「お父さん」「ちょっと入るの」
「ちょっと入るって……待って待って、俺まだ風呂に入ってるんだけど」
「直人もほら」「さっさと入るの」
「お父さんの言ったことちゃんと聞いてたか?二人とも」
広い浴室に自分の声だけが響き渡っているが、扉の向こうの脱衣所がガタガタと騒がしくなる。
真結も広乃も来年からは中学生だし、大人びていて自己主張をあまりしてこなかった直人だって、あと3年もすれば小学校を卒業する。
最近はさらにニュータウン化が進む吹田の住宅地帯の中でも、とりわけその大きさが目を引く佳井宅。
その2階には子供たちが基本的に1部屋ずつ持てるように、と子供部屋を5部屋設けてあったが、今は全てが埋まっている。1階の、かつて三葉や美樹が子供たちの面倒を見たりしていた部屋は、今は琉美と諒斗が共用で勉強部屋や遊び場ということにしておいてある。幸い、琉美も諒斗も仲がいいようだから、不満はないようだった。
自分が家を離れている間は華耶がこうして子供たちと風呂に入れてやってたのだろう。子供の間ならば、仮に家族で一斉に風呂に入っても十分すぎるほどの余裕を持たせた、大きな浴室と浴槽。大柄の自分が一人で入るのはもちろん、華耶と二人で入っても持て余すほどの、旅館や観光地の別荘に備え付けてある風呂と言われても違和感のないほどの大きさだ。これは子供たちの存在だけでなく、三葉や美樹、竜匡たちが宿泊しにきたり、仮に華耶の両親らが足が不自由になったことまで考えて作られた大きさだ。
子供たちが大きくなれば大きくなるほど自分と一緒に風呂に入るなんてことはまずなくなるし、何だかんだ言って華耶の両親が長野から引っ越すことだってまずないだろうから、この浴室もやがて自分と華耶だけのものになるのだろうか――などとついさっきまで海は考えていた。
華耶は幼稚園の集まりがあるとかで柊理を連れていった。今夜は揃って泊まりで、戻らないという。
今は子育てで忙しいが、仮に晴留のように家から全員出て行くようなことがあれば、本当にこの家は自分と華耶二人だけのものになってしまうだろう。
今となっては自分の背中を流す人間など華耶以外にはいなくなったし、小さい頃はやたらと背中を流したがっていた晴留も高校への進学と同時に家から出て行った。大体、晴留はもう"子供"ではなく"一人の女性"としても扱わなければいけない年齢だ。晴留が仮に一緒に風呂に入りたいなど言い出しても、自分は反応に困るだろう。
真結も広乃も、晴留と同様誰に似たのか最近めきめきと一人の女性として成長しつつある。二人が一緒に風呂に入ろうと言い出しても「じゃあ入るか」とは、華耶であれば何のためらいもなく言えるのだろうけど、父親の自分には少し難しい部分があるというか、少し警戒心が薄すぎるというか――。
普段家にいない間、一秒でも長く自分が子供たちと接する機会を設けたり、あるいは逆に、子供たちから自分と接する機会を設けるために設計したのがこの家だったが、ある程度子供が自立しはじめてからこうして一人で気まずくなるくらいなら、やはり自分は野球なんかとはどこかで見切りをつけて、子供たちが小さいうちにもっと父親をしておくべきだったのではないか――
そんなことを考えていた海だったが、ドアの向こうからぼんやりと見える三人のシルエットにありとあらゆる思考が滑り落ちていった。
「僕、あんまりお風呂好きじゃないんだよ……」
「わがまま言わないの」「ちゃんと汗を流さないとお父さんみたいにかっこよくなれないの」
「別に僕は……かっこよくなるために生きてるわけじゃないし……」
両腕を左右から抱えられて入ってくる直人。背丈はまだいくらか真結と広乃のほうが大きいが、直人はこの1年の間に身長が随分伸びたというし、小学校を卒業する頃には、きっと二人は背を追い越されてるだろうか――。
「動かないの」「じっとしてるの」
二人はチームプレーで直人を拘束させ、シャワーで軽くかけ湯をする。髪をほどいた真結と広乃はどっちがどっちかは、やはり海にも分かりづらい。
