果たしてその夏は、完全燃焼だったのか――。
20クラスにも及ぶ生徒数の中で、時折部員や当時のレギュラー、ベンチ入りメンバーと廊下ですれ違っても、誰もがぎこちない感じで通り過ぎ、そして徐々に会釈もしなくなっていく日々が続いていた。
あの暑かった日々が嘘だったかのように9月が駆け足で逃げていく中で、海の姿は軽音楽部の中にあった。
11月に控えた学園祭に向けて、その門を叩いた海。部活を引退してから、家に帰らない理由が何かしら欲しかった海は、普段家でやっているギターを文化祭で披露することにしたのだ。
さすがに学校の中に2000人もいれば、少しはメタルを叩ける人間もいるだろうし、ひょっとしたら、今後大学で音楽を続けようとしている奴だっているだろう――野球部で何人かは本気でプロを目指していた部員がいたように――。
「……にしても、なんでこの曲をメタルで演ろうと思ったの」
「なんか好きだったんだよ。メロディが」
「普段から家でやってたの?こんな風に」
「まあ、うん」
おおよそのデモ音源をパソコンで作ってきた海は、一緒にやってもいいよと言ってくれた部員にそれを聞かせて練習にいそしんでいた。
六本木心中。
子供の頃、よく聞かされていた曲の一つだ。
ある日、海はなんとなくこの曲をメタルでやってみようと思った。メロディラインが綺麗だからきっとハマるだろうと思ったし、いっそ、ボーカルパートを全部リードギターに変えてインストゥルメンタルとして演奏してしまっても曲として形になるのではないかと海は思った。
フィンランドでよく聞いていたバンドなんかを聞くと向こうのことを思い出すから、いつしか聞かないようになっていった。
この国でメタルがそれほど流行っていないなら、自分で作ればいいのだ――という気持ちで、海は一人で勝手に様々な曲をメタルアレンジをしてかき鳴らしていた。
家とは違い、部室でしっかりとした音を出せることが海にとっては嬉しかった。
どうせこの関係も、文化祭を終えたら無くなるのだろうけれど、今は少しでも時間を潰す"何か"が欲しかった。
これまでは野球部という枷があったからできなかったことが、しばらくの間だけはできる。
これからの進路を考えるにあたって、教員から薦められている大学部への進学のことだって演奏している間は忘れていられる――。
ただただ、気楽だった。
どんな感情だって、ひずんだディストーションや、真っ赤なSGが、自分の抱えているもの全てを受け止めてくれるから――。
「――別に来なくていいよ。あんな下品な祭り」
大学にも文化祭の話が漂ってきているらしく、蒲田の駅近くのクレープ屋で食べ歩きをしながら華耶は文化祭の話を切り出したが、海からは辛辣な言葉が返ってきた。
「そ……そんな言い方しなくてもさぁ?」
「あんなの、どいつもこいつも、出会いの場だとか、自己表現を履き違えてる奴らの祭りじゃないか。大体俺は、文化祭っていう響きがそもそも好きじゃない。どのへんが文化なんだよ。デスゲーム系映画みたいに、脳みそを電極でほじくられたような奴みたいな声でウェーイって奇声を発しながらバカ騒ぎしてナンパするのが日本の文化なのか?そういうもんじゃないだろ」
海の偏見に満ち溢れた言葉に華耶はケラケラと笑い声を上げ、思わず空いた手で海をぱしぱしと叩いた。
海は何がおかしいんだよというような顔で、不機嫌そうに華耶の様子を黙って見つめていた。
「あー、おかしー。海くんには一般社会がどんな風に見えてるのさ。そこまで日本、終わってないって。たまたま変なのが目に付いてるだけだって。でもさー、そんな下品な祭りって言ってるものにわざわざ海くんはバンドで出てくるわけじゃん。一応はそれに便乗してるわけじゃん。海くんだって、自己表現のためにバンドしてるんだから、あんまりそう人のこと悪く言っちゃダメだよ。ひょっとしたら、野球部からしてみたら、海くんだって自己表現を履き違えてる連中の一人に見えてるかもしれないんだからさ。ううん、野球部だけじゃないよ。知らない生徒からしてみても、海くんの演奏がそう見えてるかもしれないんだからさ」
