いったい、この感情をどう表現すればいいのだろう――。
呆然と、死んだ目をしながら海はベンチで動けずにいた。
なぜ、よりによって"それ"が今日だったのだろう――と言えばそれはきっと言い訳になるだろうけれど、一人の人間が感情を完全に取り払って野球に向き合うには、今日という日は海にとってはこれ以上なく最悪な一日だった。
せめて、"それ"が明日であったなら――。そんなことを考えたところでもはやどうしようもないことも分かっている。チャンスを自分で逃がしたのだから、海は深い絶望に陥った。すべては、雑念を取り払えなかった自分の精神力の弱さが今日この日の無様な姿を形作ったのだ。
今ならば、いくらでも他人のせいに出来るかもしれないが、最終的には気持ちを断ち切って無心で打席でバットを振れなかった自分のせいなのだ――。
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〈……ニューヨークで発生した、ダミアン・メリッサ・シーン容疑者とピアース・ウォルコット・ザッカーバーグ容疑者――いずれも現役の大リーガーによる、犠牲者17名を出した銃撃事件の続報です――〉
気持ちとしてはいつもどおりの朝を迎えたつもりでいた海は、華耶がゲン担ぎのために作ってくれたカツカレーを朝から頬張りながら、物騒なニュースを眺めていた。
数日前に発生したその銃撃事件について、海は記者からコメントを求められていた。何しろ、自分が数年前にWBCSの決勝戦でサヨナラホームランを打ったときの投手が銃撃事件の主犯格だったのだから、メディアが放っておくわけがなかった。
放っておくわけがなかった、と言っても、"ダミアンナントカとかいう"投手とはその後何かしらの交流があったわけではない上に、別に海外野球の興味がまるでなかった海としては、何か気の利いたコメントを言えるかといわれれば、そんなことはなかった。
自分と戦った投手が痛ましい事件を起こしましたが、などと言われても『ひどいですよね』くらいのことしか言えないし、今になって対戦の思い出を聞かれても、どんな球が来ても打つことしか考えていなかったから、別に投げている相手そのものに何か思い入れがあったわけではない。
どんな投手も球を投げるのが仕事だし、打席に入ってさえしまえば、誰かを特段ライバル視するだとか、特別どんな手を使ってでも倒したいほどの私怨を抱くほどの投手だって居ないし、どんな投手が相手だろうとただ白球を捉えるだけの海にとって、ダミアンという男はただの数多い相手投手のうち一人で、それ以上の感情は持ちようがなかったのだ。
何か言いたいことはあるか、などと聞かれても『残念です』くらいのことしか言いようがなかったし、それ以上のコメントがもし欲しいのならば、それ以上のコメントをしてもらえる人間に事件の深堀をするべきだとも海は思っていた。
最悪な事件を起こしたことに対して『残念です』以上のコメントは一人の野球人としては言いようがなかったし、人として最低最悪だ、という感情こそあっても、そんなことよりも眼前の試合のほうが大事な海にとっては――どうでもいい、という言葉を使うのはあまりに乱暴で無関心かもしれないが――正直なところ、ポストシーズンでそれどころではない海にとっては、そんな事件についてはスタジオのコメンテーターどもに好きに喋らせておけばいいだろと思い続けていた。
「ひどいよね。17人もさ……。しかもわざわざ球団代表がいるレストランを狙って、17人もでしょ。17人全員が球団関係者ってわけじゃないだろうし、それくらい無関係な人をそれだけ巻き込んだ、ってことでしょ?……ひどいよね。ほんと、最低。巻き込まれた人がかわいそう過ぎるよ。こんなのに家族が巻き込まれたらとか思うとさ、ほんと……やるせないよ」
汚物を見つめるような目で華耶はテレビの画面を睨んだ。
17人の中には日本人が巻き込まれている、という報道もあるせいでニュースは大きく取り上げられ、その身元の特定が急がれていた。
海にとってはどの国の人間が襲われようと痛ましい事件だということには変わりないだろう、と思いながらも――それでも、遠く離れた国のニュースだということなんかもあって、どこか他人事のように思いながらカレーを食べていた。
〈――大使館によると巻き込まれた邦人2名は東京都内に住む投資家、荒屋楓悟さん63歳。そして同じく東京都在住の会社員、草津由輝さん28歳。いずれも銃撃に巻き込まれ死亡したとのことです。草津さんと荒屋さんは二人でニューヨークを旅行していたところを事件に巻き込まれた模様です。二人が撃たれた瞬間を見ていた生存者によりますと、荒屋さんは――〉
……その名前と写真が画面に映し出されると同時に、海は思わずスプーンを落とした。何かを察したように華耶はリモコンを手に取ったが――次にどうするべきかを考えたものの、それ以上のことはできなかった。
楓悟【ヒューゴ】だなんて日本人離れした名前の響きと、忘れたくて忘れたくて――やっと、自分の中で存在を完全に消し去ったつもりの自分の過去――そして、自分の人生が狂ってしまったすべての元凶。
