ラスト・オブ・リアル・ワンス   作:さくらのみや・K

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第Ⅷ病 Discord

 

「おはよう、咲夜さん」

 朝の教室。

 声のする方に顔を上げる。そこには、もうすっかり見慣れてしまった、野々原 渚の姿があった。

「……おはよう」

 咲夜は無表情で返した。

「何してるの?あ、数学の宿題?」

 机の上には、教科書と2枚のプリントが広げられていた。

「見ての通りよ。アナタはまだ手をつけてないの?」

「うん、提出は明日だし。私、宿題とかはお家でやるようにしてるから」

「そう」

「でも意外だな。咲夜さんも、そういうのは家でやってくるものだと思ったけど」

「忙しいの。アナタのような庶民と違って」

 まるで興味が無いという風に振舞い、咲夜はカリカリとプリントの課題を説き続ける。

 

「……そっかぁ、大変だね」

「そうよ!」

 急に、咲夜がバッと顔を上げた。唐突さに、渚は少しのけ反った。

「ホームルームが終わったら車に乗せられて、下校したら速攻でドレスに着替えさせられて、また車に乗せられてホテルで立食パーティー。そこで色んな人間に挨拶して……帰ったらもう11時よ!?」

 急にまくしたてる咲夜に一瞬戸惑う。

「ほ、本当に大変なんだね……いつもこんな感じなの?」

「ええ。まあパーティーはさすがに多くないけど、やれ市議会の人間やら企業の代表やら、この街の政財界って言われてる連中との会合はしょっちゅうよ。何せこの街にいる綾小路本家の人間は、私しかいないから」

 渚は、一瞬だけ想像した。来る日も来る日も、自分の父親かそれより年上の権力者相手に、自分の家の仕事を背負って真面目なビジネスの会合をしに行く。

 重圧で潰れそうだ……渚は思った。

 

「……大変どころじゃないわよ。全く、こんな街に新幹線なんか通して、利益なんか出るわけないのに……」

 シャープペンを机に放りだして、背もたれに身体を預けながら咲夜が呟いた。

「新幹線?」

 渚が首を傾げる。

「あら?知らないの?」

「さ、さすがに知ってるよ!」

 この街では数年前から、新幹線延伸に向けた大規模な再開発が、駅前を中心に行われていた。

 

 新幹線用のホーム新設と、それに伴う駅舎増築。近隣の宿泊施設や商業施設の建設、更に新幹線の車両基地の建設などが、5年後までに迫っている延伸に向けて進んでいる。年間約1500億円の経済効果、駅利用客の200万人近い増加を見込んでいる……と言われている。

 

「新型車両まで開発して……これで不採算事業にでもなったら、お父様の首が飛ぶわ」

「今咲夜さんが忙しいのって、その新幹線のためなの?」

「まあ、そういうことになるわね」

 咲夜は頷く。

「巷でも言われてるけど、最近……あまり経営良くないのよ。新幹線まで失敗したら、いくら綾小路家の人間相手と言えども、役員や株主どもは容赦しないでしょうね」

「……」

 咲夜が深刻そうな表情を見せる。それは、渚が初めて見る表情だった。

 

 咲夜の父親がCEOを務める綾小路重工業は、その延伸工事と駅舎の改修に伴う多額の費用をJRに出資している。

 既に綾小路重工は、国産初のジェット旅客機“綾小路スーパージェット(A S J )”の開発失敗、航空自衛隊の次期無人偵察機の競争試作敗北などで、約1.5兆円に上る損失と企業イメージの低下を招いた。昨今の不景気でそもそもの業績も下がっている今、新幹線延伸への出資分も回収できなければ、咲夜の父はその責任を追及されて、CEOの座を降ろされる可能性が高い。

 

「私が、頑張らないと……」

「咲夜さん」

 同い年の女の子が、日本屈指の大企業の重圧を背負わされている事実に、渚は胸が痛んだ。

 

「まあ?庶民のアナタには理解できない話でしょうけど」

 表情を切り替えた咲夜が、いつもの憎まれ口を叩く。

「なっ……えーえーその通りですぅー」

 ふんっと渚がそっぽを向いた。

「でも、家族のために頑張りたいって気持ちは、すごいよく分かる。私も……」

 咲夜は一瞬、言葉に詰まる渚を見やった。彼女は、こちらをじっと見つめていた。

 

 しばしの沈黙が流れる。

 

