「……セカンド守れって言ったりサード守れって言ったり、ブレる奴だよな、ほんと」
ジェネルに守備位置の話をしたたった数日の間に、海はセカンドとサードとの守備位置を交換する羽目にあっていた。
これまで今野の采配に文句を感じることはあまりなかったが、最近、今野の采配はよくブレるようになった。開幕レギュラー確定と言われていた選手を、オープン戦での守備のエラーを理由にベンチに置きっぱなしにしてみたり、逆にオープン戦で攻守ともにまったく振るわなかった内野手を突然思いついたようにいきなりスタメンで起用してみたり――何かが今野の中でズレはじめているように思えてならなかった。
監督業というものも大変なものだから海は今野に対して直接文句を言うことはしなかったが、こんなことをしているようでは選手に愛想を尽かされて再びFAで選手が出て行ってもまったくおかしくない。
実際に、報道では隠されたものの、昨年FAで出て行ったレギュラーの外野手は起用法をめぐって球団と折り合いがつかずに移籍したということをヘッドコーチらからは言われていた。
だとしたらなぜそこをフロントや首脳陣が慰留できなかったのか、という怒りも海の中ではあった。
フロントが、フロントが……と何かとコーチ陣や今野も言っているが、フロントに圧力をかけられていることを理由に、本当はこうしたチーム内で采配権のある者たちがやる気をなくしたり、空中分解していることがチーム全体になんとなく伝播しているからこそ、ずっとこのチームはバラバラのままで、肝心な場面を落とし続けているのではないか――海にはそう思えてならなかった。
分かりやすく自分という――『佳井海』という広告塔がいるから、誰もがその不振の理由や勝ちきれない理由を自分に押し付ければいいだけであって、本当は監督やコーチだってフロントからの言い分に押し負けない強さが必要なのに、それをなぁなぁでやっているからこのチームはずっとこうなのではないか――海は疑心暗鬼に陥りそうな気分になった。
『歳も歳だし、君には病気があるからねぇ』
一昨年の冬、球団の評価を聞くためにFA権を行使した海がフロントに言われた言葉がこれだった。
もとから出て行くつもりなどなかったが、5.7億の2年契約をチーターズは提示した一方で、バトルシップスとドルフィンズは5.6億の3年――仮に移籍するなら一番候補に入れていたブルーバイソンズに至っては5.7億の3年契約を提示した。
バトルシップスという関東圏のチームからのオファーがあった以上、海も少しばかり気持ちは揺らいだのだけれど、苦手意識のある球場で自分のパフォーマンスを維持できる自信もなかったことから海はこの契約を蹴った。
給料が欲しくて契約をしているわけでもなければ、契約のために野球をしているわけではない。
ただ、他の球団が3年契約を提示したにもかかわらずチーターズが2年契約を頑なに固持し続けたのは、海が抱えるパニック障害が信用ならず、3年後には自分は使い物になっていない可能性がある――そういう見方をされているということである。
『嫌だったら出て行けばいい』
『5.7億払ってやるからには優勝してもらわないと困るし』
『いっこうに優勝に導いてもくれないただのタイトルコレクターに5.7億出すって言ってるんだからむしろありがたく思ってほしいね』
『金ならCM出演料とかでたくさんもらってるでしょ』
思い出せば思い出すほど、腹が立ってくる――。
海は今更ここから出て行くつもりもなかったが、このフロントたちにもいつかこの無礼を泣いて詫びさせようと、ここで戦う理由のひとつに加えていた。
実際、WBCSが終わってから、海のCM出演依頼やイメージキャラクターとしての出演依頼はこれまでよりもさらに増えた。
これまでも関西方面を中心に展開している家電量販店、大手スポーツ品店、吹田市にルーツのある大手酒造メーカーや飲料メーカー、化粧品メーカー、サングラス、地元の大手カップ麺製造メーカーのCMなどにもたびたび出演していたが、最近では大手配達サービス、人気ゲーム機およびゲームソフト、ウイルス駆除ソフト、かわいい女の子がたくさん登場するソーシャルゲーム、大手コンビニ、健康布団、マッサージ器……その他、企業の大小を問わず、多種多様なCMの出演依頼が舞い込んできた。長年続く推理系アニメの映画の吹き替えにも出演することが決まっている。