華耶は海に向かって釘を刺したが、海の心にはあまり響いていないようで、黙って話を続けた。
「サッカーは正月まで大会があるけど、野球は夏で終わりだからな。別に、暇を潰せるなら、なんでもよかった。できるものなら文化祭だってサボって、お前とどっかに出かけて、一日中遊びほうけていたいよ。でも、華耶だってそう毎日、朝から晩まで俺のこと構ってられるわけじゃない俺の想像に及ばないジャンルの勉強だってしてるだろうから、俺の都合で振り回すわけにいかないだろ」
海の言葉に華耶は少し頬を赤くしながら、恥ずかしさをごまかすようにしてクレープを少し大口でほおばり、口元がばれないようにハンカチで拭った。
「えー?何それ……。ちょっと彼氏みたいなこと言って見せちゃってさあ、このこの。おねーさん照れるじゃないか、このっ、このっ」
そうして肘で海をつつこうとするが、肘の高さに腰がきているのでなかなか思ったような構図にならず、華耶はじっと海を睨んだ。
背伸びしてもう一度つつこうとするが、思ったほど高さが出ず、不満そうにした。
「でもさー、きっかけや動機とかは置いとくとしてもさ、そうやって自己表現が出来るっていうか……自己表現の方法を色々模索してみるってさ、本当にカッコいいと思うよ。別に、モテたくて音楽やってるわけじゃないんだから、なおさら」
「それは、俺に彼氏っていうフィルターがかかってるだけだよ」
華耶の関心を突っぱねるように、海はその言葉を軽くいなした。
「かかってるかもしれないけどさ。いや、そりゃーそうだよ。当たり前じゃん。彼氏が曲がりなりにも自分を表現しようとしてさ、必死で何かに打ち込んでるのはそりゃー、かっこいいよ。でも、それはまあそれとしての話。海くんからは野球取っても、ギターがあるんでしょ?自分を表現できる方法を他にも知ってるわけじゃない。それに何?パソコンで音楽なんかもちょっとできちゃうわけでしょ?じゃあ、パソコンなんかも結構得意ってことじゃん」
「まあ、人並みには」
「じゃあ、自分を表現する手札、いっぱいあるじゃん。それ、素直にカッコいいと思うし、羨ましいなって思うよ。あたしは自分を表現する方法、なかなか見つからないからさ」
「そうなの?」
海はそう言うとじっと華耶の首のあたりをじっと見つめる。
海がどこを見ているか瞬時に判断した華耶は腕で胸元を隠すようなそぶりをしつつ頬を膨らましながら『あたし、今結構真面目な話してるんだからさー』と、二度ほどさらに肘で腰をつついた。
「話したことなかったかもしれないけどさ。あたし、野球やってた時期もあったんだよ」
「そうだったんだ」
「そそ。子供の頃から、昔の選手とか見るの好きでさ。こうやって、ほら。スコーピオン打法。なんかこれが一番しっくりきたから、あたしこんな風に打席立ってたんだよ。でも、やめちゃった」
梅屋敷公園へと向かいながら、華耶はわざとらしく身体をくねらせた格好をしながらそう話し始めた。
確かに、ステップの踏み方なんかを見ていると、遊びで野球をやっていたような感じではなかったように海には見えた。
バットを持たずにエアーでスイングしてみせる華耶の動きは、しっかりと腰が入っていた。その辺の芸人がたまに形だけ真似してみせるような、雰囲気だけのスイングではない。本当にこの打法で華耶は打席に入っていたのだろう。若干オープンスタンス気味に足を開いたステップまで海はしっかり見つめていた。
「やめた理由、あたしの身体を見たらなんとなく分かるでしょ?」
「まぁ、うん」
一言だけ海は答えた。
自分よりもはるかに小さい背丈の華耶を見て、華耶の言う『やめた理由』が容易に想像できたからこそ、海はそれ以上の言葉を発しなかった。
