♨おんせん♨
それは、至高の空間である。
それは、最高の癒やしである。
それは、誰にとっても、平等に、与えられた権利である。
そして、この場所では、王族だろうが、貴族だろうが、兵隊だろうが、事業主だろうが、労働者だろうが、浮浪者だろうが、犯罪者だろうが―。
関係なく、皆、平等に疲れや傷を癒せるという。
その温泉は、都から離れに離れた、秘境にあるらしい。
そして、誰が言ったか今では分からないが、どうやら「ドラゴン」が人の姿になって湯守をしているらしいという、噂がある。
■
桜舞い散る春のこと。
シャカシャカと小気味良い音が響くのは、掘っ立て小屋の中からだ。ここは、都からだいいぶと離れた山間。馬車で1週間ほど離れたこの場所に、世界中から人々が集まる名所がある。
「うん」
床を磨いていた彼女は、その仕上がりに納得したように頷いていた。彼女はこの名所の管理人。彼女は毎朝、日が昇る前に床をブラシで磨いて、そして小屋をホコリ一つなく掃除し、ここに来るであろう人々を待ち受ける。
そして、彼女は磨き終わった湯船にお湯を張ろうと、樋の堰を外した。すると、白濁し、硫黄の匂いが漂いながら、樋を温泉がかけおちる。湯船の床にざぶんと最初のしずくが落ちる。湯気が上がり、徐々に徐々に、楽園が姿を現しはじめていた。
「よし」
もう一度、満足そうにそれを見て頷く。そして、彼女はつっかけを履いて玄関から外に出ると、ジャリッと心地よい足音をさせながら、外にあるのれん掛けに、「四季の湯」の暖簾をかけて、満足気に頷く。そして、彼女は室内に戻って番台へと上がる。彼女はここの湯守。知る人は彼女のことを「おんせんどらごん」と親しみを込めて呼ぶ。
さくら色の髪の毛と角と尻尾、さくら色の瞳を持つ彼女は人が好き。彼らのためならば、苦労を苦労とも思わない。
「だれかくるかな」
番台に座った彼女は、楽しげに体を左右に揺らす。そして、番台の下に隠してある、と彼女は思っているべっこう飴をコロコロと口の中で転がし始める。
すると、早速。ジャリ、ジャリと外から小気味良い音が響いてきた。「おんせんどらごん」の目が入口に向いた。
「おお!誰もおらぬな!一番風呂か!?」
暖簾を雑に押し、ドカドカと一人の男が堂々と姿を表した。
「いらっしゃい」
「おお、これはこれは『おんせんどらごん』殿。相変わらず美しいのお!お主、やはり嫁にこんか!?」
「ん。日帰り1000。湯治は一泊3000。体洗い用の布は100、体拭いは500。先払いでお願い」
「つれないのぉ!?湯治で2泊だ!布は両方だ!釣はいらん!」
ドン!と置かれたのは10000ほどの金額。この男はどうやら湯守を気に入っているようだ。
それを受け取りながら、流れるように「おんせんどらごん」は二枚の大きさの違う布を手渡した。
「まいど」
「部屋はどこか?!」
「ん。突き当り1つ目。『さくら』の部屋」
「おお、『さくら』か!良い部屋だな!ふはははは!っと、いかんいかん」
男は大笑いをしながら、不意に佇まいを直していた。
「我が従者の分も払いたいのだが」
「ん。日帰り1000。湯治は一泊3000。体洗い用の布は100、体拭いは500。先ばら…」
「うむ。ならば、10人分だ。釣りはいらぬ!」
男が懐からドン、と番台に置いたのは10万ほど。
それを受け取ると、再び、彼女は二枚の大きさの違う布を、10組ほど番台に出した。
「ようし、ようし。おい!皆!入ってこい!」
男との声に合わせるように、ぞろぞろと入ってきた男たち。筋骨隆々の彼らの顔には、明らかに疲労が浮かんでいる。
