不意に出てしまった言葉に、田中はしまった――と思った。
たった今、口から飛び出してしまった言葉をなかったことにしたかったが、言葉というものは一旦口に出してしまうと取り消すことが難しいものだ。
まして、不意に自分からそんな言葉が無意識に出てしまうということは、自分の中でそう思っていることを認めてしまったということになる。
海はたびたび『口に出すと自分がそう思っていることを認めてしまうことになる』と言って、思いの丈のありとあらゆる全てをぶちまけることを嫌がっていたが、今、田中はその理由が分かった。普段そうして自制していないと、こういうときにポロっと本心が出てしまうのだ。
自分が考えもしなかったような本心。本心というものは、案外、自分が普段思っていないところからやってくるものらしい。田中自身、何かに操られたかのように出てしまったその言葉に、混乱しそうになった。
とにかく、今の言葉をどう、なかったことにしようか――田中は思考を張り巡らせようとした。
張り巡らせようとした、というのは、本当は張り巡らせてとにかくこの事態から抜け出そうと思ったからだ。
しかし、それより先に、海の左手が田中の頬をピシャリとはたいていた。一瞬の出来事だった。これを牽制球のタイミングに生かせたならどれほどよかったことだろう――と考える間もなかった。
『……正直、結婚を前提になんて言われたら、お金にだって困らないくらい稼ぎましたし、向こうだって俺の年俸と張り合えるどころか俺のレベルじゃない世界で稼いでますし……じゃあもうとっとと結婚して、野球なんか辞めて、深い深い愛に溺れてみたいなーなんて思いましたよ。向こうは俺が野球やってるから好きなんじゃなくて、俺そのものが好きだって言ってくれてるので。俺の全てを受け入れてくれて、別に野球だってやってない俺のことも受け入れてくれてるなら、じゃあもう別に、無理して野球なんてやる必要ないじゃないですか。……こんな、投げる意味失いそうな環境で野球なんかやってたら、余計性格が悪くなってしまいそうですよ』
ポっと出てしまった言葉だから、田中の中ではそう言ってしまった言葉のうち8割くらいはもう頭にすら残っていない。ただ、じりじりと反復するようにこみ上げてくる頬の痛みが、ふと口から飛び出してしまった「もう野球なんてやる必要ないじゃないですか」という言葉が、痛みのたびに自分の意識の中で存在感を増幅させていった。
海の血走った瞳の中に、怒りだけではなく悲しみや失望が見え隠れする。絶縁されても仕方のないほどのことを言ってしまったのだ。田中もまた、表情を沈ませて――どうするべきか分からないこの状況の中で、相変わらず平日の昼間、客の出入りも落ち着いたカフェの中、二人の苦く重い、鬱々とした青い感情だけが店内を覆いつくそうとしていた。
NaOtomoと田中の交際報道は初めてのデートからしばらくした去年の末、瞬く間に報道された。
その際NaOtomoは「ちょっと知り合うきっかけがあったので一緒に食事をしただけです」とやり過ごしたが、それはあくまでもテレビ向けのことである。田中の顔つきを見れば、海には『何かそれ以上のことがあった』ということはすぐに分かった。
来月にはキャンプが始まるというのに、時折キャッチボールや走り込みに誘ってもどこか上の空のままの田中を海は呼び出し、キャンプまでには気持ちを切り替えたらどうだ、と話すつもりでいたのだが――Na0tomoとの交際をめぐって田中から飛び出した言葉に、海は思わず手が出てしまった。気まずさももちろんあったのだが、浮かれきったままの田中の顔を海は直視できなかった。
『あいつらの舌だと思って俺はタンばかり食うんです。舌引っこ抜いて噛み千切ってやって……俺の選択は間違ってなかった、って……いつか絶句させるために』
『……俺は、佳井さんがその気じゃなくても、二人で戦争してるつもりでいますからね。佳井さんだって、舌噛み千切ってやりたい奴の一人や二人くらい……いるでしょう』
あの頃の田中は、気弱ながらも、それでもなんとか戦う意思が感じられた。去年一年だってそうだった。どれほど『不甲斐ないエース』などとチーターズ内外のメディアや野球ファンたちから言われようが、それでも試合をしっかりと作り続けた田中は、間違いなくチーターズの傷だらけのエースだった。
