「ま、率も残せて遠くに飛ばせるタイプの打者が移籍してきたなら、しょうがないことだよ」
打率.378、23本塁打、113打点――。
打率を3割中盤まで落とした去年と比べると、もがき苦しみながらも海はこの一年、自分の打撃を取り戻そうと躍起になっていたし、それが多少は実を結んでいた。
シーズン途中で41歳を迎えたその年齢を考えても、未だにチームで一番打率を残せる打者でいて、そして今年もまた20本塁打にもしっかり乗せてきたし、もう一体何年連続になったか分からないシーズン100打点も記録した。
率を残しながら球の見極めもできる打者であり、長打もしっかり打てて勝負強さもある――いわば究極の中距離打者として未だに第一線で活躍し続けている海。どれほど今野がポストシーズンの敗因を海に押し付けようとも、海の心身がどれほど疲弊していこうとも、今年の活躍もまた、球団のファンや野球そのもののファンにも『佳井は簡単には終わらない』――という印象を強く与えていた。
それでも、自分ほどの高打率ではないにしろ、自分の倍で収まらないほどのホームランを打つ内野手がCリーグからEリーグに今季移籍してきたとなると、去年のジェネルが見た目上の数字を理由にベストナインに選ばれなかったように、ベストナインの得票は当然そちらに流れてしまうのは必然だ。
同じくして、去年ほどの成績を残せなかったジェネルもまた、今年のベストナインを逃していた。
5人でここに戻ってくるどころか、一体今年はチーターズからは何人授賞式に呼ばれたのだろう。なんなら、本当に授賞式に出席だってするのだろうか――。自分が授賞式に出ないのであれば、別に互いが互いをリスペクトしあえている環境ではないこともあり、正直言ってそんなことだって海にとってはどうでもよかった。
ただ、選ばれなかった悔しさは確かにそこにはあったのだが、胸の奥底で少しだけ、わざわざタイトル授賞式のためだけに無理矢理テレビの収録など含めて東京にしばらく滞在してあれこれとスケジュールを割かなくていいのだから、久々にこの時期ゆっくりできるという安心感を生んでしまっていたのもまた確かだ。
「いいじゃないか。わざわざ東京と大阪を行き来する手間が省けて」
「それでもそのうちまた、テレビの収録なんかもあるんでしょ?」
「……まあ、東京で何件かね。大阪方面の収録のほうが多いけどさ。なんだか、野球やってんのか、芸能人やってんのか、この時期は本当にわからなくなるね」
海は自嘲気味に笑いながら、ソファに足を組んだ。
「でも、深沢に立ち寄るきっかけは欲しかったなー。オフの間に、一回だけはちゃんと行っておかないととは思ってるよ。さすがに一度も足運ばないまま『完成しましたー』なんて、ちょっとアレだしね」
世田谷・深沢。
昔から周囲の土地を持っていたが最近は屋敷の管理に悩んでいたという地主が佳井家の本家とパイプがあったらしく、東京に家を建てるつもりだという話を聞きつけた華耶の叔父が仲介してその広大な土地を譲ってくれることになった。
広い土地ということだけではなく、向かいに共同農園もあるとも紹介されていて、住宅地の割には緑に囲まれていることもあって二人は即決して土地を購入した。
新居を建てるに当たって、なるべく周囲からの景観と違和感のないように、入り口や周囲を緑で覆う形で庭もリフォームする――という方針でその建設は始まっていた。
頻繁には工事の様子を見に行けないことから、定期的に業者からは工事の様子は動画や写真が送られてはきたものの、やはり一度くらい、現地でその様子は見に行きたいというのが本音だった。
本当はポストシーズンが終わってからすぐにでも――と考えていたのだが、今野とのいざこざがあったあとのジェネルを無事に大阪まで送り届けたりなど、とても現場に入れるような状態ではなかったから、オフの間に一度は……という気持ちが海の中ではあった。
