海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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123・ある一つの最終回へ

「佳井のやつ、またですか」

「まぁまぁ。彼のは"そういう病気"なんだから。しょうがないでしょう」

「大事な時期だってのに、気持ちの問題でコンディション崩されちゃ困るわな」

「生駒さん。あまり関心しませんねぇ、そういう言い方は」

「まあまあ、よしなさい、君たち。当事者以外がどうこうと口挟める病気じゃないんだから、僕らは目の前の問題をどうにかするしかないわけ。……でもね、佳井のやつがもうひとり、そのへんの河川敷あたりから生えてきてくれたらいいのに、とはね、私も寝、思うよ。アイツがまさかそこまで横浜そのものに苦手意識持ってると思ってなかったもんだから。よそはいいね、一人欠けたくらいでチームが揺るがなくて。一体、いつになったらこのチームの地盤は固まるのかしら」

 

今野とコーチ陣が悩ましげに、昨晩から体調を崩してとても試合どころではない海の処遇と、今日のスタメンの並びをどうするかを会議していた。

 

ベイスタジアム横浜――通称、ベイスタで行われるバトルシップスとの試合のため、横浜へと乗り込んでいたチーターズ一行。その初戦の初回、海は田中に先制点となるタイムリーを届け、それがそのまま試合の決勝点となった。

特段、気にすることなど何もないと思っていた。誰もがそう思っていたし、海自身もそう思っていた――はずだった。

 

苦手意識のある土地での試合。必要以上に背負い込んでいたのか、それとも、調子のよかった春先と比べると少し飛距離が伸びなくなったことを、自分の気持ち以上に心が気にしていたのか、あるいはたまたま横浜で発症しただけで、もっと他に自分を追い詰めるものがあったのかどうかは誰にも分からないが――試合を終えてホテルで夕食にしていた際、海は途中で席を外し、そのままテーブルに戻ってくることはなかった。

 

なぜ自分がこうなったかは分からないが、ただひとつ、海の頭の中には

『ああ、またか――』

と、少なくとも内臓などの病気ではなく、"いつもの"ことであるということだけが確信をもって頭の中で存在感を示していた。

 

多かれ少なかれ、こうした症状を発症することはシーズン中の海にとっては珍しくないし、大体そうしたときも寝て朝起きれば回復していることが最近は多かったこともある。いつもどおり、翌日にはよくなっているだろう――と思っていたものの、起きても手の震えは止まらないし、枕元の汗の量は尋常ではない。気分でも変えようと朝日を浴び、うんと伸びをした瞬間――突然、ブワっと滝のように流れる汗と動悸とめまい。

 

もちろん、薬は携帯していたのだが、どうやら薬の力をもってしても体が野球を拒んで仕方がないようで、回転する世界の中で、ただ打ちそこなった打球音と、吸い込まれたミットの音、そして席から飛んでくる野次が海の耳元を劈くようにして何度も何度も繰り返す――。

 

首位争いをしているだけではなく、今年こそは本当に首位を狙えるところまでチームの状態は来ている。自分の調子含めて、これほど好条件がそろったチャンスは次にはなかなか訪れないだろう。そんな、今度こそは決して逃してはいけないものが今そこにある――。

 

何でよりによって今なんだ――と思えば思うほど、海の体温は奪われていった。胸のあたりや肩や首にぞわぞわとした寒気はするが、そのくせ顔はなんだか火照るように熱いし、額からはとめどなく汗が吹き出てくる。

 

こういうとき、安易に自分のことを情けないと簡単に思わないようにしろ――とは医者からも言われていたが、戦列を離れることの申し訳なさもそうだし、自分だっていつまで健全な身体で野球ができるかわからない。正直なところ、気持ちの持ちようだという言葉は海にとってあまりに無責任に感じられた。

 

ここ数年、シーズン中にはここまで立つのが苦しいほどひどい症状に襲われることはなかったからその感覚だって忘れかけていたが、例えばどうだろう、こんな症状にシーズンいっぱい襲われるようなときがきたらどうする――?

 

これが月に1度ほど起きるようならどうする――?

 

早く野球生活に区切りをつけたい一方で、自分の幕引きがそんなに情けないものでいいものか――?