確かに、フロントの言うように、今の海はCM出演料だけでもバカにならない金額だ。断れるものなら断りたいものだが、断らせてくれないのは『野球人気を復活させるチャンスだ』などと言って勝手に話を進めようとする球団のほうだ。
自分ひとりで野球人気が復興すると思っているならおめでたい奴だと海は思っていたし、過去にもこうして活躍した選手がいたはずだろうに、それでも野球人気が昔ほど熱がなく、テレビ中継だってされない試合があったりするのは自分のせいではない。
野球人気の低迷は球界全体がもっと真剣に考えなければいけない問題なのだ。そんなものまで背負わされる義理は自分にはない。
ああ言えばこう言う――。
もはや世界の中で、華耶の胸の中以外に、自分が自分でいられる場所などないように思えた。その華耶すらも、自分の不甲斐なさのせいで傷つけてしまった。
金だけで幸せはつかめない、などと言うと世の中の多くの人間に罵声を浴びさせられそうだが、家のローンも払い終わり、もう一度、今の自分の住んでいる家と同じ規模の住宅を一括払いで建ててまだ十分すぎるほどおつりがくるほどの資金だけが手元にある一方で、子供たちには父親としては不十分で――たった一人の愛する人間の信頼すら裏切り、自分を長い間構ってくれたチームメイトは消息不明――。
預金や投資信託、株――ありとあらゆる自分の資産をドブに捨てたい気分だった。が、清兵衛ほど飲み食いだの女遊びだのといった豪遊をすることもなかった海に、そんな金の使い道は思い浮かばなかった。
『ウィンターラブが重馬場のくせにド先行して逃げ切るなんて思ってなかったんだよ俺ァ。ハーネスがよォ、せっかく1枠取ってんのに出遅れやがって――』
「……」
海は何かを思いついたように、携帯電話を操作し始めた。
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「……先輩。一応、聞きますけど」
「ああ」
「それを理由に今日4タコしたわけじゃあ、ないんですよね?」
「……当たり前だろ。そんなことで気持ちが揺らぎやすい性格してたなら、こんな仕事してないよ」
海は木村への問いに首を振り、嫌そうな表情でため息をついた。
「海さーん、これを理由に『じゃあもう十分お金入ったんで辞めまーす』とか絶対だめですからね」
「当たり前だろ」
「……なんか、すみませんね。9回にあんな打たれ方しちゃったのに」
いつもよりもさらに豪勢な肉が網で大量に焼かれていることに辟易している田中が、どうしていいものか分からないような素振りで頭を下げ続けている。それを気にしないような様子でジェネルは笑みを浮かべながら――
「いーんですよ。勝ったんですから。あれはそもそもショートのエラーから始まったんですから。ショートがあの場面でエラーしてなかったら完封しててもおかしくない試合だったんですよあれは。結果論結果論って言いますけど、あんな簡単なボールをトンネルされちゃ、これから先、どんな試合だって勝てませんよ」
「辛辣だね」
海はいつの間に守備に対して他の選手にそんな強い言葉が言えたものだと思いながらジェネルを横目で見つめた。
「私は守備に目覚めた女なので。イージーミスには上から目線でガッツリ言わせてもらいます」
「あっそ」
試合を終えたあと、取材をしにきた木村を呼び止めて近場で一番高い焼肉店に連れてもらった海。8回まで無失点だったものの9回につかまり完封どころか完投をあとわずかなところで逃した田中、そしてジェネルを引き連れた海は、未だに現実とは思えないその携帯の当選画面を見つめながら――メニューを交互に確認した。
「オッズ、結局最終的に何倍になったんでしたっけ?」
「906倍」
「いくら戻ってきたんでしたっけ」
「……年俸の倍くらい」
「ひっ」
田中が思わず引きつった声を上げた。木村もむせながら口を押さえて横を向き、ジェネルは目を見開きながら海を見つめた。