まるで何も反省してないかのような、憎たらしい笑みを浮かべ――"将来を誓ったはずの女"とは違う女と肩を抱いている写真が画面いっぱいに映し出されているのを見て、海は思わずその右の拳をわなわなと震わせた。
〈――荒屋さんの妻・春香さんは取材に応じ――〉
〈――正直、まだちょっと信じられません。投資仲間と旅行に行ってくるって言ってたものですから、一緒に撃たれたっていう女性の方とはどういう関係だったのかも――〉
「……華耶、ごめん。ちょっとトイレ」
顔を真っ青にして口を押さえ、慌しくリビングから出て行く海に対して華耶は声をかけられなかった。どんな言葉をかけても、今の海を癒せる見込みがないように思った。
『そんな親父は、女とばかり遊んでいた――』
『俺は俺の意思で出て行くんだ……あいつの意思で出て行くんじゃない』
海が華耶に助けを求めたあの夜、海は自分の父親、楓悟について独白した。それ以来、海は積極的には楓悟の話を自分からはしようとはしなかったし、華耶もまたしつこく楓悟の話を掘り返そうとはしなかった。
ただ、自分が父親として、楓悟と自分とは同じ道をたどっているのではないか――という不安を口に漏らしていた。半分は楓悟の血が流れている以上、そうした血の持つ呪縛というものを海は本気で気にしてしまっていた。何度自分がそんなことを気にしなくたっていいと言っても、自分問題だから――と海もなかなか聞いてはくれなかった。
海は結婚と同時に籍を佳井家に入れているし、そもそも海が父親から家を出て行くよう――勘当とはまた違うのだろうけれど、籍から出て行くように父親から言われて生きてきた人間だ。結婚式には当然来ていないし、今こうしてテレビに映るまで、その姿については見たことがなかった。
ただ、テレビに映った、海が憎んでやまないその父親の姿――そして、あまりに不自然なその旅行相手の年齢――。華耶は、会ったこともなく、口伝えでしか知らない楓悟を、改めて心から軽蔑した。軽蔑したと同時に、自分が父親の姿とダブる――そう言っていた海に、改めて『そんなことはない』と深く深く思った。
でも、思っただけで、海に対してその思いを口にすることは、できなかった。なかなかトイレから戻ってこない海を心配しながら、華耶はなかなか終わらない楓悟の妻のインタビューを途中で見るのをやめ、チャンネルを変えた。
青白い顔。ただでさえ白い肌が、透けるくらいに青白く、まるで死人のような血の気のなさを見せた海。トイレから戻ってきた海の姿は、とても今日このあと、気持ちを切り替えて野球に挑むことのできる顔色とは思えなかった。
「ごめん。ちょっと残り、食べられそうにないから……冷蔵庫にしまっておいて。帰ってから食べるから」
「うん」
「せっかく作ってくれたのに、ごめんね」
「ううん、いいよ」
大丈夫?とはとても、聞ける状態ではなった。こんな状況で大丈夫かと聞いて大丈夫なわけがないことくらい華耶には分かっていたし、そんなことを聞けば海は間違いなく大丈夫じゃなくても大丈夫だと返事をする。
今日この一日、無理にでも頑張らないといけない日だと分かっている以上、自分の口から海に追い討ちをかけるような言葉を放つことなど、華耶にはできなかった。
それと同時に、こんなときに一言でも気の利いた言葉をかけられない自分がひどく薄情に感じられて――改めて、自分が海のこれまでの日々なんかよりもずっとずっと、生ぬるい環境で日々を生きてきたものかと痛感した。
日本よりもずっと神が身近にある国で生まれながらも、神というものを信じようとはしなかった海。
自分にとって都合のいい神がいたら、きっと自分の人生はもうちょっと、華耶がいなくてもマシだったはずだ――よく海はそんなことを口にしていたが、華耶はそのたびに、別に神なんかは居ないかもしれないけど、それでも、信じるものは救われるはず、と言い返していた。
これでは、あんまりではないか――。
いったい海が神に対して何をしたというのだ――華耶はそんなことを考えながら、サングラスをかけて必死で顔色が悪いのを誤魔化そうとしている海を見送った。
滅多にしない化粧までして、顔色が悪いのを隠すためにファンデーションでその顔色を誤魔化した海。そこまでして戦わないといけないのか――華耶は海が今日一日にかけている思いを考えると、せめて、海一人が今日使い物にならなかったとしても――どうか、日本一のトロフィーを持ち帰って家に帰ってきて欲しいと願ってやまなかった。
『亡くなったのはかつてのご両親と聞きましたが――』
『プロに入ってから本当にお父様とは一度も会ってないのですか――』
『犯人に対して改めて何か言いたいことがあれば――』
『事件に対して改めてコメントを――』
この日、とても海を取り巻く環境は練習に集中させてもらえる空気ではなかった。今野も取材陣に割って入り、「それは今、どうしても佳井から聞きださなきゃいけない質問なのかしら?」「それとも、相手チームにどうしても勝たせたいとかいう、何か他の思惑があってのことかしら?」と取材を後回しにするようにしたのだが、それでも、フェンス越しにどうしてもコメントが欲しい取材陣は、海の練習について回り、なんとしても海から言葉を引き出そうとした。
