海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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108・晴留の憂鬱

「……」

期末試験が終わると同時に啓皇は一部の生徒を除いて早めの夏季休暇に入ることから、晴留は吹田の実家へといったん戻って夏休みを過ごすことにしていた。

別に生活に馴染めていないわけでもなければ、選択式の学生旅行に行きたくないわけでもなく、旅行費を理由に旅行をパスしたわけでもなければ、かといってホームシックになったわけでもない。単に、父――海のことが気がかりだったのだ。

 

エアコンの風に時折吹かれる、チーターズのカレンダー。晴留はうっすらと揺れるそれを漠然と見つめていた。

プロに入ってからそのほとんどのシーズン、春先よりは6、7月と暖かくなった頃に調子を上げてくる傾向にあった海は、今年のカレンダーも7月を担当していた。

 

甲子園で行われた6連戦――この土日も晴留は、華耶だけでなく華耶の叔母である美樹と、その息子夫婦たちと一緒に、真結、広乃、直人、そしてこの春小学生になったばかりの琉美、諒斗――。新以外の全員と二日続けて、関係者席から試合を見ていた。

今日の試合でもホームランを打った海。清兵衛が39歳で引退したことを考えると、38歳になった海がここまで打ち続けていることに自分の父親ながら誇らしく思ったし、同時に、海が本当は無理をしているのではないか――そんな気にもなった。

 

子供の頃から父親を誇らしく、そして、憧れの対象として見続けていた晴留。テレビをつければ常に海は注目を浴び続けていたし、自分が幼かった頃は海は今ほどホームランを打っているわけではなかったが、それでも、中継を見ていればほぼ毎試合のように、どこかでヒットを打っていた。

幼稚園の先生も、小学校の担任やクラスメート、そして、中学校に進学してからも担任やクラスメートたち――誰もが、海が父親であることを羨ましがったし、そんな海は周りに誇れる父親であるとずっと思ってきた。

 

幼かった頃は、それで十分だった。

 

テレビの向こう、パソコンのモニターの向こう――海は常に無表情でぴくりとも笑わずにいた。それを幼い頃は何も考えずに晴留は見ていた。

小学校の部活動では野球部に入り、実際に野球に触れてからは、プロの世界というものは真剣勝負なのだから、当然海の表情というものはごく普通のものだと晴留は思っていた。

 

清兵衛やジェネルのような選手や、他球団にもごくわずかにいるちょっとひょうきんな選手がちょっと独特なだけで、海のようなシリアスな表情で野球をしていることが当然だと思っていたし、大阪に居る間はチーターズ主催の試合は大体地元のテレビ局で放送されるものだから、他のチームの試合を見るまでは、チーターズのような強張った空気のことを不思議とも思わなかった。

それで金を稼いでいるのだから、真剣な表情でいることにまったく違和感を感じることはなかったし、ヘラヘラとしながらプレーしている選手なんかよりも、海のそれがプロ選手としては当然なものだと思っていた。

 

家にいる間もあまり海が口を大きく開けて笑う姿なんかを見たことがないのは、仕事で疲れているものだからという考えは当然あったし、新がどれほど海に対して悪態をつこうとも、海はそれだけシビアな世界にいるのだから、家にいる間なかなか自分たちに構えないことはそんなにおかしくないことだと割り切っていた。華耶だって新に対して『海は遊びで仕事をやっているわけではないのだから』と諭していたから、なおさらだ。

 

自分が小学生の頃、海に軽い気持ちで、何のために野球をしているのか聞いたときのことを晴留は思い返していた。

 

『でも、出来ることなら誰だって日本一にはなりたいだろ』

『それはそうだけどさ。じゃあ日本一になったら野球スパっと辞めるとかも考えたりするの?』

『それは……どうだろう。ある日突然日本一になったら、次に何を目指したらいいのかって確かになるかもしれないし……それはちょっとあるかもしれない』

 

WBCSで世界一を決めた瞬間のホームランの時も、その後のインタビューですらもあまり笑顔を見せなかった海。

 