 咲夜は不思議だった。

 数日前、初めて渚と対面した時、彼女の眼にはあからさまな敵意があった。縁に起こったことを考えれば仕方のないことだったが、あんなに警戒していた彼女は、このクラスで一番咲夜を気にかけてくれている存在になった。

 どんな意図があるのか。

 あの縁が口添えしたであろうことは容易に想像できたが、そうだとしても、渚の自分に対する助けようとする気持ちは本当に思えた。

 

 そして一番不思議だったのは______

 

「ねえ、咲夜さん」

 渚が口を開いた。

「……何か困ったことがあったら、言ってね」

「同情のつもり?」

「わかんない。でも、同じクラスメイトで、同じ部活の仲間じゃない。友達を助けようとするのは、普通でしょう?」

「……っ」

 不思議な胸の高鳴りが、咲夜の顔をしかめさせた。

 

 渚と話している時間。

 咲夜はその間、ずっと忘れていた心地良さを感じていた。

 素直になれず、貴族目線で憎まれ口を叩く天邪鬼な自分といてくれる渚。彼女といると、自分の意志に関係なく心が安らぐ。

 だけど今の自分は、その気持ちを素直に受け止める勇気が無かった。

 

「……ありがと」

「咲夜さん!」

 精一杯振り絞った感謝の言葉に、渚はぱあっと微笑んだ。それを見て、咲夜の顔は赤く染まる。

「ま、アナタが助けたいというのなら助けさせてあげるわ?光栄に思いなさい!」

「ふーん?」

 ムッとした渚が、机の上のプリントを指さして言った。

「そこの問題、計算間違ってるけど、教えてあーげない!じゃあねー!」

「え!?なっ……」

 渚は笑いながら咲夜の机を立ち去ろうとする。

「ちょ、ちょっと!待ちなさい!ねえ、待ちなさいよー!!」

 慌てて立ち上がった咲夜は、歩き去る渚を追いかけた。

 

 

 

 *******************

 

 

 

 放課後。

「マジで上手くいくとは……」

 校庭の花壇の側で、水やり用の水道ホースを片手に、縁は一人呟いた。目の前には、渚と咲夜が仲良く話していた。

「……で、あまり間隔を狭くし過ぎると、日光が当たらなくてちゃんと育たないんだって」

「数を増やせば良いってわけじゃないのね」

 どうやら、人より少し知識がある程度の縁が聞いたこともないような、珍しい植物を植えたいと咲夜が言い出したらしい。それを植えられない理由を、渚が色々説明しているらしかった。

 

 渚なら咲夜とも上手くいくとも思っていたが、ほんの一週間程でここまで距離を縮めたのには驚かされた。おかげで、咲夜は(彼女のそもそもの貴族気取りの性格を鑑みれば)園芸部の一部員として、ちゃんと活動に参加していた。むしろ、生まれた時から自宅や他の屋敷の色んな庭園を見てきた経験から、花壇のレイアウトを積極的に提案したりしている。

 これには、当然渚の努力と人当たりの良さもあるが、他にもあると考えていた。

 

 住む世界が違う者達に囲まれた環境で、一人でやっていくのは辛いことだった。それは咲夜とて例外ではない。

 結局彼女も、気を許せる心の拠り所が欲しかったのだ。そこへ手を差し伸べた渚の存在は、咲夜にとってどれほど心強かっただろう。

 そう考えると、一巡目での咲夜は相当心細かったのではないかと、縁は思った。あそこまで苛烈に悠や縁を追い詰めたのは、彼女自身に心の余裕が無かったから。その後に縁の提案した園芸部への入部をすんなり受け入れたのも、本当は寂しかっただけなのかもしれない。

 

 とことん素直じゃない奴だと、縁は思わず笑みがこぼれた。

 

 どんな理由があるにせよ、咲夜が園芸部やこの学園に馴染めるのなら、それに越したことはない。一巡目における、学園全体を巻き込むような修羅場はひとまず避けられる。

 そう縁が思っていた矢先だった。

 

「ねえちょっと!」

 不満を孕んだ声が響く。その方を向くと、綾瀬が渚達の前に立っていた。

「……なんですか?」

「二人とも、そんなところでサボってないで、向こうの水やりもしてきてよ」

「私は新入部員に教えてるだけですけど?れっきとした活動の一環です」

「そんなに言うんなら、アナタがやりに行けばいいじゃない」

「そうですよ。何でもかんでも後輩に押し付けないでくれます?」

「な……っ」

 2対1で正論を返され、思わずたじろぐ綾瀬。

 渚と咲夜の関係が深まった弊害として、綾瀬が言い争う相手も二人に増えてしまった。

(そこまで教えなくて良いんだぞ、渚)