「そりゃそうだよ。皆から常に何cmも低いんだから。牛乳だってたくさん飲んだけど、ぐんぐん育ったのは"こっち"だけ。遠い遠い先祖は170cmなんか超えてたっていうのにね。残酷だよね。だったら、技術なら、って思ったんだけどさ。背がこんなんだから、センターラインを任されても、身体能力の高い子が居たらあっさりレギュラー取られちゃうしさ。そのうち外野だとかキャッチャー守らされたり、スローイングは的確だからって、コントロールを生かした軟投派ピッチャーはどうだ、とかさ。出番があるならどんなポジションでもやってみたいってあたしも挑むもんだから、ポジションたらいまわしにされてるうちに、だんだんスランプになってってさ」
「打撃がか」
「ううん。打撃だけじゃなくて、守備や走塁、全部。おまけに体がこんなんだから、バントくらいしか自信もって出来ることもなくなっちゃってさ。背が小さいのを苦にしないでプロになった選手がたくさんいることだって知ってたから、あたしだって頑張ったらプロになれるかも、なんて思ってたけど、中二のあたりでスパっとやめちゃった」
「そんな簡単にやめられたものなのか?」
海はふと、華耶がプロ野球の試合に連れて行ってくれたときのことを思い出した。あのはしゃぎようは、とても野球が嫌いになった人間のものではない。
なにせ、自分から野球に行こうと言い出したくらいなのだから、今でも野球に熱のある人間がどうしてそう簡単にやめられたのか、不思議でならなかった。
「これはこのままずるずるやっててもダメだなー、って思ってたからさ、全然スッパリいけたよ。でも、野球は好きなままだったけどさ、プロ野球しかしばらく見なくなった。高校野球なんか見たらさ、自分と同じくらいの歳の選手が、自分が立ってたかったとこに立ってるわけでしょ。それが切なくて、悔しくてさ」
野球が好きだったはずの華耶が、なぜか自分の存在をちゃんとは知らなかったことを海は思い出した。直系の学校の高等部に通っているはずの自分のことを『なんとなく見たことがあると思ったら』と言っていたことに、海は今初めて納得した。
諦めがついているからこそ、笑顔のまま話し続けた華耶。笑顔ではあるが、なかなか普段のように冗談を言わない華耶を見て、今は自分から何か言うべきではないと海は思っていた。
公園のベンチに座り、少し間をおいてから華耶は再び話を続けた。
「だから、海くんにはぶっちゃけ……カッコいいなっていう気持ちと、羨ましいな、っていう気持ちもあるし……あたしの代わりに、あたしが見たかった景色に行って欲しいって思ってる。ううん、行って欲しいっていうかさ……連れてって欲しいって思ってるって言った方が近いかな。今のあたしは、海くんのそばにいて、海くんを支えることくらいでしか自己表現ができなくてさ」
「そんなことないだろ」
「ううん。ほんとにその辺はあたし、まだダメなんだ。なんとか、勉強しながらあたしが本当に見たい景色や、あたしが本当にしたかったことを探そうとしてるんだけどさ、やっぱ、大学に入ったからってすぐそう簡単に将来が見つかるわけでもなくてさ。将来のビジョンが全然ないほど、日々をダラダラ生きてる学生じゃないとは自負してるけどさ。あたしの夢を握ってくれてるのは、海くんだけなんだ。だから、あたしのワガママなんだけどさ――他の誰の夢だとか希望なんかは、鬱陶しかったらあたしがその肩から外してあげるからさ――あたしの夢だけは連れてってくれないかな。スカウトだって、来てるんでしょ?」
「……」
隣で座っていた海の手をぎゅっと両手で握りながら、華耶はじっと海を見つめる。真剣ではありながらも、どこか不安げで、弱弱しさを伴った、不安定な表情で――その小さな手で海の手を握り続けている。
「……一応、聞くけど」
「……?」
確かめるように、海もまたじっと華耶を見つめた。普段どおりの、凍て付くような瞳で――華耶をじっと見つめた。睨んでいるわけではないが、真剣みを帯びたその目は睨んでいるようにも見えた。