 

人間の考えというものはどうしようもないもので、一旦ダメな方向に考えてしまったら、いくらでもダメに考えられてしまう。

現実が甘くないことを分かっていれば分かっているほど、自分の立場というものを楽観できないものだし、こうしたときに楽観できる人間はそもそも普段から自分のことなんかまともに考えていない、その日暮らしで生きてるような奴なのではないか――と海は一瞬思ったが、それもすぐにどうでもよくなった。

どうでもよくなった、というよりは、そういう考えが一瞬浮かんできては、回りながら歪む視界と共にやってきた強烈な吐き気によってそれどころではなくなったのだ。なんとか床を汚すまいと海はベッドにかけてあった買い物袋にたどり着き、這い蹲るようにして洗面所へと移動した。試合以外では経験したくなかったコンマ0.1秒の戦いが、そこにはあった。

 

呂律は回っているものだから、なんとか部屋の電話からフロントにつないで事情を伝えた海。その際、とにかく、誰でもいいから一旦部屋に呼んでくれ――ということを伝えたところ、登板を終えて休養日となっていた田中が海の部屋を訪ねた。

言ってしまっては悪いが、できればこんなときは、ジェネルや薫に来て欲しかった。別に女に介抱されたい、というわけではないが、田中が何か気の紛れることをしてくれるビジョンが海には持てなかったし、田中の青白い顔を見ていると、こっちまで余計に具合が悪くなりそうだった。

 

よろよろと歩きながら、ベッドにたどり着くなり横になって再びうずくまる海を田中は複雑そうな顔をしながら見つめていた。

「……これ、差し入れです。食堂で握ってもらったおにぎりですけど。……食べられます?ダメなら、スタッフに頼んで買ってきてもらった栄養ドリンクもありますけど」

「……おにぎり、先に食べようかな。せっかく作ってもらったのに傷んでしまったら、料理人たちに悪いし」

「……そういう気持ちでいるから倒れるんじゃあ」

あまり乗り気ではなかったが起き上がってテーブルに置かれたおにぎりを食べ始める海。一つ一つが小ぶりだが、それぞれが違う中身と、違う形、そして違う色で握られていて、少しだけでも食べてもらえるようにという工夫がなされていた。料理人が考えたことなのか、誰かしらの指示で作ったものなのかは分からないが、一口サイズで食べることができるという手軽さは海の食欲を少しだけ回復させた。

 

「……こんなの、よく考えるよな。生ハムでご飯巻いて、中にチーズ入れるなんて。酒のつまみみたいだ」

「……気に入りましたか」

「……たまに食べる程度にはね」

結局、海は寿司1貫弱くらいまで小さく握られたおにぎり6つほどをすんなり食べきることができた。作ってもらった以上食べきらなければといけないというプレッシャーが感じられなかったのは幸いだった。

茶を流し込んでから大き目のため息をついた海を見て、田中はぼそぼそとつぶやき始めた。

 

「……やっぱり、なんでしょうかね。あの球場に居ると命が吸われるんですかね、佳井さん。俺も、甲子園なんかで投げたあとはしばらくマウンドなんか見たくなくなりますけど。……すみません、俺のことなんか話したってどうでもいいですね」

「……別に、構わないよ。今、俺のことを詮索されるよりはいい」

 

遠まわしにベイスタそのものに苦手意識がある、という話題をしないでほしい、という意図をこめて海は田中が持ってきた栄養ドリンクに手をつけた。

自分が普段出演しているメーカーの上位級栄養ドリンクほどではないにしろ、コンビニで売っているものとしては決して安くはないものだ。余計なことを――と海は思いながら、ぐっとそれを飲み込んだ。甘いのか苦いのか分からない、両極端さが口の中で転がる、味わい深い不快さが海の舌を包み込み、再び海は茶に手をつけた。

 

こんなことならば、先にドリンクに手をつけて、それからおにぎりを食べればよかった――と海は思った。田中もさほど海に食欲がないと思ったのか、あまり多くのおにぎりを持ってきたわけではなかったから、何か口の中の不快感を変えるものが今のところ、お茶以外には特にない。海は仕方なく二本目のお茶に手をつけた。

 

「……チラッと聞いたんですけど、1軍登録のまま、試合には出さずにベンチ外って扱いでいくらしいですよ。2軍でしばらく調整っていう話にはどうしてもしたくないようです。さすがに、試合を休んでいる間はコンディション調整くらいは2軍球場あたりでさせてもらえるとは思いますけど。1軍帯同ってわけでもなく、登録が1軍のままで、実質2軍らしいです」

