「佳井先輩」
待ち構えていたようにして、球場の長い通路を歩いていた海に木村が話しかける。
「用があるなら練習中に言ってくれよ」
「それでバカ正直に練習中に話しかけたら用があるなら試合後にしてくれって言うタイプじゃないですか、佳井先輩は」
「そんなに暇じゃないからね」
海が木村を振り切って歩こうとすると、木村も併走するような形で歩き始める。
今の海にとってはやけに通路が長く感じられた。
「今日は4安打5打点で1本塁打でしょう。もはやどうやったら先輩を止められるのか、皆頭を悩ませてるんですよ。今季の好調の秘訣だとか、突然ホームランが増えた理由とか。色々教えてくださいよ」
「俺一人が好調でも、優勝できなきゃどうしようもないだろ。日本一になるために俺たちは野球をしてるんだ」
「……?」
木村は海の言葉に少しだけ違和感を覚え、首をひねりながら――そして再び横を歩き始めた。
「……時間、ありますよね。個室で話でもしませんか」
海はハァー、と深いため息をつきながら――
「どうせ、最初からそのつもりでいたんだろ。何?どこ連れて行くんだよ、今日は」
時間もあることだし、この試合のあとは8月の後期混合戦が始まることから日程調整のため数日リーグ戦が休みになる。そのため今日はもう一泊して、今夜や明日はジェネルの食べ歩きに付き合ってやろうと思っていたばかりだったから、早く済ませたい気分だった。
「とっておきの個室があるんですよ。佳井先輩ももきっと楽しんでくれるはずの」
木村は満面の笑みで、海をタクシー乗り場へと誘った。
「……で、これのどこがとっておきの個室なんだよ」
「お好きじゃなかったですか、こういうの」
木村に案内されたのは、少し古びた小学校をイメージした居酒屋だった。
個室なら別にどこでもよかった、というのは海としてはあったのだが、まさか自分にあまりなじみの無いような要素でもてなされるとは思ってなかったから、海は少し困惑した。
「……まあ、別にいいけどさ。何?なんでこういうとこ連れてこようと思った?」
「日本の小学校に居たらきっと佳井先輩もこういう生活してたんじゃないかなって思ったんですが」
「ものすごく余計なお世話だね」
やや昔の保健室をイメージしたような個室で、海はあまり落ち着かないような素振りを見せながら注文を待った。
「保健室ってドキドキしたりしませんでした?」
「別に誰かを意識して生活してたわけじゃないし」
「佳井先輩は中学の頃保健室族だったりしました?」
「保健室族」
「授業休む口実を何かと作って保健室で休んだりして、一日の半分とかを保健室で過ごすようなアレです。どこにも、一人くらいはいたでしょう」
「……中学の頃、何回か、具合が悪いから保健室で横にさせてもらったことはあったよ」
「それで?」
「……自分で言うと陳腐になるから言いたくないんだけどね。俺、モテたんだよ」
「今なおじゃないですか」
木村のわけありげな笑みを海は無視した。
「考えてもみろよ。学校に日系のハーフどころか、外国人と外国人のハーフが入学したんだぞ。それも、この国の連中が大好きな北欧と北欧のかけあいだ。この国の連中が黙っていられるか?」
「黙っていられないでしょうね」
「そんな男が授業抜けて保健室で休んでるって知ったらどうなる?」
「……あぁ。なるほど」
納得した、というよりはその絵面を妄想しているような様子で木村は頷き、どこか変態じみた表情で木村は海を見つめていることに気づき、海は木村をあまり視界に入れないようにして話し始めた。
木村が愛用している、若者向けブランドのややフレームの大きいオーバーリムの眼鏡のきらめきさえ、どこか不気味で仕方がなかった。
「以来、具合が悪くなったら早退することを選んだよ、俺は。具合が悪くなることなんか、そんな頻繁にあったわけじゃあないけど。俺が休んだだけで保健室に人が殺到するもんだから、そのうち保健室の先生にもあまりいい顔されなかった。お前が保健室に来ると騒がしくなって嫌だ、って。まともに取り合ってくれなくなったもんだから、もしものときの頭痛薬や解熱剤や胃薬はいつも持ち歩くようにしてたよ。引っ越してすぐなんかは食べ物が合わなかったのか、たまに胃を壊してたけど、そんなことも仮病に思われてしまってた」
「とんだ養護教諭もいたもんです。……その先生、若かったんですか?」
「若かったかどうかなんて、この際どうだっていいだろ」
「まあ、そりゃ、そうですよね」
木村は瓶の牛乳に何らかの粉末を混ぜて飲み始めた。見る見るうちに牛乳の色がピンク色に変わっていく。
