海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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129・もう一度が遠い

〈それ見ろ!俺は佳井だ!何が11点差だ!ホームラン打ってやったからなこんちきしょう!お?お?何だ?花束?え?サイクルヒット?負けてる試合でサイクルヒットなんて祝われてもな~あ〉

 

出演を断った、今年一年の珍プレー好プレーを取り扱った冬の特番。そこで、自分のサイクルヒットを、海からしてみたらしょうもない他人イジりばかりしてるだけにしか見えない芸人が勝手にナレーションをして茶化す映像が流れ、海は思わずリモコンを投げつけそうになった。

他局がどんな映像の編集の仕方をしているか気になっているからということで華耶が見たがった番組だったのだが、仮に自分のミスを映像で茶化されるのならまだしも、サイクルヒットを打ったときの表情が少し無愛想だったからという理由で勝手な編集とナレーションをされたことに、海は言葉も出さずに憤った。

 

すんでのところで無言でリモコンを奪った華耶は、それでも海を咎めるでもなく、やや気まずそうにしながら――しばらくして、

「他の番組見よっか」

とチャンネルを回し始めた。

 

〈――あぁ、これはひどいですね。エンジンがきしんでいます。ギアも……3速の伸びが悪いです。ダメです。ハンドルもダメだ。手を離すと若干左に傾いていきます。これを修復するつもりなら、完全に新しい命を吹き込むほど気合を入れなければならないでしょう――〉

 

「海くん確か車、結構好きだったよね?」

「別に。好きって自称できるほど語れないよ」

「そっか」

 

薬にも毒にもならないような番組はないかと華耶はチャンネルを回すが、考えてみたら海が好きなものというものを、華耶は知らない。

知らない、というよりも、海が本当に好きなものは何なのかと聞かれると、たぶん、ないだろう。

 

音楽は好きだったというよりも、あくまでも時間を消費できるコンテンツだったこともあって、別に海が自ら何か他のアーティストの曲を好き好んで聴いたり、あるいは、誰かのライブに行ってみたり――ということは華耶の記憶上、まったくと言っていいほどない。

プロに入ってすぐに自分と結婚した、ということも事情としてはあるのかもしれないが、考えてみたら海の口から『このバンドが好きだ』などといった話を華耶は聞いた覚えがないし、一人でライブに行ってくるなんてことも、あるいは、誰かのライブに自分や子供たちを誘ったということも、聞いたことがない。ともすると、ひょっとしたら音楽はやってる間に時間が潰れるのが好きなだけであって、聞くこと自体にはさほど興味がないのだろう。

 

決して自分に自惚れているわけではないが、海が自分の他に、この世界で好きなものは何かあるかと聞かれると、何も華耶には浮かばなかった。自分と時間を共有できさえすればいい、ということは、それほどに日々の生活に関して関心がないということなのだ。

 

長い間暮らしてきて、海から野球を取り上げたあとは何が残るのか考えてみたとき、華耶は改めて、自分が海を野球マシンにしてしまったことへの罪悪感と、このままでは本当に父である竜匡の二の舞になってしまうのではないか――という思いとが再びぶりかえしてきた。

 

シリーズ戦から帰ってきた海は、華耶に『明日にでも引退表明をしたい』と言った。

やつれきって、青白い表情で、力なく――『来年また同じように打ち続ける自信がもう俺にはない』とつぶやき、膝から崩れるようにしてそのまま海はしばらく動こうとしなかった。

 

そんな海の言葉に、華耶は『とりあえずオープン戦が終わるまで結論を待ってみたらどう?』としか言えなかった。

海を止めるなら今だ、という思いこそあったが、今ここで海が野球を捨ててしまうと、そのままの流れで、海が海でなくなってしまう気が華耶にはしてしまっていた。無理矢理にでも野球という鎖で命をつないでおかないと、自分や子供たちという存在をもってしても、海は自ら命を絶ってしまうのではないか――そんな気さえ華耶には最悪のシナリオとして頭に浮かんできたからだ。

 

できれば、今すぐにでも野球から解き放ってやりたかったのに、今の海を自分一人では支えきれる自信がない――そう逃げてしまった華耶は、自分で自分を殴りたくなった。

こんなときに支えてやらなければ妻である資格などないのに、野球をもう辞めていいよと言い出せない自分の力不足もそう――それでも、海にはここで立ち止まって欲しくないというわがままと――本当に神が居るのであれば、もう一度この男にチャンスを与えてやって欲しい――そんな思いとが複雑に絡み合っていた。