もちろん、華耶は時折どうしても東京に行かなければいけない用事がある時に、建設中の現場の様子を何度か視察しに行っていた。とはいえ、やはり家主である自分も見に行かなければ――という思いが、完成が近づくにつれ海の中で徐々に大きくなっていった。
今の家くらいに大きく、何かあったときのために離れなんかも建ててある。二世帯住宅になった時なんかには対応できるように、と考えてのことだった。
果たして今の家ほど必要があるのか分からないが、いつか新や直人が結婚し、子供を作ったときに備えて部屋の数は相変わらず多く設計してあった。
あとで必要になって家を増築しないといけなくなるよりかは、あらかじめ大きく作ってしまえばいい――家そのものの広さもそうだが、リビングの広さにキッチンの広さだって、広ければ広いほどやはり心にはゆとりが生まれるものだし、最終的に自分たちだけが住むようになったなら、その時はその時で広い家を好きに使えばいいだけのことだ。
聞こえはよくないが、金ならいくらでもあるのだ。
辛い日々に耐えた分の金を自分の住まいを快適にするために設計して、何が悪いのだ。住まいくらい自分の好きにしたって、いいじゃないか――。そういう気持ちで海はこの一年ほど、徐々に近づいていく新居の完成を心待ちにしていた。
もっとも、海自身は仕事の都合なんかもあってすぐに入居できるわけではないし、先に晴留や真結、広乃が住むのだから、自分が家に入るのはもう少し先のことになりそうだが――。
土地を探していた頃は、別に活動の拠点が都内にありさえすればいいのだから23区内に無理に家を建てる必要もないのでは――と、もともとは立川なども視野には入れていた。
それでも、華耶の叔父から譲渡を提案された深沢の土地は、1km以内に商店街もスーパーもドラッグストアも揃っている。アクセスはいい上に直接大通りに面しているわけではないから、静かに生活もできるだろう。
自分たちが今後住むにあたって、都心にもほどよくアクセスがよく、静かに住めるような場所を海は希望していた。それは、自分たちが今後穏やかな日々を送るためだけではなく、子供たちのためでもあった。
晴留や真結たちには、一応、もうすぐ東京に家が建つ、ということは説明してあるが、具体的にはどこにどんな家が建つのかまではまだ伝えてはいない。
真結も広乃も、家の完成のあとに受験が控えているわけだが、ここまできたら絶対に落とせない、と、受験勉強にはよりいっそう力を入れることだろう。
「お前もすぐに東京に移ればよかったのに」
海は華耶を見つめながら、本心を漏らした。
「……言っておくけど、別に、ジェネルをここに住まわせたいから思ってることとかじゃないからな。子供たちみんな連れて、先に東京に移ったらいいのにって純粋に思ってるだけのことだよ。正直言って、不安だってあるだろ?あの三人だけが先に東京で暮らすなんて」
海は華耶に突っ込まれるより先に、ジェネルのことを引き合いに出した。先に言っておかないと茶化されると思ったからだ。
「でも、だってそれじゃあ、海くんが帰る場所がないじゃない。一応、家族席だって球団からもらえてるしさ。自分たちだけ東京でのうのうと楽しく過ごして、海くん一人を甲子園に残してはいけないよ。海くんには直接言ってないけどさ、たまには美樹叔母さんとかと一緒に皆で現地で見に行くようにしてるんだから。東京からわざわざ時々試合見に行くくらいなら、ここにいながら応援しにいったほうがいいし、東京でだと一般購入になっちゃうでしょ、座席。そうなったら、なかなか簡単に席だって取れないし。それに……あの子達は実質、花嫁修業しにいくようなもんだから」
「花嫁修業て」
海は少し気が早い華耶のその言葉に思わず苦笑を漏らした。
