海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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99・沈んだものは

ビジター応援席から大きな大きな――それ以外の席からもちらほらと歓声が上がり、大きな電光掲示板にもシーズン記録更新を祝福する記念映像と、やけに大げさな65という数字が映し出される。

記念ボードと花束を渡された海はカメラに向けて最大限笑顔を作ろうとしたのだが、なかなか上手な笑顔を作れずにいた。

 

9月の連休にちょうど挟まったバトルシップスとのカードは、天候にも恵まれ、ここ数年続いた酷暑と比べるとやや涼しい秋を迎えていたこともあり、まさに野球観戦日和といった感じのデイゲームだった。

この3連戦ではなにやら子供向けのイベントも行われるということもあり、順位だろうがなんだろうが関係なく球場には多くの観客が詰めかけていた。

この試合を見に来ている客というのは勝ち負け関係なく純粋に野球を見たい、俗に言うライト層の野球ファンだったり、シーズンも決着がついているという事実がそこにあるからなのだろうか、観客もどちらかというと単純に"推し"を見に来ているような客層が多く、普段飛び交うような野次なんかも全くなく、普段よりもだいぶ"やりやすい"空気がそこにあった。

それが、優勝をもってしての空気だったなら、どれほどよかっただろうか――。

 

13.5ゲーム差――。

 

84勝、50敗。今季のチーターズは普通のシーズンならば優勝を決めていても全くおかしくない成績を残していた。にもかかわらず、結局、夏の間に首位を独走していたスカイクロウズをとうとう捕まえることができず、スカイクロウズは残り10試合近く残してなお、あと1勝で年間100勝に手が届くほどの圧倒的な力を見せ付けていた。

 

結局チーターズに何が足りなかったのかと聞かれると、何もかもだった。補強がことごとく噛み合い、まさに全員が全盛期――。世代交代の成功――。

 

ちょっと今年大型補強をしたくらいでは縮まらない他チームとの差がそこにはあった。付け焼刃の補強では、来年以降結局またこれまでと同じ末路をたどる。下が育ってこないといけないのに、すぐフロントは見切って契約を打ち切ったり、選手を補強したからと育成そのものがおざなりになる――。

その繰り返しでは勝てるわけがなく、結局10年単位で世代交代がうまくいかなかったことのツケが、今年はたまたまスカイクロウズ相手に出てしまった。スカイクロウズが来年以降躓いても、きっと、他のチームがまた同じように育ってくるだろう。

 

チーターズだけがこうして、若手が育ちきる前にトレードで出されてしまったり、契約を切られてしまったり、そうして育ちきらない選手がベンチや2軍を行ったりきたりを繰り返し続けている――。

このあたりの負の連鎖を断ち切れないうちはきっと、いつまで経ってもチーターズはこのままなのだろう――。

 

よそのことを考えてもきりがない上に、自分にとって何のプラスも生まないから、海は対戦相手の情報などあまり仕入れないようにしていたし、必要以上に入れ込むことだってしなかった。

まして今の海にとっては、もはや『ここで勝つ』ということ以外何の原動力を生まないほど、野球以外何もできないくせに、野球に首を絞め続けられながら生かされている――まるで、野球という虫に脳を寄生されているような状態が続いていた。

 

ただひたすら相手を打ち砕く以上の感情は必要なく、それ以外の感情なんて頭の中に入れてしまったら、張り詰めていた糸がブツリとはじけ飛びそうな感覚だってあった。

 

勝たなければ。

 

勝たなければ――。

 

今季でグラウンドを去る清兵衛のことを考えると、勝利以外のことなど海にとっては興味関心がどうでもよくなっていたし、成績のことなど言われても海を長い間拘束する『お前の打撃は勝ちに繋がらない』という言葉が、そのたびに海の首に爪を立てて襲い掛かるような気分になったから、記者には個人成績のことは必要最低限にしてくれとNGを出していた。

 

そんな海は何日か前、スカイクロウズ戦で二塁打を放った。この二塁打がシーズン歴代タイ記録だと言われたのだが、正直なところそんなことはどうでもよかった。勝てなかったのだから。

 

放った二塁打はとうとう逆転勝利の糸口にはならなかったし、それならばとなんとかして次からの打席では一発を放とうと思ったが、打球はいずれもしょうもない当たりにしかならなかった。

試合後、各方面に祝われても何も嬉しくなかったし、まるで嫌味を言われているようだった。

 

『勝てませんでしたが、大記録には並びましたね』

 

なんて言葉が、これまでの自分のキャリア全てを含めて馬鹿にされているような気分になった。

だったら、記録など塗り替えずにこのまま残り全ての打席をわざと三振してやろうかという思いさえ浮かんだ。

今から突然何かスイッチが入ったかのように突然ホームランを量産しても優勝は覆ることだってない。スカイクロウズの優勝が確定し、チーターズもAクラスが確定している以上、リーグ戦でここからどれほど打ったところで、ポストシーズンで打てなければここからのあるとあらゆるヒットは、せいぜい投手の勝ち星に影響する以外は何の意味もなさないのだ。

