「オープン戦から外れろって、どういうことですか」
「どういうことも何も、それ以上もそれ以下もないってことだよ。まぁ、また子供の面倒でも見てたらいいんじゃないのか、前みたいに」
生駒は頭をかきながら海を見つめた。
「ふざけないでください。あの時は、子供の面倒を見る口実にオープン戦を休んだわけじゃありません。そんなにオープン戦で俺が怪我されるのが嫌なんですか。オープン戦の間、毎年毎年こうして俺一人だけ大阪になんて帰れません。せめて、帯同くらいはさせてくださいよ。去年あんだけ悔しい思いをしたんです。今年はあぁはいきません」
なんとしても今年こそはともう一度意気込む海に対し、生駒は面倒くさそうな態度で頭をかきながら、海を見つめた。
脱いだ帽子から見えた前髪は、久々に見ると随分と後退したように見え、20年の月日を感じさせた。入団した頃はせいぜい中肉中背だった姿も、最近は首が随分短く見えるようになった。
「色々とね、まずいんだよ。お前がアレ以来、スランプ気味だってのがバレると。お前の歳も歳だから、こんな不調を理由にお前っていう打者がもう終わったもんだってマスコミに好き勝手書かれたくないんだよ。不調の理由がどうだこうだ、ってお前一人が探られるだけならいい。俺たちにもそうやって飛び火してくるの、鬱陶しいんだよ」
「あんた、何言って――」
「お前一人の不調を理由に、オープン戦の時期からメディア対応に追われるほどコーチってのは暇じゃねーんだよ。いいだろ?別に、お前は空白期間があっても、そのうち実戦でカンを取り戻すタイプだろ?若手に譲ってやれよ、オープン戦くらい出なくたって、今のお前じゃ変わりねーだろ」
生駒の投げやりな態度に海は思わず食って掛かった。肥えた体のせいなのか、それなりに自分がプロで長いことやってきたからなのか――詰め寄った生駒の姿は、ずいぶん小さく、そしていやに卑屈に見えた。
「若手から中堅の頃、俺がしんどくて調子もなかなか調子も上がらない時期だって『お前がいなきゃ集客にかかわる』とか言って無理矢理オープン戦に出させておいて、それでいざシーズン始まったら俺を干しておいて。で、俺がこうして歳を取ったら今度は『不調がバレたくないから出るな』ですか。あんた……選手を何だと思ってんですか。アレですか、まさか去年俺をオープン戦から外したのも、本当は俺のことなんかより、俺につきまとうメディア対応が面倒だから外したんですか」
不快感を露わにした海に対して、生駒は意地汚いような笑みを浮かべ、グラウンドに唾を吐いた。それは、とてもこれからこのコーチのもとから若手が育ってくるとは海には思えない姿だった。
「俺もな、いつものようにまた、お前は開幕に向けて調子上げてくるもんだと思ってたのに。やっとお前みたいに偏屈で扱いづらいやつが自分の力で独り立ちして、ほっといても自分で全部解決してくれるまでぐんぐん羽ばたいたかと思ってたのによ、メンタルなんて都合のいい部分を病みやがってよ」
「――!!」
「気持ちの問題なんだろ?なんだかんだ言ってお前のは。トラウマがどうだの、思い込みがどうだの。結局、全部お前の問題じゃないか。目に見えない病気なもんだから、何かあると病気が盾になって守ってくれて楽だよな。自分自身の情けなさにやってられなくなって心が折れてんのも、トラウマがきっかけで眩暈起こしたりすんのも、全部病気が悪いんですって言えば世の中が納得してくれるんだもんな、お前のビョーキってのはよ。で、そのお前のビョーキを、お前んとこのひでぇ親父のせいでちょっとだけ世間に出しちまったもんだから、お前をここまで追い込んだのは父親以外にもあるんじゃねーかってマスコミが勝手に邪推を始める。お前はそれでよかったかもしれないけどなぁ、お前がシリーズであんな姿見せたもんだから俺たちだっていい迷惑を――」
ハッとした表情で生駒はその言葉を止め、口を押さえた。そこから先の言葉は、とても出すことはできなかった。海が途中から一切反論してこなかったのをいいことに、自分の口は決して滑ってはいけない滑り方をしたことに気づいたのは、次の海の言葉が耳に入ってきたあとだった。
「……あんた、そんな目でこれまでずっと俺を見てたのか。……そうかよ。あんたも、やっぱりそんなもんなんだな」
「……」
黙って言葉を聞き終えたあと、どこか笑顔すら混じえながら呟いた海を生駒は直視できなかった。海の言葉に対して何も言い返すことはできなかったし、反論することだってできなかった。
ゲキを飛ばすつもりだった言葉はいつの間にか自分の思いから乖離し、それは醜悪なねじくれ方をし、吐いてはいけないところまで踏み込んだ暴言になってしまった――。