「清兵衛もそうだけど、周りの野球選手が競馬狂いになる理由がなんとなく分かった気がするよ。……一度にこんな額なんか当たってしまったらおかしくなりそうだから、もうしばらくやらないけどさ」
「なんか聞かれたら、賭け慣れてないからよく分からないままに賭けちゃった、ってことにしておきますね」
「あぁ。悪いね。できれば黙っててくれるとうれしいけど」
「ええ。先輩のイメージにかかわりますから。それともどうです?これからは競馬ファン路線ってことでひとつ」
「……仮にそうなったとしても、裏でコソコソ賭けることにするよ。毎回こんなバカみたいな額賭けてるなんて思われたくないからね。本当はやけっぱちで金をドブに捨てるつもりで賭けたんだから」
「税金の額でバレますよ。それに、いまどき100万賭けたくらいなんかたいしたことないですよ。動画配信者なんかは1レース2000万賭けたりとか普通にあったりしますからね」
「アホらしい」
エンターテインメントでやっていることだということに理解は示しつつも、自分には絶対そんな未来はないだろう――そう思いながら海は吐き捨てるようにしてそう呟いた。
「……それにしても、何をしてもお前らに追いかけまわされるのか。これじゃ、趣味も増やせないね。釣りなんか趣味にしたら釣り場まで追いかけてきそうだし、サーフボードなんかを趣味にしたら後ろに立ってそうだ」
海はため息をつきながら、テーブルに肘をついてウーロン茶を飲んだ。
なんとなく競馬を取り扱うネット記事で目に付いた白毛の馬を2頭と、なんとなくで選んだ、記事で『穴馬』とされていた馬1頭を、特に何も考えずに三連単で組んだ海。
家には大量に給料を入れているものだから、たまには無駄遣いでもして、自分はとんだ馬鹿なことをしてしまったものだ――と自戒し、改めて自分には自分の生き方があるということを思い直すつもりで100万を一気にベットした海だったが、これが見事に的中してしまった。ビギナーズラック、というものだろう。
人間、始めたての頃は不思議とうまくいくものだ。プロ入り直後になんとなく感覚も分からないままホームランを打ってみたり――何も分からないまま振ったボールがヒットになってみたり――それと同じようなものだ。
きっとこんな調子でたまたま賭けた馬券がまた当たるとは限らない。仮に当たったとしても、当たった額のことを今度は記事に書かれてしまう。木村のように配慮して記事を書いてくれる人間にかぎつけられるならいいが、日本中の記者が木村ほど配慮のできる人間とは限らない。
今の海には、何かを思いつけば思いつくほど、すべてが裏目に出るような気がしてならなかった。
相変わらず真横で自分のことについて熱く語り合っているジェネルと木村とを横目に、海は田中を呼び寄せて話をしはじめた。
「犬塚とは引退してから何か話とかしたりしてるのか?」
「……そりゃ、そうですよ。現役は引退したけど、独立リーグや社会人野球でもう一回やってみようかな、とか、高校野球の指導者になってみようかな、とか、シノはシノなりに、いろいろ考えているみたいです。優勝させられなかったことには、やっぱり後悔してるみたいですけど」
「そうか」
そうか、と言って目を伏せた海に、田中は声をかけた。
「……清兵衛さんとは、まだ連絡つかないんですか」
「アイツ、日本になんかいないんじゃないかな」
「……なんでまた」
「なんとなく、そんな気がしてるだけだよ。あんな目立つ格好してたら、誰かしら気づいて目撃情報くらい出すだろ。それが、一向に誰もアイツの話題が上がってこない。よほどの田舎にこもってるか、毎日のようにどこか旅してるか、あるいは外国に移り住んでるとかじゃないと、説明がつかないだろ」
「……確か、義理の妹さん……でしたっけ。あれ?いとこでしたっけ?確か、独立リーグのほうにも、清兵衛さんの身内がいましたよね。あの人なら何か知ってるんじゃあ」
「よせよ。アイツのその後を知って俺たちにとって何になるんだ」
携帯で選手情報を調べようとした田中の腕をつかみ、海は首を振った。
