海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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121・ジレンマは機を織って

〈――この場面で、今日先制ホームランを放っている佳井。ツーアウト満塁という、この男にはもってこいの場面――甘く入ったストレートを軽く捉え、同点に追いつきます〉

〈――風が向かい風気味だったので、あまり一発は考えてませんでした。リリースの瞬間、セカンドが若干センター寄りだったので、少し引っ張ってファーストとセカンドの間を抜くような打球を意識しました。もうちょっとライン沿いに打てていたら2点入ったかもしれなかったので、あんまり調子に乗らないようにしたいですね――〉

 

テレビの向こうで、相変わらずあまり嬉しそうにインタビューに応えない父親の姿を真結と広乃はじっと眺めていた。

野球にあまり詳しくない二人だったが、海が今年も相変わらず活躍している、ということだけは二人にはよく分かっていた。

 

スポーツのニュースを確認した後、続けてバラエティ番組や深夜ドラマだとか、見たい番組をリビングのテレビで見ようと思っていた真結と広乃はいったんチャンネルを変えてから新聞を眺め、何を見るか話し合っていた。

 

〈――今ならなんと2本で税込、15000円でご提供いたします!〉

〈社長~もっと安くなりませんか――〉

 

〈――果たして、ダミアン・メリッサ・シーン投手は復調できるのでしょうか。大リーグの今後にも注目したいところです。さて、続いてはサッカーの話題です。まずはイタリア1部。フリウリに所属する板橋史也選手が今日も左サイドから大胆かつ素早いオーバーラップを見せてくれました。まずはこちらをご覧ください。前半27分、右サイドハーフに対してサイドチェンジを――〉

 

「何で勝手にチャンネル変えちゃうの」「今見てるところなの」

「部屋のテレビは小さいんだよ。あと俺、この後録画した試合見るつもりだから」

「むー」「いいの。真結。新なんか相手にしてもしょうがないの。部屋でテレビ見るの」

 

二人が新聞を見ている間に冷蔵庫から茶を取り出した新がソファにどかっと座る。真結は嫌そうな顔をしながらリモコンを奪おうとするが、広乃が真結をさえぎって立ち上がらせる。

 

「野球は見るくせに、サッカーは見ないのか」

「別にサッカーそのものが嫌いなわけじゃないの」「今の新とは一緒に見たくないの」

 

だったら結局サッカーが嫌いなんじゃないか――と新は鼻で笑いながら、足を組んでテレビの向こうでドリブルを切り込んでいく選手たちの動きに見入っていた。

 

今に大きな怪我でもしたらいいのに――などと罰当たりなことを真結は思いながら、一度振り返って何食わぬ顔でテレビを見ている新に一瞥くれてやって――階段を上がった。

 

「別に、行かせてやったらいいんじゃないか」

「海くんってば!」

「本人がその気なんだろ。行かせてやればいいじゃないか」

 

5月の上旬、国際大会を終えて家に戻ってくるなり新は夏休みの間、イギリスの名門チームでサッカー留学をしたいと言い出し始めた。

言い出し始めた、と言うよりは、相変わらず華耶にだけ伝え、海本人には伝えずじまいだったのだが――。

 

華耶としては反対だったけれど、海はどう思うか――という気持ちで聞いたところ返ってきた返事が、あまりに早かったもので華耶はつい反論せざるをえなかった。

 

「分かってる?海くん、前にも言ったけどさ、ナメられてるんだよ。海くんのこと、金づるかなんかとしか思ってないんだよ、あれ」

「いいじゃないか。親って実際、子供からしてみたら金づるみたいなところはあるだろ」

「よくない。よくないよ、絶対。海くんが何でもはいはいって金をぽんと出してくれるものだと勘違いしてる。留学の費用だって、海くんはそりゃあ……今はアホみたいな年俸だから感覚が麻痺してるんだろうけど。いくらだったっけ、6億だっけ?」

「アホみたいなは余計だよ。……あと、正確には6億と200万ね」

海は思わず華耶の言葉に対して苦笑を浮かべながら年俸を暗唱してみせた。華耶は改めて球界でも並外れた年俸を聞いて目をぎょっとさせ、テーブルに置いてあった海の革製の財布を指差した。

 