どうしてこうも、この男に試練ばかり神は与えるのだろう。試練ばかりで、報われたためしなんかないじゃないか。それでも神を名乗るつもりか――とさえ華耶は思った。

 

自分は、ずいぶんと都合のいい女だと思う。最低だ。こんな傷ついてボロボロになって、一人では立ち上がれそうにない状態を見ていながら、それでも自分が手を差し伸べればもう一度立ち上がってくれるものだと都合よく思い込もうとしている。自分にできる最大限の支えがあれば、もう一度この男は蘇ると信じている――。

華耶はこのとき、晴留が家を出た本当の理由は、自分がこういう思いで海を見ていることに内心呆れていたからなのではないか――とうっすら思った。

付き合いきれない――そんな感情がどこかにあって、それこそ、新が海を心底軽蔑しているように、晴留もまた、自分が海に対して抱いている感情や、海に自分のぶんの思いを託して、そうして運命共同体であるということに浸っている自分を軽蔑していたのではないか――。

 

『長く暮らしてたら性格なんてちょっと影響されてもおかしくないもの』

 

かつて、三葉が華耶に言った言葉が脳裏によぎり、華耶は一人で苦笑した。なるほど、海が悪い考えをとことん悪循環させてしまうように、自分も、そういうところが海に似てきてしまったようだ。海のそうした悪い方向へとばかり進んでしまうことを、笑う資格は本当はもう自分にはないだろう。

 

〈――アーリークロスだーっ!!ヘディングーゥッッ!!〉

〈ちょっとタイミングが合いませんでしたよねー〉

 

「……そういえばさ」

「うん?」

「新はやっぱり、またイギリスに行こうとしてるの?」

「うん。なんか、もう『俺はやれるんだ』って勝手に思っちゃってるみたい。……なんだかなあ。あの自信の持ち方、誰に似ちゃったんだかね」

「自分に自信があるならいいじゃないか。じゃあ、思わせ続けておこう」

「海くん――」

結局、テレビ番組という気分にはなれず、二人とも手にはコントローラーを握ってサッカーのゲームをしはじめた。別に、二人とも好きでサッカーのゲームに手を出したというよりは、なんでもいいから二人で何かをしたかっただけで、それがたまたまプレイ履歴として一番最初に出てきたサッカーのゲームに指が進んだだけだった。

 

ソファに二人で寄り添いながら、肩に力を入れるでもなくプレーをしていた海は新の進学の話題を切り出した。

ぽちぽちと押されるボタンの音と、妙にテンションの高い実況の声だけがしばらく部屋の中で浮いていたが、華耶は海から相変わらず飛び出してくる言葉に不服の様子を見せた。

 

「あいつ、友達いないだろ」

海はぽつりと、遠慮もなく鋭い言葉を放った。華耶は言葉に詰まりながら、少し返答に悩んだ様子を見せ――結局、しばらく経って、反論できないまま画面の向こうでパス回しを始め、ゲーム内の実況からはからかわれ始めてしまった。

 

「なんとなくさ、分かるんだよ。アイツ、俺の子供だってこともきっと学校でイジられてるんだろ。背が高いことだって、俺の血を引いてるもんだからそれも比較されている」

「……」

「アイツ、たぶんチームメイトのことをナメて見てるんだと思う。こないだ動画サイトで、代表の練習の光景の切り抜きを見た。アイツ、パスの要求がずいぶん高圧的だったな。代表でちょっと出会ったばかりの奴にすらひるまずにあんな態度を取れるんだから、きっと、普段の練習なんかじゃ、もっとキツい態度をとってるのかな、って思う」

 

海はここ最近の新の交友関係を知らない。家にどんな友人を連れてきているかも、どんな友人の家に遊びに行っているかも知らないし、そもそも友人が居るのかどうかも知らない。

最近はめっきり誰も家に誘わなくなってきたし、保護者面談でも担任から最近の新に関して『別に問題を起こしたりトラブルに巻き込まれたとかではないんですけど、最近ちょっと他の生徒との距離感があるようで……』と言われていた華耶は、海にはきっと"見えてない"なりに新がよく見えているんだろうと思った。

 