「『どらごん』の許可は頂いたぞ。さぁ、これから2日、ゆっくり体を休める!ついてこい!」
「…有難き」
一人がそう言って跪く。合わせて、全員が跪いてから、男と共に奥の部屋へと消えていった。
「ごゆるりと」
『おんせんどらごん』は、彼らに頭を下げてから、再びべっこうあめを舐め始める。
さてさて、今日はこれからどんなお客さんが来るのだろうか。
■
にわかに暖簾の外が騒がしい。『おんせんどらごん』はゆるりと首をそちらに向けて、聞き耳を立てた。
「お前のようなものがこの場所に何の用だ!」
「…へへ、噂に聞くドラゴンの顔を見ようと思ってな…」
「お前のような犯罪者がまたぐ敷居は無いぞ!」
どうやら、いざこざが起こっているのは明白。それを感じ取った彼女は、のそりと番台を後にする。そして。
『グルルル』
「あ…」
暖簾の外に出た彼女は、その姿をドラゴンに移して騒ぎの中心の人たちを睨みつける。どうやら、どこぞの兵士と、みずぼらしい服装の男が言い合いをしているらしい。
「お…「おんせんどらごん」様。こ、こいつは犯罪者で、こんな場所に来るような奴では」
『グルル』
兵士の言葉を遮るように唸る彼女。
関係ない、と、「おんせんどらごん」は首を横に振りながら、ズドンと尻尾を地面に叩きつけた。そして、自然と人の姿になると、兵士を睨む。
「関係ない。おんせんは、みんなを癒やすもの。ここでは、誰もただの、人間」
「いや…しかし…中には王がおりますし、なによりも貴女様のご迷惑」
「日帰り1000。湯治は一日3000。体洗い用の布は100、体拭いは500。先払いでお願い」
兵士の言葉を遮って、一歩前に出た彼女の気迫は、兵士を黙らせるに十分な物だった。
「ゆぶねにはいるまえに、からだはあらう」
語りながら、一歩さらに彼女は前に進めば、兵士は一歩、後ろに下がる。
「そして、しずかにからだをいやす」
下がり損ねた兵士の胸の鎧をこつん、と叩いて、その目を睨む。
「それだけが、ここのきまり」
いいね?と言わんばかりの気迫。小さな人型からは想像もできないほどのそれは、兵士たちを跪かせていた。
■
絡まれていた男に暖簾をくぐらせながら、『おんせんどらごん』は番台へと戻っていた。そして、改めてべっこう飴を口に含んだ。ころころ、ころころと楽しそうにそれを味わいながら、男が目の前に来るのを待っているようだ。
「あんた…お人好しだな」
番台の前に男が来ると、開口一番そう告げた。その言葉に反応するように、彼女は頷く。
「ん。人は好き。で、どうする?」
「なにがだ」
頭を傾げた男に、彼女は抑揚のない声でこう告げた。
「ん。日帰り1000。湯治は一日3000。体洗い用の布は100、体拭いは500。先払いでお願い」
「…そうだな…」
男は少し悩むそぶりを見せていたが、気づいたように、彼女の顔を見つめていた。
「湯治ってのは、なんだ?」
その問いかけに、彼女はたたずまいを直して、改めて口を開く。
「湯治は…湯治。おんせんで、からだをいやす。あしたまで、ずっといやす」
「明日まで?」
「ん」
小さく頷いた彼女。男は、さらに質問を重ねていた。
「食事はどうすんだ?」
「用意する。やまでとれた、めぐみのりょうり」
そこまで言った彼女は、少しだけ笑みを浮かべていた。
「じしんある」
むふー、と胸を張り、兵士たちに犯罪者と言われた男に笑顔を見せる彼女。その笑顔に、男もつられて微笑を浮かべていた。
「じゃあ、湯治で頼む。ちいと、体をいわしててな」
「わかった。じゃあ…これ。『うめ』の部屋。階段上がって最初の部屋。お風呂は番台の横に入る」
