海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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103・伝説は海を越えて

〈――ツーアウト、ランナー一塁。カウント、ワンボールツーストライクとなりました。ここまで日本代表はよく戦い抜きました。アメリカ相手にここまで1対2。そして打席にはこの男――佳井海。大きな大きな歓声に包まれながらの登場です。準々決勝でのカナダ戦でも8回に逆転スリーランを放っているこの男にスタジアムが注目します!!自分は日本代表として国際試合に出ていいのかどうかと悩んでいたそうですが、今や日本中の誰もが、この男を日本人だと思っています。孤高の天才打者――白いサムライが、この大一番!!やってくれることでしょう!!〉

〈ええ、ここは一発ホームランを狙って欲しいところですよね〉

〈一発が出ればサヨナラという場面。ピッチャーは200勝投手、ミッチェル・ライスに代わってこの回からマウンドに上がっている、去年の大リーグ年間MVP、そしてワールドシリーズMVPを総なめしたダミアン・メリッサ・シーンが立ちはだかります!!日米最強の選手がここに、最後の決着をつけようと火花を散らしています!!次の一球が最後になるのでしょうか!!――投げました!!〉

〈ああっ――〉

〈いったああああああああああああ!!!!!!!!!!!俺は!この一球を!待っていたんだと言わんばかりのッッ!!日本中全ての想いを乗せた白球がッッ!!今ッッ!!ライトスタンドの最上段へ猛々しいアーチを描いていますッッ!!!日本一になったことも、いまだリーグ優勝を果たしたこともない、そんな自分がこんな大事な試合で役目を果たせるか不安だと語っていた男がッッ!!遠く離れた海の彼方で大きな大きな夢を描いてみせましたァーッッ!!!!佳井!!この瞬間ッッ!!お前は全世界が認めた日本人だ!!!!じっとホームベースを見つめた佳井!!さあ!!あとはホームベースを踏むだけです!!!!ゆっくりと――天を仰いで何かを確かめるようにして――今!!ホームイン!!日本!!!アメリカを破り、見事世界一に輝きましたッッ!!!!!〉

 

ワールドベースボールチャンピオンシップシリーズ――通称、WBCSの決勝戦の映像を眺めている華耶。リビングに飾ってあるトロフィーや記念盾などの中には、この春世界一に輝いたその記念品が新たに加わっていた。

 

清兵衛が居ない初めてのシーズンを迎えた海は、2年連続となる首位打者と最多安打賞、そして最高出塁率者賞を獲得した。本塁打こそ去年よりペースを落として36本に終わったが、これもリーグ5位。

打点も去年のペースが異常だっただけで、こちらもリーグ3位という文句なしの記録を残した。

ベストナインだけではなく、この年、キャリア初めてとなるゴールデングラブを三塁手部門で獲得し、文句のないはずのシーズンだったはずだった。

 

だったはず、というのは、海以外の人間からしてみたら文句がないシーズンなだけで、海としてはこんな賞なんかよりも、結局今年もまた22ゲーム差をつけられてスカイクロウズに首位を独走されたこと――決してポストシーズンで絶不調だったわけではないが、自分がランナーを背負っている場面で打てなかったせいで第2戦を落としたということ――どのみち海が打とうが打つまいが残りの試合の結果は変わらなかったのだけれど、そうしてポストシーズンFinalを勝ち抜けなかったことのほうが海としては大きく残ったようで、タイトル授賞式でもずっと渋い顔をし続けていた。

 

そうして自分たちには縁のないBBLシリーズが今年もまた自分たちの知らない世界で終わった後、4年に一度のWBCSに参加する日本代表のメンバーとして海は召集されたが、はじめ海はこれを辞退しようとした。

 

「俺、戸籍の上では日本人だけど、俺の身体のどこにも日本人の血は流れていないじゃん」

「でももう人生の半分以上を日本で過ごしてるわけだしさ。国籍は間違いなく日本人だから気にしなくていいじゃん。……後ろめたいのは分かるけど」

 

フィンランド人とスウェーデン人のハーフ――日本国籍を取得してもはや20年以上となる海ではあったが、どこまでいっても本当の意味の日本人ではないということに、海はこうした出来事のたびに頭を悩ませた。

きっと自分の子供たちは半分は日本人だし、生まれた時点で日本人だったのだから、きっと何か言われたりしたことはないのだろうけれど――

 

『――お前さんは立派な日本人だ。皆だってもうお前さんが立派な日本人だと思ってる』

 

かつて、清兵衛は自分のことをもう日本人とみなしていいものだと言っていた。きっと、清兵衛がまだ現役だったなら、絶対に日本代表に入るように言うだろう。

 

