海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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100・ある一つの終わり

仮に自分に生まれてきた理由があるとするならば、このような試合で結果を示すというものが自分に下された最大の人生の山場であり、運命だと思っていた。その時のために自分はいかなる努力も惜しんでこなかったつもりだった。

 

怖いほどの好調が夏から秋にかけて続いていたが、それはとうとうシーズン最後まで終わることが無く――最終的に自身最多となる46本塁打、そして更新したシーズン二塁打記録は67まで伸ばしていた。全てはこうした大事な場面のためのイメージトレーニングのつもりだった。

 

8回、同点どころか逆転一打もありえる場面で海は、よりにもよって今シーズンよく当たっていた投手相手にバットの芯を外した。

 

外されたのではない。

 

外してしまったのだ。

 

配球が読めなかったわけではない。ボールが見えていなかったわけでもない。何か自分にとって苦手意識のあるようなコースに投げ込まれたわけでもなければ、力みすぎる要因があったわけではない。普段どおりその打席に自分は立っていたつもりだった。

 

一塁が遠かった。足が言うことをきかなかった。まっすぐ走っているつもりなのに、どこか視界が歪んで、まっすぐ走れていないような――ひょっとしたら本当にまっすぐなど走れていなかったのかもしれない。

海はその瞬間確信した。自分は打席に立っていたとき既に、自分では平常心でいたつもりだったが、全く平常心などではなかった――ということに。

 

『悪ィな。やっぱ、お前が打たなきゃ終われねェみてぇだわ』

 

7回、清兵衛が三振して帰ってきたとき、精一杯の笑顔を自分に見せた。清兵衛自身、自分が本当はこうした場面で打たなければ――と思っていたのだろう。

 

この試合に負けた瞬間、清兵衛のキャリアは終わってしまうのだから――。それを把握しているのは自分だけという事実。清兵衛の言うように、自分が打たなければ戦況を動かすことができないという事実。

 

いつも通り。

 

いつも通りを心がければ、何もおかしなことは無い――。

 

くぐってきた修羅場の数はそれなりに多いと思ってきたし、これまでもこうしたプレッシャーと共に戦ってきたつもりだ、と海は強く自負していた。

いくらシーズンで記録を残そうが、こんな場面で打てなければ野球選手なんてものは何の価値もなさないことだって分かっていたし、そのために自分をここまで追い込み続けてきたのだ。

 

一塁にたどり着けなかった後のことは、よく覚えていない。その後どんな気持ちで、どんな足取りで自分が9回の守備についていたのかだって、覚えていない。

 

初回のタイムリーを守りきれなかった投手が悪いのではない。

先制点なんてものは、逆転できなかった時点で何の意味もなさない。8回、一塁にランナーを置いていた大事な場面で打てなかった自分が悪いのだ。

 

試合が終わってどれほどの時間が経ったのだろうか。海はただただ呆然としながら、どこを見ているのか分からないような表情をしたまま――濁った視界の中でいっそこのまま、眠りについたら全てが0に戻っている――そんなありもしないことを考えながら、バットを杖代わりにしてうなだれた。

 

グラウンドに投げ込まれたゴミ、タオル、旗、ボード――それらをスタッフが相変わらず拾っていた。

 

「ポストシーズンに出られただけでも十分やと思うんですけどね。前に出たの、8年前ですよ、8年前」

「アホ。何年優勝から遠ざかってると思てんねん。チャンスがあるから悔しいんや」

「せやからって、ゴミ投げんでもええやないですか。選手名タオルなんか投げたって、どうにもなりまへんよ」

「……いいから黙って拾え。俺かてこんなモン見とうないわ。気分悪いわ」

 

遠くでスタッフがそんな愚痴をこぼしながら一つ一つゴミを拾っていることも、かつて海が『この球場のゴミを0に出来ると思うか?』と言っていたその理想からかけ離れた姿も――海の瞳には、ただただぼやけた世界だけがそこにあって、しっかりと見えてはいなかった。

 

見えていなかったのではない。

 

もう、何も見たくなかったのだ。

 

全てが0に戻る方法を考えたとき、海はなかなか定まらない視界の中で、それでもしっかり手に握られたままのバット"らしきもの"をじっと眺め――うっすらと額に当てた。

す、っと手首を寝かせ、しばらくの間静寂が自分の視界をもう一度歪ませ始めたのを確認してから、ぐっと両手に力を入れた。

 

空が汗にまみれた額を撫で――それが自分の最後の記憶になるものだと思っていた海は、何かに押さえつけられているのか――自分の両手に込めていた力が自分の意思を離れたことにふと気がついた。

 

「何してるんですか……何してるんですか!!!!!!」

 

聞き覚えのあるような声に、全身の力がふっと抜けてしまった海はそのまま両腕をだらんとさせ――いつしか行方の分からなくなったバットのことなど、どうでもよくなった。

 

