幼い頃、晴留は華耶に尋ねたことがあった。
竜匡――すなわち、自分の祖父。冬の間を長野の実家で過ごしたことがあったり、三葉と一緒に大阪を訪ねてきたことがあったりと、頻繁にではないが、竜匡とは何度か会ったことがある。もちろん、三葉は自分が小さい頃から、しょっちゅう家に寝泊りして面倒を見てくれていた。晴留にとって――ひいては、佳井家の子供たちにとって、華耶の父母は身近な存在だった。
では、何故海の父母は一度も顔を見せないのか――と。
考えてみれば、華耶の両親の苗字も、そして美樹の苗字も佳井だ。海の苗字が佳井なのは、普通に考えたらおかしいではないか――と。
そんな晴留の問いについて、華耶はその全てを言おうとはしなかった。
『お母さんがお父さんと結婚したのは、それなりに色々あったからなんだよ。お父さんもあまりそこには触れて欲しくない話題だから、あんまり聞いちゃだめだよ』くらいのことしか教えてもらえなかった。
弁当箱から、丁寧に包まれたたまごサンドを晴留は頬張る。どれほど浜名湖が見えようと、富士山が見えようと、広々とした海が見えようと、それを景色のことを話題に出しても海が黙ってしまって気まずいものだから、少し食事にでもしてこの空気を誤魔化したかった。
誤魔化したかった、という思いこそそこにあっても、それでも、晴留はこの際だから海と二人きりでなければきっと話してくれないであろう話題を切り出さずには居られなかった。
『お父さんはさ、高校生の頃どんなこと考えてた?』
そんなふわっとした言葉に、晴留は様々な意図をこめていた。何か一つに関して聞くよりも、こうした漠然とした言葉を投げたほうが海は話しやすいだろうと思っていたし、直接的な言葉で海に何か質問をすると、うかつな言葉が海を刺しかねないから、晴留は遠まわしな言葉で海から言葉を引き出そうとしていた。第一、運転中に海の神経を刺激して変にハンドルを誤操作されてはたまらないからだ。
「お父さんが高校生の頃、別に将来何かしたい、って思ってたわけじゃあないけど――時が来たら、日本から出て行こうと思ってた。その頃、この国に、お父さんの居場所はないと思ってたからね。別に日本が嫌いだったとか、そういうのじゃない。晴留も知ってると思うけど、お父さんには日本人の血は流れてない。スウェーデン人のおふくろと、フィンランド人の親父とのハーフだから、日本国籍ではあるけど、本当の意味では、日本人じゃあないんだ。だから、大学に進学したら――すぐにでも海外の企業に就職できるような行動をしなければと思ってた」
再び車はパーキングエリアを出てから海沿いのルートを走り始めていた。
晴留は黙ってたまごサンドを食べながら、海の言葉を聞いていた。咀嚼をしているから言葉を出せない、という体で海に言葉の主導権を握らせていた。海も晴留の様子を見ながら、言葉を続けた。
「……とにかく、この国に居続けるつもり、っていう選択肢は高校の頃っていうか……お母さんと出会うまではね、なかったんだ。必死で勉強して、アメリカあたりの……英語圏が通じるところなら、正直どこでもよかった。フィンランドにはきっと戻れないし、仮に戻ったとしても、色々考えちゃうだろうからね。だったら、せめて変に故郷のことを思い出さなくてよくて、でも、言葉が変だっていじられないような、英語圏のどこかに居ようと思っていた。そうやって、海外の企業……あるいは、日本企業の海外支部なんかにでも就職して――とにかく、自分の意思で、もう一度自分の名前と、自分の人生を取り戻しさえできれば、その頃はなんでもよかったんだ」
窓から見える、少し波が立っている海原を海は一瞬見つめた。この海の向こうに自分が住んでいるあの頃漠然とイメージしていた未来は、一体今ほど幸せだっただろうか――今ほど悩まずにいただろうか――そんなことを考え、海は再び目線を真正面の道路へと移した。快調に流れていた車の流れは、鈍重でこそないがやや列を作り始めて、少しペースを落としそうな雰囲気を醸し出し始めていた。
「別に、もともとフィンランドに居た頃に名乗っていた名前に愛着があったわけじゃあないよ。でも、お父さんは日本で使うことになっていた名前が嫌いだった」
「どうして?」
