私を満たすのは罪悪感と後悔だけ。
その全てから目を逸らして、私は忘れるようにしていた。
私の頭に刻み込まれた数多の記憶。
都合の良いように忘れることはできなかった。
罪悪感と後悔を忘れる代価として、私の想い出も記憶から消えてしまっていた。
空っぽだった。
私の中を満たすものは空っぽでしかなかった。
けれど、殻になった肉体の内側に何かを注ごうとは思わなかった。
そうしてはならなかったから。
そうしたら、私は罪から逃げることになるから。
この空っぽな体を動かしていたのは、怒りだった。
体の内側が全て溶けるような熱い憤り。
ただ、何に怒っているかは分からなかった。
行き場が見つからない怒りは増幅していく。
時折何故こんなにも怒りに支配されているのだろうと考える時があったけど、これも考えないようにしていた。
ただ、怒りを抱いた日だけは覚えている。
この怒りを抱いた日は、ハルカが死んで数日後の強い雨の日だった気がする。
ハルカを背負って歩き続ける日々。
敵に見つかればどうなるか分からなかったから、傷も治療せずに歩き回る日々。
本当なら先生に連絡するべきだったけれど、間が悪いことにスマホは壊れてしまっていた。
記憶を頼りにみんなを探していた。
敵から隠れ、怯えながら過ごし。
渇いた喉は降り続ける雨で潤して、空腹になった腹は布で締め上げ、空腹を誤魔化した。
血が止まった深い傷の中で、何かが蠢いているように感じる。
体の内側から喰われるような感覚を、酷く嫌悪した。
ハルカの体も、少しずつ形を崩し始めていた。
脚がもつれそうな日は脚を止めて、ハルカの体を洗っていた。
そのときはハルカは生きているって信じていたから、沸いた蛆虫を取り払って傷を治療するのに専念していた。
触って分かるのに。
分かっていたのに。
私は見て見ぬ振りをしていた。
見ないようにしていた。
冷たい体は雨で冷えているだけだと信じた。
目が覚めないのは疲れて眠っているだけだと盲信した。
何日経っても形を変えない傷は、疲れてるからただの気のせいだと言い聞かせた。
だって、ハルカは喋りかけてくれる。
寂しい私のために喋りかけてくれる。
だから大丈夫、ハルカは生きている。
『なんで、そんなに鈍感なんですか?』
『私はもうどこにもいないのに』
都合の悪い声には耳を塞いだ。
ぼやけ始めた聴覚のお陰で、声を聴こえなくするのは容易いことだったから。
日に日にハルカの声は大きくなる。
頭に直接流れ込んでくるような感覚だった。
頭蓋に声が響く感覚が気持ち悪くて、眩暈は強くなっていく一方だった。
『そうやって歩き続けるのも無駄なんですよ』
『もうみんな死んじゃったじゃないですか』
ごめんなさいと、空虚な謝罪をした。
私のしでかしたことは決して赦されない。
私が犯してしまった罪は、余りにも重過ぎるから。
もう、謝罪すら意味を成していない。
人に見られるのを避け、路地裏を歩き続けた。
朝には活動しないようにして、人気の少ない夜に歩くようにしていた。
でも、もっと早く人に見つけてもらっていたら。
もしかしたら、ハルカを助けられたかもしれないのに。
罪悪感と後悔の増幅は止まらない。
決壊してしまったダムのように、ただ溢れるだけ。
時折狂いそうになる精神を抑えて、自分に言い聞かせるのに精一杯だった。
ハルカはまだ生きている。
みんなはまだ死んでいない。
きっとまた、みんなで笑い合える日が来る。
『答えは分かっているって、言ってたじゃないですか』
分かり切っていた。
分かり切っていたから、言い聞かせていた。
その日はいつもより横殴りの雨で、肌が痛かった。
もう限界を迎え始めていた脚を動かして、ただ盲目的に歩くだけ。
ふと、朦朧とした視界を見上げる。
見知った美しくて白い髪が、視界に映る。
カヨコがそこに座っていた。
あぁ、良かった、やっと見つけた。
きっとカヨコも疲れて座り込んでいるんだわ。
そうに違いない、そうに決まっている。
「良かった、カヨコ……此処にいたのね」
「少し待ってて、すぐ傷を治療するから……」
背負っていたハルカを優しく下ろし、カヨコの隣に座らせる。
安心して気が抜けてしまったのか、ぐったりとその場で座り込んでしまう。
そのとき気づいた、カヨコの手の側に猫がいることを。