『何すっとぼけてるんだよ。二人目、夏に出産予定なんだって?お前、随分奥さんに負担かけてるんじゃないのか?まだ子育てだって慣れたかどうかだってのに、遠慮のない奴だなあって思ってるんだよ、俺は。そんなに鬱憤たまってるのか?』
昔からそうだ。時折自分は余計なことを言ってしまう。思ってもないようなことを無意識に言ってしまう。心のうちに留めておくべきことなんかも、話しているうちについ自分の自制心を無視して出てきてしまう。
だから自分は、前の妻と、その子供二人にも逃げられた――。
分かっているのに、年々ひどくなっていくその癖に対して生駒は頭をかきながら――それでも、謝ってどうにかなるような問題ではないと分かっている以上、いやに優しい笑顔のままでいる海に対して、立ち尽くすことしかできなかった。
「……まぁ、別にいいです。外れろ、って言うなら、そうします。無理に野球しても調子が上がるような見込みが今の俺にはないから、また開幕まで休んで気持ちを整えてこいってことなんでしょう。じゃあ、お言葉に甘えて、そうします。子供の面倒でも見てろって言うなら、しばらく家でいい父親ごっこでもさせてもらいますよ」
若い頃とは違い、タメ口でコーチ陣に話すようなことも徐々に減っていった海。その中でもたった今放った『別にいいです』という言葉は、あまりに冷たく、他人行儀のような言葉に聞こえて、生駒はひたすら申し訳なさに打ちひしがれた。
せめて、殴ってでもくれれば――そう思ったが、声に出すことはかなわなかった。
遠ざかっていく海の背中に、縮まりようのない距離感を生駒は感じずにはいられなかった。
実際、確かにこのキャンプ中、海の調子は思わしくなかった――。
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「佳井さん、今の打ちづらかったですか?」
「……いや、いいんだ。気にしないで」
3球続けて、薫が投げた内角への小気味いい直球を海は見逃した。決してストライクゾーンに入っていない球でもなければ、見送るべきかどうかの判断をするような球でもない。
打席に入ったばかりの海に対して、ウォーミングアップのつもりで投げたボール。そのすべてに対して、海はバットを振らなかった――。
薫は、何か自分が気に触るようなことでもしたかどうか、不安になった。首をかしげて、振ったかと思えばハーフスイングにとどめるその海の姿は、ボールを見極めているというよりは、投げている球に不満があるようにしか見えなかったからだ。
「何か要望があるなら、なんなりと言ってください。剛速球を投げろ、以外のことなら大体できますから」
「……ううん。いいんだ。何も気にしなくて――」
そう言ってキレの悪い返事をした海は、続けて投げられたボールに対しても、ハーフスイングになるような中途半端なスイングを見せ――うまくバットを振り切れずに体勢を少しだけ崩した。
正直なところ、去年の秋――BBLシリーズ7戦目のことはあまり覚えていない。打席でどんな球が来たか、それを自分がどうしたかも、よく覚えていない。
ただ、ハッキリと覚えているのは、内野から飛んできた
『お前やっぱり負け犬やないか!!!コラァ!!!』
『肝心な試合で役に立たへん選手は帰れ!!』
『辞めちまえアホ!!!!死にさらせ!!!』
『ここからまた50年待たせるつもりか!!ボケェ!!帰れ!!』
――そんな、凡退のたびに強まる罵声の嵐と、試合が終わったと同時に投げ込まれたゴミの数々――。
自分が打たなければ――そう思えば思うほど、振り抜こうとするバットは突然、重く感じられた。
医者からも散々、思い込みすぎるのはよくないだとか、自己否定を少しずつ減らすところからはじめようなどとは言われ続けてきたが、ダメな自分を愛せるような世界に自分は住んでいない。世界というものは――とりわけ、自分の今住んでいる世界というものは、失敗というものにはきわめて不寛容だ。
コンビニなんかのキャッシュレス決済の支払いに少しでも躓く者に遭遇しようものなら、それを芸能人がテレビなんかでしたり顔をしながら大声で話題にして叩いてみせたりするように、そもそも、世の中は失敗してはならないという空気で満ちている。
一般人が生きる世界ですら失敗が許されないのだから、こうしたプロの世界で戦う人間なんかはさらに失敗ができない。サッカーなんかも、代表戦なんかでキーパーと1対1の場面でシュートを外した場面なんかをもう何年も、何十年も放送し続けているし、少し動画サイトなんかを漁れば、それをさらにバッシングするような動画と、それをさらに加速させるような人間の尊厳にまで踏みにじるような侮辱的なコメントばかりで、それが当たり前に『公に生きる人間だから』という理由で容認されている――。