「はい、お姉ちゃん」「うん」
どうやら直人を押させつけてたほうが真結らしく、広乃からシャワーを手渡された真結は自分になどお構いなしでシャワーを軽く浴びながら、浴槽に向かって歩いてくる。
華耶にそう教えられたのだろう。シャワーで軽く髪を洗い流すときのふとしたしぐさが華耶に随分と似ていた。
ざぶん、と足を伸ばして入っていた海の横に、直人を連行する形で真結と広乃が浴槽にゆっくりと入ってきた。
なるべくじろじろと真結や広乃を見ないように、海は天井を見上げた。自分の子だというのにあまりじろじろと見ないようにというのもそれはそれでおかしいのではないか――という気持ちもあったのだが、性別の壁というものがそこにある限り、海は二人に配慮をするべきだろうと思っていた。自分の子供だとはいえ、いつまでも自分の思っているような子供ではないのだ。
「お父さんと一緒にお風呂に入るの、久しぶりなの」「私たちももう6年生だし、みんなで入ると昔ほどお風呂広くないの」
「お父さんが普通の人より大きいからね。分かってると思うけど、他の家のお風呂は、お父さん一人が入ったらそれだけで溢れるんだからね。みんなで入っても大丈夫なように作ったんだ」
「その話はお母さんから何度も聞かされたの」「でもお父さん普段家にいないから、お父さんがいるって分かってたけど入ってきたの」
「私たちが入ってくるの、嫌だった?」「お父さん、あんまり嬉しそうじゃないの」
嬉しそうじゃない、と言われるとなかなか表現が難しい話だ。海は返答に困った。
「一応……こう……なんだ、そういう……こう、なんだろう、プライベートゾーン的な話は学校で教えてもらったりはしなかったの?」
「それはそれ」「これはこれなの」
「私たちはお父さんが好きだからお風呂くらい一緒に入りたいの」「こんなにおっきいお風呂だから、普段一緒にいないぶん、お父さんがいる間はなるべく一緒に入って温泉旅行した気分になりたいの」
「お父さんが嫌じゃなかったらなるべくそうしたいの」「私たちが大人になる前に」
淡々とした表情と口ぶりの中に、強い好奇心と無邪気さがある――それが真結と広乃のイメージだった。今もそのイメージは変わってはいないが、表情自体にあまり感情を出さない二人が珍しく寂しさを訴えた。
二人の中でも、もうじき――あるいは既に、自分たちが一緒に風呂に入るという年齢でなくなることくらいは理解しているらしい。理解しているからこそこの瞬間を大事にしたいという思いが、海にの肌や心に突き刺さった。
「ねえお姉ちゃん、お父さん。……僕、あと何分お風呂に入ってなきゃダメなの?」
空間をリセットするようにして直人が風呂の隅っこから動いてきて、広乃の肩をつんつんと触った。
「体くらい一人で洗えるでしょ」「それともさっきみたいに押さえられてお姉ちゃんに体洗われたいの?」
「……一人で洗ったら上がるから」
二人の声に少しだけ嫌そうな顔をした直人。ニッ――と真結――ではなく広乃が笑みを見せて、
「やっぱりお姉ちゃんが洗ってあげるの」
と立ち上がったが、直人は「いや本当にいいから!一人で体くらい洗えるから!いいから!」と顔を真っ赤にさせて突き放すように手をぶんぶんと振った。
一応、海は直人がちゃんと体を洗っているかどうかを横目で確認しながら――いつの間にか自分の両サイドに回ろうとしていた二人に気づく。
「肩、凝ってる」「足、パンパン」
ぺたぺたと体を触る二人を海は気まずそうにしながら直人が手早く髪を洗って風呂場から出ようとするのを見ていた。
「それが言いたいだけだろ、お前たち」
「何か役に立ちたいの」「二人で体洗ってあげるの」
「……背中くらいだけならいいよ」
さすがにダメ、と突っぱねてしまうのも悪いと思い、海は両方を交互に向きながら――つぶやいた。
「……あの。一応さ、いったん髪洗ったりするからちょっと横か後ろかどっか向いててくれる?」
真結や広乃が気にしなくても、さすがにもう人体の構造について分かっている年齢の娘に対して自分の裸体を見られるというのは気恥ずかしいものだ。
