「……正直、ナメてました。打つだけなら、2番も3番も同じものだって思ってました」
ステーキを待っている間、ジェネルは木村を目の前にしてぽつりとつぶやいた。
木村としても、恐らく5年後――海が3番打者を打ち続けている可能性は否定できないが、海が退いた後に3番、4番に座ってチームを牽引しているのは間違いなくジェネルだと思っていた。
海が休養するようになってすぐ、ジェネルは1試合おいて、3番に緊急昇格した。海が立っていた場所と同じところでバットを振れるという高揚感もそうだったし、ジェネルもまた、海のあとを継げるのは自分しか居ないと思っていた。
仮に、海が休養している間に自分が3番をしっかり打てることをアピールできれば、いずれ、海が後ろの打順を打つようになったときは――去年、自分が2番を打っていたときのように、自分は海のためにチャンスメイクすることができる。
春から今年の自分はいつになく調子がいいと思っていたし、海がホームランを打てば大体自分も続けてホームランを打つ。海の長打力に今の自分はしっかり追従できていると思っていたし、それと同じことをやればいいだけだ、と打席に立つまでは思っていた。
〈3番――センター――ジェネル――〉
――♪
――憧れに いざ挑めジェネル
無限の空に 想い描け――♪
最初の打席は、すっぽ抜けたカーブをよけきれずにデッドボールになった。リリースの瞬間、ボールが完全に見えなくなっていた。これがカーブだからよかったものの、ストレートなど投げられていたならば、自分までもが負傷で欠場していただろう。
次の打席では、ランナーを一・三塁に置いて打順が回ってきた。2点ビハインド、二死。内野、外野ともにやや深めの守備を敷いている。
あえて自分が3番を任された理由を、ジェネルは自分なりに理解していた。
自分はこのチームによくいる、器用さのないフリースインガーというわけではない。打ってはいけないボールくらい、自分でも分かっているつもりだし、そういった球を無理にでもホームランにできる技術は女の自分にはない。
確かにフルスイング気味にどんなボールでも振りには行きがちであるものの、どちらかというと自分は、甘く入ったボールや、自分の"ゾーン"に入った球を絶対に逃さないタイプだとジェネルは自己分析していたし、苦手なゾーンだからといって外角低めに落ちる球を連続して投げられてムキになってそれを振りにいくほど頭に血が上りやすかったり視野が狭いタイプの人間ではないと自分では思っている。
そして、今年は今までよりも自分の"ゾーン"としていた範囲が広く感じられている。内角を突くようなボールも、外に逃げていくようなボールも――今までは多少無理にでも思い切り振らなければ鋭い当たりにならなかったようなボールが、今まではバットになんとか当ててまぐれ当たりになっていたようなボールが、今年は、力みなくスイングしても鋭く心地のよいヒットが生まれている――。
自惚れるな、と海からはきつく言われているが、自分はこれを極めさえすれば本当に海のように4割打ちながら、40本打てる打者になれる――そんな気がした。過信は禁物だということも海からきつく言われていたが、確かに、今年はいけるという強い自信と、それを裏付けるほどの成功体験がしっかりと、確かにバットとその両腕に込められていた。
正直なところ、入団当初、そのフルスイングと全力プレーという誰が見ても猪突猛進タイプであるジェネルはもっと荒削りなバッティングになっていくだろうと思っていた首脳陣だったが、自分の思わぬバッティングセンスの開花を最近では認めてくれている。事実、自分だって率を残せるタイプの打者になどなれるとは思っていなかったから、今の感覚はとにかく大事にしたかった。
だからこそ、強く思えるのだ。
今なら、自分は海の代わりになれる――と。
首脳陣もまた、タイプこそ違えど、覚醒した海ほどの率は残せないだろうけれど、それでも、海のような打撃をきっと自分に期待して自分を3番に置いたのだ――と。
この場面、海ならば確実に投手を仕留めにかかるだろう。たかが2点差だと思って、きっとここから流れを作る一打を放つだろうだろう。3回、2死、2点差――。素直に後ろに託すバッティングだって海はするかもしれないが、それでも、後ろに託すバッティングを海が試みるならば、そのときは海もまた、単にバットに当てるだけではなく、しっかりと鋭い当たりを放っているのだ。
しゅるり――しゅるり――と真ん中からやや低めの、少し甘いストレートが向かってくる。
もらった――!