「生きるって……しんどいよな」
ぽつり、と海は呟き、バットを構えて天を仰いだ。
『一応、言っておく。逃げるなら今のうちだ。お前さんみたいなタイプは自分で追い込まれてずるずると引きずっちまう。重い荷物降ろすなら、今だぞ』
『俺ァお前さんに超・一人前になれだの、4割40本打てだのとは言ったが、だからって言ッて、野球に命をささげて、いずれ野球に殺されろ、とは一言も言った覚えはねえ。お前さんが余計な荷物を降ろしてもなお野球を続けられる見込みがあるなら、とっととその荷物は降ろせ。それでもお前さんが意地を張りたければ張ればいいが――その意地がいつかお前さんを本当に殺すことになるかもしれねェ。それだけは覚えておけ』
降ろせない荷物だって、あるんだよ――と海は、かつて清兵衛が自分に投げかけた言葉が脳裏によぎり唇を噛んだが、海の心を突き動かす頓服薬にはならなかった。
「……らしくない姿だったって聞きましたよ」
夕食の時間、向かいの席に座った田中は、開口一番そう言って、とうとう今日ほとんど快音が飛ばなかったその海のバットのことを話題にした。
「……誰かさんが下らない相談をしてきたおかげで、さっぱりダメだよ」
「……」
海の嫌味に田中は表情を沈ませながら、ごまかすようにして焼き魚を口に運んだ。
「結局、今の今まで向こうに変な動きがないっていうことは、アメリカに行かせるってことか」
「……えぇ、まあ。戻ってくるまで、野球を続けててほしい、って。一応、年に何回かは戻ってこれるみたいですけど」
「こっちでいくらかは収録もあるだろうしね」
「……実際、ナオも向こうでうまくやれるかどうか、不安みたいです。だからって、だめだったからって一年で戻ってくるのは、皆を失望させるからそれは嫌だ、って」
ふうん、とあまり興味なさそうにして海はステーキを切り分け食べ始めた。今日の肉は一段と重く感じられた。普段より少なめに盛り付けた料理が、いやに多く見えて仕方がなかった。
「で?お前は戻ってくるまで野球を続ける覚悟は」
「……正直言って、何とも言えません」
だろうな――と海は思ったが、からかわずにおいた。
「今の俺は、いつ球団からお払い箱くらってもおかしくないですし。最近、うちらは先発が潤ってますから。……イニング食うタイプのピッチャーが、イニング食えなくなったらもうだいぶ終わりです。でも……ここから追い出されたとして、よそで野球をやるかと言われたら、それは……いろんな人を裏切ることになりますから」
「何も背負わずに、自分のことだけ考えて野球ができるやつがね、俺は羨ましいよ」
海はテーブルの向こうで、いわゆる移籍組が一人で好きなように食事をしながら、チームメイトには一切開くことのない窓を球団広報に対して開けてなにやら動画の収録をしている光景や、それに当然のように絡んでいってカメラを奪い取ってインタビュアーをしはじめる丸毛を睨みつけた。
「俺たちみたいな仕事をしてる奴は個人事業主なんだから、どう生きてどうプレーしようが勝手だろ、って言う奴も、いるよな。ああ、そりゃそうだ。俺たちは別にチームの奴隷じゃあない。でも――」
海は皿に盛り付けられたステーキに対してガン!とフォークを突き立て、乱暴にそれを頬張った。たまたま席の近くを通った薫は驚いた様子で海を見つめながら――恐る恐る頭を下げ、海もまた薫に気づくなり頷き、隣の椅子を少しだけ下げてやった。
「野球というスポーツは、チームがなければ成立しない。団体競技なんだから、自分だけがよければいいっていうのは、自分が見たくないものから目を背けているだけの単なる理想論だ。でもね、世の中、そうもいかないんだよ。にもかかわらず、自分さえよけりゃあとは何やってもいい、みたいな考えで野球なんかやってる奴なんか見てるとさ、じゃあ、なんでお前、ボクシングとかゴルフとか、そういう完全に個人の競技にいかなかったんだよって俺は思うよ。人の目に付くスポーツで、華があって、それで金になるから野球やってるだけだろ、ああいう連中。ただ馬鹿力でボールを投げるだけなら、砲丸投げでも槍投げでも円盤投げでもやってりゃいいし、投げるどうこうよりも自分の馬鹿力だけ披露していたいなら、レスリングでもボクシングでも重量挙げでもやってりゃいいものを。……だからこそ、俺は……最近、サッカーをもし続けていられたなら、ってだけじゃなくてさ、個人競技の世界を選べた道があったなら、もっと、自分のことに集中できる肩の荷の軽い日々を送れたのかな、って最近考えるんだよ。……考えたところで、どうにもならないんだけどさ。俺に出来る個人競技なんて、そんなにないからね。スキーやスケートなんかは、下手ってわけじゃあないけど、周りほどは得意じゃなかったし」