「お父さんの意志で決めた名前じゃなかったからね。もともとの名前だって別に飛びぬけて好きだったわけじゃあないけど、知らない間にミドルネームが取り上げられて、知らない間に苗字も、名前も決まってた。今はもうミドルネームがなくなってせいせいしてるけどね。お父さんの家は、ミドルネームが代々父親の名前を受け継いでいたから」
「……」
晴留の中で、きっと海とその父親との関係はあまり良好ではないのだろうという仮説があったが、それが確信に変わった瞬間だった。それでも、父親と海との間に何があったのかは、聞かないでいた。
海が自然に話してくれたらそれに越したことはないが、わざわざ自分から言い出さないのであれば、よほど言いたくない話題なのだろうから、娘の立場でそれを掘り返すようなことはしたくなかった。
「お母さんに会うまでは、本当に普段、そういうことしか考えてなかった。だから――もし中学の頃野球なんかに誘われずに、お父さんがサッカーをやり続けていたなら、きっとどんな手を使ってでも海外リーグへの入団や移籍を企んだと思う。もしサッカーの才能がお父さんが自分で思っているよりも低かったとしても、学力という手段や英語を話せるという能力があるから、とにかくまずは日本から出て行くことを常に前提にしていた。お父さんがその頃からギターをやってたのだって、あの頃はただギターを通じて自分の感情を代弁できればって思ってただけだったけど――もとをたどれば、音楽を全力でやっていれば、ひょっとしたら海外に移住できるかもしれないって思ってた自分がいたのかもしれないね。音楽はスポーツなんかよりずっと、世界に扉が向けられているから」
海は時折自嘲気味に笑いながら――淡々とつぶやき続けた。
晴留はそれを黙って聞いていた。時折それを茶化すように、カーナビの音声が空気を切り裂いたが、二人は気にも留めなかった。
「そもそもさ、お父さんはどうして日本に来ることになったの?フィンランドに残る方法、なかったの?」
「……親父の仕事の都合でね」
うっかり海に質問してしまった晴留は一瞬しまった――という顔をしたが、海は気にも留めないように、一言だけそう答えて、少しの間黙った。
嘘は言っていない。嘘は言っていないが、それ以上のことを海は言うつもりはなかった。
自分が日本に来たことを全て話すと言うことは、自分の生い立ちを全て話しきることになってしまうからだ。
「親父とはね、お父さんが21歳くらいのときに縁を切ったんだ。あの頃はまだ、生きるだけで必死だった。振り返ればいつもいつも必死だったけど、あの頃はまだ、自分が自分でいるだけで、精一杯だった。もちろん、今でも、日本語のやりとりが難しいと思うことはたくさんあるよ。難しい言葉とか使われると、いまいち意味が分からない時だってある。だから、あの頃は……俺がなんか言うたびに、コーチや監督といがみ合っていた。チームでも、今以上に浮いていた。華耶――お母さんだけが、お父さんの言うことを理解してくれたし、受け入れてもくれた。お母さんと出会ってからはね、お母さんと結婚できたら、その後の人生だとかはどうでもいいと思っていたんだよ。あの頃はまだ、お母さんがどんな思いで野球をしてるお父さんのことを見てるかなんて、そんなに理解してなかったからね」
海はそうして今日この場にいない華耶のことを思い出し、華耶と出会えなかった運命を想像し――背筋を冷たくさせた。
野球をやらされていて、それで華耶と出会えなかった自分が果たしてグレずに居られただろうか――果たしてもう一度勉強に打ち込むことができていただろうか――当時のいびつなモチベーションがどこまで維持できたかを考えると、身震いしそうな感じがした。
「だから、親父と縁を切って、それで結婚したら――海外とパイプのある企業に入るか、あるいは……ほら、野球選手ってまあまあお金あるだろ。もともと親父も金ぶりはよかったし、おふくろからもお金送られてきてたから、お金には余裕があったんだ。だから、大学に入りなおして、とにかく……自分の生きやすい世界を見つけるために生きることで、精一杯だった」
「どうしてお父さんは自分のお父さんと縁を切ろうと思ったの」
「……」