清兵衛もかつて、一度だけ代表に選ばれたことがあった。そのときのことを特に自慢げに話すでもなく、清兵衛はチームに戻ってからも、あくまで清兵衛として振舞っていた。

特に海は清兵衛が日本代表として参加しているときの試合結果を追ってはいなかったし、自分にはさほど興味も縁がないものと海は思っていたから、自分からも代表での日々はどうだったか聞くこともしなかった。

 

今となっては、なぜ一度くらいは代表のことを聞いておかなかったのだろうと海は悔やんだ。清兵衛も自分からは代表のことは海には言わずにいたから、もはや誰もが清兵衛が代表に挑んだ際の気持ちを知るものは海の身の回りには居ない。

 

清兵衛は、引退を表明したその日のうちに、そもそも大鈴清兵衛という人間などこの世に最初からいなかったかのように、突然姿を消した。

携帯の連絡先にも繋がらないし、BINE等のコミュニケーションツールも一切繋がらなくなった。ログインした形跡すら全くないまま、誰もその行方を知らないと言っていた。

 

思えば、清兵衛が大阪のどのあたりに住んでいたのかすら、海は知らなかった。考えれば考えるほど、清兵衛という存在がどれほど大きかったかということと同時に、自分はものすごく清兵衛という人間に近しかったようで、それほど清兵衛という人間をよく知らなかったのではないか――そんな気にすらなった。

 

「きっと、清兵衛さんだって代表入りには絶対賛成したと思うよ」

「そうかな。アイツは代表のこと、何にも言わなかったからね。うちとは違って、勝てることを前提とした贅沢なチームで悠々自適に自分の思うような野球して、それで代表から帰ってくると俺みたいなのしか居ないから、わざわざ代表のことなんて何も言わなかったんじゃないの」

海は思わず悪態をついた。自分でもいやに性格の悪い奴みたいな声が飛び出したもので、びっくりした。

「どちらかというと、それは海くんの考えなんじゃないかな」

「……」

華耶の冷たい目線が、海を突き刺した。

 

はっきり言って、怖いのだ。

 

代表というチームは、世界一を目指すために徹底的に勝利を追及したチームだ。自分の他にどんな選手が選ばれたのかなんて事にはあまり興味がなかったから気にも留めなかったが、おおよそこういったときの代表チームというのは、最高の1番打者に、センターラインの守備を多少重視しつつも残りは全員4番打者のような、食べ盛りの大学生が好き好んで食べる昼食の弁当みたいなラインナップだと相場が決まっていると海は思っていた。

 

海が普段打席に立っているときとは比べ物にならないくらい、むしろ――自分なんかでは飛距離という点では絶対に勝てない、頭のてっぺんから足のつま先までゴリラの細胞で出来たような筋肉――それこそ、身体全体が筋肉そのものみたいな連中が自分の後ろにずらっと並んでいて、ひょっとしたら、むしろ自分はそういった連中が塁にたまったのを返すために、8番打者あたりを任される可能性だって否定はできない。

 

打線にパワーヒッターばかりが並ぶ、思わず目がくらむような打線というものが自分の中で常識になってしまったり、あるいは、こんなチームであったならばシーズン中ももっと自分は楽できるだろうに、という気持ちが生まれてしまう恐怖――

 

あるいは、どこを見渡してもパワーヒッターがずらりと並んでしまうものだから、当たり損ないを強引にホームランにしてしまうようなパワーや、どんな状況だろうがホームランのことだけ考えていればいいという思い切りや割り切りという点で自分は絶対に勝てないのだ――という絶望感にじわりじわりと首を絞められていく恐怖――

 

そもそも、こんなメンバーの中では、自分のような打者は選ばれるだけ選ばれておいて、スタメンを任せてもらえないのではないかという恐怖――

 

普通に考えれば、今がようやく海に訪れてきた全盛期であり、"佳井海という一人の天才"のひとつの完成形と見て間違いない。そんな海がスタメンにすら並べないということなどありえないはずなのだが、海は世界一になることなんかよりも、そうして代表でプレーしたあとシーズンのためにチームに再合流したとき、目の前の試合のことだけを考えて平常心で打席に立てるかどうか――

 

ありとあらゆる恐怖心が海を襲っていた。

 

悩んでいる海に対して、華耶は気安く言葉をかけるようなことはしなかった。

本当ならば、強く強く――日本代表として出るように言ってしまいたい。何しろ、国のために戦うのだ。選ばれたくて選ばれない者だってたくさんいるし、国の名誉や威信をかけた戦いなのだから、ある意味、リーグ戦なんかよりもずっと本気で挑むべきだと肩を押してやりたい。

 

