第Ⅰ病 イノセント・ブルー
ある日の朝。
彼は前世の記憶と共に、この世界が“ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD”のものである、という突拍子もない真実に気づく。その日から、彼の青春はありきたりで平凡なものから、選択肢を誤れば死を招くサバイバルへと変貌した。
妹に刺されるか。
幼馴染に釘付けにされるか。
クラスメイトに花の養分にされるか。
ヤンデレCDの世界で生き残るため、彼は自分の発言、言動に気を配る日々が始まった。胃に悪い生活に、いつしか『死にたくなってきた』が口癖になった。
一方、生き延びるその過程で、彼は色んな経験をした。
困っている人を助け、権力を背景に傍若無人に振る舞う相手と対決し、身の回りの仲間達と笑ったり泣いたりしながら日々を過ごし、そして恋をした。
確かに、ヤンデレCDヒロインとの日々は気が抜けない毎日だったかもしれない。だが大切な人達、そして自分自身と真摯に向き合う機会が増えたことで、気づけなかったものに気づけたこと、見えなかったものが見えるようになったのもまた事実だった。
紆余曲折を経て、本当の意味での幸せを手に入れることができた。そう思っていた。
彼女に、
何もかも壊されたあの日まで_____
親友を殺され、
妹を殺され、
恋人も、そして自分自身も殺された_____
何もかもを失い、バッドエンドで幕を下ろした筈の短い人生。
だが彼に、安眠は決して訪れない。狂気に染まった彼女を止め、皆を救う運命が課せられていた。
彼はその運命を受け入れた。
全ての想い出と引き換えに______
そして時間は巻き戻り、何もかもがなかったことにされた世界で、彼はその使命を果たした。
しかし、彼はその代償に己の命を支払った。
この世界に、彼が今まで共に生きてきた仲間達はもういない。このまま死ぬことができれば、みんなにまた会える。巻き戻ってから抱き続けた希死念慮に、彼はとうとう負けてしまった。
そんな彼を救ったのは、あの日目覚めたもう一人の自分。恵まれない人生を生きて、バッドエンドでこの世を去った前世の自分だった。
ヤンデレCDの記憶を与え、能天気な元の自分よりしっかりした性格の彼は、何度も自分を救ってくれた。一番の親友であり、先輩であり、自分自身。CDの知識だけではない、色々なものを与えたくれた。
そして最後。
生と死の狭間で、もう一人の自分は彼の身代わりとなって、元の場所へと還っていった。
『もう2度と“死にたくなってきた”なんて思わない事______』
共に生きた
それが、
野々原 縁に定められた運命だから______
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ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD
登場ヒロイン全員がヤンデレという、本当にイかれている作品。俺が記憶にあるのは全3作展開。限定のスピンオフもあったようだ(聴いたことはないが)。
ヒロイン一人につき1ストーリーが作られており、主人公と他のヒロインはストーリー毎に結末が異なる。但しどのルートもバッドエンド。死にたくなければどのルートも避けなければならないが、1話20分程度の作品なので、ヤンデレになる過程など、本編に辿り着くまでの情報はほぼ無い。自分がどのルートを突っ走っているか気づいた頃には、多分手遅れだろう。
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「絶対ダメ!!」
私立良舟学園。中高一貫で、市内最大のマンモス校。
その広大な食堂に、河本 綾瀬の大きな声が響いた。
「ちょっ、綾瀬!声デカいって」
6人掛けのテーブルの向かいに座る縁は、慌てて彼女をなだめた。
「なんであなたはいっつも、そうやって勝手に決めちゃうの!?」
それでも、綾瀬は抑えられない感情をぶつけてくる。