ジェネルは快音を確信し、バットを大きく振り出した。自分の中で今まで感覚として持っていたものがその瞬間、完全にその両手からは抜け落ちていたことにも気づかずに両手いっぱいに握り締めたバットは、ジェネルが思っている以上にギリギリとグリップを締めながら白球を叩いた。
ゴッ――と、快音には程遠く、手の痺れがそこにはあった。バットは真ん中あたりでへし折れ、その先はゆるりと舞い上がってファールグラウンドに落ちていた。
力なく、フライというほどには弾道が上がらず、ライナーと言うにはあまりにゆるい速さの中途半端なボールはショートのグラブ真正面に収まり、ジェネルもまた、何が起きたか分からないまま、一塁へ走り出すことすら忘れたまま、打席で立ち尽くしていた。
「2試合連続無安打なんて、そんなに珍しいことじゃありません。でも、3試合目にはもう打席に立つのが少し怖くなっていました。海さんのかわりに3番に座って7打席ヒットなしなんて、やっぱりまずいな、って思いました。なんかねー、打席に立ってるときの観客の空気が今までとやっぱちょっと、違うんですよ」
ジェネルの言葉に思わず木村が目つきを変え、カバンからタブレット端末を取り出し、メモを始めた。
「やっぱり、打席で空気を感じるレベルですか」
少し食い気味に木村はジェネルの言葉に反応し、次の言葉を待った。
「そりゃもう。海さんが3番で感じてた空気っていうのは、こういうものだったんだな――って。私、凡打は凡打だし、ヒットはヒットでしょ、って思ってました。でも――海さんが言ってたとおりでした。4割打てたとしても、落とした6割の中にどれほどたくさんの大事な場面があったものか、って。私は今日、あの打席――試合の流れを変えるために、あそこはどうやっても打たないといけない場面でした。結局、それを引きずったまま――私が打たなきゃ、って気持ちのまま今日はその後打席に立ち続けてしまってました」
「24歳には佳井先輩の後釜はまだ荷が重過ぎましたか」
「そりゃー、そーですよ。あの場に立ってはじめて、自分が次世代を期待されているっていうプレッシャーと初めて向き合った気がしますし……何年か後――それが何年後になる話か分かりませんけど、きっとそれに毎試合応え続けなければならない日がやってくるんだなーっていう思いもありましたし」
ジェネルは運ばれてきたステーキに手をつけながら、苦い表情を浮かべた。
3番に座ってからまだ数試合だが、そのバットからは快音が程遠く、今日もまた2打席を無安打。なんとか粘って2つの四死球で出塁こそしたものの、3番打者としての理想とは程遠い。
「木村さんから見て、実際、どうなんです?私、海さんの次を担える打者になれると思いますか」
「まだ24歳でしょう。どうにでもなると思いますよ」
「分かってないなー、そーゆー、漠然とした答えじゃ困るんですよ」
「ジェネルさんが欲しがってる答えが欲しいなら、俺に聞くより佳井先輩に直接聞いたらいいでしょう」
ジェネルは指を振って木村を意地悪そうに見つめるが、当の木村は淡々とした様子でばっさりとそのジェネルの言葉を断ち切ってしまった。
「なっ……そういうのじゃないんですよ、本当に。海さんが真剣に答えてくれるわけがないですもん。違うんですよ、木村さんみたいな外部の人から見たらどうなんですか。私、絵面的に3番の器ですか」
ジェネルは少し前のめりになりながら木村の顔を覗き込んだ。ジェネルのまっすぐな、大きな瞳が木村を突き刺す。その前のめりな気迫に押されるように、木村はいったんジェネルを落ち着かせて仕方なく言葉をつむぎ始めた。
