海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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133・眩しき背番号10

しばらく戦列から外されていた海が、非公開練習の日に実戦形式の練習に戻ってきた。どうにもパっとしない練習風景の中で、海はひたすら白球を叩き続けている日々が長らく続いていたが、その音はやや鈍っていた。

 

「はぁ……」

ため息をつきながら、なかなか進まない箸と、なかなか量の減らないカレーとをじっと見つめる海。そんな海の気持ちをそ知らぬふりで後ろからジェネルは勢いよく肩を叩き、回り込んできた。

「らしくないですよ、海さん」

「ああ。俺もそう思ってる」

今はジェネルのそうした態度に文句をつけるほどの気力もない――海はとっさに言葉を出せなかったこと含めて、ジェネルにそう答えた。

 

「ちょっ……私、冗談で言ってるわけじゃないんですよ。どうしちゃったんですか。箸より重いもの持ったことないようなスイングしちゃって。1、2日と調子が悪いくらいなら、人間、誰にだってあります。でも……どうしちゃったんですか。やっぱり、気にしてるんですか、いろいろなこと」

 

その日のスイングは、やはり海らしからぬ曖昧で、頼りないスイングだった。思い切り振り切りたくても、振り切れないような――あるいは、やけくそで振っているような――。

海が気持ちの中でもがいているということは、投げ続けている薫の目にも、ジェネルの目にも――誰の目にも明らかだった。これまで長い間――どれだけチャンスに弱いだとか、肝心なときに頼りにならないだとか言われながらも、それでも自分のバッティングを貫きながらその技術を昇華させ続けてきた安打製造機の姿にはほど遠い姿がそこにはあった。

 

「……バットがね、重いんだよ。冗談言ってるわけじゃない。本当に、俺、箸より重いもの持ったことないのか?ってくらい、やけにバットが重いんだ。バットの問題じゃなくて、気持ちの問題だとは分かってる。トスバッティングだとか、ティーバッティングだとかなら、なんとかなるんだけどな。打席に立つと、どうもいけない。600、700とある1年の打席の中で、どうやって自分が200本なんかただの通過点だと思って軽々とヒット打ってたのか、分からなくなった。バットは重いし、グラウンドは広く感じる。一塁までの距離なんかも、遠く感じる。普段どおりやればいいっていう、その普段が、なんかね、あの日を境に分からなくなったような気がして」

「……だったら、思い出せないままでいいんじゃないんですか?」

「お前……バカ言ってんじゃないよ」

ジェネルの言葉に、海は思わず噴き出しそうになりながらその顔を見つめたが、ジェネルはいたっていつもどおりのまま海を見つめていた。

 

「思い出さなくていいんですよ。無理に。思い出せないなら、思い出せないなりに、時間をかけて思い出していけばいいんです。その間に、次の自分を見つけたらいいんです。海さん、こうじゃなきゃいけない、ああじゃなきゃいけない、って凝り固まりすぎですから」

「生兵法で勝てるほどプロの世界は甘くはないよ」

「だとしてもですよ。そうとでも気持ちを切り替えでもしないと、きっとしんどいままですよ、海さんは。大体、自分でも連続4割なんていつか途切れるって言ってたじゃないですか。だったらもう、4割なんて途切れさす前提で――」

心配そうに海を見つめながら語気を強めるジェネルの言葉を海は遮った。

 

「……ごめん。気持ちはありがたいけど、無理だよ。今からホームランだけ狙うようなバッティングなんて、俺にはできない。かといって、バットを短く持って足でかき回す戦法に切り替えるには、10年遅い。……俺が、俺自身が、どうにかしないといけない問題なんだよ。これは」

「……でも、それじゃまるで海さん、自分で自分を諦めたようなもんじゃないですか。自分ではきっとどうにもならない、って顔してます。清兵衛さんのときと同じで――」

「ジェネル」

二度も遮らせるな――というような、少しだけ悲しい表情を浮かべた海。ジェネルはそれ以上、何も言わなかった。

 

しばらく、二人の間に静寂が流れた。

食堂で、若手選手がコーチと何か言い争っていたり、奥では広報が動画サイト用に何かしらの収録なんかを行われているが、自分たちだけのテーブルだけが、別の世界にいるようなほど、静まり返っていた。

 

