海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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109・僕らの望んだもの

「今シーズンもお疲れ様。秋季キャンプ組は体調整えておくように。次全員揃うのは、ファン感が最後かしらね。じゃ、終わったシーズンのことを話したって、誰のためにもならないでしょうから、あとは各自解散ってことで。取材陣が諸君らを離さないだろうけど、まあ、適当にあしらっておいて。去就を胸のうちに秘めてる奴は……好きにしなさい。僕は面倒が嫌いだから先に帰るけど、君たちも、残ったり火遊びするのは勝手だけど、変な気なんかを起こさないように」

 

今野の手短な試合後のミーティングは、毒にはならなかったが薬にもなることも決してなかった。

今シーズンも結局チーターズは2位に終わり、ポストシーズン1stステージを勝ち上がったものの――シリーズ進出をかけた首位のスカイクロウズとの直接対決は1勝3敗1分――しかもよりによって、今日の試合を引き分けで終えてシリーズ進出を許すという、なんとも言えない形でポストシーズン敗退を決めた。

 

6打数無安打――。

東京に乗り込むまでは好調を維持していた海は、2試合続けて無安打に終わった。

焦っていても勝利というものは絶対訪れないことだって分かっている。自分の長打を警戒するシフトを敷かれているならば、シフトを破る打撃を考えればいいことだって分かっている。

 

しかし、どれほど今の自分が他の追随を許さない完璧な打者だと世間が囃し立てても、打席に立てば自分は等しく『球界の打者の一人』に過ぎない。

どれほど個人タイトルやここまで積み重ねてきた成績が自分を着飾ってくれようと、どれほどシーズン得点圏打率5割を2度記録しているというデータが自分の勝負強さを証明してくれていても、どれほどシーズン中が好調だったとしても、まして直近ではどれほど当たっていたとしても、こうして肝心な試合を――決して自分のせいだけではないにしろ、今年も"自分のせいで"落としたのだから、所詮自分などただの凡人に過ぎないのだ。

 

プロ入りからかれこれ20年あまり――データで見れば決してそんなことはないのだろうけれど、海の中では『この手の試合で一度も自分が勝利に導く打撃をできた記憶がない』という、海が普段口にする『打てなかったほうの6割に落とした試合がどれほどあるか』を強調する材料が海にとってはあまりに多すぎた。

 

もちろん、海だって野球というスポーツは基本アウトを取られるスポーツなのだからということは分かっていても、それでも、落とした6~7割の打席の中に大事な打席ばかりが積み重なってしまっているように海には感じられてしまっていた。

 

ポストシーズンという限られた出場機会の中では年間の記録などどうでもよく、このような大事な場面でしっかり打つための予行練習のようなもの――海はそのつもりでシーズンをここ数年、特に意識付けて考えていた。

 

ところが、蓋を開けてみれば結局自分の不甲斐なさばかりが目立つ。

12回裏――この日のラストバッターとなった海の第7打席。シーズン中は滅多にしない空振り三振で試合は幕を閉じた。それもよりにもよってボールゾーンの――言葉を選ばなければ、ごく高めのクソボールを強引に振りに行って空振り三振を喫した。

 

もはやヤケクソだった。

 

二死、ランナーなし。後ろの打者に託すよりも、どんなボールであれ、自分が強引に引っ張ってスタンドに叩き込んだほうがいいと思っていた。

球界屈指の二遊間と呼ばれている内野陣相手に中途半端な打球を打ってもどうしようもないことは分かっていたし、仮に自分がヒットを打ったとして後続がこの守備を抜けるかどうかだって不透明だ。

外野の前進守備かと見まごうほどのレベルまで後ろに下がった内野守備。ホームランを狙う以外に、そのセンターラインを切り裂く自信も、自分ひとりが出塁したところでここから逆転できそうな見込みもなかった。

 

それほどに自分にもチームメイトに対しても自信がない、ということもそうだし、勝利を確信しきった――というか、相手チームの勝利を目前として和気藹々とした――ジェネルがよく言うところの『いけそう感』に海は腹が立って仕方がなかった。

 