「……こんなとき清兵衛さんがいたら、って思う場面、俺にはよくあるんですよ。マウンドで、センターから走ってきて肩をバンバン叩きながら声をかけてくれる人は、今いません。あの人がいなくなってから……マウンドは随分、寂しいものになりました。今は大爺がいるから、いくらかマシですけどもね。それでも……去年全然駄目だったのだって、言ってしまえば清兵衛さんがいなかったからあんな不甲斐なかったようなものだと思ってます」
「そんなこと言ってアイツが全盛期の姿で戻ってきたら、誰だって苦労しないんだよ。俺たちはアイツがいなくなってからも……戦い続けなければいけないんだよ。大体お前、歳考えたら後輩の手本にならなきゃいけないってのに」
「……俺は、佳井さんみたいに人を導けるタイプじゃありませんから――」
田中が苦笑しながら言った言葉に、思わず海がいったん離した田中の腕をもう一度つかみ、今度はその顔を睨みつけた。
「……やめろよ、そういうの。自分にはできないけど、俺にだったらできる、みたいな言い方、嫌いなんだよ。俺をそうして、祭り上げるだけ祭り上げて勝手に期待するの、うんざりなんだ」
「海さん」「先輩」
空気の変化を感じ取ったジェネルと木村が海を制止した。
顔を真っ青にさせた田中は身震いさせながら、小声で「すみません……すみません……」と何度もつぶやいた。
「なぁ、木村。もうじき、また『超絶大陸』の収録が始まる。俺は、いったいいつまで『佳井海』でいなきゃならないんだ。お前たちの気が済むまでか。俺が俺でいられるようになるのは――いつだ。俺は死ぬまで、このままか」
木村は顔を渋らせながら、言葉に迷った。いちファンとしても、いちメディアとしても、目の前の男にはずっと『佳井海』でいてもらいたい――それが海にとってどれほど辛いことかも、木村には分かっていた。
もはや勝利と頂点に立つこと以外では何も満たせないであろう海の心。しかしその勝利には、自分の活躍が約束されてなければ世間が許してくれない。逆に、海の活躍に勝利が伴わなければ、それもそれで世間は許してくれない。
その空気を作っている側に、自分は立っている。
「華耶にもね、言われたんだよ。もう勝利なんてどうでもいい、みたいなこと。自分のために戦って欲しい、みたいなこと。……自分のために、自分のためにって言われてもさ……俺には分からないよ。俺はいつも、自分のために戦ってきたつもりなんだから。それがいつの間にか、俺の思っていた自分のために、ってものに勝手に世間がおんぶしはじめてる。じゃあなんだ……世間が望まないことをわざとしたらいいのか?……分からなくなるんだよ」
田中には、海の抱えているものの大きさは想像しかできない。立っている世界が違いすぎるから、海がどれほど苦しいかなんてものは、自分よりずっと苦しいことくらいの次元でしかイメージができない。
田中は海の言葉を黙って聞き続けることしかできなかった。
田中だけではない。木村も、ジェネルも、遮って海に何か強い言葉を発することが出来るような状態ではとてもなかった。この場に居る誰もが、海から見えている世界があまりに違いすぎるから、その言葉に否定も肯定もできなかった。
「俺も、いつまでも4割を打てるわけじゃあない。4割が当たり前になりすぎた男が4割打てなくなったら……俺は終わりか?俺が4割打つから、俺が決定打を打つから、世の中は俺のファンなのか?皆、俺じゃなくて、俺の数字にしか興味がないんじゃないのか?そのくせ、得点圏打率まではみんな見てくれないじゃないか。データだ、データだなんて偉そうにその辺の奴らが言うけど、それでも、俺が得点圏で5割打っても、俺は勝負弱いだのなんだの言う奴ばっかりだ。世の中ってのは……勝手すぎるだろ、正直言って。他の野球選手もみんなこうなのか?違うだろ……違うだろ。よそのチーム、よその選手、よその大物選手見てると。期待のされ方、叩かれ方、ハードルが。何なんだ?そんなに俺が本当は日本人じゃないことに世の中は本当は心の奥底で差別してるのか……?」
海は清兵衛がかつてそうしていたように、肉を数枚一気に箸でつかみ、頬張った。
贅沢している気持ちにはなったが、気分は晴れなかった。