 

安打数、打率、打点――打者3冠が本当に海がここから全打席三振でもしないかぎり当確で、おまけに本塁打もリーグ2位につけていた海だったが、そんなこともやはり、海にとってはどうでもよかった

記録のために打席に立っていたのではない。グラウンドを去る清兵衛をしっかり送り出すために今年は打席に立っていたたのだ。今年、全ての集中力を注いで、いっそ、自分も今年をもって引退してやるつもりの勢いで打席に立ち続けたつもりだった。

 

ならば、ポストシーズンに向けて調子を整えるつもりで打席に立とう――そう思えば思うほど、自分の調子が怖くなった。

 

スコアボードの大型ビジョンに映る自分のあまりに"漫画的な成績"はしばらくの間、どこか他人事のように思えていた。しかし、自分の中で確かな手ごたえを感じるヒットが今季はずっと続いていたこともまた事実だ。わざわざ自分のヒットを振り返ることなどしないが、積み重ねてきたこの感触が本物ならば、照らされている自分の成績はきっと本物なのだろう。

夏の終わりと共に、蝉が死に物狂いで最後の力を振り絞っているかのように――海のバットは、夏までの勢いよりもさらに加速的に――現実離れしていて、どこか見ていて不気味さを伴うほどに快音を鳴らし続けていた。

 

調子が良すぎる――。

 

普段どおり打っているはずのバットに、手ごたえが感じられすぎる――そんな恐怖すらも今の海には伴っていた。

いつこの好調に終止符が打たれてしまうのか――いつ自分にとってこれが『普通』でなくなってしまうのか――自分の中でいつこれがまたただの理想、幻想として手を離れてしまうのか――それが怖かった。

 

『――佳井選手?』

 

いやに大きく響き渡るマイクの音に呼び止められ、海は思わず声の主を見つめる。司会だ。

 

どれほどの間自分はこの場で考え事をしていたのだろう――と考えることすら海はやめた。考えたところで、どうにもならないからだ。

ありとあらゆることに対してそうして思考の破棄ができればどれほどよかっただろう、と思いながら。

 

『今日はいったい、どこから話題に触れればいいのでしょうかね。やはり、シーズン記録更新となる65本目の二塁打についてでしょうか。それとも、ダメ押しとなる7回の3ランホームランでしょうか――』

 

そんなの、どっちでもいいのだが――と海は思ったが、観客の沸き立つ声に手を振らざるを得なかった。

 

「9回のツーベースなんですけど」

 

やはりそうきたか、と嬉しそうな表情を浮かべた司会。どうせ、先にこちらのほうを聞きたかったのだろう。海は白々しさを覚えながら、長い髪をかきむしった。

 

「結果的に、その後フォアボールとヒットと続いて、後ろが満塁ホームラン打ってくれましたよね。僕の本当の役目というのは、少しでも前のランナーを帰して、自分も塁に出てピッチャーにプレッシャーをかけながら更に追加点を狙いにいくものだと思ってます。記録を塗り替えたっていうその65本目のツーベースが、しっかりとこの試合を完全にモノにするホームランに繋がったことが、正直言って、僕にとっては本当に嬉しいですね」

 

バックスクリーンの大型ビジョンにも、改めて『佳井選手 シーズン二塁打更新おめでとう』という画面が映し出される。

ビジターでの試合だというのに、よくここまで丁寧な演出を準備できたものだと改めて海は関心したものだが、タイ記録となる64本目を打った試合のように負け試合にならなくて本当によかったとも海は思った。

 

『そして、2試合連続弾となるきょうのホームラン。お見事でした。44本目のホームランということで、自身の自己ベストを更に塗り替えることになりましたが、いかがでしょうか』

「……そうですね、昨日はホームランがあった代わりに、二度もゲッツーでチャンスを潰してしまいましたからね。あの二度のゲッツーの場面で今日みたいなホームランが打ててたら、昨日の試合もひょっとしたら勝ててたかもしれませんし――もう少しここで打たないといけない、というようなターニングポイントでもしっかり得点に結びつけられるようなバッティングをしないと改めて思いました。今日も当たりはよかったかもしれませんが、まだまだ素直には喜べないです。昨日のホームラン含めて、本数だけで喜んでる場合じゃないと思っています」

海は渋い顔をしながら司会の質問に答え続けた。

 

「……はぁ」

どうにも、ベイスタジアム横浜――ベイスタに深々と根付いた苦手意識があまりに自分にとって大きくなりすぎてしまった気がすると海は思っていた。

打つ、打たないは関係なく、あの場は何かと自分に対してプレッシャーを感じてしまう。試合中には気にならなかった日があったとしても、試合の後に大きな疲労感を感じてしまうし、試合の前にはどうしても必要以上にプレッシャーを感じてしまう。高い外野フェンスを睨めば、めまいすら覚えるほどだった。

 