ないものねだりをしても仕方がないのだが、自分がもしシーズン最初から三塁か一塁に専念させてもらえていればどんなシーズンが待っていただろうだとか、記憶をたどれば、かつて自分とレギュラー争いをしていた内野手がスカイクロウズにFAで移籍し、そこでも自信満々さをアピールしてチームを牽引していたあの光景――。

自分たちにはない、分厚い打線と、投手陣と、そして、それだけでなくひとつのチームとして成立している一体感、監督やコーチ陣との良好な関係に、暴言を吐いてきたりゴミを投げてくるわけでもないファン層――。

 

肝心な場面だというのに、どうせ一点を返したところで――と、野球をするのが馬鹿馬鹿しくなってしまうような気持ちが海の脳を弄繰り回した。

 

海は華耶のために野球をしてきたつもりだったが、華耶は『これからは自分のために戦って』と言ってくれた。

いざそう言われて、自分のために野球をするということを考えたとき、そもそも、華耶のために野球をし続けることが自分のためでもあった――それは華耶にも直接言ったことでもあったが、いざ自分のために野球をする、ということを考えたとき、結局、もはや自分にとっては目先の成績などは二の次で、勝利――そして日本一になって、この自分の戦争に――自分だけではない。清兵衛や田中、ジェネルらを巻き込んでしまった戦争に、一つの区切りをつける以外に自分を満たすものはなかった。

 

そんな自分の醜い意固地以外に何かちゃんとした動機のひとつくらいないものか――と海も時折自問自答を繰り返すのだけれど、結局、華耶のために、自分のために野球をするということは、そういうことだと考えは帰結しがちだった。

 

『肝心なときに役に立たない』という、どれほどデータがそれを覆そうと、海の中でこびりついてしまった、若い頃から周囲に押し付けられてしまったそのレッテルを剥がせるのは、肝心な試合を自分の手で勝ち取ること以外にはもはや残っていなかった。

そうして、自分の手で勝ち取ろうとするたびに遠ざかる勝利と、脳内にこびりつく前監督・前野の言葉――。

 

『誰かさんが点を取らないせいで負けた』

 

『こんな大事な場面でシングルヒット打つしか能がない』

 

『ホームランさえ打ててれば流れ変わったのにな』

 

こんな打席で海の自我を保つのは、もはや不可能だった。いっそのこと、これからは毎年、ポストシーズンの間はずっと自分を降ろして欲しい――とさえ思った。

30代ももうじき終わるというのに、いったいいつまでこんな先も終わりも見えない戦いをしなければならないのだという思いと、勝利をもってしてこの重圧から解き放たれた自分の姿を想像できないということ、そして――『どれほど周囲が自分のことを頼りにならないなどと罵倒しようと、自分の一打のおかげで世界一には導いてみせたじゃないか』という、自分の中でこの戦いに区切りをつける理由が生まれてしまった――という甘えた思いとが、海の平常心を乱してやまなかった。

 

「なぁ、ジェネル」

二人だというのに、四人席で座っている海とジェネル。

解散後、かつて清兵衛が連れてきた寿司屋にジェネルを連れ出し、海は二人でにぎりと海鮮丼を食べていた。とても、今は酒など飲む気にはなれず、とりあえず近場でおいしいものでも食べて気分を――と、声には出さなかったが、二人とも似たような気持ちで道中のタクシーに揺られていた。

 

今日勝ったところで、シリーズ戦に進出するためにはさらに2連勝しなければならない。引き分けすら許されない状況下でスカイクロウズ相手に2連勝することの難しさは、シーズン戦い抜いた分よく分かっている。

海もジェネルも、今日勝てていたならば――という話は、互いに言い出せなかった。言ったところで、倒壊しかかっている現実の壁に押し潰されそうだったからだ。

 

「お前、よく俺に15年の差がどうこう、って言ってるよな」

「はい」

「俺もさ、今日みたいな試合なんかしてるとさ、思ったよ。どうしてお前、15年なんかじゃなくていい――せめて、あと10年早く生まれてきてくれなかったんだ、って。きっとこれから、ポストシーズンとか、大事な試合をするたびにそう思うと思う。正直言って」

「……」

ジェネルはうつむいたまま、黙った。

 