「……気になりますか?うちらの世代じゃもう、紙パックの牛乳でしたけどね。それとも、こっちのほうですか?」
「木村」
海の目線が牛乳や粉末にいったわけではないことをわざとらしく言うために、海はテーブルを指でこんこんと叩いてみせた。
「俺はお前とデートしにきたわけじゃあないんだぞ」
「……あぁ、そうでしたね。いやあ、楽しいもんですから」
「お前だけがな」
「佳井先輩ももうちょっと楽しんでくださいよ」
「とりあえず本題に入ってくれるか。楽しむかどうかはその後決めるから」
海は少し苛立ちながら木村を睨んだ。木村は渋々腕を組みなおして、海をじっと見つめた。眼鏡越しの表情は、相変わらず何を考えているのか海にはよく分からないマイペースな瞳がそこにあった。
「佳井先輩」
こうした空間で先輩だ先輩だと言われると、なんだかそういう設定のコントをやっているようで、海は少しおかしく思ったが、話の腰を折ると木村はいくらでもその話についてきそうだったので黙っていた。
「正直に聞きますね。今季の好調、何か裏があるんじゃないかと俺は思ってるんです」
「薬ならやってないぞ」
「そういう意味じゃありませんよ。さっき、佳井先輩、俺が好調ですね、って言った時に俺に言い返したこと、覚えてますか?」
「さて、なんだったろうね」
ここに来てからのことで頭が少し混乱している海は、さほど思い出しているような素振りも見せずにラムネを飲んだ。
考えてみたら、アニメやドラマなんかではラムネを飲んでいるシーンはよく見るし、日本に来るまではそれなりに憧れもしたものだが、こんな歳になってわざわざ自分からすすんで飲むようなものでもなければ、これから自分が田舎の夏というものに触れたところで、自分が子供に帰れるわけではない。
とりあえず気分だけでも、と思って飲んだそれは、随分と今の海にとっては甘ったるく感じる飲み物だった。
考えてみたら、球団のスポンサーを務めているダイワ飲料の炭酸飲料のCMに出演したときも、甘さ控えめと言いながらも甘く感じたものだったしから、世の中の味のついている炭酸飲料なんて大体こんなものだ。どうりで子供が好んで飲むわけだ――と思いながら海はあっという間に飲み干したその瓶を置いた。カラン、と乾いたビー玉の音だけが室内に一瞬響いて、止んだ。
「覚えてないならいいです。……じゃあ、質問を変えましょう。何か今年、どうしても勝たなければいけない理由みたいなのがあるんじゃないんですか?」
「別に。俺は今までも、ずっと勝ちたいと思いながら試合に臨んでいたよ。プロをやってる以上、それは変わらない」
「佳井先輩」
木村はぐっと飲み干したピンク色の牛乳の瓶をテーブルに置き、なかなか話を真剣にあわせてくれない海をもう一度睨んだ。
「一応、俺だってメディアの人間です。佳井先輩があまり触れてほしくなくて俺の話題に向き合ってくれないことくらい想像がつきます。何度も先輩には言ってきましたが、俺はよそのしょーもない連中と違って、口外しちゃいけないようなことは口外しません。その辺の線引きは他のどんな記者なんかよりも徹底してるつもりです。俺はただ、個人的に佳井先輩に興味があるから聞いてるだけのことです。先輩から無理矢理聞き出して記事になんてしません。今までもそうだったように、これからもそうです。もし明日の朝刊に先輩が言ったことなんかがデカデカと一面に載るようなことがあったら、そうですね――次に佳井先輩が建てた家のローンを肩代わりしてやりますよ」
「お前なんかに払えるかよ。俺の年俸分かって言ってるんだろ?」
「それくらいの覚悟で秘密は守るつもりでいると言ってるんです。教えてください。ひょっとして佳井先輩、大リーグへの移籍とか考えちゃったりしてます?」
「……」
木村が勝手に妄想を広げて暴走しかけていたので、海は渋々清兵衛が今年で引退するつもりであることを手短に話した。
ジェネルはひょっとしたらもう清兵衛が辞めることなんか感づいてるかもしれないが、海はまだジェネルにすら清兵衛が今季限りで辞めるつもりでいるということを話してなかった。出来る限りなら引退まで知らないままで隠し通しておきたかったのだが、よりによって木村に探りを入れられるとは思っていなかったから、海は苦々しい表情を浮かべていた。
もっとも、メディア側の木村のことだ。これまでが全て演技で、これを聞き出すためにわざとおかしな行動を取り続けていることだって考えられる。だとしたらこの男はずいぶん役者だと思うし、地方紙の記者なんかやめて今から俳優にでもなったほうがいいのではないかと海は思った。
