海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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104・祭りの後の現実感

「……疲れてそうですね、海さん」

「あぁそうだよって簡単に言えるような空気だと、よかったんだけどな」

今年こそは。

 

今年こそは――。

 

今年こそは――――。

 

すべてが整いつつあるチーターズにのしかかるのは、ここ数年続いている"今年こそ"はという強い圧力だった。基本的にいつも好意的に接してくる地元メディアも、開幕前にはシーズンに向けて一言!と語気を強めて迫ってくる。

最後にリーグ優勝をしたのが今から32年も前。日本一ともなると、もはや59年も前のことになる。今年こそは、今年こそは――と言い続けてメディアの第一線を去った者もいれば、ひたすらテレビの前で応援しながらも、ファンとしてのみならず、この世を去っていった人間だって数知れないだろう。

 

そんな多くの人間の命のことまで背負えるほど、海の背中も肩も大きくない。そんな大昔のことまで自分一人に押し付けないでほしい――というのが海の本心だったし、どれほど戦力が潤おうが、どれほど世代の交代が近づこうが――それでも戦局を動かすのは自分にかかっている、というプレッシャー。

そして、それに応え続けなければならないという事実と、現に自分の手でWBCSという大舞台を決めてしまったのだから、これからはより一層、大事な場面で自分にはその試合を決定付ける一打を求められるということ――。

 

芯を捉えたときの飛距離は確かにそこらのパワーヒッターに負けない自信はあったし、確かにここ数年、自分の中で『これは間違いなく捉えた』と思える打球が今までよりも多くなったのは事実だ。

しかし、自分の本懐はあくまでも『どんなボールでも自分のイメージどおりに捌く』ことであり、外野の頭を狙った打球がここ最近、たまたまフェンスを越えているだけなのだ。

 

もともと苦手なコースというものが極端にない中距離打者に、これまでずっと監督やメディアやら、自分の思いを全く汲み取ってもらえることもないままに試合の流れを決める一発を求められ、それがたまたま今になってその技術が花開いているだけであって、記者たちから『今年も40本お願いしますよ』なんて言われると、海はこの上なくうんざりした。あと2年もしたら40歳を迎える打者に一体何を求めているというのだ――と。

 

自分は、改心の当たりを放ったときの飛距離を見せ付けるために打席に立っているわけではないのだ。こんなことならば、WBCSの決勝戦でホームランなど打たなければよかったな――記者たちから常に長打のことや、シーズン中でもサヨナラ打を――などとしつこく聞かれることに疲弊し、シーズン開始直後だというのに海は最近眠れずにいて、薬に頼る日々が続いた。

 

広島へと向かう新幹線のグリーン車で、いつもどおりジェネルは海の隣に座り、普段の白い肌よりもより一層際立っている青白い顔を見つめた。

開幕3カードを終えて、3本塁打――。ペースとしては悪くない。なんなら、WBCSに出ていた疲労やストレスを考えると、普通に考えたら上出来すぎるくらいだ。

ジェネルは海が今まで以上に周囲からホームランを求められていることも分かっていたし、海がそれを不本意に思っていることも分かっていたから、あまりホームランのことは話題にしようとしなかった。

 

昨シーズン36本塁打。強打者として肩を並べるには十分すぎる数字のはずなのだが、その前年に46本打っているものだから『こんなものじゃないはず』と言われる海。

 

シーズン通して4割を打っていることなど、もはや誰もが海にとっては当たり前のことになりすぎていて、打率や安打なんかよりもずっと分かりやすい指標であるホームランという数字しか、メディアも人々も見なくなっていた。もうじき40歳を迎えようとしている打者に対して4割40本がノルマとして課される選手がこれまでも――そしてこの先にも、他にいるだろうか。

 

ジェネルは、海が結果的にホームランを打ったならそれはそれでいいことだとは思う反面、海には必要以上にホームランを狙うような打撃にはなってほしくないと思っていた。

もちろん、海が今更そんなことをするはずはないとも思っていたし、仮にそれで海が調子を崩そうものなら、いつか自分がタイトルでも獲った暁には『海はメディアに殺された』とでも言ってやろう、と意気込んでいた。

 

ジェネルにとっても、今季は大事な一年だった。

 

守り勝つ野球ができなければ肝心な試合を落とす――。

 