「ほらやっぱアホみたいな額じゃん。で?そこにしかもCMやらテレビやらラジオやらの出演料とスポンサー料が、その何倍も何っっ倍もでしょ?」

「人の稼いだ額をアホみたいな額とか言うんじゃないよ」

「でも、出演料が一番あった時って――」

「いいだろ、俺の出演料がどうとか、華耶んとこの会社と比べたらちっぽけなんだから」

「あたしの叔父さんのとこの会社ね」

まあ海にとってそんな些細なことは別にそんなことはどうでもいいと思ってるだろうな、と華耶は思ったし、海もまた、竜匡が勤めていた会社でもあるんだから似たようなものだろう――と思っていた。

 

「とにかく……親が稼いだ金、子供につぎ込まないで一体何に使うんだよ」

「でも――」

「別に、子供の学歴や経歴がステータスだと思って自分の子供に投資してる、なんてことしてるわけじゃないよ、俺も。ただ、貯蓄だって――明日にでも突然現役辞めて、突然東京に大豪邸立てたとして、それでもまだまだ死ぬまで遊んでられる額があるわけだろ。幸い、CMだって複数年契約結んでくれてるところが多いから、高い年俸にそんなに驚かないくらいには出演料が続けてもらえてるし。それに、今までだって子供たちがやりたいって言ったことは好きにやらせるっていうルールでやってきたじゃないか」

「それは……そうだけどさ。今の新に何でもかんでもお金出したいって思える?あたしは思えないよ。絶対嫌だよ、今の新になんか――」

 

そう言ってから、珍しく険しい表情になっていた華耶はふっと表情の力を抜き、ひん曲がった眉のまま急に目じりを下げてため息をついた。

 

「……ダメだね、あたし。こういうこと普通に言えちゃうようになっちゃったんだ。なしなし。忘れて、今の」

「……」

 

海自身、新が余計に増長しかねないリスクもそうだし、新が自分はともかく華耶や子供たちに対して最近とっている態度を考えると、確かにサッカー留学の件をそう二つ返事で承諾することは少し躊躇われた。

ただ、海が一番恐れていたのは、自分の感情を優先して新の意思に変にブレーキをかけてしまうと、それこそ新は自分のようにやさぐれてしまって、そのうち華耶などに手を上げるのではないか――ということだった。

それが家の中で済むだけならいいが、例えばその矛先が家族以外の誰かに及んだり、その果てに非行や犯罪なんかに手を染めるようでは、それこそ大問題だ。

 

「あいつも、そのうち分かる日が来るよ。華耶だって分かってるだろ、神様ってもんは、そんなに甘い思いをさせてはくれないって。続かないもんなんだよ、いいことって。俺の年俸のたった少し――たった少し出すことでその矛先が華耶に向かないのなら、安い投資だよ。……そう思っておいたほうがいいんだよたぶん。アイツが成功続きのままスーパースターの階段を駆け上がっていくなら、それはそれでアイツは本物だったって思えばいい」

「でもそれじゃあ――」

それじゃあ海が馬鹿にされ続けるばかりではないか――という言葉をぐっと飲み込んで、華耶は寄り添った海の腕にただ身体を預けていた。

 

「……うっすらとしか話したことなかったかもしれないけどさ。俺……おふくろが家を出るまではさ、しばらくの間、おふくろにキツくしてたんだよ。たぶん、前に話したときは一度や二度の話みたいな言い方してただろ?違うんだよ。割と……割とよくあることだった。米の焚き方とか、あんま慣れてなくて、失敗続きだった。こっちに来てから背がよく伸びたもんだから、服のサイズなんかも国によって表記が違うだろ?よくさ、よせばいいのに俺の着るTシャツとか勝手に買ってきてはさ、シャツのサイズが全然合わない、みたいなのとかもあったりしてた。そういう日常的なズレなんかもあって、俺はよくあたってた」

 

自分はあまりいい息子ではなかった――ということを聞かされたことがあった華耶だったが、海がこれまであまり話してこなかったその実情を黙って聞いていた。海は苦々しい表情で、華耶に手を伸ばしたまま話し続けた。

 

