四宮のタクシーを近くの駐車場に停めてもらい、それからどれだけの時間が過ぎたのだろう――。
とっくに日が沈み、都内のやかましいライトアップが海を照らした埠頭公園でしばらくジェネルは海の上半身に顔を押し付けながら、声を殺して泣き続けていた。
時折、落ち着きを取り戻して海の腕を振りほどき、海の顔を見上げるのだが、そうして海の顔を見るたびに何か思うところがあるようで、再び海の胸を叩きながら泣く、ということを繰り返していた。
雨脚も強くなり始めたこともあり、気が済むまで泣かせ続けてやろうと海は思っていたのだが、ジェネルはなかなか立ち直れずにいた。
海だってずっと立ち続けて、ジェネルの感情のはけ口になり続けてはいたのだが、自分の無様さや不甲斐なさに時折、自分自身もこのまま感情が崩れてしまいそうになった。
だったらいっそ、自分もジェネルと一緒に激情の渦に身体を預けてしまってもいいのでは――と一瞬だけ思いもしたが、二人ともそうして理性を失うのは、互いの今も、その後も、どちらもよくない方に物事が進んでしまいそうな気がして、海はひたすらジェネルの肩をさすってやるくらいのことしかできなかった。
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「――まぁ、よくやったと思いますよ、僕はね。なんたってバトシ相手に2勝できたんだから。まー、今日だってあと1本出てたら分からなかったんだけどねぇ。追加点だって挙げるチャンスもあったわけだし。結果としてサヨナラ負けを食らってしまったけれど、そうなる前に打てなかった野手にも問題があるよね。まぁ、数々のチャンスを生かせなかった皆に問題があると言えば楽なんだけど、そもそも、中軸にいる打者が無安打どころか3つも三振くらってたら、こういう大事な試合なんか、どれだけ気合が入ってたとしても、一生勝てないわよね。まぁ、20ゲーム差近く離されてたバトシ相手に2勝もできただけよしとして考えて、また気持ちを切り替えて来年やり返しましょう。なんたって、気合のあるメンバーがうちにはいますから、きっとそうした人が来年はきっと、今年の分までたくさん打ってくれるだろうからね」
ぽん、と手を打ち、いつもどおり『はい、解散』と話を終えようとした今野に対し、ジェネルがうつむき座ったまま、思わず口を挟んだ。
「……そうやって、負けた理由をなんとなくぼんやりと名指しで一人に押し付けておきながら、本来もっと真剣に向かわないといけない問題をなぁなぁにして『はいまた来年』って適当に締めるのって、どうなんですか――」
今野は『またか――』というような表情で面倒くさそうに頭を掻き、不快さをひとつも隠さずにため息をついた。
「君ねぇ。僕は、別に一人のせいで負けたっていう言い方はしていませんよ。そうでしょう。打線全体で見てもチャンスを生かせなかったよね、って話をしたじゃないの。君のほうこそ、僕の言った言葉を変に切り取ってるだけの、ただの詭弁なんじゃないのかしら」
「その後中軸が3つも三振した、って言ったじゃないですか。そんなの、誰のことかなんてすぐに分かるじゃないですか。今日の試合、振るわなかったのは、一人だけじゃありません」
「そうだね。現に君も、大事な初回のチャンスを潰してくれたたしね」
「そうですよ。だから、叩くならちゃんと、私たちも平等に叩くべきだと思います。それに監督は『大事な試合なんか一生勝てない』なんて言いましたけど、監督がぼんやりディスった海さんはむしろこのポストシーズン、当たってました。例年通り、海さんは海さんの仕事をしました」
「……」
黙っておけばいいものを――と海はジェネルを制止しようと思ったが、制止したところで大人しく止まるような人間ではないことを海も理解していたので、止めなかったが、自分の名前を我慢しきれずに出してしまったことにジェネルの未熟さを海は感じていた。
感じていたところで、止めに入るにも物理的にジェネルとは少し距離が開いてるものだから、どうしようもなかった。
中堅どころや若手は相変わらず『早く帰らせろよ』という表情を浮かべ、一部はこちらを見るものもあった。ジェネルがこうして反論してるのは自分の差し金なのでは――とでも思ったのだろう。あるいは、ジェネルが公私をわきまえずに海に慕ってくるものだから、海の存在自体を疎ましく思って睨んだ者もきっといるのだろう。
海は『黙って話を聞け』と言わんばかりにそうした中堅や若手を睨みつけ、そのあとはしばらく今野を見つめていた。
