〈えーと……今回の『居酒屋同伴』は長野県白馬村からお送りしております。今回の担当は兵庫チーターズ所属、佳井海です。皆さんよろしくお願いします〉
〈ちょっと待てい!!!!〉
〈シーズン記録保持者やぞ!今季こいつ一人でタイトル何個獲ったと思ってるん!?〉
〈仕事を選べ、仕事を!佳井!お前、こんな関西ローカルでイジられるような奴じゃないで!!〉
晴留がじーっとテレビを見ながら、時々笑い声をあげる。真結と広乃もテレビにかじりつくように見ながら、テレビの向こうに映る、滅多に見ない『一人で素でいる』佳井海という人間を観察している。
「あ、このペンション……」
遠くで皿を洗いながらテレビを見ていた華耶が思わず声を出した。
〈――ということで近くの人に教えてもらったペンション・クルクルにやってきました。なんでも、昔……『仮名たちの夜』という……人気ゲームの舞台として登場したことがある……そうです〉
〈あぁ、いらっしゃいませ。以前こちらに奥さんが娘さんたちを連れて旅行に来てましたよ〉
〈は?〉
〈ちょっと待てい!!!!〉
〈忙しいからな、しゃーないよな〉
〈悲しい顔をすな、そんな悲しい顔を!!〉
〈映さんでやれよカメラもよ、こんな顔をよ〉
次々と人気お笑いコンビ・一索の二人によってVTRにツッコミを入れられていく海。テレビの向こうでは、華耶が以前晴留たちを連れて行ったことのあるペンションが紹介されていく。
海は本当にスタッフから知らされないで現地に行ったのだろう。ペンションのオーナーにあちこち紹介されながら、時折寂しそうな表情を浮かべて部屋の間取りを確認したり、訪問記念のノートに記された数年前の日付と共に、華耶の訪問メッセージを見て複雑な表情を浮かべる海がそこにはあった。
「いつかちゃんとお父さんも連れていきたいね」
「でもここ、冬は予約で一杯だからね」
「まぁ、冬が舞台のゲームだからしょうがないよね」
「お父さんずっと寂しそう」「泊まったときもここでお父さんの試合見たよね」
〈奥さん、引退したらこいつをいろんなところ連れてやってくれ。こんな悲しそうな顔見てられんわ〉
〈いやー、さすがにオフの間くらいはどっか旅行行っとるやろ〉
〈足りひんねん。チーターズの3番打者ちゅう看板下ろす日が来たら奥さん、こいつを沢山連れまわしてやったってくれや〉
〈でもまだ辞めへんやろ。佳井が辞めるの、当分先やぞ〉
〈分かった、もう引退せえ佳井!〉
〈ひどいこと言うなぁ~〉
「ねえ、お母さん」
「ん?」
皿を洗い終え、ソファに座る華耶。ぱたぱたと走り回る柊理を捕まえて抱きかかえた晴留はそんな華耶の表情をじっと見つめ、少し表情に影を落とした。
「お父さん、引退してもしばらくはこんな風に忙しいのかな?」
「それは……」
今日は今日で、高級料理店で料理の値段を当てるコーナーにゲスト出演するために東京に収録に向かっている海。
その後もしばらく、BS放送の野球関係の番組だとか、ニュース番組のインタビューだとか、ドキュメンタリー番組だとかの収録が立て続けに行われたりはするのだが、どちらかというとそういった真面目な番組なんかよりもクイズ番組の出演だとか、ドラマにちょっとした役で出演するだとか、大手企業のCMの収録だとか、今季の最優秀選手賞を獲得したがゆえのメディア露出を海は余儀なくされていた。
もとから野球選手としてはあまりに不釣合いなルックスを持っていることからオフシーズンの海は何かとメディア出演が多かったのだが、今年の海は自分の意思とは関係なくこうして多忙な秋冬を迎えようとしていた。
そのたびに大阪と東京を行き来するわけにもいかないから、せっかくオフシーズンに入ったというのに海はかれこれ2、3週間ほど家を空けていた。
もちろん、海だって断れる仕事は断りたかったのだが、世間やフロント、球界がそれを許してくれない。
近年、国際大会で目覚しい成績を残しているサッカーやテニスなどに押され、低迷を続けている野球人気をなんとかしたいという風潮だとか、あるいはさらにグッズの売り上げや年間シートの購入を促したい球団そのものの思惑だとか――海にとってはどうでもいいことばかりが海の肩にのしかかっていった。
あまり口上手ではない海をバラエティでいじりたい風潮――なんとかして海から予想外な言葉を引き出したい制作側――。
もちろん、純粋に野球のことだけ知りたい局や制作側もいるし、ミュージシャンとしての海に用がある制作側だって少しはいるのだが、ゴールデンタイムの番組に海が映っていることが多いということは、結局のところ、バラエティ色の強い番組出演がそれだけ多いということだ。
小手先の視聴率を稼ぐために、年俸を考えれば考えるほど、本当に割に合っているのかどうか分からないギャラをもらって出演させられている――。