 思わず頭を抱え、縁はいつものように悠に愚痴ろうとして辺りを見回す。が、ついさっきまで、その辺にいたはずの悠が見当たらなかった。

「あれ?」

 もう少し、よく見まわすと、彼はすぐに見つかった。

 

 三人のすぐ側に______

 

「そもそも、植物を取り扱う部活動に入ろうっていうのに、その程度の知識しかないのがおかしいんじゃないのかい?」

 綾瀬に加勢するかのように、悠が彼女たちの言い争いに加勢する。

「お、おい……」

 縁は仲裁しようとして、思わず臆してしまった。その間にも、どんどん状況が悪化していく。

「君みたいに遊び半分な人間がいると、みんなが迷惑するんだ」

「言ってくれるじゃない。そうやって新規に入ろうとしている人間を拒んでたら、新入生も誰も入らないわよ?亜流のアンタのせいで、この部が潰れたら部長さんに申し訳ないわ。()()綾小路の人間として」

「僕は君の意識の低さを言ってるんだ。大体、渚さんも渚さんだ。こんなのにかまっていたら、遊んでいると言われても仕方ないと思うな」

 その言葉で、綾瀬に向けていた渚の鋭い目線が、悠へと向いた。

「……どういう意味ですか?」

「活動に熱心な新入部員の相手ならともかく、口ばかりで実活動には不真面目な人間の相手をするのは、時間の無駄と言っているんだ」

「そうよ!おしゃべりしたいなら他所を当たんなさい!」

 綾瀬が加勢するように続く。当然、それで引き下がる渚と咲夜ではない。

「私が気に入らないからって、そうやって渚さんにまで当たるのはやめなさいよ。みっともないわよ?」

「綾瀬さんも、八つ当たりなら他でやってくださいよ!」

「なによっ!大体……」

 

「いいかげんにしろよ!」

 

 見かねた縁が、間に割って入る。

「縁……」

「お兄ちゃん……」

「こんなことで言い合ってたら、それこそ時間の無駄だろ!」

 縁の強い語気に、静まり返った。

「いいよ。向こうは俺がやってくるから、今日はそれで終わりにしようぜ。それでいいだろ」

 このまま活動を続けていても、また火種が燃え出すだけだ。今日はさっさと皆を帰してしまった方が良いと、縁は考えた。元々残りの作業はわずかだったので、少し遠いところで作業している園子と慧梨主も納得してくれるだろう。

 

 何より、彼自身の精神がもたなかった。

 渚と綾瀬、悠と咲夜が言い合うのはいつものことではあったが、今日は雰囲気が違う。このまま続けさせるのはヤバい……

 縁は直感した。

 

「ちょっと待っ……」

「悠、手伝ってくれ」

 早くこの火種を消したかった縁は、綾瀬の言葉を遮って悠を連れ立った。

「あ、あぁ。分かった」

「……っ」

 未だ不穏な空気が漂う中庭の花壇を尻目に、縁は早歩きでその場を後にした。

 

 

 

「なあ、縁。一つ言いたい事が……」

「悠」

 残っていた最後の、裏門前の花壇へ向かう途中。口を開く悠を、縁の言葉が遮った。

「お前……どういうつもりなんだ?」

「何がだい?」

「何がじゃねえよ」

 縁が、後ろを着いてくる悠に振り返る。

「なんであんな、火に油を注ぐような真似してんだよ。あと一歩で、大喧嘩になるところだったぞ」

 

 いつもの悠では、絶対考えられない行動だった。普段なら、第三者の目線で、縁と渚や綾瀬の関係に触れてきた。あくまで、それぞれの落としどころを上手く見つけ、その場を丸く収めてくれる。

 それが今回は、更に拗れるような真似をしてきた。

「お前らしくないぞ、どうしたんだよ」

「……ねえ縁」

「な、なんだよ」

 悠は、縁を見上げる。

 

「今からでも遅くない。渚ちゃんにアイツと関わるのをやめさせてくれないか」

「な……っ!?」

 その暗く真剣な声のトーンは、今までの悠とも、かつて()()だったころの彼とも違うものだった。

 だが、聞き覚えはいくつもあった。

 