「でも、きっとこの辺の公立の中学っていうくくりなんかじゃ、アイツのレベルに誰もついていけないんだろうね。代表クラスですらパスの出し方に不満を抱くくらいだよ。世界レベルでしか自分と張り合えるやつが居ないって思ってるんだろ、たぶん。その気持ちは正直言って、分からないでもない。俺が中学の頃、俺の周りに居たやつは、俺そのものじゃなくて、俺の身分や、俺の外見、俺の生い立ち……そういう、俺という存在が稀なやつと知り合いだ、っていうステータス欲しさに近づいてくる奴ばっかりだった。俺も、それが嫌だった。アイツは、きっと日本のどこに行っても、佳井という苗字がそこにある限り、俺と比較され続ける。だからアイツは完璧であり続けようとするし、アイツがそうして頑張れば頑張るほど、周囲から浮いていく」

 

華耶が画面の向こうでパスを回しているところを強引にカットしながら海は淡々と話し続けた。誰でも知っているような天才ドリブラーを使いながら、海はその敵陣を引き裂くようにして突破しはじめる。

 

「高校レベルでアイツが挫折するかどうかは分からないよ。でも、アイツがもしそのまま大した挫折なんかもせずにエースのままでいられたなら、アイツは今のまま、自分と同じレベルで張り合える奴が出てこないもんだから、周りのダラダラ生きてるような奴がだんだん癪に障ってくる。おまけに周囲からは『佳井海の息子はさすがやっぱ違うな』なんて言われたりもする。……アイツはきっと、それが嫌なんだ。アイツ、俺とは違う部分も多いけど、やっぱり、俺の遺伝子を継いでしまってる子なんだよ」

「……」

 

画面の向こうではゴールを決めた選手が大げさにポーズをとり、やたらハイテンションなままの実況がさらに熱を帯びた実況を続ける。

華耶は自分が失点したことに言及しようとも、海の言葉にも口を挟もうともせず、黙って海の言葉を聴き続けていた。

 

「自分で環境を変えて、なんとかしよう、って思える立場にアイツはいる。晴留のときだってそうだった。何か子供たちがやりたいことがあって、そこに何か意図があるなら、その思いは邪魔しないようにしようって、二人で言い続けてきたよね。アイツにも今、環境を変えるチャンスを求めているなら、俺たちは与えてやる必要があると思うんだよ。それでもしアイツが挫折して帰ってきたなら、立ち直らせるか、新しい道を導いてやるとかすればいいし、仮に挫折しないままアイツが階段を駆け上がり続けるなら、それはそれでいいと思うよ俺は」

 

海は華耶がしてみせたようにわざとパス回しをしはじめ、華耶を少しだけ茶化してみるが、華耶はその挑発にも乗らず、再び黙って海の言葉を聞き続けていた。

 

「……でもね、正直、羨ましいとは思うよ」

「羨ましい?」

初めて華耶は海の言葉に声を出した。海は華耶の問いかけにこくりと頷いて、少し考え事をするようにして天井を見上げ――また画面を見直した。

 

「俺も生まれてこの方、金に困ったことはなかった。でも、俺のときよりももっと裕福な環境で、願ったことは大体かなえてやれる状況でアイツたちは育ってる。海外でチャンスをつかんでみたいと言い出したら、海外に挑ませてやれるだけの金も、環境も整っている。晴留がそうだったように、啓皇に進学したいと言い出したら、すぐにGOサインを出せる余裕だってある。俺にももし、そんな風に、国を出るチャンスが高校の頃あったなら、野球なんか辞めて、海外で自分の人生を……自分なりの生き方を、俺自身を探そうとしたと思う」

「……」

そうだよね、とは華耶は言わなかった。そんな海の思いを肯定したい気持ちはあったけれど、それを肯定してしまったら、二人の出会いはなかったからだ。華耶は胸の苦しさをこらえながら、海の言葉を黙って再び聞き続けた。

 

「アイツには今、俺や運命から逃げることができる権利と環境があるんだよ。俺の時とは違って。俺も、今すぐにでも何もかも投げ出して――でも、仮に今、俺が全てを投げ出したとしてもさ。どこに行けば、俺の望む世界や、俺の生きやすい世界があるんだろうね。アメリカは広いかもしれないけど、きっとアメリカって聞くたびにこれからは親父のことがよぎるだろうし、フィンランドにだって今更帰って……どうにかなるわけじゃない。大体、今更フィンランドに逃げ帰ったって、俺に出来る仕事があるかどうかと言われたら、分からない。俺にはビジネスマンとしての能力なんかはないから、これからまた大学で勉強しなおして……なんてやってたら、そのうち50代になってしまう。たった10何年くらいしか働けないんだよ、仮に俺が全てを投げ出して国に戻ったとしても」

