長いシーズンを終えてすぐに、海は寮長に帰郷を宣言し、新幹線で大阪を発った。
何週間か後には一旦また秋季キャンプで戻らなければいけないことは分かっているが、その間は一切野球の事は考えたくない気分だった。
一体、こんなことをこれからあと何年続けて、どれほどの期間、同じ気持ちでオフシーズンを過ごすことになるのだろうか――など考えながら、グリーン車の広い座席でも長い足を窮屈そうにして、腕組みをしながら海は被っていた帽子を深く下げた。
『お前が打たなアカン場面で打たなかったから負けたんや』
『ドラフト1位の面汚しが』
『今年100負けたうちお前のせいで負けた試合は80はあったと思え』
『期待のルーキーが1年目から2割打った程度で客が喜ぶと思うな、アホ』
『お前のヒット1本になんかこれっぽちも価値なんかあらへん。お前には負債があるからな、ヒット1本ごときでお前の負債が返済できたと思うな、ボケが』
前野は一年かけて海にきつく当たった。
愛情の裏返し、とかいう言葉がこの国ではあるらしいが、海はそれはあくまで結果論であって、一生かかってもこの監督を感謝することはないだろうと思った。
そもそも、なぜ愛情を裏返しする必要があるのだ。
まっすぐに伝えられない愛情があるとしたら、それはもとから愛情なんかではないのだ。
自分が育てたのだという証だとか、自分がやっていることは正しいだとか、そういうことにやってる本人が浸りたいだけであって、受け取る側がそれを愛情だと思わなければ、それは愛情ではないのだ。
たまたまあとから振り返って結果論で愛情になるようなものなど、結局のところそれは一種の洗脳であって、『今思えばあれは愛情でした』と言うことで無理やり自分の中の嫌な思い出を美化しているだけなのだ。
愛のある厳しさ、というのは本来、もっと厳かなものであって、本人の自己満足が絡んでいる時点でそんなものは愛情でもなんでもないのだ――。
海はそんなことを考えながら、空席の目立つグリーン車で貧乏ゆすりを無意識に続けていた。
《でも、お前だって楽できたんだろ?俺の金のおかげでな。だから、お前は俺に感謝する。いつか、嫌でもな。お前は俺の金で育ったんだ。お前がどれほど俺のことを憎もうが、俺の金を汚いと思おうが、これもまた、俺なりの愛情という奴なんだよ。お前にも一応与えてやったその愛情の対象が、これからは嫁一本に代わるだけのことだ。お前もどこかの知らない女に愛してもらって、お前にとっての都合のいい愛情を受け取ればいい。ハハハハハハハハハ!!!!!》
《……死ね、クソ野郎が》
ありとあらゆる荷物をまとめ、家から出て行く際に楓悟から言われた言葉がよぎり、思わずフィンランド語で暴言が出る海。
前野に楓悟が重なるようなことは無かったが、なんとなく、こうした相手が都合よく使う『愛情』という言葉に海は苛立っていた。
母親からの仕送りだけでなく、楓悟の金があったから自由に動けたのは間違いではない。
きっと、いつか前野が自分に教えた"何か"が役に"立ってしまう"日も来るのかもしれない。
だが、この二人を感謝する日は来ないだろう。二人が愛情だと思っているものは、自分にとっては愛情ではないのだから――。
海はそんなことを考えながら、帰郷していることを華耶に告げるかどうか、少しだけ迷っていた。
正直なところ、華耶に甘えたかったから東京へと向かってるわけではない。確かに、華耶と会ったら甘えてしまい、その身を絡ませてしまうのは間違いないのだが、それより先に自分の中では『まずは野球のことを頭から剥がしたい』という目的がある大阪から逃げるようにして東京に向かっているのであって――
「……あぁ、もう」
肩から荷物を下ろしてやる、と華耶は言っていたが、その言葉に甘えきってしまっていいのかと海は常々苦悩していた。
華耶は自分のことを信頼してくれているし、自分に対して運命めいた何かを感じている。それは海にとっても同じことが言えていた。
だからと言って華耶を彼女として、そして、母親のようなものとして頼りきってしまう女々しい自分というものは、果たしていかがなものか――。
まして、そうして華耶を頼れば頼るほど、楓悟の言葉通り、自分の本質は楓悟と同類で、同じくらいには自分がクズであることを認めなければならなくなる――。
その事実は海にとって、耐え難いものだった。
イライラしながら、先ほどから無意識にずっと繰り返している貧乏ゆすりにすら徐々に腹が立ってくる海。
ただただ、自分がもう少ししっかりしていれば――そんなどうしようもない感情に縛られながら、海はひたすら新幹線に揺られていた。
〈♪~♪~♪~♪♪~ まもなく――品川です――〉
長かった新幹線の移動も、ようやく終わる――そう思いながら海はカバンを手にし、降りる準備をする。