タオルくらい腰に巻いておけばよかったな――と後悔しながらシャワーで海は髪を洗い流し――一人で風呂に入るときはめったに使うことのなかった風呂椅子に座り、体を洗い始めた。
「肩と背中だけだからね」
「腕は?」「腕くらいならいいでしょ」
「……仕方ないな」
海は大げさに泡を立てて体の前半分を泡だらけにし、二人が垢すりを交互に持って自分の背中や腕を流すのをしばらく待っていた。
「遅かったわね、あなた」
風呂から先に上がった海を待ち受けていたのは、先に風呂を済ませていた琉美と諒斗と一緒にゲームをしているジェネルだった。
直人はソファに座りながらアイスクリームを食べていたが、ジェネルを向いてぎょっとした顔をしている。
「……お前、人の家だってのに、やりたい放題だな」
さすがに子供たち全員を一斉に風呂に入れたり面倒を見るのは難しいと思った海がジェネルを夕飯に誘う建前、子供たちの面倒を分担して見てもらっていたのだが――エアコンの暖房を入れている室内でシャツ1枚という薄着のジェネルは海に色っぽい目線を送りつけた。
こうなることを分かっていて自宅にジェネルを呼んだのは自分なのだが、他に頼る者もいなければたまに子供たち全員を捌けるほどの父親らしさができない自分に生みは情けなく思った。
「どうしても真結ちゃんも広乃ちゃんも、海さんと一緒がいいって。慕われてるんですね、海さん」
「お前まで一緒じゃなくて本当によかったよ」
「私は一緒でもよかったんですけどね。ねーぇ?直人くーん」
「い、いや、僕は別にもう、一人でお風呂入れるので……」
直人がさらにぎょっとした様子でジェネルを見つめる。ジェネルは目線に気づいた様子でわざとらしくシャツをはためかせて白い素肌をちらつかせてみせるが、海はジェネルを睨み、直人をからかうのを辞めるよう訴えた。
「晴留もね、家を出るって決めてたからかもしれないけど、去年なんかはよく言ってたよ。風呂に一緒に入ろうって。でも、もうそういう歳でもないからさ、って断ってた」
「一回くらい一緒に入ってあげればよかったじゃないですか」
ジェネルはすん、とした態度で言っていたが、海は苦々しい表情で頭をかいた。
「真結も広乃もそうだけど、頭はまだ子供かもしれないけど、俺の口から一緒に風呂に入ろうとはさすがに言えないよ。身体つきなんかはもう一人の女性だから」
「それは、発育を理由に海さんが子供たちと壁一枚隔てようとしてるだけなんじゃないですか?どこまで行っても、晴留ちゃんも、真結ちゃんも広乃ちゃんも――直人くんも皆、海さんの子供ですよ。そんなこと気にしてたら、今に海さん、年齢だとか性別を理由に子供たちに対して何もできなくなりますよ」
そう言われてしまうと、海も次の言葉に困った。
テレビの近くに集まって直人や真結、広乃たちがゲームをしてる中、ジェネルは海をじっと見つめていた。どちらかというと、それは色目だとか、普段ジェネルが海に対して送ってくるごく一方的な好意というよりかは、純粋に父親としての海を案ずるような表情だった。
「晴留ちゃんだって、海さんと一緒に居たかったと思うんですよ、本当は。お風呂くらい入ってあげてもよかったと思いますよ、絶対。次にまた帰郷してきたら、一回くらいは入ってあげてもいいと思います。二人っきりがアレなら、華耶さんと一緒でもいいので」
「風呂以外にだって親子のスキンシップはできるだろ」
「例えば?」
「例えばって……」
ずっと長女として、家族の面倒を見たりバランスよく立ち回ってきた晴留。考えてみたら、晴留一人と何か付きっ切りで話をしたり、どこかに出かけたりなんてしたことはあまりなかった気がするし、たまたま二人で寝ることになったことくらいしか、海は最近晴留と二人で何かしたことを思い出せずにいた。