「……そうですか、大鈴選手が」
「アイツは、俺が腐りかけてた頃からずっと俺の近くにいた。アイツがいなかったら俺はチーターズから正直どんな手を使ってでも出ていただろうし、アイツさえ俺に近づいてこなかったら、今ほど苦しまずに、もう少し自分のことだけ考えて野球をやっていたかもしれない。アイツが居たから俺は随分苦しんだし――アイツがいたから、意地を張ってここまで野球を続けることができた。アイツはずっと昔から――俺に優勝したい、優勝したいと酔っ払いながら言っていたし、歳さえもう少し近ければもっとよかったのに、だとか言っていた」
「大鈴選手、そんなこと言ってたんですね」
「アイツは考えてるようなことは滅多に顔には出さないタイプだし、単細胞な奴だ。でも、ああいう単細胞な奴ほど、本当は色んなことを考えたりしていて――それでも思考の簡略化をしているからああいう単細胞な性格をしているもんだとアイツを見ていると思う。なんなら、ここ最近のアイツの言葉なんか聞いてると、単細胞を演じてたんじゃないかとすら思うことがある。……アイツが俺に持ちかけてきた俺たちの戦いが、今年で終わる。今年優勝や日本一を逃すということは、俺にとってもひとつの何かが終わってしまいそうな気がする」
「うっかり日本一なんかになったら佳井さんも辞めるつもりでいるんですか」
木村からの問いかけに、海は一度木村をギリギリと見つめた。それは海にしてみたら無意識なものだったのだが、木村にはうっかり地雷を踏んでしまったように見えて、作り笑いを浮かべることしかできなかった。
海は険しい表情のまま目線をテーブルへと落とし、ため息をついてから語り始めた。この間わずか10秒ほど、木村にとってはあまりに長い沈黙だった。
「どうだろうな。……分からないよ。ゲーム差見てもらえると分かるけど、春先の俺たちはあれだけ調子がよかったのに、今やスカイクロウズが独走態勢だ。正直言って、もう、追いつけないだろう。俺だってそのくらいのことは分かる。俺があれだけ打っても――今日のようなバッティングが今年は俺がイメージしているよりもずっと何度も何度もできてるのに、それでも勝利が遠い。どれほど打っても、どれほど打点を挙げようと、どれほどホームランを打っても、それでもゲーム差が縮まらない。そんな状況で、今から劇的にスカイクロウズとの何か変わるとは思えないんだよ。それでも試合が始まれば、勝利の可能性がひとつでもあるバッティングは何なのかと俺は考えてしまう。だから――そうだね、お前が言うように、今年うっかり日本一なんかになったら、俺も流れで引退なんかしてしまうかもしれないね。俺の中の戦争が終わってしまうわけだから。それでも野球を続けないといけないなら、いっそ本当に大リーグにでも行くことだって考えてしまうかもしれない」
海はつまみで頼んでいた揚げチーズを頬張りながら――
「考えてみろよ。俺たちは年間90勝ペースにもかかわらずゲーム差を引き離されてしまって、優勝には程遠いんだ。俺は今年、たぶん4割30本後半くらいは堅いと思う。打点も……どうだろうね、今のペースならどれほど低く見積もっても150くらいはいくかもしれない。にもかかわらずだ――俺の後ろに確実性のある4番が居て、今までの補強はなんだったんだってくらいに先発も5、6人揃っていて、それでいてリリーフも潤っている。これだけ戦力が整っているのに、それでもまだ優勝に届かない。俺だってできるだけのことはやってるつもりだけど、それでもまだ足りないらしい。でもね、仮に俺がこのまま安打を量産し続けて、それで5割打つ世界があったとしても、それでもきっと俺たちは勝てないんだろうなって思ってしまうんだよ、最近」
海の語る表情は、絶望そのものだった。
ポストシーズンだってある以上、Aクラスに入りさえすれば日本一のチャンスだってある。優勝がどうしても遠いのであれば、普通の選手ならば目下の自分の成績へと意識を切り替え、その記録をいかに伸ばすことばかり考えるものだ。
そうとでもしたほうが気が楽なのに、そんなことを海はせずにいて苦しんでいる――木村からしてみれば、海のその考えはいかにも海らしいのだが、毎日こんな精神で野球なんかしていたら、きっと妻は大変だろうなとも木村は思った。
安打数、打率ともにトップ独走。打点王争いも後ろにつけている選手たちから頭一つ抜けている。得点圏打率は5割を超え、歴代記録を更新するのではないかとすら言われているペースにいる今シーズンの海。