思い出の地だったから――勝つべき日に勝てずに倒れた場所だから――そして、シーズン記録を塗り替えた場所という、本来もう少し喜ぶべきはずのポジティブな要素が加わったはずなのだが、それは逆に、これからは常に『シーズン記録を塗り替えた男』という事実が付きまとってくることにもなる。これから、来年、再来年――何年先にまでなるだろう、ここに来るたびに取材陣にもずっと、二塁打記録のことを言われるだろう。

 

自分は記録を塗り替えるために二塁打を放っていたわけではない。少しでも自分の力をもってチャンスを生み出せる当たりは何か――試合を動かせる当たりは何か――それを頭の中で考え抜いて打ったヒットが今年はたまたまここまでシーズン65回の二塁打を生んだだけのことだ。

外野は自分のヒットを警戒して深く守るようになったし、これからはもっと警戒して――下手に鋭いグラウンダーの打球なんかを放ったらたちまち併殺打になってしまうようなシフトを内野はしてくるだろう。

外野だってそれに合わせて単に深めの守備をするだけでなく、少しでも外野を抜けるような当たりにはさせまいとありとあらゆる策をバッテリーやベンチ側が仕掛けてくるだろう。

 

どんなシフトを敷こうが、その間を縫うようなヒットさえ打てればいいのだ――頭では分かっているが、そんな器用なことが全ての打席でできるわけではない。

勝たなければこの戦いは終わらないのだ。

あるいは――自らこの戦いから降りることを選ばなければ、一生この戦いは終わらない――。

 

ヒーローインタビューを終えた後もしばらく、ベンチで動けずに居た海。9月末の太陽は駆け足で沈み始める。日が傾き始め、赤く照りつける日差しが暑く厳しいが、同時に秋を感じさせる冷たい風が徐々に吹き始めてきた。

明日もここで試合がある。明日もまた同じように打席に立ち、この好調を維持し続けられるようにしなければならない――。

 

『首位打者、最多安打、打点王を独走していますが、このままシーズン最後まで打ち続けてください』

 

司会が軽々しく放った言葉が、海に突き刺さった。

 

『考えてみたら、うちから個人タイトルが出るのは久々だねぇ』

『打線に本塁打王独走してる奴が居て、その本塁打王を追いかけるリーグ2位の本塁打を打つ奴が、打者主要タイトル三冠当確。それでも優勝できないっていうのは、野球というのは、難しいね。……いやあ、難しいねぇ』

 

今野も決して悪気があってベンチに戻ってきてからそう言って海の肩を叩いたわけではない。優勝できなかったのは自分の采配や指導力不足だ――とでも言いたかったのだろう。その意図を全く汲めないほど自分は鈍感でいたつもりではない――そう海は思っていた。

 

……いや、そう思いたかったのだ。

 

打者のタイトル部門をチーターズの野手――というか、自分と4番打者の二人で乱獲しているような状況下において、それでもシーズンを勝ちきれないという事実。

それを改めて声に出されると、胃を握り締められるような感覚が襲ってきた。

わざわざ自分の前で勝てないと呟くくらいなのだ。今野からしてみても、何か自分に対して思うところがある――そんな風に勘ぐってしまってもおかしくない日々が続いていたのだから、どうにかして今野の何を考えているか分からない胸中を、自分の中で都合よく解釈しなければやっていられなかった。

 

じっとバットを見つめて、思うようにならない感情をバットに込めたくもなったし、そんなことをしてどうにもならないという冷静さがかえって海の感情を濁らせた。

とりあえず、球場からは出なければ――足取りを重くさせながら、海は更衣室へと向かった。

 

「海さん」

球場の出口のあたりの通路で、ジェネルが待ち構えていたようにしながら、組んでいた腕を解いて、海に向かって飛び込んできた。

「……やめろよ。そんな、彼女か愛人みたいなこと」

いつもどおり海がそんなジェネルを引き剥がし、口を尖らせながらジェネルから目線を逸らす。

 

「どうせまた何か考え事してるんだろうなー、って思ってたんですよ。でも、きっと何言っても海さん、難しいこと考えるだろうから……ここでずっと待ってたんです」

「お節介な奴だよ、お前は」

「別にそう思ってもらっていいですよ――」

「『私は勝手に片思いしてるだけですから』」

ジェネルが言った言葉と重なるようにして海の言葉が通路に響いた。

 

「どっか、行きましょう。……どこも行きたくないなら、ホテルの部屋でお酒でも飲みましょう。何でもいいから気分転換くらい、手伝わせてくださいよ。こんな大事な時期に去年みたいにまた休まれちゃ……嫌ですから」

ジェネルが海の腕をぎゅっと握り、上目遣いで心配そうに見つめる。

 

「そういうのは、彼女の特権だと思うんだけど」

「私は勝手に自分のこと、海さんの彼女だと思ってますから」

「あっそ」

海はそんなジェネルの腕を振りほどいて――

 

「……どこでもいいよ。お前、どっか俺を連れてってくれよ。一秒でも長く……今は野球のこと、忘れてたいんだ」

振り返らずにそう言った。

 

ジェネルは海の横に立ち――

「任せてください」

と、嬉しそうにしながら今度は海の手を握り、引くようにして歩き出した。

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