『世界一にはなれたかもしれませんが、チーターズを日本一にはまだできていないので。僕の戦いは、これからです』

 

と言って、決して自分のサヨナラホームランをカメラの前で大々的に喜ばなかった海。

 

海はそうした強い使命感の中で動いている。自らの意思で動いているのか、動かされているのか――そのどちらでもあるだろう。

 

『……お父さん、本当は野球そんなに好きじゃない?』

『それは、父親の立場からは言うべき言葉じゃないね』

 

本当なら、野球なんて今すぐ辞めてしまいたいという気持ちがきっと海の中のどこかにある――。晴留は最近、そう思うようになった。自分の前ですらも、野球を好きとは決して言わなかった海。

 

野球をしている海の姿は当然今でもかっこいいし、錆付いている様子もない。打席に立てば必ず何かやってくれる安心感と高揚感がそこにはあったし、自分も含めて誰もが海にそんな期待を抱いている。

海がそんな期待に押し潰されそうになったことがあることも知っているからこそ――晴留には海が、野球を楽しんでいるようには到底見えなくなっていた。

 

『おええええッッッ……!!うぐ……ッ………うえぇええッッ……!!』

 

それどころか、海が野球に殺されようとしている姿を晴留はこの数年、よく見かけるようになった。

何年か前に一度体調を崩したときも、少し横になったり、部屋で寝込んでいる姿くらいしか見せなかった海。

晴留は、海が何度も夜な夜な嘔吐している姿を目撃するまでは、少し心が傷ついて休みたくなっただけ、くらいにしか思っていなかった。

 

ただでさえ白い肌が青白く、まるで血が通っていないような顔色をしている自分の父親の姿は、自分がテレビの向こうで憧れた姿や、球場で必死になって応援した『佳井海』という人物像からは到底想像できないグロテスクさがそこにはあった。

 

晴留は、自分の進路に対しては『啓皇に入学してそのまま大学に進学して、やりたいことを東京で見つけたい』と華耶に言っていた。

 

嘘だ。

 

娘の自分が今、海を支えるには幼すぎる。何気ない一言が海を傷つけてしまう可能性だってある。

そんな自分の力不足と同じくらい、憔悴しきった海を間近で見たくなかったという気持ちも隣り合っていた。遠く離れた東京という地に進学したのは、そうして距離を置きたかったからだ。

 

別に父親が嫌いになったわけではない。

どうしようもならないのに、父親のこんな姿を見てしまって、自分が父親に失望したり、父親に対して抱いている感情が変わってしまう日が来てしまうことが晴留にとっては嫌だったし、何も出来ないくせに父親をそうして心配して、それで自己嫌悪に陥ったり負の連鎖に陥ることだって嫌だった。

 

そんな父親を支えられるのは、母親――すなわち、妻である華耶にしか出来ないことを晴留は感じていた。所詮、高校生になるかどうか程度の子供の自分など、そういうものなのだ。

だからこそ、いったん父親をテレビの中の存在にとどめておきたかった。それでも、キャリアの全盛期を迎えた海と、チーターズも決して優勝をまだ諦めるような戦況ではないということにいてもたってもいられなかった晴留は、夏休みを実家で過ごすことを選んでしまった。自分ひとりがいるからといってどうにもならないことだって分かっているのに、そうしてのこのこと戻ってきてしまった――。

 

ジェネルは『自分は永遠の片思いだから』と海との距離感を割り切って接していた。晴留にはジェネルのそれがとてもかっこよく見えたし、自分にもそれは出来るものだと思っていた。

娘だという立場上、自分にしか出来ないこともあれば、自分にはどうしても出来ないことだってある。

一方で、自分は華耶ほど長い道のりを共に歩んできたわけではない。娘だからこそ、何か海にとって出来ることがあるはず――そう思うようにしていたが、結局、今のところ華耶に勝てそうなものというと、身長くらいしか思いつかなかった。

 