彼女は番台の上に、二枚の大きさの違う布を出し、さらに階段を指さしていた。
「判った。感謝する。では…料金の3600だ」
「まいど。では、ごゆるりと」
『おんせんどらごん』は、彼に頭を下げて、その背中を見送ってから、再びべっこうあめを舐め始めた。
■
マックはさっさと部屋に荷物を置いて、さっそく旅の疲れをいやそうと風呂に出向く。途中、なにやらやかましい連中がいたがそれは気にしない。
「これは見たことがない風呂だ」
この国では、風呂は大浴場のみ。建物の中にあることが当然で、ぴしりと敷き詰められた石が見事なものだ。家では、水で体をふくのが一般的。
「湯舟が2つあるのか、これは」
だが、この『さくらどらごん』の湯では、湯舟が内と外で1つづつ、合計2つ作られている。規模こそ街中の風呂よりは小さいが、よく手入れがされていて見事なもの。
「木の湯舟とは…贅沢だ」
よく製材され、真四角の木が大量に使われている湯舟。そこには、軽く濁りながら、卵の腐ったようなにおいの湯が称えられている。と、マックが何かに気づいたようで、壁に目が釘付けになっていた。
「入浴の、作法?」
そこには、大きな絵付きの文言がいくつか。しげしげと、マックはそれを読み上げる。
「風呂に入る前に体の汗や汚れを洗い流すこと。特に股間や脇などは入念に。そして、いきなり入らずに、まずは体を慣らすために膝まで入って100を数えること」
ちらりと足元を見ると、それ用の桶であろうか。湯を掬う道具が置かれていた。
「その後は胸まで入って、300を数えて外に出て、心の臓が落ち着いたら、あとはご自由に。良く温まるお湯なので、のぼせないように注意」
なるほどな、と頷いたマックはさっそく桶に湯を掬って、頭からかぶる。
「うおっ…熱っ」
マックは知らないが、この湯の温度は43度。ちょい熱めだ。ちなみに外の湯舟は38度で、長く入るのならば外の湯が最適であるのだが、まだマックはそれを知らない。
「で、脇と股間か…」
じゃぶじゃぶと桶で湯を掬いながら、彼はしっかりと湯で体を洗う。強めの硫黄泉は、それだけで彼の体をしっかりと清めていく。
「そろそろいいか。で」
湯舟をしっかりと見たマック。なにせこの湯舟はお湯のせいでまったくもって。
「…底が見えん」
とはいえ裸でつったっているのもなんだ、と、おっかなびっくり足を湯舟に差し込む。すると、ピリピリと肌を軽く焼くような感覚が伝わってくる。
「案外と浅いか」
膝よりも少し深いぐらいに底があったからか、安心したような顔を浮かべる。そして、さっそくと、先ほどの案内に従って数を数え始めた。
「ひとつ、ふたつ…」
そうしながら、マックはゆるりと視線を泳がせる。幸いにして、ほかの客は誰も居ない。静かなものだ。
この風呂場は装飾は無い。無いのだが。
「こりゃあすごい建物だな。湯舟の木材は知らん材料だし…この建屋の材は、貴重な龍黒壇じゃねぇか」
龍黒壇。それは、ただでさえ貴重といわれる黒壇の更に上等なもので、龍の加護を受けたものだけがそう呼ばれている。普通の黒壇よりも艶やかであり、耐水性や耐火性に優れている。ただ、非常に硬く、その加工は人間では難しいともされる材料だ。
「全く、ドラゴンの湯というのは本当らしい。と、そろそろ100だな。」
マックは肩をすくながら、湯舟に体を沈めていた。
「あぁ」
ピリピリと肌に刺激が入りながら、疲れが染み出すような感覚。思わず、腹の底から声が出る。
「こりゃあ…良い…300と言わずに、ずっと入っていたいなぁ」
くてん、と首を湯舟の淵に置いて、目をつむり脱力をする。これならいつまでも…と思ったマックだが―。
