「なんか、嫌な感じだな。こういうの。気が抜ける」
「しょうがないじゃないですか。滅多にない大事な試合なんですから」
「そうは言ってもね」
18時試合開始というスケジュールにもかかわらず、文京ドームには既に多くの応援客が会場に集まっていた。練習開始時間を予定より2時間早く開始し、そのぶんを切り上げたこの日――エンペラーズの応援団からは、普段は鳴らす事のないはずの応援歌が流れていた。
ミーティングルームやベンチに散らばった選手やコーチたちの中で、海とジェネルは並んで外野席を見つめていた。
――唸りを上げて 叩き続けろ
星の名の下 運命よ輝け――♪
スクリーンには、神宮で行われているスカイクロウズとレッドフィッシュ戦の様子が映し出されていた。スカイクロウズの4番打者の応援歌をまるで自分たちのもののように、大きく大きく旗を振りながら叫び続けるエンペラーズ応援団。
それもそのはずだ。この試合、スカイクロウズが勝つと、チーターズはこの後の試合で引き分け以上でなければ優勝を逃すことになる。逆に、スカイクロウズがこの試合を落とすと、チーターズは自動的に優勝が決定する。
シーズン最終戦までもつれ込んだ優勝争いが直接対決ではないことから、急遽こうして球場を開放し、スクリーンに神宮でのデイゲームの様子を映し出すことにしたエンペラーズ側。なんとしてもチーターズの優勝を阻止したいのか、ひょっとしたら普段の試合よりもエンペラーズ応援団は声を出しているのではないかというほどにその声は時折怒号となって球場を響かせていた。
5対4。1点を追うスカイクロウズ。
「ああ――」
その試合の様子を眺めていた海もまた、思わず声を漏らした。
芯を外された球はショートに転々と転がり、スタートを切るのが一瞬遅れた一塁ランナーは悠々二塁でアウトとなり、ゲッツーの見本のような映像となった。
「そりゃあさ、向こうに負けてもらえたら、優勝できるっていうのは確かに……優勝したかった身としてはね、嬉しいっちゃ嬉しいんだけど……こういう優勝って、どうなんだろうな。できるものなら、しっかり勝って優勝したかった」
「まだスカイクロウズが負けたって決まったわけでもなければ、うちらが優勝したって決まったわけじゃないですよ」
「分かってるからこそ、なんかこう……嫌なんだよ。スッキリしないだろ、こういう勝ち方って。本来、俺たちがもっとしっかり勝ち星を積み重ねてたらこんな変な一喜一憂の仕方なんて、しなくていいんだから」
「分かってないな~あ、海さんは。勝ちゃーいいんですよ、勝ちゃー。うちらがこのあとエンペラーズをボッコボコにして、それで後腐れなく優勝。それでいいでしょう?普段どおりやってたら、勝てますよ」
かつての清兵衛のように、勝手に肩を組んで肩をバシバシと叩いてくるジェネルを海は心底嫌そうな顔で睨み、組んでいた腕をゆっくりと振りほどいた。
迂闊な距離感と身体の密着感に対しても海はジェネルを睨み、『一応カメラ回ってるかもしれないんだから、やめろよ』と諭した。
「そういう慢心があるから試合を落とすんだから、やめろよな、そういうの声に出すの。できるだけ普段どおりでいようとしてるんだよ、こういう日だからこそ、俺は。優勝なんてのはあくまで通過点でしかないけど――その通過点に届くまで20年――21年かかってしまったんだから」
「でも、先に世界一になったじゃないですか。世界一の瞬間に立てなかった日本一経験者だってたくさんいるんですよ?」
「でも、世界一になったのは俺のおかげじゃないだろう」
海の言葉にぎょっとしたような表情を見せたジェネルはさすがにムッとした表情で海の肩を再びバシバシと叩き始めた。
「なーに言ってるんですか。あんなホームラン打っておいて。カナダ相手の……誰でしたっけ、あれ。なにタスでしたっけ。なんかいたじゃないですか、決勝の前にもボッコボコにしてやった投手」
「なんか、ってなんだよ。失礼だぞ。あれだ、えーと……そう、ジェイク・ブルータスだったかな」
海もまた、記憶が曖昧になっていたので必死で記憶をたどり、その名を口にした。自分でもよく名前がちゃんと出てきたものだと海は自分で自分の記憶力に感心した。
「そうです、そう。ジェイクだかシェイクだかジェイルだかジョークだか知りませんけど。決勝のアメリカ戦のホームランばっかり取り上げられてますけど、カナダ戦のホームランなんかも値千金どころか、値万金ですよ。いーや、値億金です。海さんが打たなかったら、あの試合負けてましたよきっと」