しかし、海の頭に浮かんでいるであろうことの全てが分かるほどではなかったにせよ、なんとなく――半分くらいは海が一体何を思いつめているのかくらいの予想がついたし、まして――

 

『……あたしのためにじゃなくて、自分のために――戦って――』

 

指輪を取り替えようとしてまであんな事を言ってしまった以上、海に対して強い言葉で送り出すことなど、できなかった。

もし海が日本代表で戦うということが"自分のため"でないならば、それは自分が海に願った言葉を自分で裏切ることになるからだ。

口に出した言葉は自分で認めたことになるから――と海はよく言っていて、その思いの丈の全てを話すことを躊躇っていたが、こうしたときに海の言葉の持つ意味を華耶は思い知った。迂闊な言葉は誰のためにもならないのだ――。

 

「……でもさ」

「……?」

「俺が考えてることなんかより、きっと、球団は俺なんかのためのことよりも……球団だけじゃないよな。きっと、世間が俺の辞退なんかを許してはくれないよな」

「……」

海は皮肉そうに、ショーケースに飾られたトロフィーや写真などを指差し――笑った。

 

「『あぁアイツ、大事な場面で打てないからしょうがないよな、ビビってんだよ』とかさ、『そんなに国の名誉なんかよりも、大して強くもないチームのために働くことのほうがいいのかよ、どうせ勝てないくせに』だとかさ。きっと、俺の想像よりももっとひどいようなことをさ、好き勝手言われるんだろうな。ひょっとしたら、辞退したら辞退したで『アイツは大事な場面でことごとく打てないから、辞退してくれてよかった』とか言われるかもしれないけど」

「……」

海は毒づきながら、半笑いで話し続けた。

「……首位打者だとか、最多安打賞なんてさ、獲るもんじゃないね。俺はただ――」

 

その続きを言いかけた海は、はっとしたようにして華耶の顔を見つめ――出しかけた言葉を言おうとはしなかった。華耶には海が言いかけた言葉が、自分のせいで言い出せないことを分かっていた。

 

世界一になるということと、日本一になることとでは、当然、世界一のほうが素晴らしい舞台のはずだ。海も、それは分かっているつもりでいた。もちろん、華耶だってきっとそう言うであろうことも。

 

でも、世界一を目指すためのメンバーに選ばれているのは自分だけではない。海の中では、こうした代表メンバーというのは、『勝って当然のメンバー』なのだから、別に自分が打たなくてもきっと他の誰かが打って勝利に導くはずだ。誰かがチームの顔なのではなく、代表というのは全員がチームの顔になるようなメンバーを集めているのだから。

 

そんな約束された勝利のもとのチームで野球をすることよりも、12球団どこも何かとうまくいかなかったりする中で、所属しているチームでいかにして自分の役目を果たし、よりよい勝利を――優勝を、日本一を目指すほうが、よっぽど意義のあるようなことに感じられて仕方がなかった。

しかしなんだかそれは、自分が今置かれている苦境に、海自身が浸っているだけのようにも感じられて――海は自己嫌悪に陥った。

 

別に代表というものを貶めるつもりもなければ、腐したり貶すつもりもなかった。

きっと自分がサッカーを続けていたならばこんなことは思わなかっただろう。サッカーには各ポジションごとに決められた役割があるのだから、全員フォワードだけ招集、なんてことは絶対にない。

ところが野球は各ポジションを守ることができる守備力が多少あれば、やろうと思えばサッカーで言うところの全員フォワードのようなことができてしまう――。

 

結局のところ、自分が長い間チーターズという環境に漬かってしまった結果、意地になってしまっているだけなのだ。自分でそれが分かっていて、自分の実力不足と、置かれている環境のないものねだりが、こうして思考回路を捻じ曲げてしまっている――海は自己分析すればするほど、自分が嫌になった。

 

「……海くん」

華耶は自分を見失いそうになった海のうつろな目をじっと見つめながら、左手をぎゅっと握った。深く考え事をしたり、思いつめると汗がにじんでしまうようになった海のその手は相変わらず湿りがちだった。

 

「……言ったでしょ。自分のために戦って、って。海くんは、世間のためでもなく、球界のためでもなく、球団のためでもなく――あたしのためでもなく、自分のために代表行くんだよ」

「まだ出るって決めたわけじゃ」

「仮に出るとしたらの話。……悔しいんでしょ、大事な場面で打てないって言われてること。いい機会じゃない、見返してやろうよ。肝心な場面が来たなら、やけっぱちで打ってやろうよ。世界レベルのガチガチの戦いになったら、海くんが打てないボールなんて、きっと他の誰にも打てないよ、海くんの打率考えたらさ。もはや日本には今の海くんを本気で止められるようなピッチャーなんていないようなものでしょ?だったら、海くんが攻略できないピッチャーはさ、きっと誰だって打てないよ。皆命がけで挑むんだから、海くんが仮にやらかしたとしても――誰も責めないよ。責めることなんて――普通の神経してる人なら、できないよ」