「だめ。300、数える」
「んお…!?」
頭の上から降ってきた声に、思わずビクリと反応してしまった。目を開けると、そこにあったのは桜色。
「まずは300数える。このお湯、強い。のぼせる」
頭に頭巾を被り、片手には布を持った湯守がマックをのぞき込んでいた。
「いや、大丈夫だろ。気持ちいいぞ?」
「駄目。まず300。それで、そのあと外で涼む」
マックはそれに反論しようとしたのだが、湯守の目から発せられる圧に、思わず頷いていた。
「…わあったよ。数えればいいんだろ?」
「うん」
マックが素直に頷くと、圧は霧散した。そして、彼女はマックがいることを気にせず、湯かやら、柱やらを軽く布で拭き上げ始めた。
「あんた、何してんだ?」
「ん。掃除。定期的にやらないと、温泉のせいで痛む」
「なるほどな…いや、落ち着かねぇんだけど?」
「すぐに終わる。ちょっと待つ」
彼女は言葉の通りに、さっさ、さっさと拭き上げを続けていた。その手さばきは慣れたもので、5分程度でほぼ全てのものを拭き上げ、去っていった。
「なんだったんだ…っと、そろそろ300と…」
マックは困惑しながらも、湯舟から体を上げる。すると、体が傾いた。眩暈というやつに他ならない。
「うおっ」
転がる前になんとか踏みとどまったマックだが、それと同時に納得もしていた。
「…なるほどな。湯が強いとはこういうことか」
300。約6分。それだけなのにも関わらず、これほど体に影響を及ぼす湯。慣れないうちは、きっと、長湯は厳禁なのだろう。だからこそ、湯守がわざわざ声をかけた理由が判る。
「甘く見てたな、この温泉。考えを改めるかぁ。とりあえず、部屋に戻るとしよう」
■
ひとっぷろ浴びた男、マックは案内された『うめ』の部屋でくつろいでいた。改めてゆるりと見渡すと、この梅の部屋は、マックが見たことのない装飾で彩られている。
草を編まれて作られた床に、紙が貼られた戸、そして、ガラス貼りの窓。部屋の中央には美しい黒い木材で作られた机が置かれ、そして、人が座るための四角い綿入りのクッションが2つ置かれていた。山奥の宿というには、作りが非常に豪華だ。
「…予想以上の効能だ」
この男は荒くれ者で、その体には多くの古傷が見て取れる。
だが、驚くことに、古傷のせいで引っ掛かりがあった腕を回してみると、まったく柔軟に回る。
「こわばりが取れてら…」
効能に驚きながらも、マックは大の字で部屋に寝転んでいた。そして何やら、部屋には布の上質な衣料が備わっていたので、それを着てみてもいる。汗を適度に吸いながらも、湯冷えすることもない衣服に驚いていると、部屋の外から、トントンと戸を叩く音がした。
「誰だ?」
「ひるげ。入るよ」
「ああ」
スっと開かれた戸の先。『おんせんどらごん』はその両手に大きなお盆を持って現れた。
「今日は東の食事」
よく見れば、その姿は上質な衣料それであった。髪は後ろ手に結ばれていて、一瞬、マックが見惚れるほど。
そんな彼女が、部屋にすすす、と歩みを進める。そして、用意されていた机の上に、次々に品物を置いていた。
「ゆどうふ」
まず置かれたのは少し小さめの土鍋。そこには、白くて四角いものが、水に浮かんでいる。
「あゆ焼き。田楽風」
そして、平皿に置かれたのはなにかの魚。どうやら焼き魚なのだが、なにやら茶色いたれが掛かっている。
「ぎょうじゃにんにくのみそしる。はるさんさいの、たきこみごはん」
最後に置かれたのは、汁物とおこわ。作りたてなのだろう。暖かな湯気が立ち上っている。
そして、仕上げにと、『おんせんどらごん』は軽く土鍋に息を吹きかける。