「海さんがホームランを打ったのに落とした試合だって、この期間中2つありましたよね。それもアレですか?海さんが全打席ホームラン打たなかったから負けたとでも言いたいんですか?あー、そうそう、セカンドとショートの連携エラーから相手の連打を止められずに逆転されてそのまま負けた試合ってありましたよね」
ジェネルの言葉に対してヘラヘラしていた丸毛たちが自分たちのことを言われたことから敵意をジェネルへと向ける。ジェネルはいつしか顔を上げ、そんな中堅たちを睨み返しながら全体を見渡すようにして――
「もし誰か一人を槍玉に上げて批難したいならそういうところも触れないと私は不公平だと思います。それとも、このエラーした分すらも『佳井が男気を見せて取り返してくれなかったから負けた』とでも言いたいんですか?監督だけじゃありません。私たち中堅だってそうです。負けたのは自分のせいじゃないみたいなとこがあるから、とっとと帰りたいって今思ってるんじゃないんですか?」
海は丸毛らをはじめ、ジェネルと火花を散らしている若手や中堅たちの顔を直視することはできなかった。頼むからもう黙ってくれ――と思いながら、この地獄のような空間をひたすら耐え忍んでいた。
自分が打たなかったからジェネルはこうして監督の適当さへ怒っている。そうしたジェネルの怒りが、飛び火してありとあらゆる選手へと火事を起こしていく――。
結局、自分が打たないからこんなことになってしまったのだ。
自分が打ちさえしていれば、こんなことにはならなかったのだ――。
海はすぐにでも立ち上がってジェネルを殴りつけてでも止めたい気分だったが、それで事態が丸く収まるかといわれると、きっと自分が変に行動を起こすことでさらに余計な事が起きかねない以上、こらえることしかできなかった。
「どの試合にも、必ずみんながみんなどこかでやらかしてるんです。私だってそうです。そりゃあ、海さんの今日の三振は、それはそれはクソ無様でしたよ。でも、海さんが今日3つも三振したから結果として今年のポストシーズン落とすことになった、みたいな言い草は絶対、チームにとってよくないと思います。監督という立場で責任はみんなにある、みたいな言い方をやんわりしておきながら、突然通り魔みたいにグサっと一人だけ切っていくの、趣味悪いにもほどがありますよ。やるならいっそ、こうやって一人一人に文句言っていけばいいものを――何ですか?他の選手に表立って文句言ったら禍根でチームから出て行かれるかもしれないけど、海さんなら今更何言っても立場上、出ていかないだろうとでも思ってるんですか?」
何故か漏れ出す失笑にも負けじとジェネルはひたすらその語気を強めていった。もはや、笑っているのが誰だろうと、海にはどうでもよかった。やり方は間違っているかもしれないが、怒れるジェネルに対してもこんな空気が漂うくらいなのだから、もはや何を言っても無駄だ――としか海は思わなかった。
きっと、ジェネルもそう思っているから、退かないのだろう。
「それとも、メンバー皆に恨まれるのが嫌だから、海さん一人だけ犠牲になってもらおうみたいな魂胆ですか?あー、それともアレですか。そもそも普段からそんな深いところなんて考えてないから、なんとなくポっと出ちゃった言葉なのかもしれないですよねー。だとしたらなおさら、選手のことをナメすぎだと思います。それら全てが私の推測に過ぎないって言うなら、そりゃー、そうですよ。監督はいっつも言うことがふわふわしてて私たちになかなか自分の素性を明かしてくれませんから、私たちも推測で監督のことをこうして言ってしまいます。距離感がどーだとか、公平性がどーだとか、監督なりに色々考えてやってることは理解します。変に誰かに肩入れしすぎないためにと悪気があってやってるスタンスじゃないっていうことも理解しています。でも、その結果としてこういうときに取っている言動については私は何一つ評価できません。今自分が叩かれていないからって安心してる他の選手たちだって、今はこれでいいかもしれませんよ。自分は直接叩かれたわけじゃないから。でもどうでしょうね?海さんが居なくなったら、次は、皆さんの番かもしれません。そういう、ある日突然一人だけが、監督の気分で槍玉に上がってボロクソこき下ろされ続けるようなチームのままじゃ、一生うちらはシリーズ制覇なんかできません」
激しい剣幕で今野を睨みつけるジェネル。目を充血させ、今にも立ち上がって今野を殴りそうな勢いで、顔を紅潮させながら姿勢をやや前のめりにしている。
さすがにそこまでの事態になってしまったら、身を挺してでも止めなければならない――と海は思っていた。
ジェネルに言いたいように言わせきった今野。ごくごく冷めた表情のまま、ジェネルの言葉に特に心を動かされたような様子もなければ、特に触れてはいけないような場所に触れたような、顔を真っ赤にするようなこともなく、ただ、呆れたような表情で耳をほじり――
