海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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126・2ミリほどの信用

「休み明けであんな打てるなんて、割とまじめに羨ましいですよ。変に力んだりしないもんですか?」

「力むに決まってるだろ」

「えっ」

 

練習中、海と共にストレッチをしていたジェネルは海からの返事に思わず素っ頓狂な声を上げた。

自分でも恐らく、物凄く間抜けな顔をしているであろうということに自覚はあったし、海の怪訝な表情を見るに、相当自分の顔は今ブサイク極まっている。それでもジェネルは、返ってきたあまりに素直な言葉に対して頭が理解を拒むものだからそのまましばらく、海を間抜けな顔で見つめた。

 

「……ひどい顔だね」

「いや、だって……ええ……?『普段どおりやってれば気にならない』とかみたいなこと言うものだと思ってたから、ちょっとこう……ええ……?力んで……たんですか?」

 

復帰戦となった、広島で迎えたレッドフィッシュ戦。初回、海はランナーを一塁に置いてフェンス直撃のツーベースヒットを放った。

ランナーが思い切ってホームに突入したものの、好送球に阻まれタッチアウトを食らってしまったため先制点にはならなかったが、結果的にこのヒットを皮切りにチーターズは初回から4点先制を挙げる猛攻撃を見せた。

続く打席でも海はストレートを完璧に捉えバックスクリーン直撃弾を放ち、4打席目でもストレートを思い切り引っ張り、今度はライトスタンドの彼方へその白球を届けた。

 

復帰戦で6打席4安打、2本塁打――。

 

いつもと変わらぬ海がそこにあったとジェネルは思っていた。確かに、2週間ほど戦線から抜けたものだから多少気合は入っていただろうとは想像できたものの、海の口から『力むに決まってる』などという言葉が当たり前のように出てきたことがジェネルにとっては意外でならなかった。

普段、そういうプレーに関わる本音は、仮に何かを内に秘めていても、自分や華耶相手であっても多少は言葉を濁したりするし、平常心を大事にするイメージが定着しているものだから、ジェネルは海のその素直さに驚かざるをえなかった。

ある意味では、それほどに今の海には余裕がない、ということの表れなのかもしれないが――。

 

「そりゃ、力むよ。普段どおりやればいい、って頭では思ってる。それが出来てたら一番いいに越したことないし、俺だってそれが理想だった。でも、その普段どおりがなかなかできないから俺はいつまでたっても『肝心なときに役に立たない』って思われてる。それに――」

 

その先の言葉を海は躊躇った。

今年は今までよりもずっと、優勝が手に届く範囲にある。優勝がかかっているということは、それが同時に、ポストシーズンでのアドバンテージを手に入れることでもあるということだし、それはさらに日本一に大きく近づく一歩でもあるということ。

その栄光をつかみさえすれば、自分にはもう後腐れがないものだから、その栄光をもって野球人生に最高の形で終止符を打てるのだ――。

 

華耶は『自分のために野球をしてほしい』と言った。

本当に自分のために野球をするのであれば、自分が自分でいられるうちに早く野球というものから離れ、余生を過ごしたい。これ以上、自分を追い詰めてまで野球をし続けていたら、本当に頭や身体がどうにかなってしまいそうだ。

今辞められたら球団がどうだとか、球団の経済効果がどうだとか、そんなものは正直言って、知ったことではない。これまで散々自分を好きに使ってくれたのだから、最後くらい自分のわがままで終わらせて欲しかった。

それほどに今年が、世間が勝手に思い描き、理想の中で生き続けている『佳井海』のまま球界を去れる一番のチャンスなのだ――。

 

――ということを心の中では思っていても、こんなイケイケムードの中で『今年日本一になったら辞める』だとか声に出すことはさすがの海であっても気が引けるものがあったし、『今年で終わりたい』だなんて弱気な言葉を実際に声に出してしまったら、それがかなわなかったとき、その言葉に自分は一生苦しめられることになる。

 

大体、神様なんて存在があやふやなものは、こういう綺麗なドラマを心底毛嫌いしてくれるフシがある。

朝ドラだとか、流行のアニメだとか――そういう、キラキラした物語というものが世の中で人気なのは、それほど多くの人間が現実の生活において絶望を味わっているからなのではないかと海は昔から思っていた。

 

仮に自分がそうしたものの主役なんかだったなら、きっと都合よくここで日本一になんかさせてもらえるのだろうけれど、ここまで長いこと野球をやってきて、ただただ苦労の連続で、心には生傷だらけで、縫った痕が膿んでこうして気まぐれな病まで背負い――日本一はおろか、リーグ優勝にすら未だたどり着いたことのない人間が、キャリアの終わりだって真剣に考えなければならない歳になって今更そんな都合のいい話を――

