聞くことは殆ど無かった。あっても、最近の天気とか、ここからさらに冷え込むのかとか。政治家のゴシップや普段の暮らしには興味が無いって感じ。
あとは、私のことを深く聞くことも無かったな。最初に探りを入れている節はあったけど、あれは私が露骨すぎたなと思う部分もあるし、多分気づいているかな。
少しガードは堅い。重要で無いところは緩さがあるけど、守秘義務のような場所には触れさせない嫌いがあったと思う。目的とかそのあたりだね。でも、小説にその傾向が見えるのはなにか不思議だな、と思った。
と言うようなことを、尤もらしく、お堅く、役所仕事の言葉遣いで仕上げて報告書を出した。
私は鼻歌交じりに道を行く。すれ違う人に挨拶をしてみるが返事は無い。ちょっと悲しいけど、いつものことだ。
なぜか、外勤任務が続いている。そのことが私をいつもより上機嫌にさせた。
「───やぁ、ミス・ヴェルティ。奇遇だね」
見覚えのある後ろ姿に声を掛ける。今日も変わらない格好だ。声を掛けると彼女は振り向いて、私を認める。
「おはよう、ミス・ジークリンデ。また会うなんてびっくりしたよ」
そう言いながらも、彼女に驚いたという感情は聞こえない。この邂逅はもう数度目。偶然では無く必然的に出会いに来ていると言っても過言じゃ無い回数だ。
「鼻が赤くなっているよヴェルティ」
クスリと笑いながら、それを指摘する。季節は冬で、随分冷え込むのに、彼女の首元はとても寒そう。私まで寒くなっちゃう。
「キミはいつも暖かそうだね、その青いマフラーが特に」
「そうでしょ? 大分昔に買ったんだ───もう値段も覚えてないけど、給料一月分もつぎ込んだのは忘れられないね」
大切な大切なマフラー。正しい値段をもう覚えてないけど、それは値が付けられないものになったって気がする。もう潰れてしまった雑貨店の懐かしい思い出。
「ヴェルティは今日もお散歩?」
初めて道で声かけたとき、彼女は散歩と答えた。今日もそうらしい。彼女はそうだよと頷いた。そして続けて彼女は、出勤中?と尋ねてきた。これも同じ。向かう先は当然シュタージでは無いけどね。
ヴェルティは財団の支部に滞在している。もう一週間になるかな。それだけ長く滞在して何が目的なんだろうとは思うけど、上も掴めてないし、私でも聞き取れない。まさかこんな国に休暇でバカンスなんてはずも無いしね?
「そういえば、ヴェルティって何歳?」
道を並んで歩く間に交わされる他愛のない質問。だが、その質問にヴェルティは沈黙を返す。私はそのとき間違った質問だったなって思った。財団は神秘学家を保護して育てているって資料にあったから、きっと彼女もそうなんだろう。だったら、自分の年齢もよくわかっていなくても仕方が無い。
「───ごめん」
私が謝ると、いいよ、といつもの平坦な声で返ってきた。その声に申し訳なさを覚えると同時に、淡泊なシュタージとしての自分が心のメモ帳に、彼女が孤児であり財団の孤児院出身であると書き留める。そんな自分を感じて少し憂鬱だ。
二人の間に嫌な沈黙が挟まる。こういうときに無理に話題を振るのは、よりドツボにはまりそうだし、かといってバイバイと切り出すのも気まずい。現状維持を選び取っての停滞はそのまま言葉を出せない空気が動かない事も指し示している。
結局、分かれ道がやってくるまで、無言で並んで歩くだけだった。今日は大失敗の日。
ヴェルティの年齢は不明。財団の孤児院出身と思われ、本人も把握していない可能性が大いにある。
財団の孤児院。彼女はきっとそこで見いだされ、財団に勤めている。それはなんだか、私と似ているような気がした。私はシュタージに、彼女は財団に。彼女の神秘術が分からないけど、選ばれて、使われて、監視されている。
きっとそんな境遇の子はいっぱいいるだろうけど、今私の心が感じ取れる場所にいるのは彼女だけだ。
「・・・・・・常に監視されているのは窮屈って感じないの?」
ヴェルティの問いに、私はクスクスと笑ってしまった。場所はカフェ、初めて出会ったあのカフェだね。
私からすれば今更? って感じなんだけど、彼女は真剣だったみたい。眉間に皺が出来ちゃった。まぁ、確かに普通より厳しく監視はされてるだろうね。なんなら私だってその一人だし。
「確かにちょっと窮屈かも? でもね、誰からも見られてない方が心配じゃない?」
それは私が監視は当たり前、盗聴も日常茶飯事の国で生まれ育ったからかもしれないけど、あるよりはない方が不安になる。誰からも見向きもされてないなんて、それ私は死んでるんじゃないかって思っちゃうよ。
そう説明したら、一理あるねって頷いた。まだ少し不満さが残っているように見えるけどね。
「───もし、監視から逃れられるとしたら?」
一瞬動きが止まってしまう。なに? それが目的なのかな?