「……」

「だからさ、俺に出来ることなんて何なのかは分からないっていうか――きっと、ないよ。そうだよ。俺は野球を辞めたい、辞めたい、とばかり言ってるけど……辞めた後にできるような仕事なんて、今すぐにはないんだ。一生遊んで暮らせるだけの額がここにはあるけど、俺から野球がなくなったら、俺はきっと……抜け殻になる。きっと、今のままじゃ、手に余るほどの財力を手にしながら、次に自分がやりたいことを見出せないうちに歳ばかり食ってしまうと思うし、何かを見出したとしても0から勉強しなおすには、俺は少し歳を取りすぎてしまったよ」

 

画面をポーズさせ、しばらく黙った海はうつむいたり、天井を仰いだりしながら――じっと華耶を見つめた。

 

「……何言ってたんだろうね、俺。ごめん」

「ううん。いいよ」

 

苦笑しながら、結局何を言おうとしたのか思い出せずにいる海を華耶は黙って見つめていた。

何でもいい。海が自分に思いの丈を話して、少しでもそれで気が紛れたり、楽になるなら、なんだってよかった。新のことはどうしても引っかかるが、それでも、海がいいと言うのなら、その意見を止めようとももう思わなかった。

 

「……とにかくだよ。アイツは、単に自分の実力をイキり散らしたがってるだけじゃなくて……自分で自分を変えようとしているほうに俺は賭けたい。仮にサッカーがダメだったなら、勉強しなおして大学にでも通えばいい。アイツも勉強は出来るほうだ。でもアイツはたぶん、環境を変えてなんとかしようとしていると同時に、自分なら海外でやれるという確信があるから、ああやって強がってるんだと思う」

「信じていいんだね?」

「アイツが俺の血を引いてる以上……アイツはきっと本当に思ってることは言ってはくれないだろうからね」

「でも、海くんは――」

 

思ってることをあたしにだけは全部話してくれるじゃない――

 

そう言いかけて華耶はその言葉をつぐんだ。そう思ってるのは自分だけであって、本当は海だって気を遣って言わずにおいていることだってたくさんある。

野球のことだって、本当は今すぐ投げ出して辞めてしまいたいものを――引退表明だってせずに今日もまた、一日を終えようとしている。

 

気が抜けてしまった海は、シーズン前なんかと比べると、もともと細くて整った体つきだった身体が、よりしぼんだように見えて、コントローラーを握っている手首なんかは、試合の映像を見ているときと比べると、ずいぶんやせ細ったように華耶には感じられた。

 

シリーズ戦が終わってからしばらく、地下室でのトレーニングも今までほど打ち込まずにいた海。

来週に控えた優勝旅行もジェネルが先日、家に直接上がって、一日中説得する形でやっとのところで心が折れ、晴留を含めた一家総出で球団の優勝旅行に帯同することが決まった。

 

自暴自棄になりかけている海がギリギリのところで生きている――そんな姿を華耶は改めて愛おしく思い、突然コントローラをテーブルに置いてその右手を握った。

 

「頼りない奥さんなんかでごめんね――なんて自分で言っちゃうとなんかさ、海くんから優しい言葉が返ってくるのを待ってるような感じがして嫌だよね。でも――別にさ、優しい言葉じゃなくていいから――言わせてほしいんだ。頼りない奥さんだけど、これからも……よろしくね」

「……お前が頼りなかったら、世の中皆頼りないなんてもんじゃないよ。まだ俺に構ってくれてるだけ、ありがたいよ」

「そりゃ、構うよ。奥さんだもん。海くんの背負ってる運命は……あたしの運命でもあるから」

「もうちょっとだけその運命を吸ってくれると、ありがたいね」

「それは…………うん……」

 

本当に思っているからこそ出た言葉なのだろう。海は苦笑しながら、華耶に一撃浴びせた後――

 

「散々吸ってもらって、まだ吸われ足りない俺も、大概ひどいもんだけどね。正直言って」

と自虐的に笑ってみせた。

 

そんなことない――そう言いたかった華耶は、言葉が喉につっかえて、その言葉をうまくは言えなかった。

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