この成績を以てしても海が上を見続けていることに、木村はめまいがしそうな気持ちだった。
「来年からはどれだけ俺がホームに帰ってきても、ベンチには清兵衛も居ない。祝福してくれるのはせいぜいジェネルくらいだ。男女の壁なんてってよく言うけど、それでも、俺がジェネル一人を理由に戦いを続けるのは、正直、どうかと思う。俺の戦争は、今年でケリをつけなければ、その着地点も見定められないまま、俺が俺自身を殺してしまうんじゃないかって気にすら最近なってる。……その思考がよくないから、医者から精神安定剤もらってるんだけどね」
案の定、自分で自分の成績に納得できずにいることに海は思い悩んでいるようだった。それでも、木村は海に何か気の利いた言葉を投げかけることができずにいた。清兵衛という精神的支柱だけでなく、愛する妻が長年寄り添っていて海の精神状況がこんなものなのだから、自分の言葉くらいで海をどうにかできる自信がなかった。
こんなときに、メディアの人間としてでしか海に接することが出来ない自分を木村は憎み、テーブルになんとなく置いていた半袖の腕に爪を食い込ませていた。
「勝てるチームに移籍するとか考えたりなんかは――しませんよね。今更」
「……まあね。……守るべきものがね、大きくなりすぎたんだよ。だから、清兵衛が今年をラストチャンスだと賭けに出たってことは、清兵衛もひょっとしたら、俺が全てを出し切ることができるチャンスも、これが最後だって思ってるのかもしれない。アイツが現役を辞める本当の理由は、自分の落ち度だとかなんだとかじゃない――自分の現役最後を――俺の魂に賭ける大博打に出たんだよ。きっとね。でも俺は――まだシーズン40試合くらい残ってるってのに、その博打に裏切ってしまいそうな気がしている」
「今から弱気でどうするんですか。ポストシーズンがあるのに、今から勝てない、勝てない、なんて思ってちゃ、そのうち勝利の神にも逃げられてしまいますよ」
反射的に海の尻を叩くような言葉を吐いてしまった木村だったが、海は気にしないような素振りで、うっすらと苦笑を浮かべた。
「華耶も同じようなこと言ってたよ」
「だったら――」
「俺だって、今は試合じゃないからこんなことばっかり言ってるけど、試合が始まりさえすれば、そんなろくでもないことを考えてる暇もないまま打席は回ってきてしまう。俺だって、負けるつもりで打席に立ってるわけじゃない。でも、そうしてスカイクロウズなんか相手にして、自分がタイムリー打ってなお点差が縮まらない――あと何センチか伸びていたらランナーもう一人返せたのにな、なんて場面が増えれば増えるたびに、自分の無力さを思い知るんだよ。……俺一人が4割30本打つくらいじゃ、どうにもならないんだ、って」
木村は海の表情を見て、それ以上何も言わなかった。強がってみせてはいるが、打席で見せるような姿とは別人のような力の無い笑みに、肘をついてテーブルになだれ込んでいる海の姿は、随分腰が丸く、肩幅も狭まって見えた。
折角こうして個室で二人きりで話しているのだから、よかった打席のことだとか、木村の中で印象に残っているホームランだとか、ポジティブな話題を引き出せたならば――。
海の気難しい性格を分かっていても、多少はそんな明るいニュースを期待して誘った木村だったが、これほどの活躍をしてまだ自分を追い込み続ける海の姿に木村は心を痛めたし、とても、ここから話題を変えて今日のホームランを振り返って――などと話を引き出す気にはなれなかった。
「俺だってね、いつか、野球をやっててよかった、と言える日が来たらいいな、とは思ってるよ。でも、それが優勝ありいでいいのか?という思いだってある。でも――プロって、他に何があるんだろうな。偉大な記録を残したとしても、それが勝利に結び付かなかった記録にいったい何の価値があるんだろうな。……前のあの監督【ハゲ】にしつこく俺の打撃を『勝利に繋がらない打撃』なんて言われたせいでね、俺も、そこんところがおかしくなってるんだよ。キリよくどっかで日本一のフラッグをつかんで……この戦争を俺はとっとと終わらせてしまいたい。それで……日本じゅうくらいは旅行でもしたいね。野球なんか一切考えずにさ」
木村が聞いてようが聞いてまいが関係ない、と思っていた海はそうして独り言をつぶやいた。反応してほしくて言ったような言葉なんかではなかったから、海は保健室を模したこの個室に置かれてあったアナログ体重計などをごちゃごちゃと漁りながら、ぶつぶつとそうつぶやいた。
木村はその海の寂しい背中を見ながら、どう言葉をかけるべきか迷い続けていた。