「過大評価だよそれは。あの試合は、俺が打たなくても後ろがきっと打ってた」
「分かりました。こうしましょう。あの試合、仮に海さんが打たなくても勝ってたってどうしても言うなら、それでいいです。でも、今年のうちらだってそうじゃないですか。後ろに私が控えてるんですから」
自信満々に胸を張りながら自らを指差して、笑顔を向けるジェネル。それはまるで、世界的な人気を誇る猫型ロボットが登場する漫画の第1話のようだった。
そんなジェネルを冷めた目で見つめながら、海はその額を小突いた。
「だとしたら、内野にもう一人お前が要るね。欲を言えばキリがないけど、ここ何年かのうちらの内野守備を見てると、欲しか出なかった。ずっとうちらの守備は犬塚がいなくなってからボロボロだからな。そりゃあ、欲だって出るよ。欲しか出ないから、俺はよそのチームのことなんか、見ないようにした。でもその点、ピッチャーは大変だよな。全部の打者のデータを仕入れなきゃいけない。俺みたいに、見たくないものは見ないようにする、じゃあどうにもならない。俺みたいなのが投手やってたら、人間をやめてしまいそうだ。今ですら、自分を保つのがギリギリなのにな。……でも、それも、あとちょっと……あとちょっと勝てば終わりだ」
「……」
最後の言葉は、無意識に出たものだったのだろう。海は自分で何を言ったかにすら気づかない様子で、ふっと、少しだけ寂しい笑顔を見せながらスクリーンを見上げていた。
ジェネルは悩んだ。
野球というものに殺されかけている海が野球から解放されるためには、このあとやってくる"負けられない戦い"をしっかり戦い抜いて――送り出さないといけない。
それと相反するようにして、自分はまだこの男と一緒に野球がしたい――という想いがその大きな胸を埋め尽くしていた。
仮に今年、ポストシーズンを戦い抜き、日本一になったとして――自分は果たしてこの男を笑顔で送り出すことができるだろうかという気持ちがあった。
逆に、日本一を逃したとき、自分はこの男の前で、『もう少しだけ一緒に野球ができる』という嬉しさを顔に出さずにいられるだろうか――という気持ちとがせめぎあっていた。
海の願いは、自分の野球のモチベーションとは逆のところにある。つまり、自分の願いは海にとっては戦いの道であり、海の心身をさらに今以上に破滅に追いやるものなのだ。
そのときは自分が華耶のぶんまでこの男を介抱してやろう――と、口や頭ではそう簡単に思うことができるが、果たして海が普段抱いている感情の何割を自分が和らげることができて、一体何割ほどの海の闇を吸い取ることができるのだろうか――。
~~~
試合終了と同時に、マウンドでガッツポーズを取り、今日という大事な試合を2失点完投に収めた先発投手。そこにめがけて我先にと最近ずいぶん前に出たがる売出し中の若手内野手・丸毛が、試合中にすら見せないほどのスピードで飛びついていくのを海は冷めた目で見つめていた。
最後にボールを処理したのは今日この試合をしっかりリードした捕手なのだから、まずは捕手に真っ先に飛びつかせてやれよという思いと、何を今日の主役は自分だみたいな顔でいるんだよ――という思いで海はマウンドを一瞥していた。
そんな海のことなどお構いなしに、チーターズを33年ぶりの優勝に導いたのは自分の力のおかげだ――と言わんばかりに皆が先発に向かって水をかけたりしながらも時折輪を外れ、カメラや客席に向かって自己主張をし始める。
とてもあんな中に混じって自分も同類なんて思われるのも心外だな――と、本来輪の中心にいなければならないはずなのになかなか合流しない海を見かねてジェネルが外野から猛スピードで向かってきた。海の腕を引っ張る形で、同じくしてなかなかやってこない今野を待ちかねて各々が好き勝手はしゃいでいる輪の中に海を引き連れ――
「おい、痛いな。何するんだよ――」
「いいから、ちょっとじっとしててください」
「いいからってなんだよ」
海の後ろで髪の毛をいじりだすジェネル。なにやら髪を結んでいるようで、髪をぐいぐいと引っ張るジェネル。
しばらくして、ニッと笑ったジェネルは、いったいいつの間に自分の髪を結びなおしたのか――長い長い三つ網にして見せびらかし、そして同じように結んだ海の長い髪をつかんだ。
「おそろいです。おそろい。海さん、せっかく髪長いんですから――優勝したら、やっときたいと思って」
「……」