「・・・・・・怖いこと言うね」
へらへらと笑うだけで、続きの言葉は出てこない。なにか適当な事で冗談として茶化してしまいたいけれど、乾いた口内で言葉の泉は干上がってしまう。潤そうと口に運んだコーヒーの味もよくわからないや。
警鐘、注意報、赤のランプが思考の中をチカチカと明滅している。
「私をヘッドハンティングして何するつもりなの?」
やっと出てきた言葉がそれだった。だが彼女は答えない。ただ、私の心を見透かすように薄い瑪瑙色の両眼がまっすぐ捉えていた。
「・・・・・・滅多なことは言うものじゃ無いよ」
私はそう言って会話を打ち切った。
ヴェルティの目的は神秘学家の亡命幇助。そう結論づけて報告書を提出すれば、私の任務は終わるだろう。多分彼女は拘束。よくて国外退去、運が悪ければ死んでしまうだろう。
いい気味だとは全く思わないかな。それより困惑が勝る。何でいきなり? という疑問がずっと頭の中を走り回っていてデスクワークが進まないや。
ヴェルティが接触した神秘学家はそれなりにいる。でも他人の監視記録や傍受報告書を見れば、私に仄めかしたような行動は全く無かった。私なら分かってくれると思ったのかな、それとも最初から私が目当てだったのかな?
───うん、まぁ、確かに私なら頷こうと思えば頷いていたかも、そうはならなかったけど。
けれど、ささやかな抵抗はしているから、やっぱり私は彼女側なのかもしれない。だって、現に私は報告書を提出するのを遅らせているからね。
「・・・・・・驚いた」
次の日、私は再び彼女と出会った。驚いたのはこっちも同じなんだけどね。結局報告書はささやかな抵抗のみで、提出はした。だから同僚が朝のご挨拶に向かったと思っていたんだけど・・・・・・彼女、ヴェルティは、あのカフェで座っていた。今日はカフェテラスの方に、まるで誰かを待っているかのように。今日の待ち人は───私だったようだ。
「私もだよ、本当に偶然ってヤツかも」
私は、自然と彼女の対面に座った。うーん、周囲には勿論同僚のみんながいるね。もしかして、今から拘束する気だったのかな。だとしたら、少し待って貰おうか。
「ヴェルティ、ヘッドホンを付けても良いかな」
彼女はコクンと頷いた。私はカバンからヘッドホンを取り出して装着する。コードの先は傍受機に。
「───SCHKA/123456・・・・・・まぁシュタージとしての名前でね。少し話しでもしようか」
もう私の耳の届く範囲に、嘘は存在しない。そこにあるのは暴かれた隠し事と事実だけ。ただ、その情報量が多すぎて私の頭はパンクしそう。
「気楽に話してね。これはただの雑談。嘘でも本当でも、直接でも婉曲でも構わないから」
お決まりの台詞を口にする。心の内側も、皮の内側も変わらない。私にはそれらが聞こえる。勿論婉曲的に喋って探られないようにすれば隠し通せるだろうね。でも、その態度は分かる。壁を作ることは、隠し事があるのだと言っているようなものだね。
「───キミの目的は神秘学家を財団に連れて帰ること、そうだよね?」
彼女はそうだねと肯定した。嘘は無い。顔に緊張は見えず落ち着きを払っていた。
「じゃあ次、ここの店に何人シュタージがいると思う?」
周囲を見渡し、少し考えるようなそぶりの後、四人? と彼女は言った。うん、惜しい。六人だよ、私を合わせてね。そう答え合わせをすると彼女はもう一度あたりを見渡した。ふふっ、余計なことを言うなってうるさいね。背中に視線がチクチク刺さってる。
「さて、話を戻そうか。連れて帰りたいのは私なんでしょ?」
ヴェルティは頷いた。
「───その理由は私の神秘術?」
その問いにヴェルティは今日初めて首を横に振った。そこに嘘は無い。それが思った以上に私にとって意外だった。えっ、と思わず聞き返してしまうくらいには。
「ミス・ジークリンデ。キミの神秘術について予想はついているし、その神秘術が重用されるものなのも分かるけど、私はそれが理由でキミを財団に招きたいわけじゃ無い」
彼女は真摯に答えていた。もしかしたら、バレるなら全部素直に話してしまおうと、一種の開き直りに近しいものかもしれない。
「・・・・・・じゃあ、なんで私を選んだの?」
私はヘッドホンを通して届く音に強く意識を向ける。この仕事をしていれば疑い深くもなる。私の神秘術が理由で無いというのなら、私を選ぶ必要なんてどこにも無いから。
「キミが、小説に興味を持ってくれたから」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。それは初めて出会ったときに話した話題。南極大陸の白い大地を走り抜ける光景を浮かべた内容。それが私を選んだ理由?