「なんだよ、それ。俺には2軍落ちも許されないのか?」

田中の言葉に海は思わず目を見開いた後、天を仰ぎながら鼻で笑って腕を組んだ。

 

「……佳井さんは期待を背負ってますからね」

「そういう問題じゃないだろ」

「それは……まあ」

海は田中の不用意な言葉に対して釘を刺し、田中もまた今の言葉は迂闊だったな――という表情で目を伏せた。

 

「でも、俺が本当はこういう病気を抱えてることがバレるのは時間の問題だ。ただのコンディション不良って言葉でこれまでメディアには通してきたけど、こんな生活、いつまで続くものか」

「……それでも、球団は隠し通したいんでしょう。球界のヒーローがまさか、プレッシャーに押し潰されそうになって、それで心の病なんか抱えて――なんてことが露わになったら、まず最初に疑われるのは球団での佳井さんへの当たりですからね」

「馬鹿馬鹿しい。俺が病気を公表したくてもか?」

「……させてくれないと思いますよ」

「球団のこともそうだし、世間は心の病気は気持ちの問題だと思ってるから、か」

「……」

無言でその問いを否定しなかった田中を見て、海は軽くめまいを感じ、ベッドに横たわった。

 

「……誰のおかげでこんな症状抱えてると思ってるんだよ。俺が自分で自分を追い詰めただけじゃない。俺を追い詰めるものがそれなりにたくさんあったからだ。訴えようと思えば、いくらでも球団や前野【あのハゲ】のことなんか、訴えられる。でも、俺はそんなことはしない。俺だって、それなりにこの世界で戦うことに意地になってるからね。……でも、おかしいじゃないか。"世間が望む佳井海"を球団の思惑で作り続けるなら、きっとそのうち、第二、第三の俺が生まれる。それは……不幸なことだ」

海はそう言って、腕を伸ばしてテーブルから茶を引き摺り下ろし、横になったまま飲み始めた。

 

「……っていうことを俺が話したら、球団にとって都合が悪いから、俺が病を公表するなんて言い出したら球団がさせてくれないんだよな」

「……そうでしょうね。病と闘う天才打者、っていう箔が仮についたとしても、佳井さんを追い詰めたものは一体なんなのか、って話題に絶対になります。そのとき、球団だけじゃありません――誰もが自分が加害者になるのが怖いから、黙っていてほしいんでしょう。きっと、球団の次に問題になるのはファンです。うちらのファンは過激派が多いですし、最近、ファンを巡っては他の11球団だってトラブルが絶えません。仮に、そうしてファンがどうこう、なんて話になったら、球場がおかしくなりかねません。球団としては、極力何もなかったことにしたいんでしょう」

「それじゃ俺は、野球の奴隷だね」

自嘲気味に笑った海だが、顔は笑っていなかった。

 

「……今年、優勝したりしてさ」

「はい?」

「それで、シリーズ制覇なんてできたら、俺はもう引退しようと思う」

「……」

海の冗談で言っているようには思えない言葉に、田中は息を飲んだ。冗談ならよしてくれ、とも田中はとても言えなかった。

 

「いいや、優勝なんかいっそしなくていいから、シリーズを下克上で制覇なんかできたらさ、引退しようと思う。俺、さすがにこんないつ爆発するか分からない病気かかえて野球なんて、できないよ。綺麗なまま後腐れなく終わって、周りからこの病気について何か探りを入れられる前に、区切りをつけてしまいたい。俺も来年には40になる」

「……」

「清兵衛が引退したのが39歳だっただろ。同じ歳でも、清兵衛が引退した頃と比べたら、俺はだいぶ動けてるし、歳によるアレコレだって幸いあまり感じない。打球のキレだってそりゃあ少しは思うところがあるけれど、でも、逆方向のホームランが打てなくなったわけじゃない。だけど、30代最後っていう区切りとか考えたらさ、キリがいいだろ。今年のうちに全部今までのこと清算して――後腐れなく終わりたい。お前もこないださ、そろそろ戦うのが辛い、って言ってただろ。俺も、久々にこうして倒れて分かったよ。俺も言葉ではこうして辛い辛いと言ってるが、俺の言葉以上に、俺の奥底の心が、限界だって訴えてる。ジェネルの前じゃとても言えないことだけどね」

