海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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113・負けヒロインの流儀

外角低めギリギリいっぱいに決まる速球を、海はひたすら大きくスイングした。

毎年のようにキャンプの間バットを折り続ける海は、首をかしげながらも乾いた甲高い打撃音を球場に響かせ続け――まるで木こりが球場にでもいるようだった。

 

打撃投手として早速マウンドに上がっていた薫。

出所の分かりづらい左のサイドハンドから繰り出される外角いっぱいのボールは、左打者である海からしてみたら見た目以上の速さを感じたし、いかんせんストレートが若干ナチュラルシュートするクセ球の持ち主だから、ストライクゾーンから外れたような外角の球をクイッとねじ込んでくるボールがたびたび放り込まれるたび、実戦のときのようなカットや、流し方向への軽い打撃をすることになった。

 

まっすぐのストレートが投げられないのでは打撃投手として使い物にならないのでは――と懐疑的な目でそれを見ている野手もいるが、海にとってはただ気持ちよく打つだけがフリー打撃ではなく、実戦のような『生きた球』を打つからこそフリー打撃が実戦で生きると思っていた。

薫の抜群のコントロールが特に生きる、コースいっぱいのゆったりとしたカーブや、速さはないが丁寧に四隅を突けるからこそしっかり捉えないといけないカットボールのほか、さまざまな変化球――本人なりに変化球を覚えて、速球が伸びなかった分は技術でなんとかしようとしたのだろう。

 

思わず見とれるような大きい変化をする変化球というものはなかったが、注文すれば大体の変化球を投げ込んでこれるし、一球一球の精度が高く、緩急を使われると思わず打ち損ねるような、『本格派』の打撃投手だった。

 

大振りするだけの野手からは『気持ちよく芯で打たせてくれない』と不満が顔に出ていたが、海からしてみれば、薫からすら芯で捉えられない人間が実戦の生きた球に対してヒットなんか打てるわけがない――そんな思いで薫からの球を捌き続けていた。

まして、ど真ん中に投げろと言われたらしっかりとど真ん中に投げられる技術が薫にはある。真ん中に来るボールが若干シュート回転することを分かっているなら、もともとそれを頭に入れて振らないといけないのだ。

それが出来ずになぜ実戦で、同じように癖のある球やツーシームなんかを投げてくる投手のボールが打てるだろう。この程度のことで不満が出るようであれば、一生こんなチームでは勝てるわけがない――そんな気分にすら海はなっていた。

 

田中が打撃投手を務めた際には思わず躊躇ってなかなか投げ込んでもらえなかった内角いっぱいのボールを、薫は自信満々に投げ込むことができる。

できる、というのもそうだが、内角いっぱいを寸分違わず正確に投げ込める自信がしっかりある。自信と技術が伴っているからこそ、薫の球はしっかりと意思を持った球として内角いっぱいをありとあらゆる球筋で突いてきた。気持ち半分で投げたような球には決して生まれることのないキレもあるし、速度は遅いものの、遅いなりにストレートが遠慮がちに全く失速してこないのだ。

 

試合では海の長打を気にして内角ギリギリからユニフォームにかするような球を積極的に突いてくる投手もいれば、制球が定まらないことを分かっていながら内角に投げ込み、いっそ長打を打たれるくらいなら死球のほうがマシだと、手当たり次第に身体めがけて当ててこようとする投手もいる。

どんなコースに投げても球をしっかりと捌き打率を残してきて、ホームランの数だって周りに引けを取らない海は、今まで以上にそうでもしないと抑えられない打者と思われている。

だからこそ、内角のボールを自由自在に捌けるようでなければ自分も今の地位のままでいられないと海は思っていた。そうした思いの強さから、海は薫に初日から内角いっぱいのボールを要求し続けた。

 

ただ同時に、外角いっぱいのアウトローのストレートを流れに逆らって無理矢理引っ張ってホームランにするのは、そろそろ厳しいかもしれないという思いも海にはあった。

6月には39歳を迎える海。一人前になどなれないかもしれないと思っていた30歳の頃、自分が38、9歳までこうして4割を毎年のように期待され続け、そして30代中盤からは4割30本がノルマと言われるような打撃を手に入れるとは思ってもいなかったし、そもそも、30代を現役のまま走り抜けることができるとは20代の頃には思ってもいなかった。

 

39歳。

 

清兵衛が引退した歳にとうとう自分は追いついてしまった。今のところ、体に痛んでいる場所はない。自分がハイになっているだけで気づいていないだけかもしれないなんてことも、メディカルチェックの結果を見るとまずありえない。