素直に品川駅からマンションのある武蔵小山に移動するか、少し街に駆け出すかどうか少し迷ったが――
「……いいか。早く寝転がりたいもんな」
髪をかきむしりながら立ち上がり、試合以外では久々に降り立った東京の地を踏みしめた。
特に東京に愛着があったわけではないが、兵庫や大阪では野球のことしか考える暇を与えてはもらえなかったから、わずかな休暇ではあるものの――自分を縛るものがなくなった開放感に、海は郷愁を感じていた。
郷愁とは本来こんなものではないことを海もまた分かってはいたが、今の海にとってはこの東京の狭苦しい空が放つ開放感――開放感というよりは、他人事感こそが最大の自宅感を感じさせていた。
「……ややこしいんだよな、地名」
何度も武蔵小山と武蔵小杉とを間違えないように携帯で乗り換えを確認しながら駅構内を歩く。時々コーヒーのチェーン店だとかコンビニが目に付き、そのたびに少し立ち寄るかどうか一瞬迷うのだが、そのたびにありとあらゆるものを無視して目黒へと向かう電車へと乗り継ぎ、再び乗り換えてマンションのある武蔵小山へと向かう。
そういえば朝食もそこそこに寮を出た上に、昼食がまだだったな――と思った海は、武蔵小山の駅近くにある商店街に立ち寄り、昼間のピークをやや過ぎたところだった洋食屋でランチにすることにした。
日替わりランチだけ頼むつもりだったのだが、メニューを眺めているうちに店自慢のグラタンが食べたい気分になってしまったので、一緒にシーフードグラタンを注文し、そのまま軽く平らげた。
とにかく今日はもう家から出たくない気分だったので、そのまま近くの総菜屋で夜食べたいものと明日の朝食べるつもりのものを揃え、足早にマンションへと向かった。
商店街からすぐそばの、1DKの部屋がしばらくの仮住まいだ。
切っていたブレーカーを入れなおし、惣菜を冷蔵庫に入れる。しばらく離れている間に少し埃っぽくなっただろうか――自動掃除機を動かしながら、どさっとソファに座る。
静かだ。
それも、嫌な静けさではない。
何も考えなくていい、落ち着く静かさだ。
ここでは何もかもが自分にとって他人で、大勢の人間のうち一人にしかならない。
東京ほどの人で溢れ返った土地の中でそんなことを感じることが、自分でも少しおかしいように思えたが、半年以上にわたるシーズンと、シーズンが始まる前までの数ヶ月にわたる準備――そうした常に張り詰めた空気を生きてきた海にとって、『不可侵の空間』というものはこれ以上無く平和を感じさせるものだった。
またすぐに秋季キャンプで戻らなければいけないが、それが終われば、またこうしてしばらく休める――。
「はぁ――」
何でもいいから、今はまず寝よう――そう思い、海はそのままソファに体を沈めて、しばらく眠ることにした。
「……」
「…………」
「……………………何やってんだか、俺」
新幹線でもイライラを沈めるために無理やり寝てしまったからなのか、今日ここに着くまでのイライラがそうさせたのか――疲れているはずなのに海はなかなか寝付けずにいた。
握り締めた携帯を二度見しながら、海は足を組みなおして再びソファに横になった。
それから何時間経ったかも分からないし、今何時かもわからないような、そんなあいまいな時間感覚の中で、ただただ自分の体と意識だけがなんとなく漂流しているような――落ち着きを取り戻せずにいた中、チャイムが鳴った。
画面越しに、相変わらず小さい華耶の姿が見える。
玄関のドアを開けて、なるべく平静を装おうとした海だったが、少しだけぎこちなく照れ笑いをしたような華耶の姿に、思わず海は華耶を両腕で引き寄せ、きつく抱いた。
「ごめん。すぐにでも会いたかった――」
~~~
「いやまぁ、うん…………嬉しかった、けどさ。身長差があるんだからさ、もうちょっとこう……加減してよね」
「……ごめん」
一人の女の顔をのぞかせていた華耶はまだしばらく動けそうになく、重なったまま海にどっちつかずな不満を漏らした。
華耶もまた、海と同じ感情でいたのだろう。つい先ほどまで自分が言っていた言葉が冷静になればなるほど頭の中にたまっていくものだから、恥ずかしさで二人とも言葉がしどろもどろになり、本当に言いたいことを上手に言えずにいた。
本音をさらけ出した後になって恥ずかしさがやってくる現象に名前をつけるなら、なんだろうか――などと海は考えながら、すっかり暗くなった部屋にリモコンで灯りをともした。
「二週間くらいは、ここにいるから」
「その後秋季キャンプだっけ」
「うん。その後はまたしばらく戻ってくる」
「じゃああたし、しばらくは通い妻だ」
「何バカみたいなこと言ってるんだよ」
「料理教室とかもさ、通ったんだよ。栄養学だって勉強した。寮にいる間は基本的に料理作ることがないから、少しは勉強しないとって思って」
「別に何もそこまで俺のためにそんなことしなくても」