ジェネルは、去年から打撃練習よりも守備を徹底的に磨いていた。打球の予測、ちょっとしたスローイングの微調整――。

ジェネルには清兵衛ほどの俊足があるわけではなかったが、決して鈍足というわけではない、思い切りのいいその身体能力を守備に注ぎ、センターを任せてもらえるように練習を続けていた。

守備を磨くことによって自分が打席に立ったときに自分ならどこに打てば守りづらいか――そうした発想の転換ができるはずだ、とも思ってのことだった。

 

海がWBCSに参加している間もジェネルはめきめきとその守備のセンスを光らせ、今季はとうとうレギュラーを奪取し、センターを任されるようになった。……奪取した、というよりは、レギュラーを競い合っていた選手が若くしてFA権を取得し、チームから出て行ったという事情もあるのだが、ジェネルは自分がレギュラーになってからチーターズの打線は怖くなくなったと言われるようなことは絶対にないようにしたい――と鼻息を荒くしていた。

 

やっと、もう一度海と一緒にスタメンに並ぶことができるという高揚感だけでなく、今なら本当に海を優勝どころか日本一に導ける――清兵衛が去ったあと課題となっていた外野守備の穴を自らが埋め、しかも、自分の打撃力をここでしっかり開花させることによって、海が下降線に入りきる前に絶対に優勝してやるという強い意気込み、そして、自分には絶対にそれができるという自負が今、ジェネルの大きな胸の中に秘められていた。

 

「あのさあ」

海がうんざりしたような声でジェネルのほうを向いた。

「はい?」

「顔がうるさい」

「へ?」

「顔がうるさいんだよ」

海はジェネルの前髪を下ろし、鼻息を上げるようにしてやる気に満ち溢れたジェネルの表情を無理やり隠そうとした。

 

「顔がうるさい?私、何か言ってました?」

手で前髪をもう一度セットしながらジェネルは心当たりのなさに首をかしげた。

「……労わってるつもりなら労わってる顔してくれよ。鼻息荒げてソワソワしちゃってさ。お前見てたら余計に疲れるよ。なんなら疲労の原因の半分くらいがお前に集中しそうな勢いだよ、正直言って」

「私が原因なら、私をはけ口にしてもらってもいいんですよ」

「……」

わざとらしく体を強調するようなポーズを上半身だけとってみせて、海をニヤニヤと見つめるジェネル。海はそれを心底侮蔑するような目で眺めた。

 

「お前、俺のはけ口になるなんて気安く言わないほうがいいぞ。お前、俺が普段夜どんな感じか知らないだろ」

「それすらも受け止めるつもりで居るってことです」

「無理だね」

「そんなの、やってみないとわからないじゃないですか」

「やらないよ」

「やらないか?」

ジェネルの恐らく何らかのキャラクターを真似たようなポージングと変に低い声色を海は白けた様子で睨んだ。

 

「……お前みたいのがいるうちは、一生日本一になんかなれそうにないね。あーあ。今年も、俺のヒットは無駄打ちになりそうだ」

「あー。すぐそうやって人をバカにする。私、本当に今年手ごたえ感じてるんですよ。守備でリズム作るの、クセになってるんです」

「いいね、チャンスで凡退して帰ってきても、監督にもファンにも大して責められずにいる奴は」

 

海は最近、自分の声がずいぶん嫌な奴になったものだと感じることが増えた。今の声だってそうだ。投げやりで、自棄になったような声。華耶の前でもこんな声を最近、よく出してしまっている気がする。

「……悪い。最近、なんかこうなんだよ」

海ははっとしたような表情を浮かべたジェネルに謝ったが、ジェネルはさすがに痛いところを突かれたようで、押し黙った。

 

「……でも、確かに私はまだ中軸を任されてるわけじゃないですから。確かに、調子こいてたかもしれないです」

ジェネルはそう言うと、きっと海が中軸から外れるような時期が来ても、海は引退まできっと、ずっと『佳井海』を求められ続けることを想像し、いたたまれない気持ちになった。

 

自分が今のびのびとプレーできているのは、『佳井海』という大きな大きな後ろ盾があってのことで、自分が仮にヘマをしたとしても、そこに海がいる限り、ずっと海が責任を被り続ける――その事実をもうちょっと自分は真剣に考えなければならないとジェネルは思った。

 

「……ほんと、いちいち顔がうるさい奴だね、お前は。いい役者になれるよ、ほんと」

そんなころころと表情が変わるジェネルを海はうんざりしたような様子で眺め、アイマスクをつけた。1秒でも長く眠っていたい気分だったし、たった2時間あるかどうかの移動時間のために睡眠導入薬など使うわけにもいかないから、とにかく無理矢理にでも眠ろうとした。