ただ、どことなくアウトローの球を引っ張ったときの打球のキレが悪い。打球に逆らわず、流して打ったときの弾道は普段どおりなのだが、流れに逆らって強引に打ったときの打球の勢いというものはどこか、自分の年齢にサバを読むことは出来ないような気がしてならなかった。いかんせん、ここ数年が自分の中で100点ではなかったにしろ、それなりに打球の伸びがよかったから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。

 

別に自分は全打席ホームランを狙っているわけでもないし、もともとそうして外角の球をパワーで無理やりねじ込むバッターではない。

ここ数年、運よくシーズン40本塁打を2度記録しただけであって――自分は本来、常にどんな形でもいいからヒットを狙いながら、その結果として20本塁打くらいを安定して打つタイプをイメージしていたし、今後もそうあり続けたいつもりだ。

 

アウトローのボールを強引に引っ張らなければいけないような場面なんて、実戦ではそれほどない。どちらかというと、自分の力がどれほどあるものかの指標として練習のときに意識して打っているボールなのだ。飛距離がどれほどあったとしても、ボールが柵を越えさえすればありとあらゆるホームランは全て等しく、同じホームランだ。飛距離で得点が変わるような陸上競技ではないのだから、単純な飛距離だけ求めていても、仕方がない。

 

飛距離だけ気にして、フライを打ち上げてフェンスを越えるたびに取材陣がシャッターを連打し――こちらにもカメラを向けてくるのが分かる。

歳も歳だということを全く考えずに『今年も4割40本を――』などと無茶を言ってきそうな空気がむらむらと伝わってくる。あとで取材を受けたら『もうすぐ30代を終わろうとしている人間に高望みしすぎです』とでも言わなければならないだろう。

 

「……」

「……あんな球投げられるなら、どっか拾ってくれてもよかったんじゃないですかね。マウンド度胸なんかは、俺よりよっぽど堂々としてますよ。単に怖いもの知らずなだけかもしれませんけど、それでも初日からあんなボールを投げることができるなら、今からでも中継ぎで使って欲しいくらいです」

田中は感心したようにしながら、薫の投げる球を延々と見続けていた。

 

「高卒であれが出来たら絶対プロに引っかかっただろうね。大卒、ってなるとやっぱり厳しい。打撃練習にはちょうどいい速さだけど、プロの場で投げるってなると、難しいと思うよ」

「……厳しいんですね」

「通用する、って俺が言ったところで、アイツがどこからも声がかからなかった事実が変わるわけじゃないだろ。アイツが今出来ることは、俺たちにボールを投げ続けることだけだ」

「……そりゃ、そうですけど」

田中はどうしてほしいのか分からないような言葉を並べ、結局自分でも黙ってしまった。

 

打席に立っていたジェネルは、薫の投げた内角低めをすくいあげるようにしてスイングした。

 

窮屈さのない、綺麗なスイングだった。

 

高く上がった白球はぐんと伸び、外野席めがけて飛び込んでいった。力任せに大きくスイングした、というよりは、振りの速さがしっかりとした、ジェネルとてただいたずらに日々を過ごしているだけではないことを証明するようなスイングだった。

確かにインパクトの瞬間、その力はぐっと込められているはずだが、力むべきポイントがどこかをつかんだような、緩急にも対応できそうな、今までの必死さが前のめりになったスイングとは別の"ゆとり"がそこにはあったことを海はしっかりと見抜いていた。

 

感触を確かめるようにして、続けざまにジェネルは内角低めを再びスイングし、同じように引っぱたいた白球は、先ほどの打球のリプレーでも見ているかのように再び外野席へと飛び込んでいく。

去年見せたような、時折見せる改心の当たりの特大アーチというよりは、今までならば外野フライに終わってしまったような打球をしっかりとスタンドインさせることができるようになっているような――自分のように、ホームランにできそうな球を増やそうとしているような打撃がそこにはあった。

本人なりに、苦手コースを作りたくないということなのだろう。内角低めを続けてスタンドへと叩き込んだ後、満面の笑顔こそ見せながらも、外角の球を要求したジェネルは自分なりに外角の球をどうスイングすべきなのかを確かめるようにスイングを調整していた。

 

「アイツ、今年は伸びるな」

「でも、もう少し飛距離が欲しくないですか。大爺が打率を残してくれたら心強いですけど」

「入ったらどんなボールもホームランだろ。アイツなりに打率を気にしてるんだよ」

「……大爺が佳井さんみたいな打撃をしたら、それこそ、変に意識して中距離打者に終わってしまって、宝の持ち腐れになりそうな気がしますけども。……俺は、大爺には常に大振りしてホームランを狙っていてもいいと思います。まだ20そこそこの大爺に、打率も長打もその両方を求めるのは、あまりに酷です」