もとから無駄のなく、限りなく最小限にとどめた運動量のフォームから繰り出しながら出所の分かりづらいリリースポイントの球で丁寧に打ち取るスタイルだったからか、田中の肩の負担は余裕があるようで、自分と同じ歳にもかかわらず、海同様に田中もまた、ベテランの領域に差し掛かっても衰えを知らない様子を見せていた。
今年も、きっとそうあると海は思っていた。
たった一人――たった一人、その愛の深さまでは分からないが――愛人が出来たくらいで田中の気持ちがあそこまで揺らぐと思っていなかった海は、絶望せざるを得なかった。
マルコやニコに電話をかけて、なんとかNaOtomoに田中を諦めるよう説得できまいか――などと下らないことさえ考えたりもした。しかし、今の田中からNaOtomoがいなくなったら、きっとそれはそれでメンタルケアが必要になるだろう。あの様子だ。仮に別れでもしたら、それはそれで立ち直れなくなるだろう。
大体、田中からしてみたら自分が女に甘えるのはよくて、他人が女に甘えるのはよくないのか――なんて風に自分は見えるだろう。田中の浮かれた感じとジェネルのそれとの違いを説明しろと言われても、どちらも大体似たようなものだ。それは、自分と華耶との関係にだって言える事だ。
お前もそうやって俺の知らないところで作った女のもとで慰めてもらうんだろ?同じじゃないか。俺とお前は、同じなんだよ――
「あぁ、くそっ!!」
トレーニングルームにあったサンドバッグに何度も蹴りやパンチを入れ、海はひどく当り散らした。
野球なんて辞めてしまおうか――そんなことを思っているのは田中だけではない。自分だって、きっかけさえあれば辞めたいと常に思ってきながらここまで戦い続けてきた。
かつて清兵衛が海に対して思いを吐露し、そして清兵衛の居ない今、ジェネルや田中が共に戦い抜くと宣言したから自分はここまでやってこれたのだ。
その田中が、今、思わぬ形でその闘志が揺らごうとしている――ジェネル一人の活躍だけでなんとかできるほど、野球界は甘くない。どれほど自分ひとりが打撃を突き詰めていったところで何一つチームが変わらなかったからこそ、海は自分でそれをよく分かってるつもりだ。そして、そのジェネルだって球団が突然トレードの駒になんて出してしまったら、いよいよ自分はもう誰とも戦えなくなる――。
日本に着てから大体自分は一人で孤独なものだと思っていたし、そうして一人でいることには慣れていたつもりだった。しかし、よくよく考えてみたら自分の脇には常に人がいる状況のほうが圧倒的に多く、自分自身、その環境に慣れてしまったものだから、今更一人で取り残された状態で何かを成し遂げられるほどの精神力はもう海には残っていなかった。
とにかく、何でもいいから戦う理由を何かに紐付けていないと一気に自分までもが闘争心を無くしてしまいそうな――そんな危うさの中に海はたたずんでいた。
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「打撃投手として新たに加わった浅井薫です。球速はそこまででもありませんが、出所の分かりづらいフォームと、内角いっぱいをしっかり突いていけるコントロール、結構器用に使い分けられるありとあらゆる変化球には絶対的な自信があります。よろしくお願いします!」
春季キャンプから合流した薫が全員の前で挨拶をした。ジェネルよりも少し背の高く、よりすらっと長い脚に、ジェネルに引けを取らないボディラインに、講演会で出会ったときの薫がだいぶ昔の存在であることを海は思い知った。腰まで下ろしたうっすらと栗色をしたストレートヘアーと、まっすぐな瞳とはつらつさだけがあの頃のままだ。
あの時と変わらず、元気いっぱいに振舞っているからこそ、プロを断念したときの薫の心境がどれほどのものだっただろうか――海はそんなことを考えていた。
契約更改の場で海は打撃投手や用具係、トレーナーなど、選手以外の裏方に対する給料アップと待遇の改善を申し出ていた。