「……分かりました。でも……私、言い続けますから。海さんが、海さんを取り戻すまで……言い続けますから。らしくない、って」

「それが今年限りにならないといいな」

「……そんなこと言わないで下さい。憧れた人に、野球してる間だけはそんな顔してほしくないんです。野球してないときは、私の前ではどんな顔してたっていいですけど……ベンチの中とか、プレー中なんかも……前みたいにそんな顔されてたら、私……ちょっと辛いです」

「辛いだのなんだのなんてね、別に俺、お前のために野球やってるんじゃないんだからな」

海は呆れながら、ジェネルの顔を見つめて言い返した。心配そうに見つめるジェネルの顔が、いやに華耶に似ていて嫌だった。

 

「……あーあ。お前にそんな顔されるのも、辛いものだね。別にお前、俺の女でもないのに。そんな顔でずっと見られたら、自分が男だってことを嫌でも自覚してしまう。俺は男なんだよな、って感情だけじゃもう、どうにもならないのにさ」

「……ユニフォーム着てる間だけは、私に"女"で居させてくださいよ」

「15年遅いよ」

 

それでもジェネルは、海が"帰ってくる"ことを信じた。

球界のトップを走り続けてきた"悲劇の天才打者"があんなままで終わっていいわけがない。このまま沈むようにして、朽ちていっていいわけがない――。

それが、佳井海である限り――

それが、自分が憧れた男である限り――。

 

「ストライク!バッターアウト!」

とうとう調子が上がってこないまま、6月には40歳を迎える海は今年もまたシーズン開幕を一軍で迎えた。甲子園の土は今の海にとってはいやに重く感じられ、どこか一歩一歩が鈍かった。

開幕戦、2打席続けての三球三振――それも、空振りでの三振。

最後の球は、内角からボールゾーンに逸れていくような球を強引に振る、あまりにらしくない姿がそこにあった。

 

誰しもが、なんと声をかけていいのか分からない――そんな雰囲気の中、ジェネルは張り切って海にグラブを渡しながら駆け寄った。5回裏の攻撃を自身の三振で終え、足取りを重くベンチへと向かっていた海はその様子に少し驚いた様子を見せた。

「らしくないですよ。海さん」

「……余計なお世話だよ」

「結局、バット、軽くしなかったんですね」

「……ああ。今更バットを変えて、もともとのスイングができなくなったことを認めたくないし、それで変に調子を狂ったら、俺は俺の思う壺だからな」

「らしくないスイングだったかもしれませんけど、あれ、当たってたらたぶん、柵越えてましたよ。海さんたぶん、弱弱しいスイングになっちゃいけないって思って、ちょっと強く振りすぎなんだと思います。一本出たらきっと、調子取り戻しますよ」

「いつからお前は俺の分析家になったんだよ」

「そりゃあ、海さんのことずっと、見てきましたから。海さんと出会う前からも」

「愛が重い奴は嫌われるぞ」

海は三塁のあたりにつくと、ジェネルの尻をグラブで叩き、見送った。

ジェネルは一瞬ぐいっと体をひねって海のほうを振り向いたが――笑顔を見せてセンターへと走っていった。

 

「……アイツ、あんなに大きかったかな」

遠ざかっていく背番号10の姿に海はどこか、距離感が合わなかった。

1回に先制となるタイムリーヒットを打ったとはいえ、別に今日そこからジェネルはものすごく当たっているわけではない。それでも、自分が25歳だったときのことを考えると、ジェネルの姿はとてつもなく大きく見えた。

これまでも、自分とは違って、ジェネルは特に大きい挫折もなく、綺麗な曲線を描くようにしてぐんぐんと伸びながらそのキャリアを順調に歩んでいるとは思っていたが、いよいよ本格的にジェネルには翼が生えたように海には感じられた。

 

自分が25歳のときは、前野との対立もあってスタメンなんかにほとんど並ばせてもらえなかったし、シングルヒットだけを打つことでまだ精一杯だったから、大きく振って一発を狙うことまで考えている余裕がなかった。その頃は自分の打撃の完成形だって、いずれ長打を安定して打てるようになればいい、くらいにしか考えていなくて、十分には見通せていなかった。

それを『生きるために必死だった』などと言えば、いくらでも言い訳になるかもしれないけれど、自分のスイングにこだわりこそあったが、ジェネルほどの自信があったかと言われると、なかっただろう。