それって、まるで───友達を選ぶ理由みたい。
「ふふっ、そっかそっか」
あぁ、羨ましいな。
「ねぇ、ヴェルティ」
じゃあ、私も選ぼうか。
「───シュタージとしてキミを拘束するね」
少しざわめく周囲。まぁ計画が狂っちゃうだろうし、それもしかたない。でも、君たちにとっては計画変更なだけでしょ? だから邪魔する必要は無い。
「キミがそう言うなら」
ヴェルティはそう言ってすんなり付いてきてくれる。でも内心少し不安でしょ? 分かってるよ、聞こえるもん。
ちゃんと代金はテーブルの上に残して、私とヴェルティは立ち上がる。そしてテラス席を離れて、黒塗りの護送車───の手前のタクシーに乗った。可愛い可愛い公害車トラバントことトラビ。タクシーの運転手もびっくりした顔してる。そんなんじゃ協力者失格だぞ?
「財団支部まで止まらずに、分かった?」
バッグから取り出したるは、貸与されている拳銃。ヴェルティも少し驚いていた。シュタージ勤めは銃を持っている、常識だぞ?
運転手はそれを見て観念したようで、車を動かし始めた。勿論それを黙って見過ごしてくれるはずも無く、黒塗りの護送車が後ろから追いかけてくる。それどころかぐんぐん追いついてきて横に並ばれちゃった。
「ヴェルティ、窓を開けてくれる?」
彼女はこの意味を察して、窓を開けると頭を下げて耳を塞いだ。私は開かれた窓の向こう、護送車に向かって引き金を引いた。弾丸は命中、だけど窓ガラスを突き破ることは出来ずに、蜘蛛の巣状のヒビを残すだけ。そりゃ護送車だもん。普通の拳銃じゃあ無理だよ。でも、私の能力があれば別。もう一度引き金を引いて、銃弾が飛び出し、蜘蛛の巣の中心を射貫く。確か、矢筈を打ち抜くって言うんだっけ? 弾丸が弾丸を叩き、車内に一つ目を押し出す。そして二つ目の弾丸から私の神秘術があふれ出す。
情報の濁流を流し込んだら人は目が見えなくなってしまう。仕組みはよく分からないけど、もしかしたら目の情報を処理するより、音の情報を処理する方に意識が向いて目からの情報を後回しにしちゃうんじゃ無いかな。
まぁ、だから───車のハンドルさばきをミスして停車中の車に突っ込んでいった。たぶん死ぬことは無いと思うけど・・・・・・当分はベッドの上かも?
「さぁ、急いで急いで」
そこからは、もう冒険活劇みたいに進んだ。信号機の切り替わりは操作されてるし、数が多いんだから待ち伏せの雨霰・・・・・・それを避けたり、戦ったりして、最後には財団支部の門を突き破って中に突入! 久しぶりに心の底から大笑いしたと思う。ヴェルティも笑っていたし、ドライバーも半分諦めちゃったのか、途中から顔を真っ青にしながら笑ってた。でも運転技術は凄かったから、もしかしたら昔はタクシーじゃ無くて戦車に乗ってたのかも。揺れ心地もトラビと戦車でそんなに変わりないだろうし?
役目を終えさせられて大破したトラビから抜け出した私達は、衣服の乱れを直した。
「ミス・ジークリンデ───」
私は、言葉を続けようとしたヴェルティの口を人差し指で差し止めた。
「ヴェルティ、その名前はね、シュタージが使えって言ってきた偽名でね。でも───SCHKA/123456・・・・・・ってのも嫌だし」
どんな名前が良いか考える。本名は、まだ秘密にしておきたい。それが私の抱える一番大きい秘密だから。
「そうだなぁ・・・・・・うん、コーンブルメって呼んでよ、相棒」
脳裏に閃いた一輪の花。それは花壇でも公園でも無い、誰も寄りつかない汚い橋の下にある、汚れた壁に描かれた───最高に綺麗なコーンブルメの落書き。
いつかは色あせてしまうだろうけど、枯れることの無いコーンブルメ。誰がそこに咲かせたのか、なぜ花開かせたのか、誰にも分からない『秘密』を抱えた花。
それが、今の私に一番似合っている気がした。
「わかったよコーンブルメ、これからよろしくね・・・・・・相棒として?」
少し疑問形の声。それが少しおかしくって、私はまた笑ってしまった。そして、金切り声で迫ってくる財団の職員に引っ張られて私は、支部の中に招かれた。
これが、私の転職した日。
私の『大脱走』の日。