一巡目から、二巡目で小鳥遊 夢見を救うまでの記憶を無くしていた3年間。ヤンデレCDの世界であるという真実を忘れて、呑気に生きてきたツケが溜まっていた。
縁が、いつものメンバーが集まったこの場で、自分が園芸部に入部する旨を告白したのが、事の始まりだった。
記憶を無くしている間、野々原 縁は園芸部への入部を決めていた。部長を務めているクラスメイトの女子生徒と顧問に『廃部の危機を救って欲しい』などと頼み込まれ、縁は流されるように入部届にサインしたのである。
問題はその件を一切、綾瀬に相談しなかったことだ。おそらく記憶を取り戻す前までは、相談はおろか事後報告すらする気がなかったらしい。
本来ならわざわざ許しを得る必要などないのだが、ヤンデレCDヒロインの一人である彼女が相手となると、話は変わってくる。何より良舟の園芸部は、部長である女子生徒一人しか部員がいないのだ。必然的に、縁は園芸部で女子と二人きりになる。
それに気づかない綾瀬ではないし、今の縁はそれを重々理解していた。
とりあえずこれ以上被害を拡大させないよう、縁はこの場で入部を告げたのだ。
女子と二人っきりになる部活に。
当然、綾瀬は激怒。
そして今に至る。
「ひどいよ縁、なんで相談してくれなかったのよ……」
座り直しながら綾瀬が言う。
「なんでって……」
縁は言葉に詰まった。
今の縁なら絶対しない事。それを平然とやらかしてきたこの間までの思考回路は、頭を打って記憶を取り戻した時に捨て去ってしまった。何考えてるんだ、と文句を言いたいのはこちらの方である。
「全く、だから言ったじゃないか」
縁の隣で、持ち込んだ弁当を頬張っていた少年が言った。
「助けてくれ、悠」
「君ねえ……」
綾小路 悠は、呆れたように首を振った。
悠と縁は中学時代から付き合いがあり、家族である渚や幼馴染の綾瀬を除けば最も付き合いが長かった。日本最大の企業グループ、通称“綾小路財閥”の御曹司でもある。最も普段の彼は、決してそんな雰囲気を感じさせはしなかったが。
「ちゃんと渚さんや河本さんにも相談した方が良いって、僕言ったよね?」
「……はい」
確かにその通りである。そして『別にどうってことないだろ』と良い、へらへらと一蹴した記憶も残っていた。
「そうだよ、お兄ちゃん」
縁の隣、悠の反対側に座った少女は、平然と自分で作った弁当を口に運んでいた。
「せめて私には、ひとこと言って欲しかったなあ」
妹の渚は、口調こそ綾瀬より優しいものだったが、声には不満が混じっていた。
共働きでほとんど家を空けている両親に代わり、野々原家の家事はほぼ全て渚が担っていた。最愛の兄が知らない女と二人っきりになる以前に、部活を始めて下校時間が変われば、当然夕飯の支度にも影響してくる。
「そうだよな。家のこともあるし」
かつての縁は家事も当番制で手伝っていた。そうするようになったのも元々は、身体を共有していたもう一人の自分、頚城 縁の配慮だった。
こういう心配りが、彼女たちのヤンデレ化を防いできたのだ。
「______ただ、少なくとも、
「ッ!!」
「!?おい渚!」
突然の爆弾発言に、縁は頬張っていたコロッケを吹き出しそうになった。
綾瀬の怒りのパラメーターが上がっていくのを、渚はだし巻き卵を頬張りながら嘲笑うように眺めていた。
「あれ?私、何か変なこと言いましたかぁ?それとも、幼馴染は他人じゃないとでも?血も繋がってないのに?」
「え……あの、それ地味に僕にも刺さって……」
「渚ちゃん?言って良いことと悪いことの区別もつかないのかな……!?」
悠の言葉を掻き消して、綾瀬が渚の方へ前のめりになる。噴火寸前の怒気を孕んだ声が震えている。
「あ、綾瀬!」
「なによ」
「うっ……とりあえず落ち着け。ここ食堂だぞ?」
「へえ、縁は私より渚ちゃんを庇うんだ……」
ハイライトの消えた瞳で、縁を見つめる。
「当り前じゃないですか、家族なんだから。ねえ?お兄ちゃん」
余裕の表情の渚。左手で赤いマフラーを撫でながら、綾瀬を煽り倒す。事件の前、縁がプレゼントしたものだった。
綾瀬の怒りが頂点に達する。
「この……っ、言わせておけば!」