 

――それ以上の考えをすることを海はやめた。

事態をよく考えようとすればするほど、現実を見るべきだ、と悪い考えが浮かぶ。そうして頭に巡ってくる悪い考えは悪い考えをさらに呼ぶ。

普段どおりでいることがなぜ大事かというと、こういう悪循環を防ぐためだ。それでも海は、平常心を取り戻すことの難しさに今更ながら直面していた。

 

『明日の太陽が昇るのが怖い――』

 

確かに海は華耶に向けてそう口にした。自分が自分で居続ける――たったそれだけのことがどれほど難しいものか。あと数時間もしたら、自分はファンに手を振って、そしてその数時間後にはこの甲子園の地で、チャンスで打席など回ってこようものなら、それに応えなければならない。

チャンス時専用の応援歌すらも追加されてしまったような自分が『佳井海』であり続ける限り、その戦いは終わることがないのだ。

 

「……ひどい顔ですね、海さん」

 

今度はジェネルが海に向けてそうつぶやき、海の頬を横に引っ張った。

 

「もとから、こういう顔だよ俺は」

その手を払いのける海。ジェネルは海の後ろに回って、胸を押し付けながら全体重をかけて背中をぎゅうぎゅうと押し、海の耳元に顔を近づけた。

「心が凝り固まってるせいか、身体もなんだかちょっと硬さありますね」

「……お前、それがやりたかっただけだろ」

海は嫌そうにしながら、すぐ隣にいるジェネルへ鬱陶しそうにぼやいた。

 

「……海さん。勝ちましょうね。今日の試合」

そんなことお構いなしに、今度は強い意志を感じられる声色でジェネルがささやいた。そんなジェネルの思いに対し、はぁ、と深いため息をつきながら海はつぶやいた。

「……今日だけじゃない。明日も、明後日もだ。1試合たりとも、捨てていい試合なんて、どこにもないって、俺、何度も言ってきたつもりなんだけどな、お前に」

「わかってますよ。海さんの居ない間3番に座って――よ~く分かりました。海さんが普段どんな気持ちで打席に立ってるのかとか――どんなもの背負って立ってるのか、とか」

「たった10試合くらいじゃ、お前は深い淵の入り口を見たくらいにすぎないんだよ、正直言って」

「入り口を見たことがあるかどうかの違いがあるだけでも、前の私とは違いますよ。今の私は」

「……」

耳元で話し続けるジェネルに首も傾けずに前を見続けている海は、しばらく黙ってから――

 

「2ミリくらいはその言葉、信用してやるよ」

とつぶやいた。

ジェネルはその言葉に返事はしなかったが、身体を背中にやたらすりすりと擦り付けながら嬉しそうな雰囲気を真横で出し続けた。このまま肘でも突き出して顎か鼻に一撃くらわせてやろうか、と海は一瞬思ったが、やめておいた。

 

 前の私とは違いますよ、今の私は――

 

試合が始まり、出塁した海は二塁からジェネルの打席での様子を見つめ、ふとその言葉を脳裏で復唱していた。

ジェネルが3番を打っていたときの様子を海は知らないし、知ろうともしなかった。野球のことから一秒でも長く離れていたかった海は、チームに合流する直前に小室や生駒から、ジェネルが3番打者としてまずまずの成果は残したということ、そして、ファンの期待に添えられるものだったかどうかと言われると――その波は大きかったものの、確かにジェネルがファンの期待にしっかり応えた試合がそこには何試合かあったことを聞き出した。

ジェネルの調子の波が大きいことなんていつものことじゃないか――と海は思っていたが、わざわざ『波は大きかった』とコーチ陣が口を揃えて言うくらいだから、とびきり期待をさせておくような試合をしたあとしばらく微妙な打席が続いたのだろう。

 

ジェネルなりに思うところはあったのだろう。耳元で話していたジェネルの言葉や声色はそれなりにシリアスを帯びていたし、決してハッタリで『今までと違う』と言ったわけではない姿がその打席にはあった。

バットを構えるジェネルの姿には、たった10試合離れている間に、絶対に自分の手で試合を決めるという気迫が今まで以上に漂っていたし、そこには今までにはなかったような頼り強さすら感じさせていた。

 

もちろん、風格や気迫だけでヒットを打てるなら、いくらだってそんな見せ掛けの力を手に入れるために身体を大きくしてみたりする人間もいるかもしれない。

だが、今のジェネルにはそうした、単なる子供だましの風格ではなく、確かに『打つべきタイミングを逃してきた悔しさ』や『その悔しさをしっかりと練習に打ち込んできた雰囲気』が滲み出ていた。

 