「ほらー、やっぱ浮かんでこないじゃないですか。別に私、海さんが子供たちの面倒を見てないって言ってるわけでもなければ、海さんがお父さんとして頑張ってないって言ってるわけでもないです。これだけの大家族ですし、私たちみたいな仕事してると、どうしても家のことは任せる機会が多くなっちゃいますし。だからこそ、子供たちのお願いはかなえられる分は叶えてあげたほうがいいですよーって話してるんです。どうせ一緒にお風呂入ったことなんて海さんがメディアに口走らなければ誰だって取り上げませんし、家に警備システムだって入ってるんだから、お風呂場覗きに来る人なんていませんよ」
「そういう問題じゃないと思うんだけど。……そういう……ものかな……」
「そーゆーもんです。子供たちはいつか自立しなければいけないからこそ、一秒でも長く娘息子で居たいと思ってるはずですよ。そこは分かってあげてください。かっこいいお父さんだからこそ」
「……何ちょっと知ったような口利いてるんだよ」
海はジェネルに軽く小突きながら、ニヤニヤと笑みを浮かべるジェネルを見つめた。
真結と広乃は、邪魔しては悪いと思ったのか、冷蔵庫から華耶があらかじめ作っておいたババロアを取り出したあとこちらを一瞬見つめてから――そそくさと再びテレビの前へとぱたぱたと走り出した。
「ほら、気を遣われちゃってますよー、海さん」
「今のはどちらかというとお前のせいだろうが」
再びジェネルを小突いた海は、遠くから直人と真結と広乃がゲームをしている様子を見つめていた。
いったんリビングをジェネルに任せ、琉美と諒斗の部屋を覗きに行くと、部屋に置いてあった電子ピアノを仲良く二人で弾いていた。
男と女という性別が異なる双子だが、相変わらずうまくやっているようだ。ジェネルが二人を風呂に入れた後に頭にタオルを巻いてやったのか、タオルを巻いたままピアノを弾いていた。
やはり、野球なんて『自分らしさ』を保てているうちに辞めてしまって、一秒でも父親としての自分に戻るべきなのだろうか――海はそんなことを考えながら、リビングに戻っていつの間にかジェネルも混じってゲームをしている様子を延々と眺めていた。
考えてもどうにもならない問題だろうから、冷蔵庫からビールを取り出して数本開けることにした。
酒でごまかそうにも何も事態は変わらないし、現実から逃げたとしてもシーズン開幕という現実は年をまたぐとすぐさまやってくる。相変わらずオフの間の番組出演の依頼だとか、CM収録の依頼だって来ている。短いオフの間、また何日かしたら、テレビやラジオ、雑誌の収録だなんだと数日家を空けなければならなくなる。その繰り返しをいったいあと何年続ければいいのだろう――。
こんなときにせめて清兵衛さえいれば――そんなことも考えたりしたが、清兵衛がいたところで事態が何かよくなるかといえば、自分が清兵衛と外で酒を飲むくらいのことしか考えられなかった。
時折そうして誰かと酒を飲みに行くだけでも全然気持ちは変わってくるのだろうけど――清兵衛とは未だに連絡が取れず、本当に日本のどこかに生息しているのかすら分からない日々が続いていた。
悲しいことに、清兵衛がいなくてもチームはなんとかギリギリのところで回っている。あれを回っていると言っていいのかどうかは分からないが、チームという枠では一応、戦えてしまっている。そんな現実とともに、日に日に誰もが今日もまたそこにいない清兵衛を忘れていくこと含めて、海は寂しさを感じずにはいられなかった。
はぁ――とため息をついた海はおもむろに携帯を取り出してニュースでも眺めた。少しでも気が紛れるようなニュースの一つでもあれば、とでも思っていたが、相変わらず目につくのは大体自分にはどうでもいいような、知らない都道府県の議員の不祥事に、知らないタレントや著名人の不貞行為ばかりだった。
「ん?」
そんな中、見間違いでなければ、そんなしょうもないニュースの中に紛れてなじみのある名前がスクロールの際に一瞬見えた。
目を何度かこすって、もう一度よく目を凝らした海は、画面をゆっくりスクロールしなおし、息を飲んだ。
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