綾瀬が立ち上がろうとする。
これはまずい。
そう思った時だった。
「綾瀬ちゃん!」
綾瀬の隣に座る少女が、綾瀬の裾を掴んだ。
「!」
「落ち着いて。今はお昼ごはんの時間でしょう?」
セミロングの彼女は、そう言って彼女を引き留めた。
沈黙。
「……ごめん」
綾瀬は彼女の言葉を聞き入れ、素直に座り直した。
「渚さんも、あまり綾瀬ちゃんを怒らせないで。縁くんも困るでしょう?」
「そうですね。ごめんなさい」
少ししゅんとしながら、渚も刃を収める。
「……」
あまりに呆気なく事が収まり、縁はただ交互に彼女達を見るしか出来なかった。
二巡目の世界。
渚も、綾瀬も、悠も……身の回りの人間は、一巡目と何もかも同じだった。
ただ一人、
桜ノ宮 慧梨主を除いて_____
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河本 綾瀬
主人公の幼馴染み。得意料理は八宝菜。
幼い頃、いじめられていた主人公を助けて以来、隣に住んでいたこともあって関係が始まる。主人公と結ばれることを願い続けた。その想いの強さは『告白して、もしダメだったら死んじゃおう』と語るほど。恋人同士になってもその想いの強さは悪化の一歩を辿り、本編では渚と園子を自室で釘付けにして殺害した。そして、そんな彼女たちの話題を遠慮なく持ち出してくる主人公にも我慢ならず、自分だけを見るようにするため、という目的で主人公も釘付けにされた。
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慧梨主は今から1年前に、縁や当時は一緒だった綾瀬と同じクラスに転校してきた。
今以上に引っ込み思案で人見知りで、初日からしばらくは怯えた表情を見せていた。
そんな慧梨主の面倒を見ていたのが綾瀬だった。たまたま後ろの席になった彼女をサポートし、多くの時間を一緒に過ごした。綾瀬は本心で慧梨主を思いやり、慧梨主も姉のように彼女を頼った。やがて二人は唯一無二の親友になり、互いにいろんな相談事をし合うようになった。
そんな慧梨主が、綾瀬の縁への、異様なまでの執着心を理解するようになったのも必然だった。全てを理解した上で、慧梨主は今でも綾瀬のたった一人の理解者でい続けている。綾瀬もそんな慧梨主を信頼していて、今回のように、いつも彼女の言うことだけは素直に聞き入れていた。
現状、綾瀬を御することができるのは、慧梨主をおいて他にいなかった。
「あの!」
昼休みも終わり、次の授業に備えて教室へと戻る。その途中、縁は彼女を呼び止めた。
「はい、なんですか?」
「ああ、その……さっきはありがとう。助かったよ」
綾瀬の暴走を止めてくれたお礼を述べる縁。慧梨主は優しく微笑んでみせた。
「いえ、良いんですよ。綾瀬ちゃんは大切な友達ですから」
「本当、いなかったらどうなってたか……」
今の綾瀬を上手くなだめ続ける方法が、今の縁にはわからなかった。記憶が戻ってまだ2週間。頸城という人間が、いかに自分の中で大きかったかを、 既に何度も痛感させられていた。
「ところで、縁くん」
「はい」
「変わりましたね。記憶が戻る前よりも」
「……桜ノ宮さんにも分かるか」
「だって、前はわざわざお礼言わなかったじゃないですか」
「うぐっ……」
最低だ。
おそらく、何度もバッドエンドを回避させてくれただろう恩人に、
縁は、自分の恥ずべき行為を猛省した。
「だけど……記憶が戻ってからは、少し変わり過ぎというか……」
「え?」
「えっと……上手く言えないんですけど、その……随分、大人になったなぁって」
「……」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。思わず黙り込んだ縁を見て、慧梨主は慌てた。
「あ、ご、ごめんなさい!すごい上から目線なことを!」
「あ!あぁいやいや、それは分かってるよ」
慧梨主を落ち着かせる。
実際、彼女の発言は正しかった。
周りの人間は、縁が事件に巻き込まれるまでの1ヶ月くらいの記憶を失くしたと思っている。しかし実際には、それに加えて一巡目の記憶も丸々失い、全てを一度に取り戻していた。