いつしか輪から少し離れたところにいた二人をカメラがしっかり捉え、こちらにポーズを要求する。
ジェネルは髪を見せびらかすようにしてカメラに海の結んだ髪と一緒にアピールしながら、腰を大げさに折り曲げてわざとらしくバットを構えるそぶりをし――その片足をわざとらしくちょこんと上げてみせた。
「……馬鹿、お前、そういうのは日本一になったときとかにやるもんだろ。大体お前……アイツは左打者だろうが。お前、右打席のままやってどうするんだよ」
海はジェネルを静止しようとしたが、カメラマンが同じくして足を上げてみせ、手を振りながら海にも同じようなポーズを要求した。
「やれ、って言ってますよ」
「……」
海はしぶしぶ、満面の笑みで――本来、ここにいるべきであった男――ここにいさせてやりたかった男のバッティングフォームの真似をするジェネルにつられる形で、同じように足を上げて構えをしてみせた。
『なァ。ちょっと試合後ツラ貸してくれや。飯にでも行こうや』
『確か100万だったな、賞金。今日は宴会だ。ガハハ』
『俺ァいつか優勝すっぞ!海ィ!なァ!天才打者佳井海とォ、超!天才打者!この大鈴清兵衛!この二人が揃ってりゃあなァ、あの不細工なドームの天井に穴あけることだってェ、容易いもんよ!あるいはよォ、あの警備会社の看板に穴開けてなんかよォ!ガハハ!球団代表のあんちくしょうめ、いっつも俺らみたいに率を稼ぐタイプの打者の足元ばっかり見やがって。なぁ海。佳井海よォ。悔しいよなァ!?』
あの日、確かに自分の前で優勝したいという思いを叫んだ清兵衛。
奇しくも、あの日と同じ、シーズン最終戦――。あの日と同じ文京ドームという地。
あの日、清兵衛が酔い潰れながらも思いの丈をぶちまけてから12年という年月が流れた。あの日、チームに、海に、そして自分自身に何かを訴えるようにしてドームの看板直撃弾を放った清兵衛は球界を去って早数年――球界を去ったときの清兵衛の歳に自分はついに並んでしまった。左右でそれぞれポーズをとってみせる海とジェネルの合間に、この場に一番連れてきたかったその男の姿も、その男のユニフォームやタオルを掲げる者もいない。
「ジェネル。分かってると思うけど――」
「分かってますよ。……来月、もう一回同じことをカメラの前でしよう、でしょう。分かってますよ。海さんにとっては、これが最高のフィナーレの通過点でしかないっていうことも。でも――ほんの少し前まで、このチームには清兵衛さんがいたっていうこと……清兵衛さんがいなかったら、私たちはここに立っていなかったし、きっと清兵衛さんがいなかったらここまでしっかりしてなかったっていうこと……少しでもカメラの前で訴えたくて。私は――誰もが忘れたとしても、ここに清兵衛さんがいるものだって伝えたくて」
ジェネルの言葉に対して複雑な表情を浮かべている海。それを見つめ返すジェネルもまた、複雑な表情を浮かべていた。
二人が共に清兵衛のことをまだ心の浅いところに生かしているからこそ、その結んだ髪をなかなか解こうとはしなかったし、カメラの前だからと組んでいた肩も、なかなか解こうとはしなかった。
「……きっと、どこかで見てくれてるはずです」
「……見てないよ。きっと。アイツ、そういうのガラじゃないから」
「……見てるって思ったほうが気が楽じゃないですか。連絡の取れない人のことをマイナスに考えたら、キリがないですから」
ジェネルの言葉に、海は少し遠い目をして天井を仰ぎ――目を伏せながら呟いた。
「お前もさっき言ったけどさ。アイツが居るうちに……こうやってアイツのこと、からかっておきたかったな」
「……分かってると思いますけど、次は、海さんの番ですからね。日本一になって……そのときは、一生分、海さんのこと……からかってやりますから」
「お前にそこまでたどり着く力があるのかよ」
「今の私なら……やれます。……やれます、っていうか、やります。いい加減、海さんにも安心してほしいですし。だから……ここから先の一ヶ月くらいは、私のこと信頼してもらえませんか」
きっと、自分が考えていることをなんとなく分かっているのだろう――海は、そう口にしたジェネルの背中を見て、なんとも言えない気持ちになった。
ジェネルがよく口にし、海もまた、同じように口にする『15年早ければ』という言葉の意味が、今だけは少し別な意味に変わりそうな気がした。