自分でいったい何をしようとしていたのかすら、理解ができなかった。それを『無意識に手が伸びていた』という言葉で片付けてしまえばきっと楽なのだろうけれど、きっと呼び止められるまでは自分は――その先のことを想像するのを海はやめた。

 

その一方で、どうして自分を呼び止めてしまったんだ――という絶望感が襲ってきて、海は目の前にいるシルエットにすがりつき、胸を叩いた。

この際、目の前にいる人物が誰だろうとどうでもよかった。誰でもいいから、感情の行き着く先が欲しかった。

 

声にならない叫びと、いうよりは、ググ……ガギ……と、くつわで口を押さえられた獣が必死で抵抗するような声を上げ続けながら、海はしばらくしてそのまま膝に崩れた。

声に出すと事実になってしまう悔しさを押し殺しながら、しばらく海はそのまま膝の辺りで顔を埋もれさせて、言語化すらできない感情を吐き出し続けた。

 

そこから先のことは、よく覚えていない。

 

~~~

 

次に気がついたのは、見慣れない色合いのソファと見慣れない天井がある部屋だった。

 

自分の家のテレビよりも一回り、二周りほど小さい――それでも、一人暮らしには十分すぎるほどのテレビが壁にあり、壁には自分が若手だった頃のA2サイズのポスターや、初めて家電量販店・ジェーシンのCMに出演したときにキャンペーンの景品にしていたギターがかけられていた。ボディの痛み具合からして、あまり弾いているような感じではなく、完全に観賞用のようだった。

ところどころにウサギの壁紙や装飾がほどこされた部屋の中で、そうしたものがいやに存在感が浮いていたから、余計にここが現実かどうかが判断しづらかった。

 

「……落ち着きましたか?」

「……」

不安そうにしながらジェネルが鍋を持ってきて、テーブルに置いた。

 

何故ジェネルがここにいるのか――ということよりも、どうして自分がジェネルの家らしきものに居るのか――事態を整理しようとした海をひどい頭痛と耳鳴りが襲い、軽くふらつくようなめまいと、いやに高鳴る鼓動が回想を拒むようだった。

 

顔を真っ青に染め上げ、瞳の辺りを腫らした姿を見てジェネルは慌てながら

「あぁ、あんまり無理しないでください」

と海を再び世界的に人気なウサギのキャラクターの大きなソファへと沈めた。

 

「……華耶さんには事情を説明しておきましたから」

「事情って」

 

つい何時間か前の記憶が欠如しているのか、それともしらばっくれているのか――わざわざ少し前の出来事を掘り返すのも酷だと思ったジェネルは、特に事情が何なのかに触れずにおいた。

 

「……別にこの機に乗じて海さんを取って食おうって気でいるわけじゃないですからね、私。ただ……今の海さんの顔、華耶さんには見せられても……子供たちにはきっと見せられない顔なんで」

「……そんなにひどい顔なの」

「鏡見たら自分で卒倒しかねないひどさです」

「……そっか」

 

海はエプロン姿のジェネルを見ながら――これは夢なのではないか?という気分になった。夢だったならば、これはこれで幸せな展開のひとつなのかもしれない、と思いながらも――少しずつ冷静さを取り戻した海の頭は、これが決して夢でもなければ、地続きの現実であることを理解しつつあった。

 

「……帰り際に私、言われたんです。清兵衛さんに。呼び止められて」

ジェネルは海の隣に座って、汗はかいているはずなのに体が冷え切っている海の手を握りながら、話し続けた。

 

「だろうな、って思ってはいましたよ。7回の代打のときの清兵衛さんの顔、なんだか、全てを覚悟したような顔でしたから」

「……」

「一言だけ、『アイツを頼む』とだけ言ってミーティングルームから出て行くのを見て、なんとなく分かりました。嫌な予感がして……そういえば海さんを見てないな、って思って探して回って……ベンチに戻ったら海さんが居て……」

 

海はできればその先は言わないでくれと思っていたし、ジェネルもそこから先のことからは逃げるようにして、口を一旦止めた。

「……いつから、知ってたんですか。清兵衛さんが辞めるってこと」

「……5月の末くらいだったかな」

「……そうですか」

「……アイツが辞めるなら、今年思いきり頑張って、俺も一緒に辞めてやろうかと思った。アイツと一緒に、全て成し遂げて――華耶の想いにも応えてやって……とっととこの戦争から……逃げたかった。いい終わり方をして……華耶と……晴留や新たちと……父親らしい生活を……夫らしい生活をしたかった」

海は引き絞るような声でそうつぶやいた。

 

「……華耶さんにも話せなかったことですよね、じゃあ」

「……あぁ。声に出したら……華耶も、俺も……そのことばかり意識してしまう気がしたから。これはあくまで俺とアイツの中だけの戦いだから……誰にも言わないようにしていた。……アイツだって、こんなことわざわざ声高らかに宣言してチームを一つに、なんてシケた真似をするタチじゃあ……ないからね」

「……海さん」

ジェネルは海の手首をぎゅっと握り、その鼓動を測るようにしながら海の顔を見つめた。

 