 人は憎悪に囚われた時、こういう声で言葉を紡ぐ。

 

「君の、誰とでも良い関係を築こうとする姿勢は、僕はすごく尊敬してるんだ。実際、僕自身も救われた一人だし……渚ちゃんに咲夜を任せたのも、そういう君の気持ちの表れだろう?」

「……別にそんなんじゃねえよ」

 関わる誰とでも良好な関係性を築こうとするのは、別に皆と仲良しこよしがしたいからではない。人間関係の小さなトラブルが、どんな死亡フラグとなって、縁自身に襲い掛かるか分からないからだ。

 咲夜の件にしても、とりあえずその場の危機をどうにかしようとした結果に過ぎない。

「だけど、咲夜だけはダメだ。アイツはどこまで行っても、綾小路……庶民感覚が微塵もない貴族側の人間だ。渚ちゃんはあいつにとって、この学園で自分が動きやすくするための手駒に過ぎない」

「そりゃ今はそうかも知れないけど、そのうち咲夜も変わるだろ」

「無理だね」

 きっぱり言い切る悠。

 いつもの、確証を持った自信に満ちた言い切り方ではない。子供のように、反抗して虚勢を張っただけだった。

 

「でもお前だって……」

「僕は違う!!」

 縁の言いかけた言葉を、悠が遮った。

 

 悠が、完全に自分を見失っているのは確実だった。

 親同士の確執以外に、咲夜との間に何があったのかは分からない。だが一つ言えるのは、これは一巡目で彼女に対して向けていた感情とは、まるで違うということだった。

 

 前回は敵という恐怖と焦り。

 だが今回は、そのもっと根本にある、単純に嫌い以上の感情が姿を現していた。そしてそれが、一巡目の時以上に悠を苦しめている。

 

 しかし、今ここでそれを問い詰めるのは、あまりに愚策だった。

 その代わり、縁は悠に言っておかねばならないことを忠告した。

「咲夜と言い合うのは好きにすれば良い。だけど……」

 悠の親友としてではなく、

 

 野々原 渚の兄として______

 

「渚を引き合いに出すのはやめろ。次は無いからな」

 

 皮肉だった。

 一巡目で咲夜があの手この手で画策していた、縁と悠の関係の崩壊。

 それが、この二巡目ではいとも容易くに達成されそうになっている。

 

 彼女の伺い知らぬところで______

 

 縁の怒りに満ちた眼を見て、咲夜憎しで支配されていた悠は少し冷静さを取り戻したらしい。

「……ごめん、気を付けるよ」

 自分の行いを詫びると、悠は歩き出す縁の後ろを小走りに追った。

 

 

 

 *******************

 

 

 

 土曜日、午後1時。

 

 昼食もそこそこに縁は自転車に乗って、隣町にまで出ていた。町を外れ、峠道の路肩を息を切らしながら登っていく。そしてあるところで、縁は自転車を止めた。

 

 縁の見上げた先には草木に覆われた斜面があり、その真ん中に少しだけ、木々が生えていない草花だけの空間がぽっかりと開いていた。それは斜面のてっぺんまで続いている。

 かつてそこに、何かがあったかのように。

「……」

 そこに何があったか、誰も知らない。

 知っているのは、この世界で縁だけ。

 

「七宮さん……」

 縁はぽつりと呟いた。

 

 七宮神社______

 

 一巡目とほとんど変わらない二巡目の世界。その世界で、跡形も無く唯一消えてしまったもの。

 

 

 それは頸城 縁を愛した人がいた場所であり、

 この世界へ野々原 縁を送り届けた人がいた場所______

 

 

 一巡目の世界で、ひょんなことから頸城 縁の意識だけが表に出てしまった頃があった。

 その夏の奇妙な刹那、彼は長い石段の上にひっそりと建つ七宮神社を訪れ、そこで巫女である七宮 伊織と出会った。

 

 そして、ここからは野々原 縁の記憶には残っていないことだが……

 

 頸城 縁は伊織と恋に落ちた______

 

 誰かに恋心を向けることを許されない掟を背負う伊織。

 借り物の身体でいつ消えてしまうか分からない縁。

 

 決して叶うことは無く、儚く散ってしまった恋心。

 しかしそれは、野々原 縁を守る意志へと受け継がれた。伊織は、あくまで神を信仰し神の教えを説く巫女として、最初で最後の恋人の魂が宿った彼を見守り続けた。

 縁が殺される、その日まで。

 