ごめんなさい、と謝ることもできなければ、なんでそんな弱音を吐くんですか――と、海を咎めることもできなかった。

「10年早く生まれてきて、こんな日の俺を叱って、なじり倒して欲しかった。5歳差なんて、この業界じゃちっぽけなもんだ」

「だったとしても、私は叱りませんよ」

 

10年早く生まれてきて自分を楽させてほしかった、と切り出すものだと思っていたから、ジェネルはあっけに取られた。

10年早く生まれてきてくれれば――心の中ではそう思っていることを、海は普段ずっと言わずにおいていた。そんな言葉を言うと自分だけでなく、ジェネルが傷つくということを分かっているからだ。だからこそ、無茶を言った上で『叱って欲しい』なんてジェネルに向かって言い出したのだ。

 

海が今どんな気持ちでいるか、ジェネルにはその全てまでは読み取れないにしても――海がどれほど多くのものが頭の中でせめぎ合いながら、なんとかギリギリのところで自我を保って自分に接してくれているかは容易に想像できた。本当なら、感情を崩してしまいたいところを、海はなるべく平常心で自分に接し続けていてくれる――。

だからこそ、下手な言葉は言えなかった。

 

「華耶も、こんなとき俺を叱ってくれない」

「どうして叱る必要があるんですか。海さん、よくやってるじゃないですか。こういう試合くらい、周りが奮起しないとだめだったんですよ。海さんを叱ったところで、何も変わりませんよ」

「でも、そうでもしないとやっていられないんだよ」

「だとしたら、私だって叱られたいですもん。……私も今日の試合はてんでダメでしたし……結局口だけです。私も」

「……10年早く生まれてきてくれてたら、きっと、朝まで二人で叱りあえたのにな」

 

だからもっと自信を持ってください、などとは簡単に言えない空気がそこにはあった。自信を持つだけで海がこうした試合で本来のバッティングが出来るならば、とっくに出来ているはずなのだ。海の心に刺さった棘はもはやそのボロボロの心と癒着してしまっていて、自分ごときにその棘を心に傷をつけずに抜くことなど、ジェネルには出来る気がしなかった。

海はそこを含めてきっと、『10年早く生まれてきたら』なんて言葉を言ったのだろう。華耶とは違うベクトルで、自分を少しばかりは信頼してくれているからこそ――華耶には取れない部分にある棘を抜いて欲しかったのだ、とジェネルは思った。

 

「俺はさ、もう……自分が分からないんだよ。何のためにシーズンやってきたのか……ああいう試合に挑むたびに分からなくなる。普段どおり勝てばいいだけのことが……普段どおり打席に立てばいいだけのことが出来なくなる。追い詰められれば、追い詰められるほど自分がどうにかなってしまいそうになる。自分のために野球をするってさ、どういうことなんだろうね。タイトルが取れればそれでいいのか?その辺の自分のことばっかり考えてるだけでいいような選手ならそれでいいと思う。でも、俺にとっては違うんだ。でも……」

でも、を二度重ねた海の言葉は、一度途切れた。箸もグラスも海の手からは離れ、しばらく黙り込んだ海は、うつむいたまま搾り出すようにして再び話し始めた。

 

「……俺は確かに、あのチームで日本一になりたいと思ってる。だけど、それって……半分くらいは本心だけど……残りの半分くらいは、言わされてるところも、やらされてるところもある。単に俺が、どうしてもここで勝ちたいって言ってムキになってるだけ、ってのもさ、分かるんだよ。俺だってとっととこんなチームから出て行けばいいものを、どうせ移籍しないのを分かってるから契約だって足元を見られるし、そうやってフロントが俺を煽れば煽るほど闘争心に火がつくもんだと思って、球団は俺を放っておいてる。そして現に俺は、あのバカたちを見返そうとして意固地になって、このザマだ」

最近どうにも癖になってしまったような、ヘッ、と嫌な奴のような笑い声を出した海はグラスに注いでもらったウーロン茶を飲み干し、もう一度、ヘッ、と、口がひん曲がったような笑い声を出してみせた。

 

