「……」
「……そんなに不満そうな顔しないでくださいよ。結果的に、やり返したじゃないですか。俺に勝ちをつけてくれたってことで、今日は俺がおごるわけですし」
試合後、田中が海とジェネル、そして薫を連れて焼肉屋へと足を運んでいたが、海は試合中から今に至るまでずっと険しい表情のまま、ため息ばかりついていた。
海が普段にも増して扱いづらい状況だということもあってジェネルに海を任せ、薫が焼き際を見極めて三人に肉を渡していくのだが、それでも海はなかなか手をつけようとしなかった。
「そうですよー海さん。あんまりフォローにならないかもしれませんけど、なんやかんや言って、海さん、いきなり見せた割にはバントすごく上手でしたし」
「そりゃあ、これまでも練習だけはしてたからね。若手の頃から、一応練習だけはしてたんだよ。でも……」
かれこれ、10年以上バントのサインを出されずに打席に立ち続けてきた海。その10年の間、バントで奇襲したい打席や確実にバントで送るべき打席がどれほどあったか分からない。
『分かってるな?お前。どれだけバントで奇襲したらチャンスが広がる場面だったとしても、ファンは金を払ってお前の何を見に来ているかを考えろ。俺たちがバントを指示したとき以外は、どれだけ内野が後ろに下がってたとしてもお前はバントに逃げるんじゃないぞ。野球ってのは、興業なんだ。お前だってそんなセコいマネしてまで勝ちたいガラじゃないだろ?ファンを自分から失望させるようなことはするなよ、分かったな』
バントのサインそのものに苛立っているわけではない。
これまで立ってきた、何万、何千という打席の中で、自分の打席を散々興業だなんだと言って、確実に一点をもぎ取りにいかなければいけないような場面ですら――海がベンチにバントを提案した場面なんかでも、意地でも自分にバントをさせてこなかった首脳陣が、今になって――それも、自分は打つ気で立っていた打席で突然バントのサインを出し始めたということに海は苛立ちを隠せなかったのだ。
ああまで言ったのだから、自分のバッティングと心中するつもりだったなら、今更逃げに走らずに最後まで自分と心中してくれという気持ちもあったし、とても自分が今4割を狙えるようなコンディションではないからという理由で、これまで自分に対して一方的に抱いていた信頼や期待だとか、押し付け続けてきた責任だとかを、自分に何の相談もなく突然コロっと変えたことに対して、海は首脳陣への不信感を抱かずにいられなかった。
仮に自分に今後バントをさせるつもりでいるならば、一言、これまで自分を興業扱いしたことや、これまでの采配に対して何か一言あるのではないか――。
その怒りから、海は突然ベンチから出されたバントのサインをめぐり、3週間ほど前、一度試合中に生駒と口論になった。
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「サイン、見えなかったわけじゃないだろ」
6回の攻撃が始まり、しばらく打順が回ってこない海のもとへ生駒が近づいてきた。壁に手をついて立ったまま海を見下ろし、不満げな表情をひとつも隠さずに、じっと海を見つめている。20幾年という月日の経過がそうさせたのか、生駒のこれまでの経験がそうさせたのか、目つきまでもがどこか前野のようなものになっていて、海はそんな生駒を見上げて睨んだ。
ジェネルは遠すぎず、近すぎずの距離を保ちながら、その会話を黙って聞いていた。
「今までも好きなだけ、お前に好き勝手させてきただろうが。任せるべき場面は任せてきたし、どうしても従って欲しいときにはこっちに従うように、それでもお前に出来るようなサインを出し続けてきた。そりゃあ、俺たちが出したサインや、お前に任せた場面の全部が全部うまくいったわけじゃあないが、何に不満なんだ。3番打者の意地か?チームを引っ張ってきたつもりのしょうもない意地か?意地で野球できるほど、今のお前に力があるのか?」
「なんで――」
「あ?」