決して華耶が疎ましく思ったわけでもなければ、自分が父親に父親以上のことを求めたわけではない。

自分の無力さと――自分には想像もつかない"何か"と戦い続けて疲れ果てていく海という二つの現実から、目を背けた晴留。目を背けた上で――啓皇ほどの名門に進めば、きっと自分にもいつか海のために出来ることが見つかるはず――晴留はそう信じたかった。

そうやって自分の可能性に賭けたかったが、たった数ヶ月一人で暮らし、名門校にその身を置いたくらいでは、何も変わらなかった。少しくらい自分ではたくましく、一人の人間として海に接することができれば――そんなつもりでいた自分が、たまらなく情けなかった。

 

悔しいが、青白い顔をしてひたすら嘔吐し続ける海にかけられる言葉は何も浮かばなかった。何か気の利いたことを言えば言おうとするほど――自分の未熟さを露呈してしまいそうな気がしてならず、そうして晴留は再び海から目を背けた。

悟られないように階段を上がった頃には、晴留の目からは大粒の涙が溢れていた。

 

「つまらないドラマでも見て涙腺崩壊とやらでもしたのかよ」

「そんなのじゃない」

トイレから出てきた新と出くわした晴留は無神経なことを口走った新を睨んだ。

 

「新は自分のことばかり考えてればいいんだもんね。楽な人生なんだろうね、きっと」

「自分のことばかり考えて生きてるのは、姉さんだって同じじゃないか。別に進学校に入学するくらいなら、その辺の学校でもよかったくせに」

「……」

反論ができなかった。その真意を新に見透かされているようには思えなかったが、かといって新に対して何か突き刺せるほどの武器が晴留には何も思い浮かばなかった。

 

「まあ、俺が内心うざったくて家から出てったとかなら、勝手にすればいいよ。今に俺は絶対代表になって、姉さんなんかが俺に関わりたくても関われない存在になってやるから」

「……新はさ、代表になってどうしたいの?」

「そんなの、姉さんの知ったこっちゃないだろ」

晴留の純粋な言葉に、新は目を吊り上げながら毒を吐いた。触れてほしくなかった場所だったのか、目に見えて新は不機嫌そうに指で壁を鳴らした。

 

「……それでお父さんに張り合うつもりなんでしょ。お父さん、世界一になっちゃったもんだから、なおさらだよね」

「野球の世界一なんて、サッカーなんかより大したことないだろ。俺は世界で戦えるクラブにいつか入って――世界を相手にするんだ。父さんみたいに日本なんかにとどまっているつもりなんかない。遊びでスポーツやって、とうとうそのスポーツまでやめちまった姉さんには、到底分からない世界だよ」

鼻で笑う新の顔が、晴留には憎たらしく見えて仕方がなかった。

 

『遊びでスポーツをやっている』と言われてしまった晴留。確かに自分は野球以外のスポーツや習い事もすすんでやっていたし、野球は中学に入ってからはたまにベンチ入りのメンバーに入れるかどうかの――小学校時代ほど長身だけでなんとかなる世界ではないところに足を踏み入れてしまい、そのうち野球もやめてしまった。

 

晴留は別にレギュラーを取らないと面白くないというレベルで部活をやっていたわけではなかったから、試合に出られないこと自体こだわりを持っていなかった。

無理して意地を張ったところで怪我をしたり、いずれどうやっても身体能力で勝てないということを思い知る前に、もっと自分に向いたことをしようと思って、思い切って中学最後の夏を期に野球を辞めてしまった晴留――そうしたこれまでの振る舞い含めて、新は晴留を小馬鹿にしたような態度を取った。

 

「父さんだって結局、世界一を導いたかもしれないけど、結局世界からは声がかからなかったんだろ。所詮今の日本球界なんてそんなもんだからな。チーターズを日本一に、とか言ってるけど、本当のところ、世界で戦うのが怖いんだ。俺は世界で戦うことに何の恐れもないし、父さんとは違って俺は自分のことだけ考えてプレーできる頭の切り替えができる。フォワードってのは、自分のことを優先してないと務まらないんだ。父さんみたいに、できもしないのにあれもこれもって考えてるようじゃ、フォワードはできない」

 