数少なくジェネルのことを本名で呼び続けていた田中。彼女のことは愛称で呼ぶくせに、ジェネルのことは愛称では呼べないのか――と海は田中のよく分からない基準にツッコミを入れたくなったが、そこについては黙っていた。

 

「それだけだとダメだってアイツが思ってるんだよ。アイツは、近いうち4割も40本も狙いにいける。俺なんかより、ずっとその辺の素質には優れている。4割打てるかどうかはともかく、40本なんかはきっと通過点でしかないと思うよ。自分のスイングに自信があるから、アイツは尻込みしない。だから、どんなときでも長打も一発もアイツは狙っていける。俺がそういう扱いをされ続けてきたからプレッシャーをかけてるんじゃない。アイツは、野球に対しての熱意が俺なんかと根本的に違う場所で戦ってるからこそのことだ」

「……でも、大爺に佳井さんほど、人や試合を動かす力があるでしょうか」

海は不機嫌そうに田中を睨みながら――

 

「なきゃ困るんだよ。4年、5年後、アイツまでもが20代終えるかどうかって頃まで俺が3番に座って『お前が打たなきゃ』みたいな空気がまだ続いてるようなら、このチームはシリーズ制覇や優勝どころか、またシーズン100敗するような時代に戻ってるよ、正直言って。俺が40半ばになってもまだ試合の勝敗の鍵や責任をずっと俺が担ってるような世界になんて、俺は迷い込みたくないね。どいつもこいつも、俺が怪我や加齢なんかが無縁の世界にいるもんだと勘違いしてる。実際のところ、どいつもこいつも、俺を人間だとすらも思ってないんじゃないか?」

海は自嘲気味に笑いながら地面を軽くつま先で蹴り、不機嫌そうにつばを吐いた。

 

「……でも、きっと世間も球団も、佳井さんが球界にいて、佳井さんが佳井さんであり続ける限り、佳井さんを使い潰すと思いますよ」

「その時はお前も道連れにしてやるよ」

「……きっと道連れになる前に、俺なんか残ってませんよ。ここには」

最近、自分でも今までよりも輪にかけて卑屈な言葉が、自分の思考よりも先にポっと出てきてしまうことに田中は焦っていた。

焦ったからといって、自分のそんな傾向がおさまるわけでもなければ、出てくる言葉はとめどなくふと溢れ出してしまうものだから、きっと自分は、今自分が考えている倍以上は卑屈なのだろう――と田中は自分で自分に呆れることしかできなかった。

 

「ふざけるな。世間が許しても俺が許さないよ、そんなの。お前の肩が上がらなくなった日がきたなら、サイドスローにでも転向させろとコーチに言ってやる。足すらダメになったときは、地面に這いつくばってでもマウンドに上がってもらうからな」

「……そんなことになったなら、とっくに契約切られてると思いますよ。俺はもとから華のない投手だったし、今年は裏ローテかもなんて言われてるくらいなんですから――」

「じゃあ必死で表ローテに復活してやるくらいの気概を見せろよ。いいのか?なんとなーく投げてなんとなーくベンチに戻ってきてヘラヘラしてるやつに表ローテ奪われて」

「でも俺はもう――」

「でもだの何だの、いつまでも甘ったれてるなよ。お前の彼女みたいに何でも俺が肯定してくれると思うなよ」

海は吐き捨てるようにして田中の弱音を遮った。ナオのことは口にするなと言わんばかりに田中も一瞬海を睨んだが――海に対して口で勝てる気がしないので、やめておいた。

 

「ふふん。見てくれましたか、海さん。私、自分の打撃に足りなかった何かがちょっとだけ分かった気がします」

「ああ、そう」

鼻を鳴らしながら帰ってきたジェネルに海はそっけない返事をした。ジェネルには海がなぜ不機嫌なのかは分からなかったから、むぅ、と頬を膨らませた。

 

「ああ、そう――じゃないですよ!見てなかったんですか!?私の華麗な内角捌きを!あの外角のボールをしっかりとスタンドまで何度も柵越えさせたり、うまく掬い上げてみせたあの打球を!アレがゴロ連発にならなかった私をもっとこう……褒めてくださいよ!私、褒められて伸びるタイプなんですよ!?」

「じゃあお前のその過剰にメスメスしい身体は褒められて伸びたのか。たいしたものだね」

「あー!!なんでこう……なんでこう、素直じゃないんですか!?海さん家でもそうなんですか!?華耶さん相手に『あぁ、まあ、うん、普段よりちょっと過激な下着履いてるね』くらいしか言わないんですか!?華耶さんがその気になっても『お前一人だけサカってどうするんだよ』とかしか言わないタイプだ!!あー!!これは大変だ!事件だ!おしどり夫婦は仮面夫婦だ!!」