「まあ、海くんの生活に一区切りついたら、すぐにでも引っ越すつもりではあるけどさ。晴留だってもうお酒が飲めるような歳になろうとしてるし、先に三人で生活力高めてもらってさ。何かあって家から出なくちゃいけなくなったときの力をつけさせたいんだ。警備会社の防犯だってちゃんとつけてあるし、ヤバくなったら叔父さんからSPでもなんでも派遣してもらえばいいし。何かあったらビデオ通話でもなんでもあるしさ。それに、大学生になった晴留を見てたら、二人とも晴留にばかり頼ってられないなって思って少しは成長してくれるだろうし」
「まあ、そうだね」
なんとなく、気の抜けたような返事を海は返し、どこを見ているかわからないような目線でしばらく呆けていた。
「海くん。家建てたあともさ、一応、こう……なんだろう。東京に家を建てるのが、あたしたちの……海くんのゴールじゃないからね。分かってる……よね?家建ったからってすぐ引退とか決意しちゃだめだからね?」
「……当たり前だろ」
海の下へ差し出したコーヒーにも特に反応を示さず、考え事をしているような、していないような……あいまいな表情ばかり浮かべている海。
天井よりもずっと上なんかを見ているような、実はどこも見ていないような、心がよそに行ってしまっているような様子を海はずっと見せていて、華耶はそれを黙って見つめていた。
11月の寒空から漏れ出す、太陽の悪あがきのような日差しがリビングに差し込む。
眩しく、とても11月とは思えないような陽気をはらんでいて、リビングの日の当たる部分だけを強く暖める。逆に、影になっている部分はやはり冬が近づいていることもあり、それなりにひんやりとはする。
華耶にはどこか、日の当たる場所があまり多くないことと、日陰との温度差、そして、家の中の影の多さが、今の海の精神状態とダブって見えていた。
ジェネルだけではなく自分も、常に海の心の日なたでありたいと思っているし、最終的に海のすべてを理解し、海のすべてを受け止められるのは自分しかいないはずだと華耶は強く自負している。
その一方で、海と付き合った長くの年月の中で、海をかえって傷つけかねない言葉がたくさん増えてしまったことに華耶は自分の無力さを痛感していた。
『頑張ってね』なんて直接的な言葉は、海の歩んできた道のりや、抱えているものを考えたらもう海には気安く言えない。
最後に『頑張ってね』なんて分かりやすい言葉を海に投げかけたのは、いつだっただろう――。
華耶はそんなことを考えながら、なかなかコーヒーに手をつけずに、ため息すらつかずにどこか心が旅に出て行ってしまっている海を眺めていた。
ほどなくして、携帯にかけていたアラームが鳴り、華耶は慌ててお盆を手にとった。仕事の休憩時間の終わりが近づいているアラームだ。この後はまた仕事用の部屋でテレワークに戻らなければいけない。
アラームにすらしっかり反応していない海を華耶は見つめた。
「それじゃああたし、いったん仕事戻るからね。さすがにずっと休憩ってわけにもいかないし。……コーヒー、温かいうちに飲んでね。ぬるいコーヒーって、思ってる以上にモヤっとした味するから」
「ん?ああ。……ありがとう」
ようやくコーヒーを出されたことに気づいた様子を見せた海は、あわてて口をつけた。
素直にありがとうという言葉が帰ってきた華耶は、その言葉にうっすら口角を上げてしまった。そうしてからすぐさま、そうやって、すぐに嬉しくなってしまう女としての単純さがダメなのだ――と自分を律した。
海をダメにしてるのは、自分のそうした女としての顔のせいなのだ――と、海に背を向けてから唇を噛んだ。
「……正直言って、複雑です」
海はこうなることを分かっていて、連絡を入れた。分かっていたのにわざわざ連絡を入れたのは、今、ジェネルと会っても、なんだか気まずい空気になって、変な時間ばかり流れそうだったし、薫に相談したところで薫に気を遣わせてしまうように思ったからだ。
目の前でブツブツと話し続ける男の顔見たさに連絡を入れたというよりは、目の前で浮いた話に気をつい緩めてしまうこの男に文句を言える程度の感情を取り戻したかったから連絡を入れた――というのが正しいだろう。