 

ジェネルは失敗を恐れずに力強いスイングを打ちながら、ここ数年は3割中盤から後半を打つ実力をつけてきた。何度もジェネルに対して抱いていた感情ではあったが、おそらく、本当にジェネルは自分の成績など踏み越えていくほどの実力を持っているだろう。

 

『らしくないスイングだったかもしれませんけど――』

 

今のジェネルは、自分が憧れの対象というだけでなく、一人の野球選手として対等な目線で自分にものを言える状態だ。

ジェネルの背中がそれほど大きく見えてしまっていて、ジェネルが自分と対等の立場にあると感じてしまっている以上、新が言うように、本当は自分は、気を遣われて上を打ち続けているだけなのかもしれない。

しかしジェネルは、自分に、何年かかってでもいいから自分を取り戻してほしいと思っている。自分がまだ上で打てる力があって、実力で上に立ち続けられる力があるものだと思っている――。

 

「……お前が思ってるほど、そんな甘い話じゃないと思うよ、俺は」

 

グラブを見つめ、グラブで口を覆うようにして海は思いを吐き出す。

 

思えば、このグラブとも長い付き合いになった。一塁しか守れなかった人間が、プロに入ってから急遽、自分に合うグラブをメーカーと相談して作り出し、そのグラブを大事に使ってきた。用具メーカーとの契約も結ぶようにはなり、二塁や遊撃を守る時など、状況に応じたグラブを何個か保管はしていたものの、それでも、最終的には昔から使っているグラブを海は使いがちだった。

 

プロに入ってから一塁を守る機会というものは、記憶をたどると一年目以降は――練習の時以外には紅白戦だとか、イベントだとか、WBCSのときの守備練習だとか――実戦では指で数えるくらいしかなかったように思う。

 

年齢も年齢だし、いつ何があってもいいように、ほとんど使うことのなくなってしまった高校時代から使っているファーストミットはしっかり手入れをしていたし、守備の感覚を忘れないようにと、時折小室に頼んでファーストグラブを使用してのゴロ処理練習なんかも行ってはいたが、それでも海の守備は今年も一塁ではなく三塁を任されていた。

 

今の自分の精神状態で果たして三塁なんて守っていいのだろうか――と海は不安でしかなかったが、それでもなお他の選手に三塁を任せられるような状況でもないらしい。

相変わらず、チーターズの攻撃偏重と守備難は解決しなかったし、犬塚のような選手をなかなかFAでは獲得できずにいたこともあり、長年三塁を守っているからという理由だけで海は三塁を守らされているようなところもあった。

 

三番サード佳井、という響きとその幻影にいったいいつまで人はついてこられるだろうか――海は不安に思いながら、6回の守備の準備を始めた。

 

実際、今更三番ファースト佳井という響きなんて、ファンからしてみれば耳に馴染まないのではないか――

そんなことを海は考えたりもしたが、飛び跳ねながら外野でボールを回し、そしてスタンドへ投げ入れるジェネルの姿にスタンドがどっと沸いたことに、海は意識を現実へと連れ戻された。

間違いなく、次のチーターズを担うのはジェネルだろう。自分はあと何年、ジェネルの憧れで居られるものか――一体あと何年、チーターズという泥舟の顔でいられるものだろうか――と海は目を細めた。

