「くだらねぇ」
海はもうじきキャンプが始まろうとしている最中――大体自分が呼ばれた理由は想像がついたが、目の前でうつむいたままの田中を一蹴し、アイスコーヒーを口にした。苛立ったようにドン、とテーブルのコースターにやや強めにグラスを置くと田中は少しだけ驚いた様子を見せるも、田中も負けじとうっすらと眉を吊り上げた。
「……くだらないなんて言い方、ひどいじゃないですか。俺は――」
「お前の相談事がくだらないかどうかなんかより、そんな相談事をわざわざ俺にしてくることがくだらないって言ってるんだよ。お前、俺なら何でも解決してくれると思ったのか?意見や肯定が欲しいなら、AIか専門家にでも意見を求めればいい」
「……そういうのじゃないんですよ。生きた言葉が欲しいんです、俺は。テンプレートな返事だとか、ビジネスっぽい言葉じゃなくて。……それに、他に女がらみのこと相談できるような人が……いないんですよ」
むっとした表情を浮かべたものの徐々に語尾が弱まっていく田中に、海は眉間に深いしわを作りながら反論した。
「相談できるような人がいないんじゃなくて、相談できるような人を作ってこなかったんだろ、お前は」
「それは佳井さんだって同じじゃないですか」
よほど田中にとって不快な言葉だったのか、珍しく大きめな声で田中は反論した。田中にしては随分大声だったと思う。海はそんな声が出せるなら普段からもっと出せばいいものを――と思いながら、それでも田中の言葉には鼻で笑いながら――
「で俺がお前に対して女がらみの相談をしたことがあったか?」
と返すと、田中はたじろいだ。
「で……でも、何かあったらすぐに清兵衛さんやジェネルに相談してるじゃないですか。俺のやってることと佳井さんのやってることと、何が違うんですか」
「俺は一から十まで清兵衛を頼ったわけじゃない。俺なら何でも答えて解決してくれるっていう前提でお前が俺のところにいるのが嫌なんだよ、俺は」
「……じゃあどこに相談したらいいんですか、こんなの!!」
「だから言っただろうが。それを調べるためにその薄い電子の板切れがあるんだろうが。大体、犬塚はどうしたんだよ。犬塚は。犬塚には女の話は出来ないのか。お前と犬塚の仲ってのは、その程度のレベルなのか?」
携帯電話を指差した海は、苛立ちながらコーヒーを飲み干した。
苛立っている時のコーヒーというものは不思議なもので、普段は感じない苦味に対しての嫌な感じだとか、クリームを入れたことによって引き立つ酸味に対して妙な不快感が生まれたりだとか、落ち着いているときとまったく違う味の印象を感じさせる。海はコーヒーに対して失礼な飲み方をしている、とは思いながらも――うじうじしたままの田中の態度に、これが公共の場でなければ一発殴ってやりたい気分だった。
「……昔から知ってる仲だからかえって相談しづらいんですよ、シノにこんなこと」
「じゃあ、同じ空気を20年吸った俺は逆に犬塚ほどの仲ではないっていうことか」
「……あ……そういう意味で言ってるわけじゃ……」
「まあ、どうでもいいよ。会って直接話したいけど犬塚をわざわざ大阪に連れてくるほどの用事じゃないからその辺に転がってる俺に声かけたんだろ。そりゃあ、わざわざ女の話のために犬塚呼びつけるのは、昔からの仲だと、かえって失礼だもんな」
海は嫌味を言いながら、うつむいたままの田中を睨み続けていた。
かねてより田中が交際を続けている、今なお絶大な人気を誇っている女性アーティストNaOtomo――。そのNaOtomoが、この夏いったん日本での活動に区切りをつけ、ライブツアーをしながら活動拠点をアメリカに移すらしい。
そうなると、年単位で会えなくなるが、NaOtomoとしては田中との交際には区切りをつけるつもりはないらしく、自分が日本に戻ってくるまで野球を続けていてほしい、と言われたものの――
「……そんな遠距離恋愛、俺には無理です。ただでさえ今だって遠距離恋愛で、月に何度かしか会えないのに……アメリカですよ、アメリカ。今から俺、メジャー目指せって言うんですか。俺の心の支えは……ナオしかないんです。今は」
「向こうは戻ってくるって言ってるんだろ。何を軟弱なことを」