誰が見ても、海の調子が悪いのは明らかだった。
とても、今日ここまでのシリーズ戦――3勝3敗で最後の大一番を迎えようとしているこれまでの6試合で打率5割とまさに鬼神のようにバットを振り続けている人間とは思えない覇気のなさが見て取れた。
それでも、誰もが試合になればなんとか海は気持ちを切り替えてエンジンをかけてくれる――そう思っていたし、海もまた、ずっと気分が沈んだままでなどいられない――そう思っていた。
だが――思っていたが、思った"だけ"だった。
思えば、2000万を置き、二度と連絡してくるなと部屋から飛び出した日だって、楓悟とは直接会っていない。会ったならばきっと、右の拳で顔を殴っていただろう。自分の右手をあんな男の血で汚すのは、嫌だった。
しかし、遠く離れたニューヨークという地で死んだという事実がそこにある以上、今後、どれほど自分が自棄を起こしてあの男を殴りつけようとしても、もうこの手で殴ることすらも、罵声のひとつでも浴びせることすらもできない。
生き続けて――生きて、幸せで居続けることが、自分に出来る楓悟への最大の復讐――そうは思っていたが、それでも、忘れようとしていた心のどこかに、一度くらいはあの憎たらしい顔を直接殴っておきたかった――という思いも少しだけはあった。
そして、その父親を銃撃に巻き込み死に追いやったかつての名投手も、警察の手によって現場で射殺されたという報道があった。
自分には、もはや憎い相手に対して直接暴力に訴えることができないのだ。自分のほうが幸せである、と生きて生き続け、その幸せを直接見せ付けることだってできないのだ。
バットを握り、めいっぱい振ってみるが――いつも以上にその木の塊は重い。
あと一日早く身元が判明し、休養日の間に気持ちを整理できたならどれほどよかっただろうか。たったあとひとつ勝つだけで、自分の戦いは終われる――その事実が目の前にあるはずなのに、自分の両手から、つかみかけていた自分の戦いを最大の幕引きで終えることのできるチャンスが、砂のようにさらさらと逃げていく感覚がそこにあった。
ジェネルは、自分が仮に打てなくても、自分の分まで打ってやる、とは言っていた。だが、改めてこうした重要な試合に臨んで海は気づかされた。自分の中の戦いを終わらせるためには、自分が打つしかないのだ。
こうした試合で自分が打てなかった試合はことごとく負けが込んでいたように、きっと、この試合で自分が打てないということは、シリーズ戦を落とすということにつながる――そう思って自分を奮い立たせようとした海だったが、立ち上がるだけの腰は重く、今まで感じなかった自分の老いが突然、シンデレラの魔法が解けたように訪れてきてしまったように感じられた。
それでも、ここまで3勝3敗。
なんとか自分が気持ちを切り替えてヒットの一本や二本さえいつもどおり打てれば、きっと勝てる。勝てるはずなのだ。あとたった一試合、自分が最後の気力を振り絞ればいいだけなのだ。
その"いつもどおり"が今日というこの日、どれほど難しいものか――。すべてはこういうときのために、どんなことがあっても耐えて生きてきたつもりだったというのに――。
つもり、ということは、結局、あくまでも"つもり"だ。それは、自分の中のうぬぼれや都合のいい思い込みなだけで、誰もが認める事実ではないのだ。現に今自分は、普段どおりバットを振れずにいる。
今朝テレビで見てしまった楓悟の姿は。プレイボールまでに自分の中で封じ込めていたありとあらゆる感情を整理するにはあまりに時間が足りなかった。
『お前もそうやって俺の知らないところで作った女のもとで慰めてもらうんだろ?同じじゃないか。俺とお前は、同じなんだよ』
「……死んでまで俺の邪魔をしないといけないのかよ、てめーは」
しゃがみこみ、何も見たくなくなった海。バットを地面に置き、耳を塞いだところで頭の中で響いている声が鳴り止むわけではないのだが、気が狂いそうになってその場でもがき苦しみだしそうになる自分をなんとか抑えることだけで必死だった。
多くのカメラが、しゃがみこんで頭を抑え苦しそうにしている海の様子を最初は追っていたが、やがて追わなくなった。とても、公に流すにはその姿はあまりに残酷で、悲劇的で、世間が望む佳井海から乖離してしまっていた。
たった1安打、2安打――
ブツブツと、何かに取りつかれたかのようにしてベンチの奥へと去っていく海に対して、コーチ陣も、今野も――もちろん、薫も何も言えなかった。ただただ、なんとか気持ちを切り替えて戻ってくる海を祈ることしか、できなかった。
廊下ですれ違ったジェネルもまた、海に何か言葉を投げかけられることはできなかった。海のかわりに自分が打たなければ、と気持ちを切り替えたかったが、ここまで6試合、まるで当たっていない自分が情けなく、ジェネルは悔しさを飲みかけのペットボトルに当たろうとし――自分が海だったらそんなことはしないだろうと思い、ただただ唇を噛んでぶつけようのない悔しさに身体を震わせた。