「うおっ!?」
いきなり立ち上った炎にのけぞりながら、マックは驚きの声を上げた。すると、水に浮かんでいるだけの四角いもの。それが、急に煮立ち始める。
鍋の下には、彼女の桜色の炎がゆらりと揺れていた。
「ゆどうふは、少し待ってから。あったかいおとうふ。いちばんのおすすめ。そのままでもおいしいけれど」
そう言いながら、『おんせんどらごん』はコトリと小皿を置いた。
「このタレにつけてからたべると、美味しい。このれんげスプーンで掬って」
言いながら、むふー、と自慢気に笑顔を浮かべる。
マックは軽くその小皿のタレを指で舐め取る。
「…しょっぱい?いや、酸っぱい?」
「しょうゆと、酢。半分づつ。すっきり、さわやか。美味しい、よ」
そう言いながら、彼女は一つお辞儀をして、マックの部屋を去っていく。
その時に、開かれたドアの向こうから、別の部屋で湯治をしているであろう人々の声がマックの耳に入った。
『おお!これはうまいな!ゆどうふと言ったか!』
『こちらのあゆ、という魚も絶品です。王もおはやく』
『急かすな急かすな!このような旨い飯、急いで食っては仕様がないではないか!』
そこでドアが閉まり、再び静かな部屋が舞い戻った。
「そんなに旨いのか?この飯は」
…ごくり。思わず、マックの喉が鳴る。確か、と、ゆどうふはちょっと待てという話だったから、と。
あゆと呼ばれた焼き魚をまず手に取り、頭から食らう。
「これは」
骨までしっかりと熱が通され、歯を通せば、しかりとした歯ごたえと共にうま味がやってくる。それに加えてだ。
「このタレもよく合うな」
甘く、しかししょっぱいタレ。少しだけトロみがあり、そしてタレの中にも魚の味がしみ込んでいる。これは彼女特製の鮎味噌。火入れをよくしたアユをほぐし、味噌と混ぜてみりんで伸ばしたものだ。少しだけ山椒などで味を調えて、万人向けの万能ダレに仕上がっている。
「このメシもまた…山菜の炊き込みだったか?」
ほどよく出汁が効いてる、山菜の炊き込み。春というだけあって、少し苦みのあるものや、やわらかく甘い山菜まで。そのあたりはマックは詳しくないので、ただただ舌鼓を打っている。しかし、やさしく、体にしみこむ味にほう、と思わずため息をついてしまっていた。
この炊き込みご飯は、これまた彼女の自慢の一品。ダシは川魚数種類を囲炉裏で長い時間、それこそ1年近く燻したものを使った濃厚なもの。そして、ゼンマイやらタケノコ、あとは篠の新芽、柿の新芽、アケビの新芽などなど、変わり種も多い。
そしてそのご飯の上に乗せられた数枚のさくらの花弁が、春の香りをさらに高めているようだ。
「…これはうまいな。隣の客が騒ぐのは無理もねぇ。噂に違わぬいいところだな。ここは」
マックはそう言いながら、汁物に口を付けた。確か、ぎょうじゃにんにくの味噌汁だったか。
「ほう」
出汁は先ほどの炊き込みと同じ。味噌も焼き魚に使ったそれだ。それに加えて、行者ニンニクのうま味が溶け出した汁は、彼の体をやわらかく、温める。
「これは温まる。ありがてぇ…っと、そろそろか?」
湯豆腐。これほどの料理を出す湯守が、『いちばんのおすすめ』といってた料理だ。否が応でも期待が膨らむというもの。
「じゃあさっそく…って、ずいぶん柔らかいもんだな?」
勢いよくスプーンで掬おうとしたマックの手元で、ぽろりと豆腐が崩れかけた。なるほどと納得したマックは、ゆっくりと豆腐を掬う。
「卵料理のような艶だな…いやしかし、白いな、このゆどうふってのは」
確か、とスプーンを遊ばせる。確か…タレがあったような?