「……そりゃあ、順調に今のまま育ってくれればきっと佳井先輩の次はジェネルさんだと思いますよ。今のままでいけば、ですけどね。でも、実際肩に力は入っているし、3番になった瞬間、プレッシャーでやられているのは俺から見ても、確かに分かります」
「ええ」
「そのプレッシャーに打ち勝てたときが、本当にチームの顔になる時だと思いますけどね、俺は。4番とはまた違う、ありとあらゆる工夫を凝らした打撃を求められた上で、成果を求められるポジションですからね、3番打者って。4番みたいにホームラン打ってさえいたら喜ばれるってわけでもないですから」
「逆に、4番向きだと思いますか、私は」
「ぶっちゃけ、もったいないと思いますよ、4番じゃ。フルスイングは絵になるものの、せっかく今伸びてきた打撃の器用さをまたドブに投げ捨てるような姿はきっとファンも求めてないはずです。皆がジェネルさんに求めてるのは、ホームランを狙う姿であると同時に、佳井先輩のようなしっかり率を残して、肝心なときにチームバッティングが出来るタイプの打者だと思いますから」
「ですよね」
確かに、そこにはジェネルの『欲しがっている答え』があった。決して言わせた言葉ではなく、木村がそれなりに自分の考えをもって言った言葉だったから、ジェネルは嬉しかった。木村もまた、決しておだてるつもりで言ったわけではなかったが、そうしてまんまとジェネルの欲しがった言葉を言ってしまったことにはあまり気づいていないようだった。
「私も、自分はどちらかというと3番とか5番向きだと思ってます。周りの飛距離なんか見てたら、私なんかが4番座ってたらなんだか、気が引けちゃいます」
ジェネルはステーキを頬張りながら、なおも苦い表情を浮かべ――
「海さん、ちゃんと戻ってきますかね」
「戻ってくるでしょう。多少無理してでも」
「で、また突然倒れるんですよ」
「でしょうね」
ジェネルと木村の間に、いったん沈黙が流れた。二人とも、海の精神状態が際どい状態にあることはよく分かっていたから、からかいながらも、その次の言葉を出せずに居た。互いに次の言葉の主導権を譲り合うようにして、二人揃ってステーキを口に運んでお茶を濁した。
「……それをどうにもできない悔しさだってあるんですよ、今」
沈黙が気まずくなり、ジェネルは三切れほどステーキを食べた後、口を拭いて再び会話を始めた。木村はジェネルの言葉に頷き、黙って聞き続けていた。
「私が海さんを楽にしてあげるには、私がむしろ海さんから3番を奪い取るくらいのつもりで居なきゃダメなんです。でも、私には海さんが3番以外を打ってる姿が私には思い浮かびません。なんなら――3番から降りる時は、海さんのキャリアの終わりが来た時だって気さえします。海さん、『これでやっと終わったんだ』とか言って辞めそうな気もしますし――」
「妙にリアルなこと言わないでください。俺、そしたら今度は誰追っかけたらいいんですか」
ジェネルの言葉をとうとう黙って聞き入れられなくなった木村は思わずテーブルをどんと叩き、ジェネルを見つめた。突然感情的になった木村を見てジェネルは驚き、動揺を隠さなかったが――すぐに冷静さを取り戻し、自分の胸に手を当てて木村を見つめた。
「そのときは私を追いかけてくださいよ。もし私を海さんのバーターだと思って取材してるなら、心外ですよ。私だって、一人のプロ野球選手なんですから。……ってか、木村さんも、もっと自分のチームの選手追いかけたらどうなんです?海さんからも言われてるんでしょう、自分のチームの取材、他の記者に任せっきりだってこと」
「俺には、俺の仕事がありますから」
「単によその選手や、私たちと食事したいだけなんじゃないですか?」
「それはまあ、ありますけどね」
木村は苦笑を浮かべながら、追加で頼んだステーキに手をつけ始めた。