それが海としてはあまり本意ではないことを、笑いながらも晴留は分かっていたし、華耶としても海がだいぶ無理をしていることは痛いほど分かっていた。
お笑いコンビ・一索のユキが『もう引退せえ!』とツッコミを入れたその言葉に、しばらく華耶も晴留も同じことを考えていたのか――リビングに飾られた最優秀選手賞の盾や各タイトルのトロフィーを同じように見つめていた。
スキーの人気スポットであるだとか、山地ならではの過ごしやすさなどもあり、最近は外国からの移住が多いとされる白馬村。
大阪の街を歩くよりかはきっと気楽なのだろう、テレビの向こうで町ですれ違う海外からの移住者に英語で会話している時の顔は、自分を『佳井海』だと認識している日本人と会話しているときよりも少し生き生きとしているように感じられた。
それを再びイジりだす一索の二人のツッコミを見ながら――海が一体、いつまで『世間の求める佳井海』として振舞い続けなければいけないのだろうか、と二人はそれぞれ考えていた。
カナダから引っ越してきた、という移住者と英語で話し続ける海の表情は、試合中どころか、家の中ですらも見たことのないようなほどの笑顔が時折混じっていた。
「ねぇ」「この字幕、英語の訳がちょっと間違ってる気がするの」
「きっとスタッフが翻訳を間違ったの」「テレビ的に面白くないからわざと翻訳のしかたを変えたかもしれないの」
「うん?……え、ああ……ごめんごめん、ちょっとそこ見逃してた」
そんな華耶の思考を遮るようにして真結と広乃は字幕についてケチをつけ始めたが、華耶はその言葉を話半分で聞いていた。
字幕が広乃の言うように『テレビ的に面白くないからかえたかもしれない』のであれば、海は番組に出演するたびに『テレビ的に面白い』ように不本意なことを言わされたり、あるいは編集でうまいこと、あることないことを言ったようにされているのかもしれない。
自分も普段野球の試合の動画の編集や、試合の見所のピックアップだとか、名場面集だとか――さまざまな編集をしている立場だから、メディアにはメディアなりの立場があることも華耶自身分かっているので特にそれを憎みもしなかったし、どこもきっとそういう風にうまくやりくりするように言われてることだって理解はしている。テレビにはテレビのやり方があるのだ。
そんなことも華耶は理解はしているのだが、あの笑顔の中にある海の気持ちを考えると、今すぐにでも会いに行って抱きしめてやりたい気分だった。
抱きしめたところで自分にはそれ以上のことはできないし、そんなことで海の心がどうにかなるとも思えない。愛しているからこそ、自分が愛を与えるからこそ、海はその愛に応えるためにまた傷ついて帰ってくるのだ。本当に海を傷つけているのは自分だという自覚があるから、いっそ、海が怪我でもして、自分の口から『もう十分だよ』などと言える日がいっそ来てしまえば――とさえ思った。
海が戦い続ける限り自分はその手で海を抱きしめ、愛しながら――同時に海の首を絞め続けてしまう。それは、海の中で戦いが終わらない限り、華耶の苦しみもまた、終わらないのだ――。
『――年間MVP……最優秀賞は獲れたかもしれませんが、結局僕は肝心な試合では打てなかったので……。……来季はMVPなんかよりも、40本を超えるホームランなんかよりも、大事な試合や場面を落とさない打者だと誰しもが思ってくれるような打撃をしっかり一年また続けて、またこの場に戻ってきたいなと思っています。僕ももう歳も歳ですし、正直言っていつまでそんなこと言ってられるか、って話ですけども……』
精一杯、タイトル授賞式の場で笑ってみせた海。ぎこちなく、本人は笑っているつもりでもどこか引きつったような笑顔。
試合の場しか知らない人間は、長い間海はこんな顔しかしないから、これが海の笑顔なのだときっと思っていることだろう。
笑いたくても笑えない――いつしか笑顔の作り方だって忘れてしまうような、そんな生活を続けてきた海。
その生い立ちから追い込まれていった海を助けたいと思っていたはずの自分は、どれほどの時間がかかっても、海を絶対笑顔にしてみせる――そう思っていた。そのためには何だってすると思い続けながら、華耶はこの20年あまりを海と共に過ごしてきた。
確かに、付き合い始めた頃なんかより海は笑うようになった。自分の前くらいでは笑顔を時折見せるようになった。
その笑顔を曇らせている原因が今は自分にあるという罪悪感――。
もしかすると、近い将来、自分が海に望んだことのせいで海から永遠に笑顔を奪ってしまうのではないか――しばらくの間テレビの向こうで笑顔を見せていた海が再び、現地の人間とレストランで食事をしながら普段どおりの表情に戻っているのを眺めていた華耶は、そんなことさえ考えてしまった。