「なんで今なんです。大事な短期決戦でも、シーズン100敗がかかってるような試合でも……これまでいくらでも、確実に1点取るために俺にバントやスクイズをさせるべき場面なんかがあったはずです。あんた、俺に言いましたよね。『セコいマネまでして勝ちたいガラじゃないだろ』って。ずいぶん偉そうな態度で、『バントで逃げるな』って。『野球は興行だ』とかいうもっともらしい理由つけて。そんなに今日の試合、落としたくなかったですか。今まで、俺に黙ってバントさせたら得点できたような場面で、俺が何度もサインを確認しても頑なにバントをさせずに、あるいはヒッティングのサインを出し続けてきたあんたらが、よりによって今日みたいにランナー二人背負ってる得点圏で――」
「佳井君――」
小室が割って入って海の言葉を制しようとするが、海は生駒を睨んだままだ。
生駒もまた、目を充血させながら海を見下ろしている。小室は生駒のほうへも腕を差し出し、余計な手出しをさせないように間で両者の様子を窺っていた。普段は小柄に見える小室が、こんなときだけはジェネルにはとても大柄に見えた。怒らせてはいけない人間を怒らせるということは、こういうことか――とジェネルは思った。
『俺もな、いつものようにまた、お前は開幕に向けて調子上げてくるもんだと思ってたのに。やっとお前みたいに偏屈で扱いづらいやつが自分の力で独り立ちして、ほっといても自分で全部解決してくれるまでぐんぐん羽ばたいたかと思ってたのによ、メンタルなんて都合のいい部分を病みやがってよ』
『気持ちの問題なんだろ?なんだかんだ言ってお前のは。トラウマがどうだの、思い込みがどうだの。結局、全部お前の問題じゃないか。目に見えない病気なもんだから、何かあると病気が盾になって守ってくれて楽だよな。自分自身の情けなさにやってられなくなって心が折れてんのも、トラウマがきっかけで眩暈起こしたりすんのも、全部病気が悪いんですって言えば世の中が納得してくれるんだもんな、お前のビョーキってのはよ――』
海はかつて、生駒から言われた言葉を思い出し――生駒を睨んだ。どれほど口が滑っただけと言われても、思ってもいないことを口が滑った程度であそこまで言えるわけなどない――思っているからこそ、口は滑るのだ。
海はそうした生駒への不信感をただただ露わにしていた。
「……あんた、前に俺の病気を、散々ボロクソにこき下ろしてくれましたよね。気持ちの問題だとか、病気が悪いんですって言えば世の中が納得してくれるだとか。……なんすか。気持ちの病気を抱えてるやつはこういう場面で信用ならないから、こういう落としてもどうでもいい試合ではバントさせておいて、肝心な試合では俺にあえてバントさせずに、負けたら俺のせいにしようっていう魂胆ですか。うちのチームはこれからは、そうやって俺を理由つけて干していく方針なんですか?……別に俺は、あんたが監督と相談して出したバントのサインそのものに不満があるわけじゃあないんですよ」
「なら――」
「――なんで、今なんです」
何が不満なんだよ――割って入ろうとした生駒の声を海はすぐさま引き裂いた。
「去年も何度かバントのサインがありましたけど、今日ほどの試合を動かすような場面なんかじゃなかったし、まあ、普通に考えたらここはバントでランナーを送る場面だよな、って違和感なく俺はバントをしましたよ。いつ何があってもいいように、バントの練習はそれなりにしてましたからね。……得点圏ですよ、得点圏。今の俺はもう、得点圏ですら信用ならない人間なんですか。今まで散々試合の責任だとか、チームの顔だとか、キャプテンだとか――なんなら、観戦マナーの件で球界そのものすら俺にいろいろ押し付けておいて、それで突然、今までずっと俺をあんたらのそのつまらない俺への一方的な期待で勝負させ続けてきたこういう場面で。ひょっとしてあんたら、俺を野球だけする機械かなんかとでも思ってるんですか。別にバントが嫌だっていう話をしてるわけじゃないんです。一言俺に、今まで頑なにバントを拒み続けてきたことの間違いを認めるだとかなんとか、できないんすか――」
『――父さんだって、本当は気を遣われてるんじゃないの』
『本当はもう上位打線に座ってるべきじゃないのに、周りが気にして父さんを上で使ってやってるだけでさ。父さんの他に責任を擦り付けられるやつがいないから、とりあえず勝てなかったら父さんのせいにしといたら皆分かりやすいからそうしてるだけなんじゃないの』
『それでもし勝てたら父さんのおかげってことにしとけばいいし、勝てなかったら全部父さんの責任にしておけば、ファンだって、球団だって、世間だってみんな納得するし、『悲劇の天才打者』みたいなことにしておけば父さん以外の誰も傷つかないしな』