「もとから……"どっかの誰かさん"みたいに、ちょっとヌけてるところはあったんだけどさ。親父への不信感なんかもそう。正直言って、荒屋海なんてダサい字面を捨てて、国籍変更だって取り消して、とっとと国に帰りたかったこともそう。大体の日本語は読み書きもできてた自覚はあったけど……ビミョーな意味の違いだとか、丁寧語だとか敬語だとか……そういう、面倒くさい言葉の形式なんかもそう。あの頃の俺は、自分のことだけで精一杯だった。一日一日をどうやって生きるか、今後のこと含めて……被害者意識、って言うんだろ、こういうの。俺はそうして、それまでは愛嬌よく見えてたおふくろの一挙一動にまで、なんだか腹が立ってきてしまった」

 

『誰がこんなシャツ着るかよ――』

 

『別に無理して米なんか食わなくても死なないんだから、米が炊けないならパンメーカーでも食パンでも買ってくりゃいいだろ――』

 

「きつい言葉だけじゃない。手を上げたことだってあった。それでも、おふくろは滅多に怒らなかった。ずっと、笑ってて、謝ってた。そうして滅多に怒らなかった代わりに――日に日にやつれていった。……おふくろは日本語があんまり得意じゃなかったから、商店街なんかじゃ買い物ができないし、日本で車を乗り回すには不安だ、って、近所のスーパーには自転車で行ってたんだけど、ポイントカードがどうだとかなんだとか店員に言われるのもやりとりが大変だったし、かといってセルフレジが得意かって言われると、トラブルにあったときに日本語で話して切り抜けられる自信がないって言って、買い物なんかもネットショッピングやネットスーパーが中心になった。周りの"日本語が通じないタイプ"の外国人たちが日本人からどんな目で見られてるかを分かっているから、おふくろは自分が日本語があまり得意じゃないことを街の連中には悟られないようにしようとしていた。あの街は、事情こそ違えど俺たちみたいな奴らがうんといるからな」

華耶はふと、海がもともとどこに住んでいたかを思い出し――黙って頷いた。交通の利便性、東京とのアクセスのしやすさ、そして家賃――それを理由に移民してくる外国人がそれなりに居ることを華耶もニュースでよく見聞きしていた。

 

そうした者の立場を分かっているから街に出たがらなかったという話は、華耶にしてみたら海の母もまた、海のように繊細な心の持ち主でもあったのだろうという気持ちにさせた。

海に対して連絡も入れずにかつて仕送りを送り続けていたという話もあいまって、海の母と海とはもともと関係が良好だったのだろうということは想像できたし、苦しそうな表情で語る海もまた、未だに苦しんでいるということが痛いほど伝わってきていた。

 

「親父のせいでおふくろがおかしくなった、っていうのは――そりゃあ、間違いないよ。でも――間違いなく、俺もおふくろを追い詰めてたんだよ。親に矛先向けるような奴が一人いるだけで、家なんてもんは……あっという間におかしくなる。だったら、好きに調子に乗らせておけばいいんだよ。もちろん俺だって、それが100%正しい答えだとは思ってない。でも――アイツが俺の血を引いてると考えるなら、アイツの行動にブレーキをかけるのは……得策とは思えない」

海はずっと苦い表情を浮かべながら、いつしか華耶に回していた腕をほどき、手を握った。

 

『あのねー、海くん。これはね、海くんの本当に悪い癖だと思うんだけどさ。そんなに完璧じゃないと駄目なの?そんなに失敗が怖い?』

『当たり前だろ』

『あたしがいても?』

 

「華耶はさ――そんなに失敗が怖いのか、って俺によく言ってたよね。俺が父親になる前なんか特にかっこつけちゃってさ、自分がついてるのにそんなに失敗が怖いのか、なんて言ってさ」

「……うん」

海の問いかけに、華耶は小さく頷いた。

 

「だから――二人で失敗しよう。華耶だって、今、何が正解か分からないんだろ。俺だって、アイツにとっての正解は分からない。だから――二人で失敗して、アイツを見守ろう。……今までが順調すぎたんだよ。誰も反抗期になんてならなかったし、基本的に皆やさしい子に育ってくれたから、余計にきついんだよな、きっと。よそなんか、きっとこんな思い、きっと毎日のようにしてるんだぜ、たぶん。だからきっとこれは……俺たちふたりの子育てについて、最初で最後の失敗になると思う。……俺自体は、失敗続きだったけどね。……なんならきっと……自分たちは自覚してないだけで、きっと俺たち、今までもたくさん失敗してるんだよ。……そう思ったら……少しは気が晴れるだろ」