「でも、意外でした。普段のジェネルさんのキャラを考えたら、佳井先輩にもっと自分から連絡してると思ったので。押し倒してでも元気付けにいきそうじゃないですか、ジェネルさんは」
木村の言葉にジェネルはひどく心外な様子で目をぎょっとさせ、笑った。
「こういうときくらい、しませんよ」
「しないんですか」
「当たり前じゃないですか。野球に疲れて休んでる人に向かって、野球の話なんかできませんよ。ううん、野球だけじゃないです。スポーツの話だって、気軽にできません」
木村はジェネルが海に対してそれなりに超えてはいけないラインというものを設けていることを意外そうにしながらメモを取った。
正直なところ、世間だってそれを分かっていてジェネルと海の関係を認めてやってるところはあると思うのだが、こうした仕事をしているとジェネルと海の関係というものは決してそういうプロレス的な関係ではなく、本当に一線を超えまくっているものだと思っていたから、木村は先入観で人を見てはいけないな――ということもメモをした。
「……でも、今の先輩は、引きこもりなわけですよね。何も事情を知らない人からしてみたら」
「華耶さんから事情聞いてはみたんですけどね、外の情報なんかも極力取り入れないようにしてるみたいです。薬を使って、一日中ゆっくり寝て、とにかく一日を生きるための必要最低限のこと以外は考えない生活をしてるそうです。一応、人がほとんど出歩かなくなった夜遅くに、華耶さんと近くの公園あたりまで散歩してるみたいですけど。日中だと、人の目があるからってのも気にしてるみたいで」
「まあ、戦列を離れてるのに日中歩いてたら――それも、あんな長身が歩いてたらすぐバレますわな。苦労しますよね、あんな背の高さしてたら誰が街を歩いてるかなんて変装してても気づかれちゃいますからね」
木村は海が日中街中を歩いてる姿を想像して失笑しそうになり、ごまかすように口調をおかしくした。
「本当は、明るい時間帯も気分転換にちょっとは散歩くらいしたいんでしょうけど」
「さすがに奥さんがどっかにドライブとかしてくれてるんじゃないですか?」
「子供がいるからそうもいかないんだと思いますよ。……あ、でもどうだろう。子供たちが学校とか幼稚園で居ない時間帯はドライブに行ってる可能性は……うーん、ないわけでもないけど……どうでしょう、事故るのが嫌だからってドライブの誘いを断ってる、とかいうのも普通にありそうですもんね、海さんのことだと」
「そのうち空気吸うのも誤嚥性肺炎になるから嫌だとか言い出しかねませんね」
ジェネルは木村の言葉にふと、なんだか自分も昔似たようなことを海に対して言った事があったな――と笑いそうになったが、ぴたりと口に運びかけていたフォークを止め――
「……分かってると思いますけど木村さん、同業者とか社内にそんな憶測流して記者その辺に撒き散らすようなことしないででくださいよ。海さん、本当に疲れてるんですから。今、変にメディア対応なんかしたら本当に、二度とグラウンドになんか戻ってこないかもしれないんですから」
「分かってますよ。佳井先輩も同じようなことよく俺に言うんですけど、そこまで俺はメディアに魂売っちゃいませんよ。線もろくに引けない記者は、記者失格ですから」
そう言いながら、木村は腕を組み――
「……無事に戻ってきて、また打ってほしいですね。佳井先輩。今年は本当に優勝、狙えそうですし。俺が言うべき言葉じゃないんでしょうけど」
「……でも、確かに今年全部ケリをつけるには、これ以上ない舞台です。今年こそは――海さんの抱えてる全て、楽にしてやりたいです。そのためにも私も頑張らないと」
きっとベッドの上で嫌な寝汗をかいているであろう海のことを案じながら、二人はステーキを食べ続けていた。