珍しく生駒に対して感情をむき出しにした海。その脳裏には新の言葉がよぎっていた。最悪のタイミングで海の心をかけめぐったその言葉は、海の感情をよくない方向に加速させた。
そ知らぬ顔でサインを出し続けている今野に、ジェネルはこういうのを止めるのが監督の仕事ではないのだろうか――という違和感を感じずには居られなかったが、もはや自分が何かアクションを起こしてこの二人の間の空気を変えられるとは思えなかった。
「そりゃあ、あんたらのサインを破って高めのストレートをうまく打てずに、凡退して帰ってきた男の言葉としては、あまりに不恰好でしょうね。これでもし俺の判断で打ててたら、少しは格好がついたでしょうに。でもね、俺は――あんたらに押し付けられてきたチームの看板だとか、責任だとか、義務感だとか――俺なりにこの20年、なんとかしようとやってきたつもりです。こんな試合でバントさせるくらいですから、そりゃあきっと、今年のポストシーズンなんかでもきっと俺に、確実に次の点が欲しいなら、バントさせてくれるんでしょうね。この期に及んで俺に、今年のポストシーズンが仮にうまくいかなかったとして、いちいち俺が凡退した場面を穿り返して、ポストシーズンの戦犯まで背負わせやしませんよね、今更。こんな試合で、しかも毎年4割半ば以上当て続けてる得点圏でいきなり俺にバントさせるくらいですから。きっと俺に今後、バントすべき場面なんかはしっかり打ち合わせてくれるんでしょうね。俺がバントのほうがいいんじゃないかってサイン確認したときには少しくらい俺の意見を汲んでくれるんでしょうね」
堰を切ったようにして海の不満があふれ出す。引きつった笑みを見せながら、自分でもなぜ笑ってるのか分からないまま、海は生駒に啖呵を切り続けた。
「落としたかったら、落とせばいいですよ。落とされても仕方ないようなことしたわけですからね。俺なりの抗議は以上です。俺だって、これ以上野球を続ける理由に、誰かを見返してやりたいみたいな要素を増やしたくありませんから。俺はあくまでも、俺自身のために野球を続けたいんです。当然、勝利のためにプレーをするのが俺の仕事ですけど、あんたらのためにプレーをするのが俺の仕事じゃないんです。俺はあんたらにとって都合のいい駒じゃあない」
海はそう言って、いったん通路へと出て行く。追いかけるかどうかジェネルは悩んだが、いつの間にかそこから今野が居なくなっていることに気づいた。
「海さん――」
立ち上がり、追うべきかどうか迷ったが、追えなかった。追って何かを変えられるようにはもう思えなかったからだ。
通路のあたりで立っていた今野が腕を組みながら、海のほうを向いてぽつりとつぶやいた。
「君、試合後に体調崩したってことにしておくから。"いつもの病気"でね。"いつもどおり"くらいの期間、病気で休んだことにしておいて」
「……」
今野の言葉に海はふと睨みをきかせた。自分の病気を都合よくそんなことに使うのか――という不快感がそこにはあったが、それを今野に直接突きつけることは、海も自分の立場を考えると、できなかった。全盛期ほどは打てていないことを穿り返されて、やり取りしだいでは何をされてもおかしくない状況だったからだ。
「皆、病気なら仕方ない、って思うだろうからね。こんなタイミングで2軍なんかに落として、今、チームを泥沼化させたくないわけ。ま……お前も、もうちょっとだけ現役続ける気なら、あんな思い切った真似はしないほうがいいよ。お前をめぐってのことで自分なりに思うところがあるのは、まあまあ分かるけどね。これでも、私たちにも一応ね、メンツというものがあるから」
確かに、いっそ現役を終えてしまう方法として、ここで騒ぎを大きくするという手段もあるかもしれない。だが、ここまで20年余りをこんなつまらないチームでひたすら耐え続けてきたというのに、今更自分の意思以外で現役を去るということは海としても面白くなかったものだから――悔しさをこらえて黙っていた。
「ま、生駒のやつともよく相談しておくよ。お前にバントをすべき場面の是非についてはね。今まで本当に、この20年の間、お前を理解してやってきたのかというところ含めてね」
「……そんなことより俺は――」
結局、何をもってして自分にあの場面バントさせようと思ったのかだとか、じゃあ何故これまで自分にバントをさせてこなかったのか――そうした部分の過ちを認めてほしかった海だったが――