 

 そして縁が夢見に刺された後、彼は言うなれば“死者の魂を繋ぎとめる空間”で、伊織に再会した。

 

 一つだけ、

 貴方が未来を変えられる方法がある______

 

 伊織が告げるその言葉に、縁は戸惑い、狼狽え、声を荒げ、そして……

 

 このまま、死なせてください______

 

 拒絶した。

 

 伊織が提示した、もう一度時間を巻き戻してやり直すという、人智を超えた神の力を使った最後の手段。それは、縁にとって最も残酷な選択肢であった。

 自分の愛した人たちが死んでいく様を見せつけられ、縁の心は限界を超えていた。自らの死をもって、ようやく惨劇にピリオドが打たれ、その苦しみから解放される。

 時間を巻き戻すということは、その心の苦しみを感じ続けるということに他ならない。

 

 だが、それでも縁は、最後に決意した。

 思い出が全て幻となって消えようと、夢見の暴走を止めて、皆の死ぬ運命を変えられるのなら。

 

 それしか道が無いというのなら______

 

 そして縁は、3年前に巻き戻った二巡目の世界にやって来た。

 

 

 3年間の思い出と、

 七宮 伊織の存在と引き換えに______

 

 

 

 縁はたまに、七宮神社があった場所へ人知れず足を運んでいた。

 

 一巡目の思い出も、伊織も、頚城 縁の魂も。最早自分の記憶以外、存在していた事実を証明するものはない。

 

 その薄れゆく儚い記憶を、失わないために。

 

 自分は、今は存在しない……存在した事実すらない者達に生かされている。そして、消えていった皆のために、何があっても、生き続けなくてはならない。

 そのことを忘れないために。

 

「また来ます、七宮さん」

 自転車にまたがり、今一度斜面を見上げると、前を向き直す。

 ペダルに力を込め、縁は来た道を下って行った。

 

 

 

 *******************

 

 

 

 峠道を下り、麓のコンビニで縁は休憩していた。

 もう夏真っ盛り。峠を上り下りし、そこから更に自宅のある街まで数十分も自転車を漕ぎ続けるのは無理だった。縁は、一本数十円のアイスを購入した。何度時間が巻き戻ろうと、炎天下の元で食べるアイスが格別であることに変わりはない。

 

 アイスを頬張りながら、縁は今後のことを考えていた。

 渚が咲夜の手助けを申し出てから一週間、予想に反して二人の相性は良く、早くも良好な関係を保っていた。そのおかげで、中等部では咲夜の身分(と性格)を考慮すれば割と馴染んできているらしい。園芸部でも、園子や慧梨主とは普通に話せるようになってきた。

 一方で悠とは全く相容れず、事あるごとに言い争っている。綾瀬には完全に無視を決め込んでいて、特に渚が咲夜の面倒を見るようになってからは、更にその度合いが増した。縁自身とは普通に話しているが、初日の告白から何も動きが無いのが却って不気味だった。

 今はとりあえず均衡を保っているが、何かきっかけがあれば、先日のようにあっという間に修羅場になる。そんな張りつめた静けさが、今園芸部に漂っていた。

 

 縁は恐れていることがある。

 それは、もしほんの少しでもきっかけがあれば、園芸部は縁を除いて真っ二つに割れるという可能性だった。

 

 渚と綾瀬、咲夜と悠は、それぞれ敵対している。その上で、渚は咲夜の面倒を見ているし、綾瀬と悠は縁のことで今まで何度も協力しあってきた。

 残るは園子と慧梨主だが、まず園子は、後輩として素直に言うことを聞く渚を可愛がっている節がある。一方で綾瀬のことはまだ怖がっているようで、悠のことは異性というのもあって深い関わり合いが無く、可もなく不可もない関係だった。

 一方で、慧梨主にとって綾瀬は、同性では一番の親友だった。姉のように慕っている以上、何か起きた時は間違いなく綾瀬の方を庇い立てするだろう。渚も同じことを考えているのか、彼女とは距離を取っている節がある。

 

 そして最大の問題は、縁自身の立ち位置だった。

 自分の一挙手一投手が、それぞれを勘違いさせる危険があった。どちらか一方につこうと縁がしなくても、彼女達がそう勘違いしてしまえば、それ自体が火種になる。

 

 縁は頭を抱えていた。

 一巡目で園芸部が危機に陥った時は、あくまで咲夜対園芸部という構図だった。各々の感情がどうであれ、咲夜という外部の敵に対し、とりあえずは一致団結して立ち向かうことができた。