「……海さん、きっといつもこんな脈より早く……もっと早い脈であの場に立ってたんですよね。……試合で楽させてあげられない私が無力で、辛いです」

「……そんな薄っぺらい同情なんてやめてくれ。これは俺の問題だ」

海はジェネルの言葉を拒絶し、ジェネルの手を振りほどこうとしたが、ジェネルは退かなかった。握ったままの手首が、いつもよりずっと固い。

自分がジェネルを振りほどけないほど弱まっているのか、ジェネルの意思の強さがそれだけ手首にかかっているのか――それは海には判断できなかったが、ジェネルの瞳は真剣そのものだった。

 

「……言ったじゃないですか。役に立たせてください、って。絶対、海さんの目の黒いうちに絶対……絶対、海さんに優勝旗と日本一のフラッグをつかませてやります、って。海さんが毎年あんな大舞台でガチガチになるなら……私が大舞台でその倍は打ってやります。ううん……これからは清兵衛さんの分まで、絶対。だから……」

ジェネルも瞳に大粒の涙をためながら、海を見つめている。

なんとかこぼれ落とさないようにこらえて、声を震わせながら、しばらく天井を見上げ――

 

「……降りないでください、この戦いから。海さんの両腕がねじ切れる、そのときまで。ううん……そうなる前にきっと私が……海さんに並ぶことはできなくても――海さんに後ろを任せてもらえるような打者になってみせますから」

「……お前、何度も言ってきたじゃないか、そんな言葉は。言葉なんて、人間いくらでも言える。……強がりだって、虚勢だってね」

「……海さんがあえて意識しないように弱い言葉を吐かないように、私は意識するために何度も強い言葉を言わないといけないんですよ。……私自身が、この無力さに押しつぶされそうなんです。ぶっちゃけ、心のどこかで――清兵衛さんと海さんが滅茶苦茶打って、バトルシップスも、スカイクロウズなんかもコテンパンにして……コンドルスだかコンデマスだかコンシェルジュだかパンコントマテだか分からないけど……どんなチームだって一気に勢いでねじ伏せてしまうもんだと思ってましたし」

 

ジェネルの問いに海はうつむき、目を背けた。

「……そうできなかったのは俺の責任だ。2位でシーズン終わったのに、ポストシーズン1stステージ敗退なんて。……13ゲーム差だぞ、13ゲーム差。圧倒的にこっちが有利だったはずなのに、終わってみたらバトルシップスにボコボコにやり返されている。情けないだとか、不甲斐ないなんて言葉で語るには……あんまりだ」

 

負けたのは海一人が打てなかったからではなく、中継ぎがリードを守れかかったからだとか、海以外の打棒も調子が悪かったからだということは誰の目にも明白だった。

どうして一人で全部背負おうとするんだ――とジェネルは思ったが、一人で全部背負うような状況を作っているのは自分のせいでもあるとも理解していたジェネルは、声を震わせながら海をぐっと引き寄せた。

 

「だから、言ってるじゃないですか。……その責任、私にも肩代わりさせてください。15年遅く生まれてきたという事実と……その15年の差を縮められない私にも、肩代わりさせてください。今の海さん、きっと華耶さんにすら本当に思ってること言えなくて……またあんなことしそうで……っ」

「……」

 

とうとう泣き出し始めたジェネルを見て、海は自分の無力さをまた悔やんだ。ジェネルは自分の無力さを悔やんでたが、海からしてみたら、結局それも自分の不甲斐なさが招いた事態にしか見えていなかった。

 

清兵衛をいい形で送り出してやれなかったという事実と、そこにジェネルをとうとう本格的に巻き込んでしまったという事実――。

 

肩代わりさせてほしい、というジェネルの言葉に裏はないだろうし、いくらでもこの重圧を自分以外の誰かになすりつけてやりたいと思う反面――他に責任をなすりつけたその先に、果たして自分はあのような大舞台で今後震えあがらずにいられるだろうかという恐怖心もあったし、今年ほどシーズン中とうとうほとんど途切れることのなかった好調など、二度と巡ってこないのではないかという恐怖心がそこにはあった。

来年の6月には37歳になるという、自分のキャリアが突然フリーフォールを始めてもおかしくない年齢が迫っているという事実――ありとあらゆる全てが海を恐怖に引きずり込もうとしていた。

 

どれほど臆病者だと罵られようが、どれほど失望されようが、許されるのであれば華耶に『もう辞めてもいいか』と泣き言を言いたい気持ちに海は駆られた。

世間もフロントも華耶も、誰もかもそんなことは許さないだろうから――海はもし戻れるのであれば、いっそ、華耶に素直に自分はそれでも野球とは縁を切りたいと言ってしまいたい――とばかり考えた。

 

自分を見つめて泣き続けているジェネルと、青白い顔をしたまま絶望に打ちひしがれている海。

卵が浮かんだ茶色っぽいスープから湯気を放つ鍋だけが置いてきぼりをくらっていた。

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