「……結局、俺が日本一になりたいのって、本当に俺のためなのか?って考えたとき、きっと、本当はそうじゃないんだろうな、ってなっちゃうんだよ。じゃあ俺って一体、何なんだ……?俺が本当にしたいのって、何なんだ……?……これは、自分の苗字を変えたい――日本人になりたい――そんな身勝手な理由で華耶に婿入りなんてしてしまった俺への罰、なんだろうね。だから華耶にも見放される。約束を取り消して欲しいなんて……あれは、俺が無様だからなんだよ。嫁にあんなことさせる夫がいていいわけがない。華耶は優しいからあんまり言わないけど、華耶から見て俺があんまりひどいから、あんなことを言い出したんだ。俺は、夫失格だよ」

 

自虐的に笑いながら、海は淡々と話し続けた。

話して気持ちが楽になるわけでもないし、もし15年早く生まれてきたら自分が運命の人でありたかったと本気で思っているジェネルにこんなことを言うのも残酷だとは思っていたが、いったん開いてしまった口は、ジェネルに対しても『お前が俺に対して憧れなんか抱くから……』――直接言葉には出さなかったものの、そんな意味合いをつい含んでしまった。

 

「ダメだ、俺は。こんなのが3年連続首位打者なんて、笑わせる。首位打者ってもっと、塁に出るもんだろ。ポストシーズン10打数連続無安打なんて……そりゃあ、野球ファンどもや自称野球評論家の一般人どもに笑われるわけだよ。『肝心なときに役に立たない』って」

 

確かに、海の言うように10年早く生まれてきていたらきっと『その代わりに私が打ちますから』と、海の前で啖呵をきることだってできただろう。どれほど15年の差を詰めようとしても、どれほど自分の中では徐々にその差が詰まっていると思っていても、まだまだその差を詰められないジェネル。

成績で追いついたとしても、自分の知らない15年の間に受けた海の傷の深さや、その傷の数がどれほどかまでは知りえない――ジェネルはそれが悔しかった。

 

きっと、華耶ですらも海のそれをどうにかできないのだろう。ジェネルの知っている限りでは、華耶の性格上、きっと家で同じことを言った海に対しては叱ることも怒ることもしないはずだ。

10年早く生まれていれば、ひょっとしたら野球という点でなら、自分にはそれができたかもしれないのに――。

どうにもならない感情が、海とジェネルの間に押しては引いて――互いにその次の言葉を飲み込み続けた。何を言っても互いが互いを傷つけてしまうような、ガラス細工のような繊細な空気がテーブルの間に染み渡っていた。

 

「海さん。やっぱ……この後どっか泊まって、部屋でお酒飲みましょう。別に、どさくさにまぎれて私……酒の勢いなんて都合のいい言葉借りて、海さんと不貞行為を働きたいわけじゃあありませんから。ただ……お酒の力でも借りてないと、私、海さんにはなんだか……かける言葉が見つかりそうにないんです。ごめんなさい」

「……今なら俺をダメにさせる絶好のチャンスだと思うけどね」

海は自虐的に笑みを浮かべながらジェネルを見つめたが、ジェネルは首を横に振った。

 

「海さんを一時の感情に流すには、私が感情に流されすぎています。今こんな気持ちで海さんを取って食ったとしても、逆に私がダメになりそうです。なんなら――二人揃ってダメになってしまいそうな気がします」

「それがお前の望みでもあったんじゃないの」

海はジェネルの心臓を突くような言葉を突然投げかけた。

 

確かに、二人揃ってダメになってしまいさえすれば、きっと世界中が自分たちの敵に回るだろうけれど、それでも自分が望んだ世界が手に入る――揺らぎかけた心を、ジェネルは再度首を横に振って、強く否定した。

 

「……私は、海さんを来年も――再来年も――グラウンドに連れて行く役目がありますから。私一人がダメになるだけなら別にいいんです。私一人が感情に流されてるからって、それで海さんを道連れにして、野球人としての海さんを殺すのは……私は嫌です。とても今この状況……私一人が犠牲になって海さんが立ち直る、なんて未来が見えませんから。私……そこまで女として終わってませんよ」

「……そっか」

二人とも、普段より覇気のないやり取りを続けた。

 

来年こそは――

 

来年こそは――

 

勝負の世界において、その言葉を呪文のように使っていれば、いつか願いが叶うような言葉ではない。力がなければ、来年こそは――の言葉の続きは勝ち取れないのだ。

二人ともそれを分かっているからこそ、互いの無力さに打ちひしがれていた。

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