態々こんな雨の中で毛繕いでもしてくれているのか、カヨコは優しいから、きっと猫もその優しさに勘づいているのかって。
都合の良い解釈をしていた。
ぐちゃり、と。
嫌な水音が鳴る。
肉を噛み砕くような、生々しい音。
襲い来る過呼吸と、嫌なタイミングで鮮明になり始めてしまう視界。
見てはならないものを見てしまった。
「ひ、あ、ぁっ、ぁぁぁぁぁあああっ!!?」
思わず声を上げてしまった。
ハッキリと、見たくなかった光景が映った。
たじろいで、喉を震わせて、息を荒くする。
口元が赤く染まった猫。
所々何かに齧られたかのようなカヨコの傷口。
決して信じてしまってはいけない、見てはいけない光景が、そこにあった。
けれど、これは紛れも無い現実。
その事実に、ただ絶望する。
そんなわけない。
今見たのはただの悪い夢だと。
無理があり過ぎる言い聞かせをして、カヨコの手を取った。
冷たい、冷たいけれど、きっと雨で濡れているから。
そう、これは雨で濡れているせい。
大丈夫、カヨコは生きている。
「ねぇ、そうよね、カヨコ?」
カヨコの顔に優しく手を伸ばし、触れ、顔を見る。
光のない瞳。
開き切った瞳孔。
カヨコの目に映る、愚かな人間。
「は、はは……」
これは悪い夢だ。
こんなこと、あってはならない。
あぁ、そうだ。
ここで眠ってしまえばいい。
きっと目覚めたときには、みんなが側にいる。
疲れ切っていたせいか、その日はすぐに眠ってしまった。
夢すら見ることはなかった、いや、見るはずがない。
夢の中で夢を見るなんて、そんな馬鹿げたことがある訳ないもの。
本当に、本当に永い夢だった。
意識がはっきりとしていた夢も初めてだし、何よりこんなにも現実的な夢はきっと体験できないもの。
最近は仕事ばっかりだったせいで疲れていたのもあるわ、起きたときには疲れも取れ切っている。
明日の仕事が楽しみだわ、だってみんなと働けるもの。
『そんなの来ないよ、社長』
『分かり切ってたことでしょ、もう目を背けるのはやめて』
この声もきっとまやかしだって。
明日を楽しみにして、私は目を閉じた。
だけど、何故だろう。
楽しみにしたのに、明日を望んで目を閉ざしたのに。
私と云う存在を熱く溶かしてしまいそうな熱い怒りが、私の胸に宿っていた。
密かに、火種が燻るように。
夢の夜明けすらも焼き尽くして、私を燃やす。
まだ焔は舞い上がらなかった。
目覚めたとき目に映ったものは、見知らぬ天井だった。
やけに明るくて、寝起きで片目の視界が真っ暗で。
周りの状況を飲み込むのに、時間がかかった。
「アル……? アル、起きたのかい!?」
「あ、え……せん、せい?」
お互い忙しくてあまり会えなかったから、こんな風に会うとは思わなかった。
寝起きのところを見られちゃって、しかも状況的に私に付き添っていたんでしょうね。
先生は良かった、って安堵の声を何度も溢しながら、私を抱きしめてくれた。
時折私に慰めるような、宥めるような、安心させるような言葉を聞かせて、もう一度強く抱きしめてくる。
「んもう、先生……そんなに抱きしめられるとちょっと苦しいわよ」
「あぁ、ごめん……本当に無事で良かった……」
いつも凛々しい顔立ちをして表情を崩さなかった先生が、こんなに焦った顔をするのを見たことがなかった。
大好きな先生のそんな姿が少し新鮮で、ちょっと笑いそうになっちゃって。
だけど、とめどない不安と焦燥が、心を焼いた。
生きているって言い聞かせたのに。
これは夢だって言い聞かせたのに。
私は、現実を見てしまった。
「ね、ねぇ先生? ハルカとカヨコは無事なのよね?」
「っ……」
「……その、あはは……もう、先生ったら、悪い冗談はやめてちょうだい? 冗談にも良し悪しが」
「アル」
私の言葉を遮って、先生は私の名前を読んだ。
先生の目を見る、声を待つ。
よく見たら、先生の目元はクマだらけで、目も赤く腫れ上がっていた。
泣き腫らしたことが分かるような涙の跡も、確かにそこに残っていた。
唇が震えている、その震えを先生は噛み締める。
「……ごめんね、私が未熟なばかりに」
「は、へ……? どうして先生が謝るのよ?」
「……」
「……嘘よ、そんなの嘘に決まってる」
沈黙は図星だった。
真実の証明だった。