「……で、何かな?次にチームを担うのは自分だろうって自負があるから、その時の予行練習でもしたいわけ?君は」
と、ジェネルの心を逆撫でするような言葉を吐いた。
「違います!!」
逆に顔を真っ赤にしたジェネルが反論するが、今野は冷静だった。
分が悪い――。
この最悪な空気の中、誰の心が突き動かされるでもなく、ただ、ジェネルだけが浮ききっていた。今野はそうした揺るぐことのない勝機の中で、ブツブツとジェネルに反論をしはじめた。
「あのねぇ、君は人を仕切る立場に立ったことがないだろうから分からないのかもしれないけどもね。そういう正義感って、今時、面倒くさいの。そりゃあ、僕にも皆さんに思うところは多少なりありますよ。でもね、ダラダラダラダラと一人一人に言いたいこと言ってたら、キリがないの。じゃあ何?君の望むように、この場で一人一人に今のポストシーズン振り返って、たまりたまった僕のきっつーいダメ出しの棚卸しセールでもしたら、気が済むわけ?」
「それは――っ」
「そんなことないでしょ。で、それはそれで今度はそのダメ出しをパワハラだとかなんだとか言ってのける。今のご時勢、なんだってハラスメントになっちゃうからねえ。そんなことになったら、お互い、他に割ける時間を無駄に使っちゃうことになるわけ。それはね、非効率的だと思わない?だからね、こっちも、そういう面倒くさいことに足をズブズブ突っ込みたくないわけ。だから僕としても、年齢だとか立場的に、佳井に対してお前ももうちょっとどうにかしようがあっただろって簡潔にまとめるのが、この空気的に最善で、一番簡単に済むと思ったわけ。なんなら、アレでしょう。お前、佳井がこんな風に言われたから、ちょっと不満に思っただけなんじゃないのかしら。これがお前がこきおろした、エラーした連中に対してネチネチと俺がこの場で文句言っただけだったなら、お前、こんな風に文句言った?言わないよね、たぶん。君が大事なのは、所詮、チームじゃなくて、佳井だからね」
「それは――っ!断じて違います!そんなの、詭弁です!」
海以外の選手を否定してこの場が解散したなら、どうだっただろうか――それを考えるのが、ジェネルは怖かった。今のように海を否定されることほど自分が今野に不満を漏らせたかどうか、不安だった。
本当は、海が否定されているから憤ってるだけなのではないか――そんなことを自問自答しては、今野の思う壺だと思いながらも、ジェネルはつい、もし仮に海以外の人間を自分の言うように通り魔的に一瞬だけ叩いて場を解散したなら――という場面を想像せずにはいられなかった。
「ま、仮に図星だとしたらね、君が僕に対してナメすぎと言ったようにね、君はチームの空気というものをね、ナメすぎですよ。君がそうして、おかしいところだとかなんだとか、みんな心のどこかで少しくらいはおかしいとは思ってるけど、あえて黙っておいてやってるところを、君が大声でおかしいって言うことで、かえっておかしい空気になってるの。分からないかなぁ。みーんな、今のお前のこと、心の奥底で思ってるよ。『公私混同だ』って。そんなにモノ言えるほど打ったわけでもないくせにさ、ちょっと自分がリーグを代表する選手としての軌道に乗ったからって、あんまりいい気になられると、困るんだよね。お前が黙っておけば、俺の言葉なんて本当は胸の奥に刻んでなんかないもんだから『佳井さえもっと、何年か前みたいな勢いで打ってくれれば』っていう願望なんて、みんな上の空で聞き流して、この後の今夜の夕食のことだけ考えてればよかったものをさ。お前のせいでみんなの夕食がマズくなるんだよ。イキりたがる年頃なのは分かるけどね、もうちょっと立場をわきまえないと、この世界で長生きできなくなりますよ、君」
周りの選手の表情をジェネルはとても見られなかった。
それぞれがそれぞれの表情を浮かべていたけれど、とてもそれらは自分に賛同している表情だとは全く思えなかったからだ。
自分さえよければ、後のことなどどうでもいいのだろうか――ジェネルはこの冷めた空気の中で、海がたびたび漏らしていた孤独の真意を――なぜ海が自分以外の野手とあまり接触しようとしなかったのか――なぜ『あんまり楽しくないんだ』なんて自分の前で話したのか――そうした、これまで自分の人生では見たことのない、世界の闇のようなものに触れたような気がして、そのまま黙って、うつむいてしまった。
自分たちが戦い抜くと決めたチームは、こんなものだったのか――?
海から見た世界はずっと、こんなものだったのか――?