そんな余裕が相変わらずFA戦線に積極に乗り出したりしない球団にそもそもあるのかどうかは分からなかったが、今の自分に6億近くの年俸を提示するのであれば、その分を自分だけでなく裏方に回さなければチーターズはいつまで経ってもこのままだろうし、このままでは野球界そのものの発展だってありえない――そう思っていたからだ。
もちろん、そんなことをして主力選手への年俸がおざなりになれば、それはそれでまたここのところ続いている投手の流出や主力選手の流出だって避けられないだろう。他のこれから年俸が伸びてくる中堅選手などからしてみたら、余計なことをしてくれたな――と思うことだろう。
それでも、裏方の待遇に関しては球団、ひいては球界全体で考えなければいけない問題をはらんでいるように海は思ってならなかった。
選手は給料のために働くものだ。それは当然のことだろう。それが職業野球というものだ。ただ、選手だけが高給取りになっていって、選手やチームを支える裏方に対する敬意だとか、対等な目線が備わっていなければ、一部の横暴な選手は球団職員を見下し続けるだろうし、チームメイトにすら暴力や圧力をかける選手だっているくらいなのだから、球団職員に対してそれ以上の大きな過ちを犯す選手だっていつか出てきて、球界を揺るがす問題を起こしかねない――。
たまたま野球選手になって、ここまでの立場を築けてきた海だからこそ、選手だけの立場や待遇がよくていいわけがないという思いがそこにあったのだ。
結局、そんな海の訴えも契約更改の場では軽くあしらわれてしまったので、であれば球界連盟に声明を出すことも考えたが――いち選手が要望を出したところで、きっと何も変わらない。
それでも、何年かかっても、契約更改のたびに球団を説得しなければならないと海は思っていた。
それが、いつまで経っても球団を優勝に導くことのできない自分なりの償いのつもりだった。
薫のような打撃投手はおよそ年700万ほどの契約をもらっているのではないか――チーターズの記者団や球団の広報らに遠まわしにおおよその額を教えてもらった。もっともらってもいいのではないか――と海は驚いたが、チーターズはそれでも他球団よりはもらっているほうだということもあわせて伝えられ、海は愕然とした。
700万しかもらえない打撃投手に、球界きっての長距離砲打線――それは同時に高年俸選手が立ち並んでいるということでもあるチーターズのコンディション調整を命じられる薫。億単位の選手を相手に、700万にかけられたプレッシャーというものは、並大抵のものではないはずだ。こうした選手たちに対等にむき合わせるつもりが球団にあるなら、1000万どころか、2000万くらいもらってもバチが当たらないはずだと海は思っていた。
別に自分の待遇についてわがままを言っているわけではないのだから、裏方の対応の改善くらい引き受けてやってもいいだろうに――海はそんなことを考えながら、練習の準備をしようとしていた。
「佳井さん」
薫が気さくに話しかけてくる。ジェネルよりもいくらか高い、と思っていた背は、近くで見るとより大きく――170cm台半ばあるかどうかくらいに見えた。もちろん、背の高さだけではスポーツなどどうしようもないのだけれど、それにしても、何故速球だけが伸びなかったのか不思議でならない。
「へへへ。似合ってますか」
「ライガーズとかオーシャンズとかバイソンズみたいな派手めなとこのユニフォームのほうが、お前はきっと似合うよ」
「チーターズじゃなきゃ意味がなかったんですよ」
海のちょっとした皮肉にも薫はへへへと笑みを浮かべながらなんともない様子を見せた。
「俺が出て行ったり飛ばされる可能性だってあるってのにか」
「だとしても、1年だけでも一緒にやりたかったんです。大体、私だって契約1年で切られる可能性だってあるんですから」
「そんなにシビアなのか、打撃投手ってのは」
薫から飛び出したひどく現実的な言葉に海は思わず目を丸くした。
「いや、さすがに1年ってことはない……とは思いますけど。一応、そういう人もいるって聞いてるので。裏方ってひっそりと選手よりもなかなか厳しい世界みたいで」
厳しい世界だということは海も周囲から聞いてはいたが、こうして直接聞くと、なおさら待遇面をどうにかしなければ――海はそう思った。