晴留は新にかける言葉が見つからなかった。

何をそうムキになって父親と張り合わなければならないのだ。そこまでリスペクトに欠ける人間がいったいどうやって11対11で常時動いてないといけないチームプレー重視のスポーツが出来るのだろう――晴留はそんな新が哀れに見えて仕方がなかった。

大体、海が海外移籍を考えていないどころか国内移籍に無頓着なのも、家庭のことを考えてのことだということくらいいい加減分かる歳だろう――晴留はそんなことを考えると、本当に自分のことしか考えてなさそうな新の態度に腹が立って仕方がなかった。

 

「お父さんよりも偉大になることだけがモチベーションなんだとしたら、そんなモチベーション、いつか絶対崩れるよ。そんな他人を馬鹿にするような人間に、スポーツの神様は微笑まない」

「でも、父さんにもそのスポーツの神様とやらは微笑んでないじゃないか。つまり父さんはそこまでの男ってわけだ。結局、神なんてものなんかいないんだから、自分で掴み取るしかないんだよ。スポーツってのは、自分が神になるんだ。遊びでしかスポーツやってこなくて、今じゃ何もしてない姉さんには分からない世界だろうけれど」

「……勝手にしたら」

晴留は乱暴にドアを閉めた。

 

ちょっと自分が日本代表候補に選ばれているからといって調子に乗っている弟すらも言い負かせることのできない自分があまりに惨めで、晴留は枕を抱きかかえて嗚咽した。

力さえあれば世の中を支配できるなんて考えは嫌だったが、この無力さはあまりにも自分にとっては罪に感じられた。

 

体調が優れない――そう理由をつけて晴留は翌日、近所の公園で行われているラジオ体操を休んだ。とても、外に出かけて体を動かすような気にはなれなかった。

月曜日。試合がないこの日、海が青白い顔をしてリビングに下りてきた。

「体調、よくないのか」

「お父さんほどじゃないよ」

「……」

海もそれ以上追求しなかった。海は自分が学校を休んでいる理由を何か勘違いしたようで――

「お前のほうがたぶん辛いよ」

と遠慮がちにつぶやいた。

 

決して"そういうこと"ではないのだが――海の顔を直視したり、一緒の空間にいて会話するのがなんとなく憚られた晴留は、そのまま黙って雑炊を食べきり、部屋に戻ろうとした。

「なぁ、晴留」

冷蔵庫からバナナを取り出した海はリビングから出ようとした晴留を呼び止め――

「あとで軽く買い物にでも行こうと思うんだけど、何か欲しいものある?」

「……」

 

欲しいもの。

何もかもが満ち足りていない晴留にとって、それはどこか哲学的な響きを伴って耳の中でしばらくうごめいていた。

深い意味を持って放った言葉ではないことくらい分かってはいるのだが、今一番何が欲しいかと言われると――昨晩考えていたことばかり思い返してしまって、晴留の胸が痛んだ。

 

「……何泣いてるんだよ。……泣くほど痛いのか?華耶を呼んで来ようか?」

「違うの。そういうのじゃないんだよ……そういうのじゃないんだ。だから……安心して、お父さん」

「……ならいいけど」

再び溢れてきて、あっさりと堤防が決壊してしまった涙が晴留の頬を幾度となく伝った。海はそれを心配そうに見つめながら駆け寄ったが、晴留は首を振りながら、精一杯の笑顔を見せようとした。

本当は泣くほど苦しい状況にいるのは海のほうなのに――と思えば思うほど晴留は胸が痛み、顔をぐしゃぐしゃにさせながら部屋に駆け戻った。

 

海はそんな晴留を見送りながら、華耶も晴留も、何か胸に秘めていることはあるはずなのに言ってくれない部分が似ていると思いながらも――きっと自分のせいなのだろうな、と思い自虐的に笑いながら、バナナの皮をむいた。

『暇なんで遊びに行っていいですか』とジェネルからのBINEを確認した海は、むしろ今の晴留は、華耶と二人きりのほうがいいのではないかと思い――自分からジェネルの家に行くことに決め、連絡を入れた。

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