「ああ、これだ」
小皿に入っているタレ。そこに、スプーンに乗せた豆腐を浸す。
「さてさて…とはいえ、デカいな」
豆腐半丁。マックは男なのだが、その口には収まりきらない大きさだ。ならばと、かるくスプーンで小さく分ける。そして、それを静かに口に含んだ。
のだが、思わずしかめっ面になったマック。湯豆腐はとてつもなく熱いのだが、それを知らずにマックは口に含んだものだから、それはそれは。
「…あっづつ!?」
スプーンから口を離し、湯豆腐を睨むマック。旨い以前に熱すぎだ。という文句を出しそうになるが、ぐっと腹に押しとどめる。
「チッ」
一度舌打ちをして、湯豆腐を冷まそうと息をふう、ふうと吹きかける。そして。
「…ほう」
舌にのせた湯豆腐。ほどよい熱さを保ちながら口に入ったそれは、酢醤油でコーティングされてまずは爽やかさを彼に与えていた。そして、それを歯で優しくほぐしてやれば、今度は、豆腐の香りと、どことなく不思議な甘みが口の中に広がっていた。
「こりゃあ旨いなぁ」
食べたことのない、しかし、優しく暖かな食事。もう一度、マックは大きく長いため息を吐いていた。
■
日が傾かけたそのころ、マックの姿は再び湯舟にあった。今度はしっかりと湯守の言いつけを守り、300の後に外でしっかりと涼む。
「しかしまぁ、外にこんなでけぇ風呂があるなんてな」
外に備え付けられている木製のベンチ。そこに座っているマックの目の前には、天然自然の岩がそのまま使われている大露天風呂が鎮座している。
「しかも天然の岩をこんなに贅沢に。…やっぱりあの湯守はすげぇなぁ」
よくよく考えれば、自分を招き入れたのもドラゴンである湯守。そして、おそらくこれを作りこんだのもあのドラゴンである湯守なのだろう。…そんな風呂、しかも食事付きで泊まることが出来て、3600。これは破格だな、とマックは温まった頭でぼんやりと考えていた。
「そういや、『ゆうげもあるよ』とか言ってたな」
桜の湯守。それが昼飯の片付けの時に漏らしていたなぁとマックは思い出す。
『夕餉はおそば。すっきりおいしいよ。お風呂あがったころにもってくる』
暗に『もう一度風呂に入ってね』と言わんばかりのお言葉に頷いたのは言うまでもない。
「さて、体も冷えたことだし、あとは…たしか自由なんだっけな」
となればとマックは椅子から立ち上がり、岩風呂へと歩みを進めた。そして、おっかなびっくり、底の見えない風呂へと脚を突き入れる。
「お?こいつぁいい湯加減だ」
そのまま、底を確認したマックはするりと全身を湯に沈めた。
「いいね…こいつぁ、いいね」
岩に背中を預けて、だらりと脱力してしまったマック。仕方のない事だ。岩風呂の眼前には谷が広がり、その下には大きめの川が流れている。そのせせらぎと風を感じながら入る温泉は、何物にも代えがたい。
内風呂も良いが、温泉のだいご味はまた、この露天風呂にもある。大自然を感じながらの癒しの時間。静かなひと時だ。
と、その時。乱暴に湯舟に入ってきた影が一つ。
「はーっ!極楽、極楽よのぉ!」
マックはその姿を薄目で見た。恰幅の良い男性で、その顔には深い皺が刻まれている。体には、マックに負けず劣らずの戦傷が残っている。どうやら、この男も、温泉で癒されているらしい。とはいえ。
「もうちっと静かにできんかねぇ」
そうぽつりとつぶやいてしまったのは、仕方のない事だろう。
■
裸の付き合いというのは不思議なもので、相反するような存在や、身分の違う存在でも仲良くできてしまうのがこの温泉というものらしい。マックはそのことをその身をもって十二分に体感している。
「我が兵が迷惑をかけたと聞いている!すまんかったな!」
「…別に。いつものことだ。気にしてねぇよ」
王。部下にそう呼ばれていた男と、犯罪者と呼ばれたマックの2人は気が付けば肩を並べて湯舟に浸かっている。他の人間は居ない。王曰く、『皆酔いつぶれてしまったわ!はははは!』ということらしい。
「ぬはははは!そうか!その豪胆さに感謝するぞ、マック・ザ・アッパー!」