そう言ってコップに手を伸ばした海は、薫と別方向の席にまるで最初から居たかのようにしてジェネルが座り、何食わぬ顔でいただきますとニコニコしながら食事をし始めていることに気がついた。
「隣いいですかくらい言えよ、お前」
「チーターズにおいては、海さんは私の所有物みたいなもんじゃないですか」
「俺は誰のものにはならない」
「じゃあ、海さんのモノにしてくださいよ、私を」
「バカ言え」
毎年のようにキャンプで世話になっているホテルの名物である豚の角煮をジェネルが皿に勝手に盛り付けてきたものだから、それを海は頬張り、ジェネルを小突いた。薫もまた遠慮がちに角煮を頬張り、ジェネルと相槌を打っていた。
この角煮を食べるのも、いったい何度目だろう。これからあと何度食べられるものだろう――。
「お前が俺を追い抜いてくれたら、俺一人がミスター・チーターズだとかなんだとか、重たい看板背負わずにすむんだけどな」
「大丈夫ですよ」
ニッと笑いながら、ジェネルは海を見つめた。
「引退するまで海さんはミスター・チーターズです。海さんはこのまま黙って素直に落ちぶれもしないでしょうし、そもそも、落ちぶれることを世間が許しませんよ。海さんは、最後まで海さんでい続けなければならないんです。私がどれほど次代のチーターズの看板を担ったとしても、それは海さんが球界を去った後のことの話です。世間なんて、そんなもんですよ」
「お前、人の未来を好き放題よくもそう言えるものだね」
「私がどう思ってるかは別として、世間がそうなっちゃってるんですよ。私が看板を代わってあげたくても、世間が海さんを求め続ける限り、私は本当の意味で看板を引き継げないと思います。ねっ?薫ちゃん」
突然話を振られた薫はジェネルと海とを交互に見て気まずそうに笑みを浮かべ、特に何も言わなかった。
「……やっぱ、辞めようかな。今年で。とっととこの重たい看板、俺はお前に押し付けてやりたいよ」
それ自体が本音だろうから、ジェネルは笑いながらも、海の気持ちを考えると――海がこのまま調子が上がらなかったとしたら、自分が海のぶんまで打たなければならない――そう思った。
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ジェネルの調子が上がれば上がるほど、反比例するような形で、海は思わしくない日々が続いた。公開練習の日はわざと外れて、室内練習場で別メニューとしてトスバッティングをひたすら続ける日もあった。
とにかく来た球を振る――振らなければボールは飛ばない――その意識を呼び戻すために、何千回とボールを無理にでも海は叩き続け、そのたびにバットを折り続けた。
それでも、バッターボックスで生きた球を打とうとすると、その調子はなかなか戻ってこなかった。
一番悪かったところからは脱したが、実戦形式だと、ランナーがいなければいないほど『いかにして塁に出るか』を考えすぎる海はそのボールをとことん詰まらせた。後ろにジェネルがいると考えると、自分ばかり点を取ることばかり考えてはいられない。塁に多く出てこその3番打者だ――後ろにつなぐことが出来なくて一体何が3番打者か――そんな海の考えが、海の腕の錘となってしまっていた。
打たなければ。
打たなければ。
打たなければ――。
ランナーが出ている時とは違うプレッシャーがそこにはあった。ランナーが出ている間は守備にだって更なる緊張感が走るから、多少海の判断が鈍ってもヒットになりがちだ。そうした経験が積み重なっているから、周りから見てみれば完璧なヒットでも、海からしてみれば不恰好なヒットだったという思考回路を生んでしまっていた。
海の妥協を許ない完璧主義な性格と、これまでの失敗を許されない環境の積み重なりが、この春、海をとことん苦しめた。
『今年も4割30本狙いますよね?』
軽々しく取材してくる記者たちの声に、面と向かって『簡単に言わないでください』と言えたなら、どれほどよかっただろう――。
今の海には、自分が今年3割打つビジョンさえ持てなかった。
休んだところでどうにかなるかと言われたら、どうにもならないような気だってした。ひょっとしたら、自分はそもそも今年からスタメンで使うという構想すらないのではないか、という気さえした。
考えれば考えるほど、考えが悪い方向に向かう。この何年もの間、ずっとだ。
海は空港から家に向かうまでの間、タクシーに揺られながら、本当に今年で現役を辞めてやろうか――などと思いながら目を閉じた。