「俺が"はじめて"だった時点で、こんなこと聞くのもおかしいんだろうけどさ」
「うん」
「野球やってるやつなら誰でもいいってわけでもなくてさ、例えばだけど――相模とか、ああいうとこのプロに声かかりそうな奴を品定めしてたとかじゃないんだよな?ある日突然、他の野球やってる男の女になんか、なったりしないよな?」
「……当たり前じゃない。海くんが野球やってなかったら、きっとあたしだってこんなこと言わなかったと思う。こんなの、誰にでも言えた言葉じゃないよ。それにあたし、誰にだってすぐ身体を許す女じゃないよ」
「……そうだよな」
少しだけ安心したような表情を浮かべながら、海は夏の頃より遠くなった空を見上げる。
「正直言うと、何チームかから調査票は来てる。でも、仮に調査票を出したとしても、俺は選ぶ側じゃなくて、選ばれるほうだ。だから、どこがどうなんかは、正直言うとどうでもいい。プロに行くのは大学からだってできることだって分かってたし、大学行きながらどうするか考えようかな、なんても思ってた。華耶が言ったように、自分が本当にしたいこと見つけるために。でも――」
『――そうだよね、そりゃあ、甘えたくもなるよね。頼る相手だっていないし、自分のことで精一杯生きてきたんだもんね、きっと――』
華耶が以前言った言葉を噛み締めるようにして、海はじっと華耶を見つめなおし――海は少しだけ早口で、照れ隠しするようにしながら言葉を続けた。
「華耶が居なかったら、俺は自分を自分でやめちまってたかもしれない。あの日、俺は死んでてもおかしくなかったと思う。だから――華耶がそう言うなら、やってみようと思う」
「ほんと?」
「ほんと」
「本当に?」
「……ここで俺が嫌だって言っても聞かないだろ、どうせ」
「あー!それが本心なんだ!ショックだなあ!おねーさんそれは派手にショックだなー!別にそういうつもりで言ったわけじゃないんだけどなあ!?」
「だって実際俺が嫌だって言っても絶対説得するつもりだっただろ、お前」
「それはそうだけどさ、なんかこう……言わされました感出すのやめようよ!なんかこう……風情っていうかこう……やっとあたしたち、カップルみたいな感じの空気だったのにさあ!?」
「何言ってんだか……」
ぽかぽか、と両手で肩を殴りつける華耶をものともせず、海は足を組んで無視をし続けた。
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「――多分皆、やっと出してくれたかって思ってると思うよ」
プロ志望届を確認しながらコーチは海の肩を叩いた。
「別に、皆の都合のために志望届を出したわけじゃないです」
海はそのコーチの手を嫌そうに払いのけて顔を見下ろした。
「ははは。期待を背負ってるやつの言葉は余裕が違うね」
「別に期待を背負ってプレーするつもりもありませんし、大体、俺はそんなしょーもないものを背負ってるつもりはありません」
「そうは言ってもね、もう背負わされてるんだよ、その肩に」
「今の俺は、それを下ろしてくれる奴がいるんで」
「興味深い話だね」
「コーチの仕事は俺のプライベートの詮索をすることじゃねーですよね」
「そうだね、それもそうだ」
「じゃあ、バンドの練習があるんで」
と足早に部室を去っていった海を、コーチは見つめていた。
「……変わったねえ、君は」
啓皇の文化祭は少し遅いこともあり、文化祭よりも先にドラフト会議を控えていることなど、海はとっくに忘れていた。
駆け足気味で部室の扉を開け――手際よく足元をセットし、アンプの音量を一気に上げ、相棒のSGを構える。
「遅くなって悪いね。じゃ、演ろうか――」
少し大げさにハウらせながら、ドラムのカウントを待つ海は、普段よりも少しだけ野球のことが気になって、ふと手元が狂いそうになった。