縁の経験した人生は、同い年の綾瀬や悠、そして慧梨主よりも長い。
「でも、それを言うならさ、桜ノ宮さん」
「なんでしょう」
「桜ノ宮さんも……同い年の女子にしては、すごいしっかりしてると思うな」
縁は、失礼な言い方にならないよう、そして余計な詮索をされないように気をつけながら言った。
「俺らじゃ及ばないような、経験値を感じるっていうか……」
縁はここに来るまで、色んな経験をした。幾度となく、人間関係が生み出す修羅場を潜り抜けた。
そして慧梨主からも、
同じような匂いがした_____
あの時、生と死の境界線で初めて相見えた、頸城と同じ空気を彼女は漂わせていた。
修羅場を経験した者の、強さと悲しさ。
そして、涙と血の匂い______
「……ふふ、気のせいですよ」
いつもの優しい笑みを浮かべながら、慧梨主は首を横に振った。
「そっか。悪い、時間取らせて」
これ以上の詮索はタブーだ。そう悟った縁は、会話を切り上げた。昼休みも残り短い。
「いえ、大丈夫ですよ。それでは、また」
慧梨主は軽く会釈して、小走りで教室へと戻っていく。背中が小さくなっていく。
一巡目には存在しなかった慧梨主。
彼女の存在が何を意味するのか、それは分からない。
だが今の縁は、彼女の存在抜きにして綾瀬を御することができない。彼女の存在が、綾瀬の理性を保っている。彼女を失えば、あるいは敵になってしまえば、一巡目より理性が効かない綾瀬を抑えられる存在がいなくなるだろう。
しかし不用意に信頼してはいけないと、頚城が残していった記憶が告げていた。
なぜなら彼女もまた、ヤンデレCDのヒロインだったから。
桜ノ宮 慧梨主______
バッドエンドから自分を救ってくれる救世主か、
はたまたどん底へと突き落とすためのトラップか______
今はただ、修羅場を一旦回避してくれたことに感謝しつつ、縁は自分への教室へと戻っていった。
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私立良舟学園
お前が通っている学園。中高一貫で、生徒総数は半径100㎞以内では最大と言われている。1作目のヒロイン達の制服と、この学園の制服は全く一緒だった。なんで黄色いのと白いので分かれているんだと思っていたが、男女合わせて4パターンも制服の種類があったのか。
余談だが、こんな学校に兄妹で通っておいて庶民ぶるな。うちの家系じゃ絶対行かせてもらえなかったぞ。学費見てお前の中で目ん玉飛び出たわ。
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初めて、ピクシブの方でヤンデレCDの走り屋小説を投稿したあの日から、今年で10年になります。当時でもヤンデレ惨発売から4年の月日が経っており、すっかり過疎ってしまっていた界隈で、一人拙い文章(今もですが)で小説を書き始めたのが、昨日のことのように思えます。
当時、今以上に少ないヤンデレCD小説の中で、当時ハーメルンで唯一投稿されていたのが、食卓塩氏の小説「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた」でした。短い本編と違い、ヒロイン達が作品内で活躍しているのを読むのは、この上なく楽しかったです。そして氏の作品は、自分も小説を投稿しようという決心と、今後の筆者の作品に大きな影響を与えてくれました。
そしてその集大成が、筆者の「アリス・イン・ワンダーランド」シリーズであります。一番の推しである桜ノ宮姉妹の作品を書けたのは、食卓塩氏の作品がモチベーションになっていると考えます。
小説を書き始めて10年。今回、ファン作品としてこの作品の執筆を開始しました。ヤンデレCD小説の面白しさを教えてくれ、ヤンデレCD界隈の活性化に寄与してくれた食卓塩氏と野々原 縁くんへの感謝と敬意を込めて、良い形で完結させられたらと思います。
良い形=ハッピーエンドとは言ってない(笑)