そう考えると、ジェネルは胸が締め付けられそうになり、今、あと少しでも気を抜いてしまうとその心臓は止まってしまいそうなほどだった。
「何か他に言いたいことがある奴は?いいでしょう。この際だから、何かあったら聞こうじゃないの。この後の予定を削ってまで、他に僕に何か意見したいことがあるならだけど」
普段、軽い口調でなあなあと空気を流していく今野から放たれた言葉とは思えないほど、その言葉が放った沈黙は、ずんと重たかった。
「……ないね。じゃあ、改めて、解散。また来年頑張ろうじゃないの。それじゃあ。それと、佳井。君になついている犬は、随分しつけがなっていないようだね。ちゃんと粗相がないようにしつけてもらわないと、困るね。君がきょうの三振を悔いるのは、そのあとでも構わないから、発情期で周りが見えなくなってる犬に、よその人を噛まないようにとしつけてもらえるかしら」
今野がそう言って部屋から出ると同時に、そそくさと荷物をまとめて部屋から出て行く選手たち。
『何だったのこの無駄な数十分』
『ベテランが若手のミスまで背負うのはベテランの仕事だろうがよ』
『だって実際今日三振してなかったら勝ててただろ絶対』
『俺が守備でミスしたことなんて別にどうでもいいだろうがよ』
足早に去っていく部屋から、いやに粘っこく耳に残る声がジェネルを支配していき、ジェネルはその場から動けなくなった。
「ジェネル。とりあえず、ここから出よう」
「……」
手を差し伸べた海の顔を、ジェネルはしばらく見れずにいた。今、この目の前で立っている男の顔を見たら、自分は自分を保てなくなる――そう思うと、ジェネルは一度首を振り、イスから立とうとはしなかった。
「たまには、お前が俺を誘うんじゃなくて、俺にもお前を誘わせろよ。年上だぞ、俺は」
「だって……」
「だっても何もあるか。……俺がまずここから出たいんだよ。こんな嫌な空気吸ってたら、窒息しそうだ」
「……一人で出かければいいじゃないですか」
「見てられないんだよ、お前。ほら」
そう言って無理にでも立たせ、引きずるようにして海はジェネルの手を引いた。
汗がにじみ、火照ったままの手のひらを海はずっと握り、タクシーへと連れ込んだ。
「――どこでもいい。とにかく、あんまり人が居ない場所まで。この時期だもんな、人気の少ない埠頭なんかがいいかな」
「任せてください」
海が四宮に話している間も、ジェネルはずっとうつむいたままだった。顔を腕で覆い、後部座席で隣に座ってる海の顔もしばらく見ようとしなかった。
予報ではこのあと強めの雨が降ると言われてることもあってか、埠頭には人の影がなかった。
反対側のドアから降りた後、海はジェネルの手を再び引いて、柵のあたりへと歩いた。
風は強く、小声を言えば小声ごと吹き飛ばされそうな感じだ。
ジェネルはしばらく背中に顔をうずめ、そのまま海を後ろから抱きしめていた。ぎゅっと、硬く硬く腰を締めるようにして腕を巻きつけ、身体を震わせていた。
「……背中で泣かれると、お前の肩なんかを抱いてやれないだろ」
海が少し困ったような口調でそう呟くとジェネルは下を向いたまま、ゆっくりと海の正面に立ち――そのまま顔を見上げないまま、海のシャツめがけて飛び込んできた。
海が肩に手を回し、ぽんぽんと叩き始めると、ジェネルは声にならないような、苦しげな嗚咽を惜しみなく上げた。
時折シャツにぐりぐりと顔を押し付け、背中に回した腕を正面に回しては、海の胸板をどんどんと叩いてみたり、そのまま細い腰をへし折るほどの勢いで、腕を巻きつけてはそのまま先ほどより強く、ぎゅうと締め上げたりした。
何か言葉をかけようにも、あの場面で監督に反論をすることを選べなかった海からしてみたら、きっと今ジェネルに何を言っても無駄なのではないかと思い、そのまま海は黙っていることしかできなかった。
文字通り、海はそうしてしばらくジェネルのサンドバッグになった。身も心も、ひたすらサンドバッグになってやった。
ただ、そうやってジェネルに叩かれ続けるくらいしか、自分に出来ることはないような気がした。自分には、気の利いた言葉をかけるほどの語彙力はないし、人の心に寄り添えるほどの器だってない。こうしたとき、華耶や普段のジェネルのように、相手に何か出来たならどれほどよかっただろうと海は思った。
自分自身のきょうの試合での3三振という無様な打席結果も、人としても何もしてやれない無様さも、どちらにもどうにかなってしまいそうな感情を押し殺しながら、気の済むまで海は立ち尽くし続けていた。
降り出した少し強めの雨に打たれながら、何もかも、雨が流し落としてくれればいいのにと海は思っていた。