海は、特に悪意なく放たれた晴留の言葉に振り向くことはしなかった。前を見ていないと危ないからではない。純粋に疑問をぶつける晴留の顔を見たら、余計なことを考えてしまいそうだったからだ。
「縁を切ったのが本当によかったのかは、分からない。でも、お父さんはもとの苗字のまま日本で生きるのだけは嫌だった。親父は――親父は、金だけは持っていた。俺にも金をケチケチすることだけはなかった。そのくらい、うちは金だけはあったんだよ。親父は大企業に勤めてたからね。でも――不自由しない金と引き換えに、俺を――俺だけじゃない。おふくろをも裏切った」
裏切ったという言葉だけがそこにあって、海はそれ以上の事情を話そうとはしなかったし、晴留もまた、それ以上のことは聞こうとはしなかった。
海が晴留に対して必要以上にショックを与えない言葉は他に見当たらなかったし、晴留もまた、そこから掘り下げて海を傷つけるようなことはできなかった。
「プロに入ってから、別にお金をたくさん使うような趣味だってなかったし、周りとも関係だってなかったからしばらくは節約して、今まで払ってもらった学費の分と――しばらく苦労せずに過ごせるくらいの金を置いて、お父さんは親父と縁を切った。家を出た時点で携帯だとか、保険だとか、お父さんに権限があるものは片っ端から契約を切ったり、名義を変更した。とにかく、親父に繋がるものは全て断ち切った。お父さんが今お母さんの苗字を名乗っているように、身分だって今は、お母さんの家にある。今、親父がどこで何をしているかは分からないし――知りたくもない。とっくに死んでるかもしれないけどね。晴留がもし会いたいって言っても、お父さんは絶対止める。仮に、日本のどこかに墓があるとしても、そこに行きたいと言うならお父さんは絶対反対する」
「……じゃあ、お父さんのお母さんは今どこにいるの?家を出て行ってから、本当に、何の手がかりもないの?」
「ああ。分からない。若い頃は毎月口座にいくらか生活費が振り込まれてたけど……いつからだったかな。それもピタリと止まったから、おふくろもひょっとしたらもう死んでるのかもしれない。手紙とか、そういうのが送られてきたことだって今まで何もなかったから、一ヶ月に一回、事務的に送られてくる金だけが俺とおふくろとのつながりだった。それがないってことは、そういうことだなんだな、ってお父さんは思ってる」
「……会いたいとか、ないんだ?」
「今会っても、お父さんの失った時間も、おふくろの失った時間も帰ってくるわけじゃないだろ。振り込まれた口座からはいくらか追えるかもしれないけど、その近くに本当に住んでるかどうかだって分からない。今時振り込みなんていろんなやり方があるからね。住所がどこか分からない人を調べるのだって、そう簡単な話じゃあないし、それが国を越えてってなったら、探偵に調べてもらおうがない。それに――」
『……Aiti――』
一目会った華耶に、思わず母親の姿が重なった――。
自分は華耶に母親であることを求めていたし、今だって自分の妻であり、恋人であり、そして――母親の代わりをしてもらっている。
母親に会えなかったとしても、もう自分には母親代わりでもある伴侶がいる――そんなことを娘の晴留になど、言える訳がなかった。
「……まぁ、お父さんは……今の生活のほうが大事なんだよ。もう、フィンランド人でもない。どこまで行っても本当の意味では日本人でもないし、中途半端にフィンランド人のままでいるお父さんだけど――今、向こうに行ったり、おふくろに会ったりして、自分の人生について真剣に向き合うような出来事なんかがあったら、お父さんはもう野球なんかできなくなってしまいそうでね」
「そっか」
こういうときにそっか、という言葉以上を発さず、詮索をしようとしない様子は華耶に本当によく似ていると海は思った。
助手席で時折窓を開け、髪をなびかせる晴留。髪を結っているわけではないが、ロングヘアがゆらゆらと風でゆれるたびに、助手席に乗っていたときの華耶の表情やしぐさがふと乗り移ってきているようで、海はついその視線を晴留に寄せられた。
「そう言えばさ、お父さんってお母さんと結婚する前は他の人と付き合ったことあるの?」
「一人だけね」
「ええ?なんかもっとたくさん付き合ってるもんだと思ってた。意外」