「……その普通じゃない神経してる人間を俺はたくさん見てきたんだよ、この目で」

「そういうこと言わない」

 

~~~

 

『――佳井海です。僕の生い立ちを分かっていて日本代表として選んでいただいたからには――絶対に世界一のフラッグを持って帰るつもりの気持ちでいます』

記者会見でそう語った海。半分言わされた感のある言葉を海はいつもどおりぴくりとも笑わずコメントしたが――内心、華耶の言ったように――

 

自分が打てないボールなら、残りのメンバーが打てなくても仕方ないだろう――

 

そう思うことにした。

 

シーズンが始まればそうも言っていられない日が再び始まるのだ。どうせ打てなかったら打てなかったで、シーズンで取り返せばいいのだ。自分はむしろ、チーターズでの戦争の日々のほうが大事なのだから――。

 

それが口が裂けても声には出せない言葉だということは分かっていたし、別に、だからといって世界一を目指したくないというわけではない。どうせ挑むならば世界一に輝きたい、というのは本心だ。そこに間違いはないのだが、本当の意味で日本人ではない自分が日本代表なんかに選ばれることの皮肉さなどを考えると、海にとってはやはり『あまり深入りせずに、大会終了から数日後にはもう始まる今年のシーズンに気持ちを切り替えたい』という想いにどうしても行き着きがちだった。

 

相変わらずの半笑いの写真。テレビの向こうでは海がなんとも言えない表情でインタビューに応じている。

かれこれ、この映像を何度見たことだろうか。

 

海は世界一になったのだ。

世界一の切符を海が運んできてくれたのだ。

もうそれでいいじゃないか――。

 

自分が見たかった景色というものを、海はもっとはるかに大きなスケールで自分に見せてくれた。眼球が擦り切れるまでこの映像を焼き付けたいと華耶は思っていた。サヨナラホームランの場面だけでも――と、暇があればつい何度も海の放ったこれ以上ない一打を見てしまう。

 

世界一になったんだから、もうこの戦いも、やめにしないか――と言い出せたなら、どれほどよかっただろうか。

大会を終えて家に帰ってきた海に、引退を切り出すことは華耶にはできなかった。

 

『ごめん、華耶。わざわざここで戦い続けてるのに、こんな歳になっても一度も日本一にも優勝なんかにもなれずにさ。それで先に世界一なんかになっちゃって』

『すごいことじゃない。世界一だよ、世界一。しかも逆転サヨナラホームランなんてさ。これ以上ないよ。海くん、歴史にも記憶にも最強の打者だって名前を残したんだよ。……それだけでもう、あたしには十分すぎるよ』

『……ありがとう』

 

海もまた、ここで野球人生に一つの区切りをつけられるならばどれほどよかっただろうと思っていただろう――どこか、寂しそうな――辛そうな表情を浮かべながら、サヨナラホームランとなった記念ボールを華耶に見せびらかした。

数日後にはまた戦いが始まる海に対して、『シーズン、頑張ってね』と軽々しく言えるような雰囲気ではなかった。海はずっと頑張ってきたのだ。むしろ、ひとつの大きな戦いを終えてきた海にとっては、ここからが本当の頑張りどころなのだ。華耶にはただ、数日の間だけ海を軽く労って、再び小さい背中を送り出すことしかできなかった。

 

神というものが本当に居るならば、どうか今年の海に勝利の神がやってきて――今年のうちに優勝、そして日本一を経験させてやって、海をもう楽にしてはやれまいか――と華耶は願ってみたりもしたのだが、きっとそんなうまい話なんてないと海に一蹴されてしまうことも分かっている。

 

「海くん……世界一獲ったし、あとはもう何も考えなくていいんだよ。……自分のためだけでいいんだよ、もう。……きっと、世間が、球界が……って言って、聞かないんだろうけどさ」

 

シーズン二塁打記録保持者、そして2年連続首位打者だけでなく、今年からは『WBCSサヨナラ弾』という、きっと一生使われ続ける箔がついてしまった海。海がそうした肩の荷物を解ける日が来るのが何年先の話になるかは華耶には分からなかったし、一方で、怪我なく長く現役を続けて欲しいという気持ちとが矛盾しあってはいたが――ただただ、年々強まっていくプレッシャーに再び海が押しつぶされはしまいか、と不安に思って仕方がなかった。

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