もちろん、風格だけでヒットを打てないように、悔しさだけでヒットを打てるようになるほどこの世界は甘くはないのだけれど、今のジェネルには『この場面で自分に何を求められていて、自分には何ができるのか』がハッキリ分かっている――そんな経験と気持ちとのギアがしっかりと噛み合った風格がそこにはあった。

今のジェネルには、自分なりに、打席ごとの勝算が見えているのだ。

 

3回裏、一死満塁――1点ビハインド。外野は長打を警戒しているが、一方で内野は打ち損じを狙ってかやや前進守備――極端に俊足でもない上に右打席のジェネルだから、あわよくばうまく引っ掛けてゲッツーを狙いたいという意図が見えている。

 

 ――♪

  ――憧れに いざ挑めジェネル

     無限の空に 想い描け――♪

 

海が欠場する前や、去年よりもひときわ大きく感じられるその応援歌。一時的とはいえ三番を任せられて、そこで結果を残してきたとことが応援団にもジェネルへの期待を大きくさせたのだろう。応援にも熱が帯びる。

シンカーとシュート――二球とも続けて内角へ放り込まれた、打ち損じを狙うようなボールをしっかりとジェネルは見送った。カウントはツーボールノーストライクだ。

 

今のジェネルには――少なくとも、この打席のジェネルには、『打つべき球とそうでない球』がしっかり理解できている。これがシーズンしっかり続くようならば、ジェネルの打撃は本当に独り立ちできた証になるだろうし、それはそう遠い未来のことではないだろう――と海は思った。

 

カウントを不利にされたバッテリーは何度かサインを交換し――外角低めのストレートを放り投げた。ジェネルがあまり得意としていないコースだ。

曲がるか落ちるかさえすればボールになるだろう。ただ、三球続けてボールになるような球を投げてまで、バットの芯を掠め取ってゲッツーを狙う強気の配球はバッテリーにはできなかったようだ。

変化球も一応頭にあったのか、少し流されるような形で膝を崩しながらも、ジェネルはしっかりと足腰を粘らせ、バットをすくい上げるようにして白球をかち上げた。

 

「――!」

 

激しく鳴り響く応援歌のボリュームに負けないような、しっかりと芯で捉え、打楽器のような痛快な音が二塁でスタートを待っていた海にまでハッキリと聞こえてきた。誰もが強烈な一打として理想にするような、しっかりと角度のある打球が勢いよくバットから射出される。

なんとかバットに当てて――なんて生ぬるい考えで振ったものではなく、空振り上等で出来る限りのフルスイングをしてみせたジェネル。こうしたとき、自分の自信をもとに一か八かという強気な賭けに出られるのは素直にジェネルの強みであり、海はそこに関しては素直に評価した。

 

相手投手は首だけ振り向き、角度のついた打球の行方を追って思わずしゃがみこんだ。ジェネルもまた、白球の弾道をしっかりと見つめながら、高く、高く右腕を突き上げて拳を握った。

球場から、自分が戦列を離れるまでに目にしてきたどんなジェネルのホームランよりも、しっかりとした『待っていた』と言わんばかりの大きな大きな歓声が響き渡る。応援団は次代のチーターズの顔はジェネルになると確信しているのだろう。いつもながら、ただの逆転弾ごとき――ごときと言っては応援団に失礼なのだろうけれど、優勝でも決まったかのような勢いで旗を振り、得点テーマが歓声を切り裂くようにけたたましく鳴り響く。

 

「しっかり見ててくれましたか、海さん」

「……あぁ」

心底嬉しそうに満足げな表情をしながら、ホームベースを踏むなりベンチに戻ろうとしていた海に後ろから抱きつくジェネル。

ベンチ前のカメラに向かってピースを決めながら、強引に海の肩を寄せてツーショットを決めたがるジェネルを海はうんざりした表情で軽くあしらった。

 

「……アベック満塁ホームラン、ねえ」

あの打席、内野と外野の間を抜くような器用なヒットを打てるほどの器用さまでは持っていなかったジェネルは、自分の出来ること、出来ないことを考えた上で、しっかりと自分の役目を果たした。

間違いなくあの場面、ジェネルはしっかりと甘い球を高く打ち上げて最低限犠牲フライを決めることが役割だったし、それに最高の形でしっかり応えてみせた。

 

6回裏、二死満塁――。5点をリードする展開でそもそも自分がこの場面、ホームランをわざわざ狙って打つような場面だとはとても思えない。自分に与えられた役目は、無理に一発を狙わずになるべく守備の合間を縫った鋭い当たりを放ち、一人でも多くランナーを帰すことだし、自分もまた塁に出てチャンスを続けることだ。