マックは思わず王を睨んだ。そのフルネームを知っていて、肩を並べるのかと。
「お前、俺の名を」
「知っているとも!王都で次々と不正をしていた貴族を殴り倒した貴殿の武勇!私の耳に入らぬわけがないだろうて!ぬはははは!」
快活に笑う王に、目頭を悩まし気に抑えるマックの姿が対照的だった。何せ、このマックを裁いたのは王の取り巻きの法相だからに他ならない。ただ、その罪状は思っていたよりは軽かったなとマックは感じている。
「武勇っていってもなぁ。そのせいで裁かれて、今じゃ罪人さ」
「罪人か!面白い!ならば、俺も殴るか?」
うりうりと頬を差し出す王。だが、それに否を突き付けるように溜息を吐き、首を横に振った。
「いや、あんたは殴らん。腐った貴族連中を潰して、今の正しき国に戻したあんたには、俺が殴る理由がない」
「そうかそうか!」
かっかっかと快活に笑う王。だが、不意にその視線が鋭くなり、マックを射抜く。
「ならば、俺が間違ったとしたら、貴様はどうする?」
「そんときゃ殴るに決まってんだろ」
間髪入れずに、迷うことなく言葉を突き付けたマック。その姿に、王は気持ちよさそうに口角を上げた。
「ふははははは!豪胆よのぉ!マック・ザ・アッパー!よろしい。ならばお主、我が元で働け!」
「…は?…はぁ!?お前何いってんだ!?俺は犯罪者だぞ!?」
「なぁに、そんなことか!」
「裸の付き合いをしたのだ。語り合ったのだ!ならば、
マックの背中を叩きながら、王は口角を更にと上げた。マックが迷惑そうにその手を振り払うと、少しだけバツの悪そうに王は肩を竦めていた。
「それにな」
そして、少し落ち着きを見せた王は、空を見上げていた。
「こう、王となると皆が『王は正しいです!』などとご機嫌取りばっかりでつまらん!お前のような喝をいれてくれる人間がどれだけ貴重なものか!
故にもう一度言うぞ。俺の横で働け。そして、間違っていたら、俺に一発食らわせろ。それがお前に求める、友に求める唯一のことだ」
王はそう言いながら、マックの顔をまっすぐに見る。すると、マックは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そうまで言われちゃあなぁ。いいぜ。ただ、覚悟しておけよ。俺の拳はイッテぇぞ?」
「ぬははははは!それはそれは!楽しみだ!」
そして、その夜。このマックと王、そしてその側近たちは酒を酌み交わし、これからの国についての行く先を語り合ったとかなんとか。
■
さくらが終わり、夏の息吹を感じ始めた頃。
再び、彼女はジャリ、ジャリと外からの小気味良い音に聞き耳を立てる。暖簾が揺れて、また誰かが来た。
そこに立っていたのは、黒髪が麗しい若い女性と、その女性に体を支えられて薄布で顔を隠し、苦し気に呼吸を返すのみの2人であった。
「いらっしゃい」
「どうも。あの…ここは、誰でも傷を癒せるという温泉で間違いないですか?」
不安げな女性に、湯守は頷くだけで答えを述べる。そして、湯守の口からはいつもの言葉が投げかけられる。
「ん。日帰り1000。湯治は一日3000。体洗い用の布は100、体拭いは500…だよ」
「…じゃあ、湯治で。2人分…布は…両方」
「まいど。湯治は何日?」
今日も、この温泉に癒やしを求めて、身分なんて関係なく、人々がやってくる。
「この人の傷が、癒えるまで」
「ん、じゃあ…部屋は突き当り、2番め。『すいか』の部屋」
いつものように指を差して、彼女ら2人の行く先を示す。ただ、少しだけ違いがあるとすれば。
「―お金は、最後でいいよ」
「…感謝する」
彼女は人が好き。だから、何か理由があるときはそれをしっかり汲んで、マックの時もそうであったように、人のために動く。
「部屋に行く前に、すぐ、温泉に行くこと。良くなるよ」
「…続けて、感謝、する」
彼女らの足取りは軽いとは言えない。きっと、深刻な傷を負っているのだろう。だが、安心してほしいと湯守は思っている。
「自慢のお湯。きっと、楽しんで」
この温泉は、どんな傷だって治せるのだから。