とはいえ、薫のボディラインを改めて間近で見ると、野球が仮にダメだったとしても、芸能で十分食べていけそうな雰囲気があった。芸能界だってそんなに生易しい世界ではないことくらい海だって分かってはいるが、薫には薫なりの他の生き方だってきっとあるだろうに――と思わずには居られなかった。
「随分楽しそうですねぇ、海さーん?」
ジェネルが威圧感のある笑みを浮かべながら海のもとにやってくる。
「普段どおりじゃないか、俺は」
「そ~うですかね~ぇ?」
このタイミングで面倒な奴が来てしまったな、と海は鬱陶しく思った。
「大爺……じゃなくて、ジェネルさん、ですね。佳井さんに憧れてた選手でしたよね」
「えぇ。私のほうが海さんに憧れてますし私のほうが年上ですし、そこんとこよろしく」
「お前、そういうの小物みたいでみっともないぞ」
薫の挨拶に前のめりで挨拶するジェネルの後ろ首の襟元をつかみ、引き剥がす海。それを薫は笑いながら眺めている。
「ほら見ろ、年下に余裕の笑みを浮かべられてるぞ、お前」
「だってこの枠、私の特権みたいなとこあるじゃないですか」
「特権もクソもあるか」
「えー、でも少女マンガとかだとこういうタイミングで出てくる子って大体メインのカップリングを引き立たせるための――」
「お前の主張はよく分かったから、自分のことを枠なんて言うな、枠だなんて。誰が誰に憧れようが勝手だろうが。たった2、3歳の違いで。大体、カップリングもなにも俺はもう既婚者だ」
海は呆れながらジェネルの主張をぶった切り、練習の準備に戻ろうとした。
「分かってて言ってるんじゃないですかー。相変わらずノリが悪いですねぇ」
ジェネルはそんな海をいやにやる気を見せながら肩をぶんぶんと回し、薫を笑わせてみせた。やる気があるのは十分なのだが、キャンプ初日から空回りしないといいが……と海は一瞬その様子を横目で流したが、どう見ても落ち着き具合で言ったら薫に負けているジェネルが少しだけ情けなく思えた。
「……」
一瞬目線が合ったが、気まずそうに田中が目線を逸らしてその場から去ろうとした。
「田中」
「……何ですか」
「何ですか、じゃないだろ。お前、分かってるんだろうな」
利き腕のほうをつかまないようにして海は田中の手首をつかんだ。
分かってるんだろうな、という言葉以上のことを海は言わなかった。わざわざ口に出して蒸し返したくもなかったし、自分でもわざわざ思い出したくもない話だったから、察しろ――という意図をこめて海は抽象的な言葉で田中に釘を刺した。
「……実際ね、しんどいんですよ。肩。それなりに加減して投げてるからパっと見全然変わってなさそうですけどね。限界まで投げたいですけど、俺も歳を意識しちゃうんですよ、最近。投げたい、投げなきゃ、っていう気持ちだけじゃ……気持ちだけじゃ、どうにもならないことだって、佳井さんならよく分かってることでしょう。悔しいですよ、そりゃあ。でも……何かを成し遂げるには俺はやっぱり……歳を取りすぎたんです。投げろと言われたらいくらでも投げますが……このまま投げ続けて……いつかこの肩が壊れるのが……怖いです」
「……」
「……俺は気持ちはまだ、この戦いから降りるつもりはいません。自分からは降りるつもりはありませんが……降りなければいけない時が近づいてることだって自分でも分かってます。ナオが『何年かあとには結婚しよう』って言ってくれたのも、なんだろう……俺、やっぱそろそろ終わりが近づいてるのかな、って思っちゃうんですよ。甘ったれてるって思うかもしれませんけど……俺は……俺は、海さんみたいにはなれなかったんです。俺なりに……頑張ってきたつもりなんですけどね……」
「……そんなもん、シーズン終わってから言えよ。これからシーズン始まるってのに、始まる前から終わりのこと考えてどうするんだよ」
海は泣き言の一つくらい、自分だってこんな場で声に出して言いたいというのに――と思いながら、田中の腕を振り切って背を向けた。
自分だっていつ体やメンタルの時限爆弾が爆発するものか――そんな恐怖をかかえて走りこみの集団の先頭でウォーミングアップを始めた海。隣で何も知らずにニヤニヤしているジェネルが、何も悩みなんかなさそうで、羨ましかった。