不思議なもので、アイマスクをつけてなお、ジェネルの衣服がすれる音だとかなんだとか――アイマスクをもってしてもジェネルの顔のうるささが貫通し、海はとうとう一睡もできなかった。

 

~~~

 

「……」

「なーんーでーすーかー。人の顔見てずっとため息ばっかり吐いて」

「人生が楽しそうで、時折自分の人生を振り返ったとしても、自分の汚点と向き合う必要がなさそうな人生でいいな、って」

試合後、海は疲れたようにしながら、自分の分の食事を運んできたジェネルを見つめて炭酸水をぐっと飲み込んだ。

喉を突き刺すようなキレと、レモンとホップのフレーバーが鼻まで抜けるようにして、気分だけでも酒を飲んでいるような感じで海は静かにグラスを置いた。

 

「あー、ひょっとして嫌味で言ってます?あー、そうですとも。来た球を何も考えずに振って弾き返せばいいだけのフリースインガーの2番は責任が軽くていいですよーだ」

「あぁそうだね。俺なんか、この歳になってまたセカンドに回されるとも思ってなかったからね」

「あぁ……犬塚さん、去年で引退しちゃいましたからね」

田中の年上の友人である犬塚。センターラインもしっかり守れる内野手として現役最後の地をチーターズに選んだその男は、昨シーズンを最後にひっそりと引退をした。

 

年老いてなおショートやセカンドを安定して守れる犬塚が居なくなり、相変わらず若手や中堅が育たないままで補強も再びうまくいっていなかった今、海はここ数年守っていたサードから再びセカンドへの配置転向を余儀なくされていた。

 

「一応、送球が不安定なだけで内野ならどこでも守れるっていうせいで、代表のときは毎試合守備位置もコロコロ変わったから、なんとかすぐ対応できたけどさ。でも、チームに戻ったら一応サードで年間守るつもりでいたら、やっぱり今年は開幕セカンドでいってくれ、って監督に言われたときはさすがにちょっと困ったよね。4割40本打ってその上二塁もしっかり守れとか、俺のことをなんだと思ってるんだよ、どいつもこいつも。6月で38だぞ、俺。顔が若いままだから、一生歳取らないもんだと皆思ってるのかね」

海は愚痴りながら、再び炭酸水を飲み込んだ。味が少し気に入ったのか、近くを歩いていた広報に同じボトルを2本持ってきてくれと頼み、肘をテーブルについた。

 

「田中さん、今年はずいぶん燃えてるみたいですよ」

「犬塚が辞めたのにか」

「辞めたからこそですよ。犬塚さんも、ああ見えて裏では結構優勝にこだわってたみたいなんです。できればキャリアの最後、一緒に田中さんと優勝したい、って言って移籍してきたみたいで。でも、それができなかったから、せめて犬塚さんの分まで頑張って投げるって。あと、佳井さんと一緒に日本代表に選ばれなかった悔しさをバネに、だとか。普段は防御率2点台くらいなのに、去年は防御率3点台だったことも、キャンプの間結構気にしてるみたいでした。自分がもっと安定して投げなきゃ勝てない、って。なんかそういうとこ、似てますよね、海さんと」

「似てる?俺が?田中と?どこがだよ。俺、あんなに薄い顔か?」

「かッ……顔の話はしてないじゃないですか。見かけもキャラも全然違いますけど、同期だからきっと意識してるんですよ、田中さん」

「同期、ね……」

海はその言葉をため息混じりにつぶやき、グラスの水をしばらく見つめていた。

 

「もーう。ホームラン打ったんだから、もうちょっとパーっと明るくいきましょうよ。試合だって勝ったんですから。海さんのきょう最後の打席のゲッツーなんて、あれ私がリード浅く取りすぎたから私のせいでアウトとられたようなもんですし。先制の3ランだけでも十分すぎるじゃないですか。ほらほら、目の前においしそうな身体がうろついてるんですから、もっと私を眺めてください」

「自分を安売りする女は嫌いだよ」

海はジェネルを見向きともせずにカキフライを頬張った。

 

「……嫌味だけじゃないんだよ。俺の知り合い、今は大学で野球やってるんだけど……球速、あんまり伸びないみたいでね。本人は楽しく野球やってるタイプの子なんだけど、目標がプロらしいんだ」

プロらしいんだ、と言いながら、眉間にしわを寄せた海を見てジェネルは事情を少し悟ったような表情を浮かべた。

 

「あまり思わしくないんですか」