せめてそんな自分の気持ちが海に察せられないように明るく振舞って、海の心に寄り添っていよう――そう思った。思えば、有休はいくらでも余っているのだからもっと自分から自分を奪っていいと海に言ったものの、海は結局自分の仕事を気にしてか、なかなかシーズンが始まると声をかけてはくれなかった。
ひょっとしたら自分を誘いづらい理由が他にあるのかもしれない――それが別に、今更別の女が出来た、などと浅い理由だとは全く思わなかったし、そんなわけがあるわけがないことだって理解もしていた。
自分を信用できなくなったというわけではない――そう思いたかったが、自分に対してどことなくよそよそしいような最後の一枚の壁があるのは、海自身が誰にでも壁を隔ててしまう性格だから仕方ない、という思いもあった。
これほど自分と長く連れ添ってなお、自分に対して気を遣ってしまう海。今更気を遣われてもなんだかこそばゆいだけだから、もっとわがままに自分を振り回してくれ――と華耶は思ったが、そんな言葉を自分もきっと言い出せないだろう。
きっと、自分と海との間の距離というものは、自分たちが長い間連れ添ったからこそできてしまったものだ――と思うと華耶の胸は痛んだ。別に互いに対して飽きたわけでもなければ、深い不満の溝があるわけではない。互いが互いをあまりに理解しすぎているからなのだ――。
痛む胸の奥とは別に、少しだけ華耶の頭の中で、カサコソとジェネルへの羨ましさが這いずり回っていた。
ジェネルが先日電話をかけてきた際、ジェネルは『今の海さんを見たら、きっと華耶さんは自分のことを責めてしまいますから――』と言っていた。
自分にすら話せない何かがそこにあったというのなら、きっと、それは間違いなく野球に関することだろう。
華耶にだって、あの日の試合が海にとってよほど落としたくない試合だっただろうことは想像できた。それでも、自分に顔合わせできないほどの理由は、後日、清兵衛が引退を表明したという報道がされるまでは華耶にはあまりピンとこなかった。
自分も気を遣って海に対してすすんであまり野球の話をしようとはしなかったし、海もまた、チームで何があったかは華耶に気を遣ったり、単純に話したくない話題だったということも何度もあって、あまり積極的に話すことはなかった。
決して二人の関係がすれ違っているわけではないのだが、長年連れ添って気を遣いあえる関係だからこそ、海はあの夜、ジェネルが電話をかけるほどの事態に陥った理由も、ジェネルの部屋で何があったのかも話してはくれなかった。
別に、ジェネルの部屋にいたことが問題なのではない。
何がそこまでして海を追い込んだのか――それくらいは話して欲しかった。しかし、それを問い詰めるということは海の傷を浅かれ深かれえぐってしまうことになる。
清兵衛の引退を華耶がニュースで知った際華耶は、海はきっと清兵衛が今年で辞めることを知っていたはずだ――と直感した。いやに今年の海が一人で居るときにピリピリしていた理由も、突然話しかけたときにとても険しい表情になっていたことも、全てが繋がった。
『言葉にしたら認めてしまう』と海はよく言っていたから、きっと清兵衛の引退を自分にすらも話さなかったのは、清兵衛の引退を自分の中で先送りしたかったからなのだろう。
だからこそ、ポストシーズンで負けたあの日、海はひどく壊れたのだ。
それでも、家に帰ってきた海は華耶にすすんでそんなことを話さなかった。話せば余計に苦しくなることも、世の中にはたくさんある。きっと海にとって、それほど辛い出来事だったのだ。だからこそ、華耶も必要以上に海に対して清兵衛のことは話題に出さなかったし、引退を知ってからも、海にはその話をすることはしなかった。
肌も心も重ねあわせ、相手の考えていることが分かるからこそ、かえって互いに踏み出せない一歩というものがある――華耶はそれがもどかしかった。
思えば、喧嘩という喧嘩だってしたことがない。なんなら、しないに越したこともないだろう。別にこの歳になって大きな喧嘩をしたいわけではないし、これからもせずに済むなら、済む道を選びたい。
それでも――海が家に帰ってきたら――ゆっくりと二人で過ごせる時間が少しの間だけでも戻ってきたら――海の心の毒をすぐにでも吸い出してやりたい気持ちに華耶は駆られた。
そんな気持ちだけがそこにあって、具体的に何をしてやれるかと言われれば、自分はジェネルのように野球の面では海をサポートしてやれない。それでも、自分にしかできないことがあるはず――華耶はそう思って、携帯の壁紙にぴたりとはまった海の写真を胸に抱いた。
「……早く海くん……帰ってこないかな……」
ぽつり、とつぶやいた華耶の言葉ははっきりと晴留にも、真結にも、広乃にも聞こえていたが、『お父さん』ではなく『海くん』と漏らした真意を晴留は分かっていたから、真結や広乃に対して唇に人差し指を当て、何も言わないように促した。