「……勝算はあるんですか」

「清兵衛も言ってただろ。勝つか負けるかなんて、五分五分だって」

海は、そう言わないといけない気がした。

勝算は、などと言われて、正直なところ、そもそもギリギリのところで首位争いをしている中、最近は年間チーム得点4桁なんかが珍しくなくなったCリーグ相手に競り勝てるかと言われると――正直、シリーズ戦までのことまでは深く考えたくはなかった。

 

大体、これまで優勝だってしたことがないチームなのだから、シリーズ戦がどんなものかという勝手も分からないし、そもそもポストシーズンを勝ち進めるかどうかだって分からない。自分以上に、肝心なときに勝負弱いチームであるレッテルが貼られている以上、そうして勝ち進めるビジョンだって、正直なところ海にはなかった。

 

「……分かってるんだよ。神様ってもんがこの世に居ないこともね。あるいは、居るとしても、俺の人生を愚弄することに随分傾倒してるみたいだから、きっと、俺のこの願いなんて、かなわないんだっていうことも、分かり始めている。世の中、ドラマやアニメみたいにうまく綺麗に片付くことなんて、そんなにないんだよ。現に俺の身体というか、心にガタがきはじめてる。この症状さ、肝心な試合の最中なんかに出始めたら、俺はもう終わりだよ」

「……そう思うからいけないんじゃないですか」

田中はそう素直に思ったとおりのことを言った。海はそんな田中に向けて憎たらしそうな表情を浮かべながら――

「投げるのが嫌になることだって、あるだろ。試合中に」

「……ありますね」

「そういう時、大体はコーチなんかがうまいこと察して代えてくれるだろ」

「……まぁ、大体は」

「お前がさっき言ったようにさ……俺には……それが許されないんだよ。メディアの前で弱音を吐くことだって許されない。俺は皆の理想とする佳井海でい続けなければならない。注目選手ってのは、そういうもんなんだって思ってはきたよ。思ってはきたけど、やっぱりね……"俺"に帰りたくなることだって、あるんだよ。俺の奥深くの心がそういって駄々こねて、俺を束縛し始めてる。お前は一日それでも頑張って投げたら、五日間は休ませてもらえるだろ。もちろん、マウンドにはマウンドにしか分からない孤独があるとは思うけどさ」

田中はそう言うと押し黙って、かける言葉が見つからなくてうじうじとしながら茶を飲み始めた。

 

「……俺なんかより、大爺でも呼んできましょうか」

「だったら、ジェネルなんかより薫を呼んできてもらったほうが嬉しいね」

「チェンジですか」

「……冗談でも怒るぞ」

田中なりの冗談のつもりだったのだが、海にとっては不用意な言葉だったようで、田中は露骨に申し訳なさそうな顔をした。

 

「アイツ、朝から聞く声じゃないんだよ。大体、ジェネルはお前と違って、このあと試合があるだろ。確かに薫は打撃投手という役目があるけど、直接試合に出るわけじゃない。今ジェネルが俺と会って、そのせいで変に試合で力まれてでもしたら、せっかくアイツ、自分のバッティングを見つけ始めつつあるのに、俺がアイツのブレーキをかけるようじゃ悪いだろ」

「……なんだかんだ、気にしてやってるんですね、大爺のこと」

「そう思うなら、お前も後輩の一人くらいにでも声でもかけたらどうだって、何年も前から言ってるんだけどね」

「……」

海は田中に皮肉を言ってから、しばらくベッドにうずくまり続けた。

 

田中と話している間ですら汗が出ているのだから、当然一人になってからも汗が止まらないわけがない。

タオルを額に巻いてたれてくる汗をなんとかしようとするが、タオルの密着感がなんだか額の感触と合わず、気に障った。

 

普段は感じない、タオルの密着感がどうにも気になるあたり、自分でも相当ナーバスになっていることが分かった。であれば、なおさらジェネルと会ってもどうしようもない。ジェネルはジェネルできっと自分に気を遣うだろうけれど、ふとしたとき二人の感情がぶつかりでもしたら、どうにかなってしまいそうだった。

 

どうせ試合には出られないし、ベンチ入りすらしないことは分かっているのだから、夜の新幹線で大阪へと戻って早く家でゆっくりしたい気分だった。なんなら、人目もはばからず今すぐにでも大阪に帰ってしまえるなら、帰ってしまいたかった。

試合にも出ないくせにホテルに居続けても仕方がないし、チームに帯同している間はどうしてもチームのことを考えてしまうのだから、余計症状が悪化するような気が海にはしてならなかった。

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