 しかし今回は、完全に園芸部内部の抗争になってしまった。もし戦いが始まれば、折角救った園芸部は確実に空中分解する。それどころか、誰かが学園を追い出されたり、最悪、誰かの血が流れることになるだろう。

 

 そうなれば、想い出を投げ捨ててまで時間を巻き戻し、生命を投げ捨ててまで夢見が殺戮を起こす運命を変えた、その全てが無駄になってしまう。

 

 アイスの最後の一口と共に、縁は歯噛みした。

 

 ヤンデレヒロイン達をヤンデレ化させず、

 殺し合いさせずに生きていく。

 

 そのための行動が、今巡り巡って自分を追い詰めていた。

 

 

「……とりあえず、帰ろうか」

 縁はゴミ箱にアイスの棒を捨てると、自転車のスタンドを跳ね上げる。ここで考えても答えは出ない。とりあえず灼熱の炎天下から、エアコンの効いた我が家へ帰ることにした。

 

 そして自転車にまたがろうとした時……

「この暑い中をサイクリングですかぁ。大変ですねぇ」

 後ろの方から鈴の音のような声がして、縁の身体は凍り付いた。

 

 頬を生ぬるい風が撫でる。

 例えるなら、唾液がたっぷりと乗った舌で嘗め回された様な嫌悪感。

 

 思わず後ろを振り返った______

 

「はじめましてぇ、野々原 縁さん?」

 その少年はそう言って、朗らかに笑って見せた。

 

 声も、口調も、中世的でやや幼げな顔に浮かべたその笑顔も、その不気味な存在感の全てに見覚えがあった。

 

 

 塚本 千里______

 

 

 縁の最も嫌いな男が、目の前に立っていた。

 

 

 

 *******************

 

 

 

 同時刻。

 

「ふぅ、これでひと段落だね」

 学園の中庭で、渚はホースを置いて額の汗を拭った。

 園芸部は基本的に休みの日に活動はしないが、花壇の水やりだけは当番制で行っていた。

「はぁ……はぁ……」

 隣で、咲夜が息を切らしていた。この猛暑の中、広い範囲を水やりのために歩き回るのは、御令嬢にはかなり重労働だったようだ。

「大丈夫?」

「全く、よくこんな中で動き回れるわね」

「うーん、まあ慣れかなぁ?咲夜さんも慣れるよ」

「その前に太陽光線で焼かれて死ぬわよ」

「そんな大げさな……」

 冗談なのか、本気で思い込んでいるのか分からない咲夜の言葉に、渚が苦笑いした。

 

 水やりが終わり、二人は早々に下校することにした。

「ねえ、渚さん?」

 帰路に着こうとする渚に、咲夜が声をかけた。

「なぁに?」

「この暑い中、歩いて帰るつもり?」

「え?まあ、そりゃ……」

「乗っていきなさいよ」

 言うが早いか、校門の前にロールスロイスの巨体が滑り込んできた。独特な雰囲気を放つそのショーファードリブンは、渚もすっかり見慣れた車だった。

「そ、そんな!悪いよ、そんなに高そうな車……」

「気にしないでいいわよ。どうせそこまで高い車じゃないし」

「いやいや、いやいやいや……」

 咲夜の送迎専用のゴーストは、確かにロールスの中では最上位の車種では無かったが、それでも約4000万円の超高級車に変わりはない。車の知識が一切無い渚でもそのくらいは想像がついた。

「それに、一度邪魔が入らないところで話したかったし。アナタも、そうでしょう?」

「……そうだね」

 渚は頷くと、咲夜に連れられてロールスの巨体に乗り込んだ。

 

 

「ねえ、渚さん?」

「え!?な、何?」

「……少し落ち着いたら?」

 車内とは思えない高級ホテルの一室のような空間で、縮こまって挙動不審な渚に見かねた咲夜がため息交じりに言った。

「そんな……だってこんな車乗ったことないもん」

 窓枠に肘をつきながら、咲夜はまたため息を吐いた。

 

「まあいいわ。それじゃ本題に入ろうかしら」

「う、うん」

「ねえ、渚さん?」

 真剣な眼差しで、咲夜は渚の方を見る。

「私が転校してきて、アナタのお兄さんに学校案内させたとき……」

 

 

 アナタ、屋上にいたわよね______?

 

 

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