「いつになるか分からないものを待ち続けられるほど俺は強くはありません」
「じゃあ別れろ」
「……それが嫌だから相談してるんじゃないんですか」
「知るかよ。たかが遠距離恋愛ぐらいでガタガタ騒ぐんじゃない」
「たかが……って、人の心の拠り所を、なんだと思ってるんですか!?」
「お前はNaOtomoの彼氏かもしれないけれど、俺はNaOtomoの知り合いでもなんでもないからね。なんか、そういうかんじのアニメの主題歌、昔あったよな。私と君は知り合いじゃないだけどあなたの友達と僕は友達、みたいなやつ」
「知らないです」
「ああ、そう。……まあ、一応、お前のその彼女のバックとは知り合いだけど、俺はお前の彼女のプライベートな一面なんかはまったく知らないから、俺にどうこう話されても困る」
内心、この店のマスターにはあまり田中は好かれてないだろうな――と海は思いながら、追加でアイスコーヒーを注文し、田中の声を消すようにわざとずるずると音を立てながらストローでコーヒーをすすった。
「……今年で俺らも40になるんです。来年、再来年と待っていたら――それでナオの気持ちが変わってたら、俺はどうにもなりません。他の女を作るほど、俺は清兵衛さんみたいに尻軽じゃありませんし」
「……今ここに居ないやつのことを悪く言うのはよせよ。アイツの女性関係だって、アイツが自分で言ってるだけで、どこからどこまでが本当かは分からないんだから」
「……本当に、俺はナオを信じていいのかどうか、俺にはわからないんです。ナオが向こうで心変わりして、男を作らないとも限りませんし」
「じゃあ、デキ婚でもして、ツアーごと台無しにしてやればいい。一生俺のそばに居ろって、プロポーズでもしたらいい」
「それじゃ俺が悪者じゃないですか!!」
「悪者にもなれない奴が女なんか抱けると思うなよ。大体人間、どっかで悪者になってるんだ。大体の連中はそれにすら気づいてないか、あるいは、逆ギレして、『ああそうです私は悪者ですが何か?お前だって悪者でしょ?』って当り散らして正当化しようとする奴もいるけど――」
海はイライラしながらコーヒーをストローでかき混ぜ、氷をカラカラと鳴らして自分が今にも田中に手を出しそうになることを抑えていた。なぜ頓服の精神薬を持ってこなかったのか、海は後悔した。脈が高鳴り、落ち着かなかった。
「大体、お前は既に悪者なんだよ。お前は既に、国民的スターの彼氏。結婚を前提の付き合いで彼氏っていうことは、つまり、それ以上のこともしてるっていうことだよな、お前」
「それは――」
「ロック歌手だロック歌手だって言われてるけど、実質グラビアアイドル兼歌手みたいなやつに対して、世の中のほとんどの人がアイツに手だって握れずにいるのに、お前はアイツを独り占めできてるわけだ。普通の人が知りえないアイツの深部も。アイツの夜の顔も。アイツのファンからしてみたらお前は十分すぎるくらい、悪者だ。フったらフったでお前はアイツを捨てたってことで一生言われ続ける。まさか、そんなことも考えずに付き合ったわけじゃないだろ」
「……」
田中は唇を噛みながら、反論できずに黙っていた。海はそれを気にも留めず、喋り続けた。反論がないならないで、とっとと言いたいことだけ言って、帰りたい気分だった。
たかが女ぐらいで――そういう気持ちは海の中にはあったのだが、元を返せば自分だって、華耶との約束を果たす、果たさないの部分でここまでずるずると野球を続け――そして、その約束を果たせなかったことで大きく調子を崩し続けている――。そこを突かれる前に、早くこの話題を終わらせたかった。
「とにかく。信じられないくらいの仲なら、別れてしまえ。行かないで欲しいなら、結婚でもしてしまえ。俺は俺のことで今手一杯なんだ。別れる別れないの相談は、AIにでも、メンタルヘルスの窓口にでも、業者にでも、とにかく、俺以外のとこに頼れ。これからもうすぐキャンプだって始まるっていうのに、俺にまでお前のしょーもないプライベートを押し付けられるのは、迷惑だ」
「佳井さん――」
テーブルに札を置いて立ち上がろうとした海を、田中は呼び止めた。