 

~~~

 

〈――解説には宮城コンドルス一筋でプレーし、内野全ポジションを経験し、5度のゴールデングラブ、そして5度のベストナインに輝き、攻守ともに存在感を発揮していた白崎雄史さんにお越しいただいております。白崎さん改めてよろしくお願いいたします〉

〈よろしくどうぞ〉

〈さて本日の視聴者プレゼントですが、佳井選手のきょう時点でのお子さんの数は全員で何人でしょう、というこちらの三択クイズにお答えいただきます。正解した視聴者の方の中から抽選で3名に、佳井選手とジェネル選手が実際に使用していたバットを再利用した球団公式グッズとお二人のサインを添えてプレゼントいたします。応募方法は――〉

 

「……」

大きな家から二人、育ち盛りの娘息子が家を出たとなると、もともと大家族を想定して建てた家だということもあって、食卓やリビングがずいぶんこじんまりとしたように華耶には感じられた。

居間で一緒に中継を見ていた晴留はもういないし、嫌味ばかり言っていた新もいない。

 

直人が真結と広乃に挟まれながらゲームをし、琉美と諒斗は中継を見ながら宿題をしている。来年には小学生になる柊理は、それとは別にタブレットで何か絵を描いているようだったが、身体の大きかった晴留と新がいないリビングというものは、これほどがらんとするものか――と華耶は思った。

ふと、新を送った帰りの高速道路で、海が言い出したことを華耶は思い返し、足を組んだ。

 

「――真結と広乃が本当に啓皇に行きたがってるなら、いっそ東京に家を建ててもいいんじゃないかって俺は思ってる」

「えっ……ちょっと、どうしたの。本当に辞めるつもりでいるんじゃ……」

「辞める、辞めないは別としてさ。俺ももう40になる。普通に考えたら、来年突然引退してもそんなおかしくない歳になってるだろ。俺の意思がそこにあるかどうかに関わらずね。なんたって、この時期チームから外されてるくらいだし」

「それは……」

「それに、晴留がそのまま啓皇の大学部に進学するって考えたら、このまま寮に通わせ続けるよりも、東京に家があったって別にいいだろ。三人とも寮に入れるのもなんだし、かといって、武蔵小山のアパートに三人で住ませるわけにもいかないだろ。それに、お義父さんもお義母さんももうだいぶ歳だし、何かあったときにわざわざ大阪にまで来させるのも、華耶が何かあったときに大阪から長野まで行くのだって不便だろ。俺もまだまだ何かと東京に呼ばれる機会が多いし。それに――」

「……それに?」

続きを言うことを海は少しだけ躊躇った後、吐き出すように言い始めた。

 

「……わざわざ大阪になんて、戻ってこないと思うよ。晴留は。晴留が大学卒業するまで俺が現役でいられるかどうかは分からないけどさ――仮に俺がそれより先に現役を退くことになったなら、俺は一秒でも長く、父親としての時間を取り戻したい。真結も広乃もこのまま東京に進学したとしたら――いや、たぶんするよ、あの二人は。別にあの二人が俺から逃げようとしてるわけじゃないけど、今の晴留が輝いて見えているだろうから、きっと東京への進学は本気だ。そうなったら、俺は父親でいられた時間をほとんどないまま、娘たちを――新を、父親でいられないままに送り出すことになる。だったら、引退した後は、俺はもう一回、父親をやり直したい。晴留が嫌じゃなかったら、せめて、晴留が結婚するまでの間だけでも」

「海くん……」

「そりゃあ、琉美や諒斗、それに、柊理だって、ひょっとしたら大阪のほうが肌に合ってるかもしれないよ。だから……これは俺のわがままでもあるんだけどさ。引退したら、大阪からは出て行きたいんだ。もし、やり残したことがあるまま引退するなんてことになったなら――町並みなんかを見るたびに、きっといろんなことを思い出して、そこから動き出せなくなるだろうから……環境を変えたいんだよ。きっと、引退してしばらくしたら、大阪の人間以外はみんな、俺のことなんかすぐに忘れる。東京の喧騒の中に引退した後の俺がぽつんといたとしても、きっと、そのうち俺のことなんてみんな反応しなくなるよ。あそこは、人の出入りが激しい街だから」

華耶は海の言葉を黙って聞き終え――

「……考えておくよ。一応、前向きにね」

と、控えめに頷いた。

 

確かに、このまま真結も広乃も家から巣立っていくと、きっとそのまま二人は進学し、ここには戻ってこないだろう。海の言うことはもっともだ。

だが、あのときの海はまるで本当に今年で現役を辞めそうな顔をしていた気がして、嫌な胸騒ぎがした。

 

「海くん……嘘だよね。きっと何事もなかったように……4割は無理でも、3割後半なんか打っちゃうんだよね。きっとそうだよね……?まだみんなに夢を与えてくれるんだよね……?」

 

海の苦悩を終わらせてあげたい、という気持ちとともに、海の折れてしまった心が本当にこのまま戻らなかったとしたら、それはあんまりではないか――という気持ちが常に相反しあって華耶の心の中を右往左往した。

何が海にとって正解で、海に自分ができることとは何なのだろう――ただただ祈るしかできない自分が、華耶は悔しかった。

自分も、ジェネルのようにあの場で海を鼓舞できたなら――と考えると、ジェネルが羨ましくてたまらなかった。

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