「君。過ぎた時間なんて、どうやっても帰ってこないの。過ぎた時間のことを考えてるより、今のことを、今後のことを考えてくれたほうが、目の前の打席に集中できると、私は思うんだけどねえ」
今野の深いところを考えているようで考えていないような――どこか身勝手な言葉に腹が立ち、海は唇を噛んだ。
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「……それからスタメンに戻ってきた復帰戦で――それも、まただ。また、得点圏でバントのサインを出された。きっと、次に騒ぎを起こしたら俺には次はないだろうから黙って俺はバントをした。結局、俺は散々信頼だとか興行だとかいう言葉を都合のいい盾にされて、今まで一切俺を守ってこようとしなかった奴らに都合よく使い捨てられようとしている。相談するって言ってた監督だって、いったいどこまで生駒【あのデブ】と話をしたのか分からない。大体、あの監督だって、深いところで何を考えてるかなんて全然分からない奴だ。こうして試合に戻ってきたけれど、何も変わらなかったどころか、わざとやってるようなあの采配を見てると、そんなに今の俺は信用ならないのかって気にもなる。そんなこと考えると、また俺の脈だっておかしくなる」
海はそう言いながらコップの茶を飲み干した。
ドクン、ドクン――と、嫌な脈と、嫌な汗が湧いては引き、湧いては引きを繰り返していた。
「あんな打ちごろのストレートをバントしなきゃいけないのは、なかなか屈辱だよ。でも、自分の立場もそうだし、それでまた無理に打ちにいって凡退して帰ってきたら、俺には本当に帰る場所がなくなる。今度こそ、俺はこんなチームを追い出されてしまう。いっそ、追い出されてもっと俺を俺として扱ってくれるようなチームへ移籍することを考えたほうがいいんだろうけど、それじゃあ、お前らに示しがつかないし、仮にそんなことで追い出された選手を残り11球団が獲ってくれるかと考えたら――きっと、そんなことはないと思う。そのあたりはシビアな世界だし、いくらでも話には尾ひれがつくものだからね」
はぁ――とため息をつき、海は天井を見上げた。しばらくそのまま動かず、そして今度は腕を組んでうなだれた。肉の焼ける音だけがそこにあって、静かなる騒音だけがそこにはあった。
「……バカなことをしたものだと思うよ。どうせ、俺のことを分かってくれる人間なんか、上には誰もいなかったことくらい、分かってたつもりだったのにな。これで今日試合に勝ったからいいものの、負けてたらきっと、俺はまたおかしくなってたと思う。……確かに、俺みたいな打者がバントを時々するのは奇襲としてはいいかもしれない。だからこそ俺はバントの練習だってちゃんとするようにしてた。でも、去年10いくつもバントなんかしてたら、もう守備なんかも、俺が時折バントしてくることを警戒してくるだろ。肝心な場面でもう俺がヒッティングを任せられないような状態だって、相手に悟られてしまうってことだろ。……そんなに今の俺には任せられなかったのかな、あの場面……」
田中もジェネルも、海の重い表情を見て、なかなか気の利く言葉を繰り出せなかった。
「きっとお前らも、サインや指示に納得いかないことだってあると思う。試合を重ねてるとそんなことの繰り返しだってことも分かってる。長いことやってると、そういうよくない積み重ねがあって、こうやっていつか、崩れるんだな。ひょっとしたら、清兵衛も俺たちの知らないところで、コーチなんかと揉めたりしたこともあるのかもしれない。スタメン起用だとか、休養からの復帰期間なんかをめぐったりとかね。アイツがどうやってそういうのを乗り越えたのか……あるいは、乗り越えられなかったのか。そういう、歳とってからのこと……もっと遺してほしかったよな、アイツも。アイツは酒の力でなんとかしたのかもしれないけど、俺たちはそんなに単細胞じゃないからさ……」
「……違いますよ。きっと……酒だけじゃなくて、女の力もですよ」
田中は皮肉と冗談交じりにそう言ったのだが、ジェネルは『今そういう場面じゃないと思いますよ』という表情で首を振り、薫もまた『田中さん、それたぶんちょっとズレてると思います』と苦笑いを浮かべ、うつむいたまま、暗く沈んだ海の表情を互いに見つめていた。