「高校の頃、お父さんに寄ってくる女の人っていうのは、お父さんが『もともと外国人だから』近寄ってきてるようなもんだった。さっきも言ったけど、お父さんはその頃、一日を自分として生きることで精一杯だったし、日本にもまだ馴染んでいなかったから……一人だけ、隣のクラスの子と付き合ったんだけどさ、うまくいかなかった。それでも、半年付き合ったんだけど、向こうから『何を考えてるか分からない』って言われて、それっきり
」
向こうから言い寄られてなんとなくで付き合い始めた海だったが、自分から距離を詰めていいものかどうか、海は悩んだ。求められてなんとなくで抱いた時だって、それが本当に恋愛の形なのかどうかは、その頃の海にはよく分からなかったし、手を握ったり腕を組んだりするのは、海からしていいものかどうか、分からなかった。
大体、そんなことでしか恋愛感情を表現できないくらいなら、そんなもの、恋愛でもなんでもなく、現実離れした男と付き合っている自分というステータスのために付き合わされているだけのものであるようにしか思えなかった。
一度くらい誰かと付き合ったら何かが変わると思って付き合ってみたけれど、向こうからああだこうだと求められることばかりで、海はその経験が今の何にも生かされていないことを今改めて感じた。
「じゃあ、その後割とすぐお母さんと知り合ったんだ」
「割とすぐってほどでも……いや、割とすぐ、か。知り合った話くらいはお母さんから聞いたことがあるだろ」
「うん。でも、お母さんだいぶ話盛ってそうだからさ。電車で外国人に絡まれて、『俺の女に手を出すな』って言って助けてもらった、って」
「……大体間違ってないよ」
「ええ?本当に言ったの?」
「言葉のあやでね」
「へぇ~」
晴留はニヤニヤしながら海を見つめたが、海は淡々とした表情で話し続けた。娘に出会いをからかわれるのは、少しだけ嫌だった。
「本当にそんな感じでお母さんとは知り合ったんだ。お母さん、あの身長だろ。変なことに巻き込まれたら厄介だと思って、お父さんが割り込んだんだよ、お母さんに変に絡んできたやつに。話してる言葉が英語なもんだからか、誰も助けようともしなかったしね。お父さんのほうが身長が高かったし、日本じゃあまりこのくらいの背の人はいないだろ。お父さんが『俺の女に手を出すな』って言ったら、きっと喧嘩でも勝てないと思ってくれるだろうって思ってね。ハッタリだよ」
海はふと当時のことを振り返り、ずいぶんキザな言い回しで割り込んでしまったものだ――と思わず苦笑を浮かべた
「でも、本当のことだとは思わなかったなあ。いまどき、ドラマでも言わないよそんなこと。私もそういう運命的な出会いがあればなぁ」
「運命的な出会いなんて、そこまでいいものじゃないよ。運命的だからこそ、熱っぽくなりすぎるんだ。恋愛がそんな変に運命めいたものから始まると、互いに運命を大事にしすぎて、首絞められるからね」
「えー、何。なんかちょっとキザなこと言っちゃって」
晴留は茶化したが、海の表情は苦々しかった。嘘は言っていないつもりだったからだ。
華耶も自分も、自分たちの出会いが運命めいていたから、自分の思いを相手に重ねたがるし、お互いが互いのために頑張りすぎてしまう――。今だって、自分が野球にムキになってるのは華耶の思いに応えるためだし、それをわかってるから華耶は自分がよりよい女性であろうとするし、完璧な母親であろうとしている。
その苦労まではきっと、晴留にはまだ分からない世界だろう。
『――ナオが何年かあとには結婚しようって言ってくれたのも、なんだろう……俺、やっぱそろそろ終わりが近づいてるのかな、って思っちゃうんですよ。甘ったれてるって思うかもしれませんけど――』
田中が歌手と付き合ったというのも、きっと運命的な出会いが何かしらあったからこそのことだ。田中も、相手も、運命を感じている。だからこそ、真剣に結婚を考えるようなことを向こうから言い出したのだ。
田中が完全にたるんでしまったとは思わない――正確には"思いたくなかった"海だったが、自分が華耶を好き勝手抱いてしまったこともそう、避妊だってしていたのに自分が華耶と毎晩激しく体を求め合ったせいで、子供はもういいと言っていたはずの華耶が柊理を産むことを決意したこともそう――運命的な恋なんてものは、それを理由に何かと全てを都合よく運命的という言葉で結びたがる。