こうした場面で狙ってホームランを打つ自分の姿というものは、ここ数年になってちょっと調子がいいからと周囲が勝手に自分に抱いた幻想であって、毎打席しっかりボールを捉えてスタンドまで運ぶまでの力があるならば、とっくにそうしている――。

 

三球続けて変化球がボールになったバッテリー。海は少しじれったさを覚えながら、打席を均した。

変化球がなかなかコースに入ってくれず制球が定まらない以上、仮に勝負するつもりであるならストレートを少し甘めのコースに投げ、まずは一球カウントを取りにいきたいところだろう。なんなら、打者圧倒的有利なこんなカウントの中で、普通ならば打者も一球はそうした球を見送って次の球に神経を集中させがちだ。

わざわざこんな状況でマウンドに立っているルーキーに対して変化球を四球続けさせて押し出しフォアボールを誘発させるような真似など、自分が仮に捕手だったならそんなピッチャーを責めさせるようなことはしない。

海はいったんタイムをとってなにやらキャッチャーと声を掛け合うピッチャーの姿をしばらく眺めながら、スタンドを眺めた。

 

二度ほど牽制球を投げ、間合いを取るピッチャー。少しでもこちらの集中力を削りたいのだろう。それがピッチャーの真意なのか、キャッチャーのサインなのか、ベンチからのサインなのかは分からないが、仮にピッチャーの真意でないならば、どれほどピッチャーも大変なものだろうか。この場面、うかつに牽制球を投げてエラーになってしまったり、そうして緩んだ空気の中スチールを決められることだって高校野球では珍しいことではないし、プロの世界だってそうしたトリックプレーが全くないわけではない。海はそんな相手バッテリーの小手先のプレーを冷静に見つめていた。

 

牽制の後、マウンドを均しながら、キャッチャーのサインに四度首を振ったピッチャーは覚悟を決めたようにしてボールを放った。

外角――それも、外角いっぱいと言うには中途半端な外。本人としてはもっと外角低めに投げたかったのかもしれないが、悲しいほどに高さすらド真ん中だ。

 

風はレフト側に強く吹いている。

いっそ大きいのを狙いに行き過ぎて高く打ち上がりすぎてくれ――と、ボールからすら泣き言が聞こえてきそうな、指の引っかかりまでもが裏切ったようなスピンの甘いストレートを、海は流れに逆らわずに容赦なく逆方向に綺麗に打ち上げた。

レフトの定位置あたりをめがけて高く勢いよく上がった白球は強い風に流されながらも、レフトスタンドのだいぶ左側のほうへと飛び込んでいった。

 

これほど絶好球だったというのに、逆方向へ強く振ったボールが自分のイメージよりも飛距離が伸びない。今年はずっとそうだ。

それをうまくヒットやホームランにしているから周囲が気づかないだけで、自分の中では流し方向に強い打球を打ち続けることは近い将来厳しくなるだろうし――それを感づかれて外角ばかりに投げられでもしようものなら、しっかりと対策を練るか外のボールだけはフルスイングするなど工夫をしない限り、自分は来年、再来年危ないかもしれない――海はそう思った。

 

ただ、それもきっと今年勝ちさえすれば杞憂に終わるのだ――。

 

今日のような試合が続くようならば、ジェネルはもう来年、再来年あたりには自分から独り立ちできているほどには活躍できるだろう。今年勝ちさえすれば、自分がジェネルの前を打ってジェネルの手本であり続ける必要だってなくなるのだ。

 

そして現に自分が戦列に戻ってきて実感した、間違いなく今年はいける、というベンチの雰囲気。

それは決してチームが一丸になっている、というほど綺麗なものではないし、どちらかというと自分が少しでも名乗りを上げてやる、といった、あくまで個人主義のギラつきがたまたま同じような光り方をしているだけにしか海には感じられなかったし、たまたま勝ちが続いているからベンチだって、『自分たちは最初から仲間を信じていました』みたいな都合のいい空気すら流れていたが、それでも、一時的なまやかしの団結だとしても――それが結果として今までのような冷め切った空気になるよりは、よほどいいだろう。

 

ベンチ前で誰よりも先に飛び出してきたジェネルから手厚い抱擁を受けながら、海はなるべくいい方向に話を考えようと内心必死になった。

一方のジェネルもまた、今のチームの空気が生ものだということを分かっているからこそ、こんなときだけ海に取り入ってくるようなチームメイトに海を渡してなるものか――と、いつも以上に海にベタつき、冷めた態度の海を無理矢理カメラに引き連れて猛アピールをしていた。

 

そんなジェネルの態度を鬱陶しそうに引き剥がしたあと、ベンチから見上げたスコアボードに刻まれた1-10という数字がいつもより輝きを増しているように見えた海は、無意識に少しだけ嬉しそうに眺めていた。

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