「独立リーグで妥協すれば、きっといけると思う。プロではちょっと……厳しそうだな。コントロールも変化球もいいんだけど、それだけじゃどうにもならない。コントロールは調子のいいときは田中くらいにはコースギリギリを攻める度胸と精度がある。変化球だって、緩急を生かすのには十分すぎるくらいだ。でも、ストレートが高校のときから……たぶん本人も気にしてるんだろうけどね。なかなか速度が上がらないんだよ。普段は130にギリギリ届かないくらいらしい。一応最速136ってデータもあるらしいけど、なんかスピードガンの精度がいわくつきの球場のデータらしくてね」

「めっちゃ変化球とかコントロールがいいってだけでも十分だと思いますけど、それでも130届かないくらいってのは……確かにだいぶ厳しいですね。アンダースローならまだしも」

ジェネルも思わず渋い表情をしながら海の話に頷く。

 

「あぁ。田中は140くらいしか出てないとはいえ、あれは見た目よりはいくらか速く見えるストレートと、微妙に動くムービングファストボールがある。田中なりに研究したフォームや間の取り方、そしてあのコントロールがあるからあれでもストレートで押せるんだよ。アイツ、あれで意外と速球派投手の名残が生きてるからな。ああ見えてやってることはやっぱり、速球派投手なんだよ。どんな投手も結局、投球の半分から最低でも3割くらいはストレートを投げるだろ。でもね、俺の知り合い、そのストレートがあまりよくないって評価されてるんだ。……そうなるとやっぱり、厳しい」

「もとのストレートが遅すぎると、緩急生かそうったってアレですもんね。よっぽどすごいスローカーブか、ナックルなんかあると別ですけど」

ジェネルの言葉に海は首を振り、ため息をついた。

 

「努力してもどうにもならないものも、世の中にはある。世の中、そんなもんだ。俺の送球が結局、今でもなかなか安定しないように、そいつのストレートもどうにもならなかった。足の怪我さえなかったなら、もうちょっと伸びたかもしれないんだけどね。最近、アイツの笑顔がなんだか本当は無理してるんじゃないんだろうかって思うようになってね」

 

「それが自分に重なるから余計辛いんですよね」

とは、ジェネルは言えなかった。

 

「華耶だって、本当は無理して笑顔を作ってるんじゃないかって思うことがある。最近……いろいろあったからね」

「いろいろ」

「いろいろ。……なんだよその顔」

「えへへ」

ひょっとしたら海の口からポロっと何があったか言ってくれるのではないかとジェネルは期待したが――そうもいかないようだ。やはりその辺の口は硬い男なのだなとジェネルは海を改めて認識した。

「でも、意外でした。喧嘩くらい、するんですね」

「喧嘩した、ってわけじゃ……ないんだよ。ただ、ちょっとだけ――」

 

『あたしなりに、この指輪を見るたびにあたしとの約束を思い出してしまうなら――プロポーズをやり直させて欲しいんだ。……あたしの旦那として――自分のために、最後まで戦い続けて、って――』

『……ああ。卑怯だね。……最悪だよ。本当に――本当に、最低だよ。……15年遅かったよ』

 

その先の言葉を、海は上手に説明できなかった。間違いなくあれは喧嘩ではないのだ。華耶が自分の言葉に責任を感じて謝ってきただけのことであって、互いに何か意見をぶつけただとか、何か感情の衝突があったわけではない。ちょっとした互いの繊細な部分のすれ違いなだけだったのだ――。

ただ、それを誤解なく説明できる自信が海にはなかった。

 

「……長いこと付き合ってると、いろいろあるんだよ。きっと、お前が15年早く生まれてきて、俺の女になってたとしても――きっと同じことが起きてたと思う。華耶みたいにあんなことはしなかったかもしれないけど……本当に、喧嘩したとかじゃないんだけどさ。思いのすれ違いみたいなのって、やっぱ、長いこと付き合ってると一回くらいは起きるもんなんだよ」

「私は常に海さんとすれ違ってますけどね。私がすれ違ってるつもりはないんですけど、海さん、何言ってもすれ違いしたがるんで」

「まじめな話してるんだぞ、俺は」

ジェネルは海の皿からカキフライを奪って頬張ったが、そんなことよりも話をまじめに聞いてないことのほうに腹を立てた。

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