「わかってないなーあ。海くん、今はあたしのために野球やってるようなもんでしょ。それをあたしが何もしないのはちょっと違うじゃない」
「でも、俺は都合よく華耶を――」
言い続けようとした海の頬を華耶は横につまんだ。
「……言ったでしょ?あたしも嬉しかったから、それはノーカン。たぶん、海くんがあたしのことそういう目で見てる以上に、あたしはこの半年以上、そういう目で海くんのこと見てたのは間違いないし。きょう誘ったのは海くんだったかもしれないけど、嫌々来たわけじゃないよ、あたし。突然だったから、気持ちの整理がちょっとつかなかっただけでさ。……言わせないでよ。あたし一応、海くんの女なんだからさ」
「……なら、いいけどさ」
海は不安そうな目つきを少しだけ緩め、再び華耶の背中に腕を回した。
「着替えたらさ、ご飯にしよっか。あたし、いろいろ買ってきたんだ。どうせ泊まりになると思ってさ、寮長にもご飯いらないって言ってきちゃったし」
「そっか」
「明日、どっか行かない?中野のコスプレショップあたりとか」
「コっ……そんなの、一人で行けばいいだろ、そんなところに俺を付き合わせるなよ」
「海くんだってきっと合うやつがあるよ」
「身長のこと考えろよ」
「合うサイズがないなら、次はあたし、裁縫勉強するよ。最近じゃ大柄で細身なイケメンキャラなんかも人気ゲームにいたりするんだから。似合いそうなキャラ、あたし何人も思いつくよ」
携帯でなにやら人気らしいゲームの画面を華耶は見せびらかすが、海は鬱陶しそうにその画面を振り払った。
「別に俺までそんなもの着なくたっていいだろ。華耶が好きなもん買って、好きなように着たらいいだろ、そういうのは」
「えー?あたしに着てほしい服とかないわけ?魔王対プリンセスみたいなシチュエーション、そそらない?」
海は一瞬その返答に詰まったが、ふと華耶の身長を見て思考回路を強引に戻した。
「仮に俺ができたとしても、お前の背のこと考えたら、できることだっていろいろと限られるだろ」
「あー。そんなことないもん。逆にあたし、制服とか絶対似合うと思うもん。あー、じゃあこう、あれだ。生徒と教師の禁断の――」
「お前さあ。こう……なんかこう……」
なかなか食い下がってくれない華耶に海は返答に困り、言葉を詰まらせた後「分かれよ」とだけ言うのが精一杯だった。
「背徳感とかお好きじゃあない?なりきりプレイ、ハマると結構すごいらしいよ、マジで」
「バカ言え。そんなのしなくても華耶は十分華耶だろうが。いまさら着飾って、どうするんだよ。……中野は行くとして、そこ以外もちゃんと考えろよな。そこだけしか行きたくないなら一人で行けよな、本当に。一応、世間の目だってあるんだから」
「あー、こういうときだけプロ野球選手ですみたいな顔する。久々のデートなんだから海くんもどっか考えてもらわないと」
「そんなこと言われたってね……」
シーズン中、それほど通話をしなかったことに対しては華耶は何も言わなかった。BINEでのチャットのやりとりは毎日少しくらいはあったけれど、忙しいのだろうと思ってくれているのか、華耶はそこも不満を言わなかった。
久々に華耶を間近にして会話をした海は、関西にいる間こんなに誰かとリラックスして会話できたことがあっただろうか――そう思った。
肩の荷物を下ろしてやる、と言っていた華耶は、確かにその存在だけで海の肩の重さを確かに取り払ってくれていることを、海は久々に華耶会ったことでより深く痛感した。
「海くん」
「何」
そんな海を見透かしたかのように、華耶は優しい表情で海を見つめた。
「別にさ、あたしがこれだけがんばってるんだからって、必要以上に気負わないでね。海くんは海くんのペースでがんばってくれればそれでいいよ。あたしの代わりに野球を続けてほしい、っていうだけでもう十分重荷なんだからさ。怪我なんかするくらいまで張り切るなんてこと、やめてね」
「別に俺は――」
俺のために野球をしているだけのことだ――と言う言葉を言う前に、華耶は海の言葉を遮って人差し指で海の唇に人差し指をぴんと当てた。
「いーや。絶対今……ううん。ここに来るまでの間、絶対海くんいろんなこと考えてたはずだもん。プロの世界なんてさ、うまくいかなくて当たり前なんだよ。そりゃそうだよ、みんなプロなんだもん。高校の部活みたいに、好きで野球やってるだけの人と、最初からプロにしか興味がない人とがぶつかるわけじゃなくて、皆そこから這い上がってきたプロだもん。だからさ、海くんは別に、海くんのままでいいんだ。それがダメだったら、あたしがどうにかするからさ」
「どうにかって」
「どうにか、は、どうにか」
ニッとした笑顔を向ける華耶。
「……なんだよ、それ」
海はそんな根拠のない華耶の言葉に思わず笑った。
華耶もまた、ふふっ、と子供のような笑みを浮かべて笑った。