今だけは、仮にこのまま順調に日本一になったとしても――ジェネルがここに居続ける限り、自分もまた、もう少しだけ野球を続けてやってもいいのでは――と気持ちが揺らぎそうになった。
ビジターの地での優勝とはいえ、球場側も演出に協力してくれていることに海は若干の申し訳なさを感じながらも、次に日本一を決めるときは甲子園の地で絶対に決めてやろう――そう思いながら、ジェネルと手を振りながら外野を一周した。
次に手を振って一周するときはきっと、もっと明るい気持ちで――それが最後のつもりで手を振っている景色であるように、と思いながら。
:
:
〈――続いては大リーグです。ニューヨーク・アドバンズに所属し、7年180億という契約を結んでいたものの、今シーズンは度重なるファンとのトラブルや、起用法をめぐり球団と幾度となくトラブルに発展していたダミアン・メリッサ・シーン選手が契約解除となりました。シーン選手はこれを不服とし――〉
しばらく呆けたまま、パソコンで優勝直後の様子を眺め続けていた華耶。
同時につけていたテレビのニュースの存在などとっくに忘れており、今の華耶にとっては環境音にすらなっていない。
両目にたまった涙をハンカチでぬぐいながら、無言でただただ、いったん配信の途切れた動画サイトの画面を眺め続け、詰まった言葉を吐き出すことなく天井を仰いだ。
確かに、ここ数年の海の成績がずば抜けて良すぎただけに、今季記録した28本塁打、135打点という数字は若干の物足りなさはあるかもしれない。そうした数字が示すように、佳井海という選手の旬は終わり始めているかもしれない――。
だが、来年の6月には40歳になろうとしている男が、今季も当たり前のようにシーズン通して3番を託されて今季も打率トップ争いに並び続け、欠場期間があったにもかかわらず30本近くの本塁打を記録し、そして幾多の勝利を導いたし――もはや海にとっては当たり前になってしまって誰もが褒めもしなければ強い興味を示さなくなった打率4割を今年もまた記録した。
十分すぎるではないか――。
佳井海はここまでチームのために戦い続け、優勝に十分すぎるほど貢献し、長きにわたって低迷していたチーターズにようやく優勝をもたらした――それだけでもう十分ではないか。
いったい、今自分の手で海に『もう来年から何もしなくていい』と言い出せたならば、どれほどよかったことだろう。
何かの弾みで今年のポストシーズンやシリーズ戦は中止となり、両リーグともに優勝チームが日本一になる――という処遇が与えられたなら、どれほどの重さの枷が海のもとから離れてくれるものだろうか。
海に対して、よく頑張った、という思いと――自分との約束をこんな長い間胸に秘めて戦い続けてきたということに対しての自責の念と――そして、海が本当に持ち帰ろうとしてきている『日本一』という頂点までの道のりが、あともう少しのところまで見えているからこそ、ここからの最後のあと一歩がどれほど険しいものか――ありとあらゆる感情が華耶の中で激しく駆け巡った。
普段、仕事でCリーグの動画編集にかかわっている人間だからこそ、ここから先の海の本当の戦いを思うと華耶は胸が苦しくなった。海と同じような思いを抱えて、最後の戦いを勝ちきれないままに球界を去る人間を華耶は何人何十人何百人と見てきたし、そういった選手の裏側の事情だってyoureTUNEのチャンネルで特集もしてきた。だからこそ、今までの苦労を考えると、もうこれ以上の悲劇は海には要らないはずだ――と華耶は思ってやまなかった。
サッカーのように、優勝したことに対しておめでとうと素直に言えるような世界だったらよかったのに、リーグ優勝の先にさらに日本一をかけた戦いというものがあるものだから、華耶は明日明後日にでも帰ってくる海に対してどんな言葉を投げかければいいか迷った。
画面越しにでも伝わってくる、今にもまたちょっとのことで壊れてしまいそうな海に対して自分にできることなど、残されているのだろうかという不安が襲ってきたりもした。
今すぐにでも会いたいという気持ちと、会って自分が何か海にとってよくないことをしてしまわないだろうかという気まずさ。
祝福したい、ただそれだけのことが難しくなってしまった年月の重さ。
そうしたもどかしさやしがらみに華耶は胸がズキズキと痛んだ。
不器用で一途な海。それが愛おしく、時にその一途さが切ない――。
いっそ、海が帰ってきたらその瞬間から時間など止まってしまえばいいのに、とさえ華耶は思うと、またその瞳からは涙が溢れてきてしまった。