どれほど、『普通に生きる』ことが難しい世界なのだろう――と海はハンドルを握りながら思った。
「まあ、啓皇くらいまで行くと変な男みたいなのも学校には居ないと思うけど、お母さんが実際そうだったように、学校生活以外のところなんかも気をつけるんだぞ。分かってると思うけどね」
「大丈夫だよ。寮もちゃんとそのあたりのセキュリティしっかりしてるし、割と皆、勉強のほうが大事みたいなスタンスで自分のことに集中してる人多いし」
「……一応聞くけど、もう男がいて、寮なんか出て行ってたまにそいつのアパートや、お父さんが借りっぱなしにしてるアパートに住み込んでる、とかじゃあないよな」
「ないってそんなこと。変なドラマか漫画の見すぎだよ」
「ならいいけど」
海は久々に笑顔を見せながら、快調に車を走らせ続けた。
途中、給油と休憩と再び何度か挟み、予定通り午後6時前に武蔵小山のアパートに着いた海と晴留。
最近は秋冬のベストナイン授賞式やテレビ出演の際の寝泊りくらいにしか来てなかったほぼ倉庫と化しているこのアパートに、この時期鍵を開けるのはなんだかとても不思議な感じがした。
パーキングエリアで買い込んだ惣菜やらレトルト食品を冷蔵庫や棚にしまいこみ、テレビをつける晴留。
「あー、やっぱ地上波全然やってる番組違うね」
「そりゃ、地方が違うとね」
つまらなさそうにドカっとソファに座った晴留は、足を組みながら携帯をいじり始めた。
「ところでさ、晴留」
「うん?」
「お父さん、東京に引っ越すとか言い出したら、どうする。東京に家建てるとか言ったら……どうする」
「えぇ?」
晴留は思いもしなかった言葉をかけられ、目を丸くした。
しばらく、目を伏せて考えながら――
「別にさ、今すぐ引退するつもりでいるとかいう話じゃないんだよ。ただ――知ってると思うけど、お婆ちゃんもお爺ちゃんも、長野に住んでるだろ。お婆ちゃんは美樹さんと入れ替わりで家を見に来てくれてたけど、二人とも若いように見えて、もうだいぶ歳だしさ。お父さんが野球辞めたら、もし真結も広乃も、本気で東京に進学したいって思ってるんであれば、いっそ、こっちに引っ越してしまったほうがいいのかなって。家のことなんかもあるし、本当はお父さん、若いうちに関東圏のチームに移籍しようとも思ってたんだよ、本当はね。なかなかそうもいかなかったんだけどさ」
「それは――嬉しい……けど……」
「嬉しいけど?」
晴留は物悲しそうな表情を浮かべながら――
「なーんか、本格的に引退考え始めてる感じ、ちょっとヤだなって思った。人生設計がちゃんとしてる、っていう見方もできるけどさ……なんだろう、やっぱ仕事、きついんだな……って思っちゃって。夢がないなあ、っていうかさ」
「きついに決まってるだろ。去年の成績がよかったら、去年のことをずっと言われる――一年だけよかったら、一年だけよかったときのことをずっと言われる世界なんだから」
「新は、それに耐えられるのかな」
「どうだろう。それは、アイツにしか分からないだろうね。挫折しないままあっさり行くかもしれないし、突然ぺっきり折れるかもしれない」
海はスティック上のスナック菓子をぺきっと折り、晴留に見せ付けた。
「しかし、あんまりこういう菓子なんて食べてこなかったからね。たまに食べるにはいいもんだね」
「あんまりお菓子お菓子っていう感じで食べてなかったもんね」
「それに、既製品を買わなくても華耶がお菓子すぐ色々作ってくれるからね」
「私もなんか作ってあげようか」
「今はいいよ。お前、長時間の移動で疲れてるんだろ」
「そんなことないから。……って言っても、何かを作るにはちょっと遅いかな。まあ、用事で東京に来ることなんかあったら作ってあげるからさ」
「お前は、お前のことだけ考えて生活してればいいんだよ、しばらくは」
海は晴留の一挙一動が大学時代の華耶を見ているような気がして、笑った。
親としてはこの歳で一人暮らしをさせることに抵抗がなかったわけではなかったが、きっと大丈夫だろう――そう思いながら、テレビに流れ始めたスポーツニュースから逃げるようにBSの時代劇にチャンネルを切り替えた。