現実を叩きつけられ、絶望した。
あの最悪な一瞬は現実なんだって。
『言ったでしょ、社長』
『目を背けるのはやめてって』
『逃げ続けたら、何が本当か分からなくなるよ』
先生から見知った物を手渡される。
それは、カヨコが持っていた音楽プレーヤー。
私がカヨコの誕生日にプレゼントした、少しレトロなデザインをしたそれ。
意味を理解した。
何故これが手渡されてしまったのか。
もう、カヨコの物じゃなくなってしまったことの証明だった。
スピーカーが内蔵されていた音楽プレーヤー。
衝動的にボロボロになったそれを起動し、音楽を流そうとする。
なんでこんな行動に出てしまったのかは、よく分からない。
少しだけ分かるのは、カヨコの好きな音楽を聴こうとして、カヨコを身近に感じ取ろうとしてたんだと思う。
だけど。
カヨコの存在はもう薄いと、そう言わんばかりに、ヘヴィメタルな音楽はノイズに塗れていた。
あぁ、そっか。
そうなんだ。
ハルカもカヨコも、そしてムツキも。
全部、全部私のせいで。
私が無能なのに強がって、意地っ張りだったから。
「みんな、死んじゃった」
繋ぎ止めてた心が、壊れた音がした。
その日、私の世界は壊れた。
罪悪感に狂って泣き叫ぶ日々の始まり。
もういないはずの友だちに語りかけられた。
目に見えないのに、頭の中で何度も声が反響した。
最初からやり直せることを望んだ。
もっと良い方法があったんじゃないかって、何度も思考の反復を繰り返して思った。
私が犯してきた過ちの数々。
もしかしたら、今まで積み上げてきた物全てが、私にとってただの勘違いだったんじゃないかと思った。
誰かが側にいること。
彼女たちと繋がっていた友愛。
彼女たちと成してきたことの全て。
私一人が勝手に満足しているだけじゃなかったのか?
いつも側にいてくれると思ったが故の傲慢だったのか?
一度疑い始めてからは、もう自分の全てが間違っていたんじゃないかと、そう思うことしかできなかった。
最初は何度も試した。
彼女たちはそんな人じゃないって。
私を守ってくれた彼女たちが悪く思ってる訳ないって。
今までの想い出を繰り返し、私は想い続けた。
もっと良い状況になれるって。
きっと何かが変わると思って。
けれど、誰がそんなことを確証出来るのだろうか。
根拠も無い、ただの利己的な思い込み。
自分を愛するための、恐ろしく悍ましい利己主義。
声は愚かな私を否定し尽くした。
残念なことに、気付いたときには心は擦り減っていた。
私が持っていた純粋で子どものように無垢な心。
悪になり切れない愚かな心は、黒く染まって冷めていた。
私はもう自分を愛せなかった。
愛せないが故に、もう誰も信じれなかった。
心の根から腐っていく感覚が、感情を枯れさせる。
だけど、怒りだけは増え続けた。
種火だけだったそれは、私の中で確かに燻っていた。
余計な感情が枯れたから、枯葉となり種火を燃やせた。
この身を焼き尽くさんばかりの怒りが燃える。
もう抑えられない憤怒が、私の身を支配する。
そして灰になった枯葉は、憎悪へと生まれ変わった。
喜楽は存在しない、絶望を叩きつけられたから。
悲嘆はもう生まれない、涙は焔で消えたから。
もう私は涙を流せなかった。
代わりに流せるものは、周りを蝕んでしまうような醜く重過ぎた憎悪だけ。
黒い感情が、私の空いたところを満たす。
この憤怒は、私の大切なものを奪った全てを灰燼に還すために燃え盛っている。
この憎悪は、その灰すら滅するために膨れ上がっている。
私が征くべき道。
私を害した全てに復讐するための方法。
もう決して悪を産まないようにする方法。
この道はもう血塗られてしまった。
いや、最初からこうだったのかもしれない。
私はこうするために生まれてきたのかもしれない。
ただ、夢に囚われていただけ。
それに気づいたとき、自分の成した全てが滑稽に思えた。
泣き喚く私の代わりに哀しむ人はもういない。
孤独に呻く私の側に座ってくれる人はもういない。
苦しむ私を身を粉にして守ってくれる人はもういない。
私を誑かす記憶には蓋を閉じろ。
私の邪魔をする者は全て殺せ。
私の耳に残る声は都合良く解釈しろ。
そして二度と聴くな、そうして彼女たちの尊厳を守れ。
私はもう、堂々と生きられなくなった。