「黙れ」

指をビシっとこちらに向けてドヤ顔を決めるジェネルの口を海はふさいで椅子――ではなくベンチの中の床に直接座らせた。

 

「まず、謝ろうか」

「何にですかー」

むすっとした表情でジェネルが海を睨む。

「人ん家の夜の事情を勝手に想像したり捏造するな。それが仮にお前の発作か病気なんかだとしてどうしても止められないなら、せめて練習場で人ん家の夜の事情のことでわめくな。一般客が入ってる練習だったらどうするつもりだったんだお前」

「……一般客がいないからやってることに決まってるじゃないですかー」

「とりあえず人ん家の夜の事情をネタにしたことを謝れ」

「海さんが褒めるまで謝りません。あと、海さんだって私の身体がどうとか――」

「そんなんじゃお前嫌われるよ」

「誰にですか」

「察しろよ」

「じゃあ察してあげません」

「……じゃあ、そのことはもういいや。お前のスイングに関しても言いたいことがある」

「どうぞどうぞ、褒めてください。褒めちぎってください」

ジェネルは『きたか!』という表情でニヤニヤと笑みを浮かべるが、海の表情は硬い。

 

「まず、その自信過剰な気持ちのままシーズンを迎えたら、お前は3割すらも無理だよ。絶対どっかで調子を落とす。さっき出来たスイングがシーズン140試合全部で出来ると思ってたら、絶対よくない。自分の思い通りの打球が打てたっていうイメージだけをきれいに切り取っておいて、その過剰な自信はその辺のゴミ箱にでも捨ててしまえ。シーズン始まれば、正直言って、その過信、絶対に打席で邪魔になるから」

海はジェネルに厳しい表情を向けるが、ジェネルの自信は揺らがず、まっすぐな目線だった。反論できるほどの材料があるから、ジェネルは一歩も退こうとしなかった。

 

「でも私、自分の中では何かこう……分かった気がするんですよ。海さんのスイングと自分のスイングの違いを研究した上で、自分にできそうなラインで海さんのスイングをちょっと意識してみたら本当に打てるようになったんです。去年はそれができなかった――でも、なんだろう――なんとなく、本当に感覚的なところなんですけど。力むタイミングのコンマ一秒の世界が見えたっていうか、何っていうか」

 

海からしてみれば、これまでのジェネルとは違い、根拠のない自信がしっかりとした確信に変わってきたからこそ、自信が過信になりかねない状況に警鐘を鳴らしたかった。

ジェネルは自信家だが、努力を怠らないし、油断をするタイプではない。こんなレベルでとどまっている人間ではないし、ジェネルだってよりいっそういい自分に向かって進もうとしているだろうけれど、ここで甘やかすとジェネルはまたすぐに熱っぽくなってしまうから、海は厳しい言葉を崩そうとしなかった。

 

「それが自分の中で分かったつもりでいても、シーズン始まってみたら案外どうにもならないから打撃って難しいんだよ。今感じてる手ごたえが、生きてる球、試合の中でのありとあらゆる状況で通用するわけじゃない。成長してるのはお前だけじゃないんだから。それに、今にお前も、4打席1安打じゃ物足りないって言われるようになる。その時、ちゃんと結果で示せるようになるにはさっきみたいな自惚れは――」

「分かってますよ。分かってますけど――」

ジェネルはすくっと立ち上がりながら、海をしんみりとした表情で見つめた。

 

「別に、成長を海さんに喜んで欲しいわけじゃないんですよ。私はただ、ちょっとでもいいから、海さんが私の冗談や、またこいつバカなこと言ってるなーって……それで笑ってくれたらいいなーって思って」

「……だとしたら、お前はこのキャンプの間にジョークのスキルを磨き上げることだね」

「じゃあ、監督に練習メニューに話術を入れるように頼んでみます」

「……馬鹿言ってんじゃないよ」

一瞬だけ、無意識に出たであろう海の冷たい笑顔を見てジェネルは内心喜んだ。どれほど馬鹿にしたような笑顔であろうとも、それが笑顔であるならば海にはまだ笑える心が残っているのだから――と。

 

打席に入ったときの海の表情がずっと強張ったままだったこともそう、打席から外れてからもしばらく鬼のように険しい表情や、どこか遠くを見つめているような――考え事をしてばかりいそうな顔をしていたから、ジェネルはそれが気がかりだったのだ。

 

そんなことは今に始まったことではなく、むしろいつものことではあるのだけれど、そのうち、自分を追い詰めていくうちに、海は笑い方すらも忘れてしまうんじゃないか――ジェネルはそんなことを心配してしまっていた。

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