「……俺が、もし、もし……ですよ。もし、ナオがアメリカに行くって言うなら――それなら、俺も野球辞めてアメリカに行く――とか言い出したら、どうします」
「お前の人生だから、勝手にしたらいい」
首だけ振り返って、海は田中を見下ろしながら答えた。
「……止めはしないんですか」
「止めないけど、週刊誌にお前のことをボロクソ書いてもらって、二度と日本の土地を踏めないようにしてやるし――練習用のバットにお前の名前を書いて、一本残らずへし折るまでボールを叩きつけてやるつもりでいるよ。その程度の覚悟で、俺をこの戦争に巻き込んだんだな、ってな。きっと最期まで、お前のことを恨んで死ぬと思うし、今年もし、俺の調子が上がらなかったとしたら、お前にくだらない相談をされてから調子が狂った、って週刊誌やテレビで言いたい放題言わせてもらうし、サンドバッグにはお前の写真を貼って、お前だと思って殴り続けるよ」
「……どこまで本気で言ってます?それ」
「悪いけど、全部本気で言ってるよ」
「……最低ですね」
「二人で戦争しましょうよなんて言っておいて、先に降りることばかり考えてるお前のほうが、よっぽど最低だね。許されるなら……今すぐにでもその腹を殴りたいくらいだ。……俺だって、もう辞めたいんだよ――辞めたかったんだよ、去年のうちに」
「……」
海はそう言って、店から出て行った。
もうすぐまた、慌しい春がやってくる。色気のない、くすんだ灰色の空がどんよりとたたずんでいて、雪でも降らしそうな気配をしているが、大阪に雪が降ることは滅多にない。
雪も雨も降るわけでもないのに、雲が一面空を覆いつくして、ハッキリしない空を演出しているのが海は嫌いだった。
少し遠回りしてドライブにでも行きたい気分だったし、逆に、こんなイラついた気分では何もしたくないから一秒でも早く家に着くルートを考えて車を走らせたい気分でもあった。
家に帰り、冷蔵庫からシマを取り出して少しだけ口にする海。コーヒーばかり口にしたものだから、少しだけ甘いものを口に含みたい気分だった。
リビングにはついこの間の、優勝記念としてチームで行ったオーストラリア旅行の写真が飾られていた。
晴留は高校に入ってからますます背や身体が成長し、今やそこらのグラビアアイドルやモデル――それこそ、Na0tomoなんかとも遜色がないように感じられた。
たぶん、真結や広乃も近い将来、晴留のように育っていくだろうし、琉美や柊理だって同じように育っていくだろう。新の背がぐんぐん伸びていったように、今はまだそれほど大きいほうではない直人だって、急に背が伸びてきてもおかしくない。きっと、自分ほどではないだろうけれど、そのうちぐんと育ってみせるだろう。
晴留はまだ彼氏はいない、と言っていた。田中がさっきあんなことを言ったものだから、晴留もそのうち、彼氏の一人や二人ができて、そのうち家庭を築くことになる――そんなことを海はふと考えた。
あと何年かで、晴留も新も高校を卒業し、本格的に自立していく歳になっていく。
華耶が『子供はたくさん欲しい』などと言わなかったら、きっと、晴留と新の次に子供はあまり作らなかっただろう。
一番下の柊理はまだ小学生にもなっていないから、いくら自分たちには遊んで暮らせる金が手元にはあるとはいえ――それでも、きっと野球をやめた自分は今ほど稼ぐことはできないだろうから、野球をやっている今のうちに、出来るだけたくさん今のうちに稼いでおいて、子供たちには楽をさせたいと思う。
今年もまた野球人生が続いてしまうのだから、何とか、そうして戦う理由を紐付けしていたかった。
そんな自分が、やがて、子供たち全員が自分のもとから巣立ったときに、果たして心の支えが華耶だけでは足りるのだろうか――。
田中は自分の心の支えはナオしか居ない、と言っていた。清兵衛は自分の口からは心の支えがどうだとは言わなかったが、普段の言動から、それらが酒であり、行きずりの女であり、そして豪快に飲み食いをすることが心の支えだった、と海は仮定した。
人間というものは、一度幸せを自覚すると、その幸せにすがっていないと生きていけない生き物だ。幸せから転落したくないから、より一層、強くすがるのだ。