「……」

「……言葉なんて、都合がいいもんだよな。普段失敗してる俺がこんなこと言ってさ、なんか、点数稼いでるような感じするよな。普段役に立たない奴が突然横からいいとこかっさらって行くなんて、よくないよな」

「……そんなんじゃないよ。海くんは……立派だよ。……分かったよ。海くんと一緒なら――この失敗、最後まで見守ろうと思う」

 

新に対しての態度も、新からの態度も、きっとよくないことだって分かってはいるが――これ以上海が余計なことで苦しむ姿だって見たくない――そう思った華耶は、海の言葉を飲むことにした。

決して妥協でもなければ、新を諦めるわけではない。そうでもしないと、先に海が潰れてしまいそうな気がしたから、華耶は海の言葉を受け入れたのだ。

 

それに、海の言葉に甘えていなければ、海より先に自分が手を出してしまいそうな気だってしたから、華耶は海の言葉を全面的に肯定した。ひょっとしたら、本当に間違っていたのは自分だったのかもしれない――と思いながら。

 

「……長い、長い失敗になるかもしれないけどね」

「……そうだね」

華耶も海も、力なく笑って、肩を寄せ合って黙り込んだ。互いに言葉には出さなかったけれど、自信がないということを今そうして口に出したら二人で堕落してしまいそうだから、ダメなりに前向きに世界を見ようとした。

 

「ねーお父さん」「新がひどいの」

「勝手にチャンネル変えたり」「ソファ独占したりするの」

階段を上がる足音に気づいたのか、真結と広乃が試合から帰ってきた海を部屋に無理矢理引きずり込んだ。

 

二人が一緒の部屋がいいと言うから、他の部屋とは違ってダブルベッドが置いてある。他の子供部屋よりも少しだけ狭く感じる真結と広乃の部屋の入り口で、二人に見上げられる形で挟まれて海はたじろいだ。

 

「……そういうときは、二人のほうが精神的にはお姉ちゃんなんだぞ、くらいの立場でいていいと思うよ。歳だってせいぜい二つしか違わないんだし」

「でも、新は『世界で戦える男』なの」「私たちはどことも戦ってないの」

「運動そこまで得意じゃないし」「水泳だって25mまだ泳げないの」

「今ちょっと世界で戦えてるだけだよ。世界で戦い続けるなんてことは、そんなに甘くない。それはお父さんを見てても分かるだろ?スポーツで戦うっていうのは、大変なんだよ。真結にも広乃にも、スポーツ以外の何かがきっとそのうち見つかるはずだよ。新はたまたま今、ちょっとスポーツが他の人より伸びてるだけの話で、さ」

「むー」「なんか解決してそうで、何も解決してないの」

不満そうに二人がぴょんぴょんと軽く跳ね、順当に育ち続けている身体を押し付けてくる。

 

「……とにかく。気持ちの面では今は二人のほうがお姉ちゃんっぽくなってるんだ。その場で喧嘩をしようとしなかっただけ、真結も広乃も立派だよ。それに、直人の面倒だって見てくれてるし。アイツ、自分のことばっかりで最近は直人にも全然構ってやらないだろ」

「サッカーの自慢してばっかりなの」「直人はサッカー苦手みたいで、呆れられてるの」

「じゃあ、直人の面倒、これからも見てやってね。二人にはそうだな……そのうちケーキでも買ってきてあげるから、それで機嫌直してくれるかな」

「ケーキで釣られる年頃じゃないの」「そんなに子供じゃないの」

「えぇ……」

むっ、と渋い表情を浮かべながら二人はぴたりと動きを止めて海を見上げる。

 

「でもお父さんが何か買ってきてくれるならそれだけで嬉しいの」「別にケーキが好きってわけじゃないの。お父さんが買ってきてくれるから嬉しいの」

「それって結局ケーキが好きなんじゃないのか」

突然機嫌を直したように笑顔を浮かべる真結と広乃。その言い分に海は思わず口を挟むが――

「別にショートケーキで喜ぶ年頃じゃないの」「でも、やっぱあると嬉しいの」

「……ケーキが好きなんだね」

「そういうわけじゃないの」「お父さん、女心が分かってないの」

「そう言われてもね……」

海は二人のよく分からない主張に頭を悩ませながら部屋を出た。

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