四季は巡るものであって、色づいていた木々の葉は地面に落ち、次の芽生えへの布団となって山々に折り重なっている。龍の温泉においても、空には乾いた風が流れ、地面からは氷の柱が小さく立ち上がって、開店準備をしている湯守の足元を楽しませている。
「冬も、よいよ、ね」
湯守は口からは白い息を吐く。ザク、ザクと霜柱を足で潰しながら、暖簾を入り口に引っ掛ける。そして、その湯守の視界の中には、湯舟から大いに立ち上がる湯気が見えている。
そして、ほのかに香る硫黄の香り。冬の乾いた空気のおかげだろうか。いつもより、その匂いが強く感じられていた。
「……ふむ」
鼻が動いた湯守は、一度出した暖簾を下げた。というのも、彼女の感知するところで、客がどうやら一人も居ないようだ。彼女が感知するところというのはつまり、この周辺の山道や、ここへ続く街道のこと。麓や遠くの街には、今から温泉に向かおうという人たちの気配があるのだが、どうやら、一日でたどり着く場所には、その気配が一切感じ取れないらしい。
「書置きだけ残しておけば、いいかな」
そもそも、この湯に近付けば、彼女は感づくので問題は無い。ただ、お客さん第一なので、基本的には湯守は暖簾は出したままでありたいとは思うのだが。
「時々は、のんびり、のんびり」
王様も言っていた。『時には休むことも大切なのだ!』と。
ひとまず、「用事のある方は湯舟まで」と書置きしておけば、問題ないことだろう。
■
スルリと衣服を脱いだ湯守は、それをたたみ、籠の中へとそっと置いた。扉を開けて、冬の乾いた空気を全身で浴びた彼女は、ぶるりと身を震わせる。
「いいかおり」
それと同時に、彼女の鼻には、温泉の香りが届いていた。急ぎ足に、彼女は湯舟の淵に足を運ぶ。
「焦らない」
自分の気持ちを抑えるように、言葉を吐いてから、桶に温泉を掬い取って体にかける。龍である彼女は、基本的には汚れを知らない。その身に宿す炎が、穢れを払ってしまうからだ。ただ、湯守としてはそんなことはどうでもいいらしく。
「かけゆこそ、だいごみの、ひとつ」
熱い湯を被ると満足そうに、むふー、と鼻息を荒げていた。ぶるりとその体が冬の空気に震える。そして、その体を指先から静かに、ゆっくりと湯舟に沈める。
「んー……!」
肩まで温泉に浸かった彼女は、満足そうに目を細めていた。寒空は天高く白を称え、気が付けば、白い綿雪を降らせていた。
「雪見風呂……あ。お酒用意すればよかった」
失敗したなぁ、とのんきに彼女は考える。この場合のお酒とは、もちろん熱燗の事だ。湯守が世界を旅していた頃の名残で、米というものを発酵させたお酒を温めたもの。体の底から温まることが出来る酒のため、この冬の時期は、宿の宿泊客には毎度提供しているものだ。
「……今日は閑古鳥、かなー」
再び、彼女は世界に意識を向ける。幾人かの旅客は、どうやら山道を進み始めたころ合いらしい。ただ、この雪深い時期の足元では、やはり、どう考えても、もう2~3日はかかることだろう。と、湯守の眉がピクリと動いた。
「うん?旅客の先頭に居るの、マックだ」
いつもの感じに加えて、どことなく感じるドラゴンの息吹。間違いなく、己が力を分けたマックその人であろう。
「……んー?」
と、湯舟の中で湯守は首を傾げていた。何やら、ドラゴンの息吹が、己の知るものとは少し違う感じがしたからだ。
「さくらいろ……と、言うよりは」
少し、美しい。まさに今空から降り続けている、雲雪のようだ。暖かなようで、冷たいようで、しかし、見るものを楽しませるような。そんな雰囲気である。
「不思議。私の力が、こうも変わるなんて」
長く生きた彼女であっても、初めてのことが有るらしい。うんうんと頷きながら、彼女は今一度、首元までその体を温泉に沈めていた。
■
シュワシュワ、と油の中で衣を着けられた海老が泳ぐ。黄金色の油は俗に言うゴマ油であり、その香りと、エビの匂いが湯守の鼻を楽しませている。
「うん、うん」
楽しそうに頷きながら、旅客の来ない宿で彼女は自らの食事を作っている。本来、龍である彼女にはそんなに食事は必要ではないのだが、やはり、それとこれとはまた別の話らしい。そして油で泳ぐエビを横目に湯守は、窓際に置いてあるギヤマンの器を手元に置いた。
「海老には、たるたる」
そう言いながら、良いころ合いになったエビを油から上げた。衣がきつね色になり、香ばしい香りを湛えているそれを、彼女はギヤマンの器に入っているタルタルソースに潜らせて、冷ます間もなく口に運んだ。
「おふ、おふ、はふ」
サク、という音と共に、彼女の歯には程よい弾力が伝わった。熱々のソレだが、龍である彼女はそれすらもスパイスとして楽しんでいる。そして、ひとつ、ふたつと噛みしめると、エビの旨さ、衣の食感、タルタルソースの酸味が合わさって、彼女の口内を幸せで満たしていく。
「……おいひ」
満足そうにそう呟きながら、再び海老にタルタルソースを付け直し、口に運ぶ。ここからは、無言の時間の始まりである。
「……んふふ」
そして、不敵に笑う彼女の手元に視線を写してみれば、そこに準備されていたのは、衣が付けられた十匹以上は居るであろう海老。油を温めている火も、消される気配はなく。
「お客さんもいない。今日は、おまつり」
サクリ。呟いた彼女は、再び海老フライにタルタルソースをたっぷりつけて、口に運んだ。気が付けば、その横には瓶が一本置かれている。どうやら、お酒も嗜む気満々である。
今日はどうやら、この旅館は、彼女のための営業日である。
そして、湯守が感じ取った通り3日後に、マックが王や巫女、騎士達を連れて旅館に訪れるのだが、その頃には彼女はいつものように番台で飴を舐めていたらしい。