しかし、そこから落とそうと社会というものは風が強い。優しく、穏やかな日々が続いてくれるほど、この世界は万人に対して優しくない。それに負けじと人はよりいっそう強くすがるから、今度は、今までの幸せでは足りなくなるのだ。より強い幸せを求めて、幸せの柱がへし折れるほど人はその両腕を強く巻きつけてすがり続ける。
それでも、世の中には常に痛みや不幸が伴うものだから、すがりはじめた幸せには終わりが許されない。
だからこそ、今まで彼女の居なかったという田中にとっては、今までなかったものが存在してしまうようになったから、彼女と離れたくないのだ。
自分だって、今更華耶が居ない生活というものは考えられないし、きっと、華耶がもし居なくなりでもしたら、自分はあっという間に破滅するだろう。自分のことだけで今破滅しかかってる自分から、華耶というすがりつける幸せがいなくなったら――考えるだけで海は身震いした。
生きることに辛さしか考えていなかった高校生、中学生の頃と違って、あの頃には存在しなかった幸せをつかんだからこそ、今はその幸せを失いたくないという気持ちが合わさり、今まで以上に、生きることへの別のベクトルでの辛さが加わった海。
失いたくないのは何も、家庭や幸せだけでない。今ならどんな球も打ち返せると思っていた頃の自分。そして、去年ふと感じた、逆方向の飛距離が今よりもう少しだけあったころの自分――。
30代半ばになってようやく自分にとって理想のプレーができるようになり、そんな自分をこれから加齢なんかで失いたくなかったからこそ、海は綺麗なうちに、自分と野球との関わりに区切りをつけたかった。
今までどおりバットを振ればいいだけだと頭が理解していても、エンジンの止まってしまった自分の心をもう一度動かすことは出来るのだろうか――海はそう考えると、バットを持つことにすら恐怖心を覚えるようになった。
それでも、またシリーズ戦に足を運んで、再び頂点をつかむための戦いに挑むにはきっと、自分があの場に立ち続けていないといけない――。
栄光を勝ち取る瞬間に自分が居なければ、今までやっていた意味がないのだ。
自分がそこに立っていないのに、形だけの栄光なんて手に入れても、どうしようもないのだ。自らの手で栄光をつかむために、自分はここまで戦い続けてきたのだから――。
もう野球なんてしたくない、という気持ちと相反して、死んだままではいられない、という気持ちとがぶつかり合う海。そんな日々をオフの間繰り返し、繰り返して――ジェットコースターのように気持ちが乱高下し、落ち着かない間にも日々は過ぎていく。数週間後にはまたキャンプが始まってしまう。
自分が無様でさえなければ、きっと勝てる。勝てる――はずだ。
去年という最大のチャンスは逃したかもしれないが、よそのチームがよほど大きな補強でもしない限り、あと2~3年のうちに自分が落ちぶれてさえいなければ、今のチーターズならまだチャンスがあるはずだ――。
世の中そんなに甘くないし、そんな言葉をメディアが毎年言い続けてきてとうとう優勝し続けられないまま去年までの20年という月日が流れていたのだ。
海だってそれは分かってはいたが、今更チームから出て行くことなんかできない海は、そう無理矢理にでも思い込まなければ、自分が自分でなくなるような気がしてならなかった。だからこそ、オフの間、野球のことは考えたくなかった。
〈――ひとつの時代が終わろうとしています。サッカーイタリア代表を長年勤め、イタリアサッカーの強豪のひとつ、アークイラに計23年間所属し、ウイングやトップ下を中心にプレーし5度のアシスト王、3度の得点王を記録したアレッシオ・ピーノ・ミッリョーネ選手が先ほど、今シーズンをもって引退することが発表されました。日本好きでも知られていたアレッシオ選手は――〉
テレビの向こう側では、自分とほぼ同世代の世界的に有名なサッカー選手の報道がなされている。自分もあと何年か後には、こうして報道される日がくるのだろうか――。
海はワイドショーを眺め続ける気にもなれず、テレビを消して部屋へと戻った。戻ったところで何もないのだけれど、これ以上、不要な感傷に浸っていたくなかった。