携帯を見せびらかすこの男――田中は、相変わらずあまり血色のよくない表情のまま、ネットニュースだとか、ゴシップなんかを次々見せびらかす。血色があまりよくないのに、時折表情をニヤつかせてなにやら物思いにふけている感じがまた海を苛立たせた。
どうやら他人に苛立つ程度の感情はまだ自分に残っていたらしい――と海は確認した。
田中によると、アメリカに拠点を移した交際相手、Na0tomoが順調にそのツアーだとか、CDを売り飛ばしているらしい。
日本ではその優れたプロポーションからアイドル路線でもあったNa0tomoが、アメリカでは日本ほどアイドル路線だとかグラビアアイドルとしての活動だとかをしなくてもツアーに集客できているということだとか、一方で、それを『実際は見に行ってるのはアジア人ばかりで、現地アメリカではそこまで有名ではない』だとかいう記事だとかを田中はブツブツと海に話してみせた。
「……売れずに帰ってきたら、それはそれで、悲しいことです。でも、アメリカで売れ続ければ売れ続けるほど、俺は、ナオと一緒にいられる時間は少なくなるってことです。だからって俺は、それを理由に野球をやめるわけにはいかないんですよ。マイナーでもいいからアメリカの球団に雇ってもらうなんてことも、決して僕の考えとしてはないわけではないですが……でも、それはやっぱりできないです。ナオは、俺に追いかけてきてほしくてアメリカに行ったわけではないですし、俺だって、ここでまだやるべきことがあります。でもやっぱり……ただ待つのは、辛いです。たまにやっぱり、俺は俺のために、ナオを追いかけるべきなんじゃないかって時があります。ツアーが終わった12月の末にちょっとだけ帰ってくるみたいですが、もう行かないでくれ、なんてことを言えるほど、俺はちゃんとしてません。俺の一言で何億、何百億なんてお金が動いてる世界をどうにかするわけにはいきません。でも、できるなら、ナオをこの腕から離したくない……」
相変わらず、どうしたいのか分からないようなことを田中はブツブツと自分の表情を窺いながら話し続ける。
自分に対して何か言ってほしいことがあるような素振りで田中は語り続けるが、海はそんな田中を見ながら、結局、自分がやっていることも田中のやっていることとはそう大差ないのではないか――という気持ちが一瞬よぎった。
田中が、自分になら何を言ってもなんとかしてくれることを期待しているように、自分もまた、華耶やジェネルに、そうして話したところでどうにもならないことを言ってしまっている。
田中がナオとやらに自分の軸をぶれてしまいそうになるように、自分だってそもそも田中に何か言えるほど軸がしっかりしているのだろうか――。
華耶もジェネルも、きっと自分がそう言えば、そんなことはないと否定し、甘やかしてくれるだろう。
やっていることは似ているかもしれないけれど追い込まれている状況が違うだとか、仕事のこととプライベートのことを相談するのとではわけが違うだとか――ありとあらゆる言葉をもって、自分を際限なく甘やかしてくれるだろう。
だが、自分は田中の言葉を受け入れられるほど――それこそ、田中の言うナオほど、自分には包容力などない。田中から言われた言葉なんかを鬱陶しく思ったり、あるいは、自分にそんなことを言ったところで何も変わらないだろ、と突っぱねてしまう。
結局のところ、自分には華耶やジェネル、ひいては清兵衛といった、自分にたまたま甘やかしてくれる人物がいたからたまたま自分がここまでメンタルを保つことができたのであって、自分が誰かそういった甘やかす存在になろうとしないのは、いったい正しいのだろうか――?
自分だって今まで散々田中という存在を使っておいて、田中の恋愛相談なんかは心底どうでもいいと思っている。それでいて、聞くだけ話を聞いてやって、最後には『そんなつまらないことで……』と一蹴するつもりでいるのは、田中にとっていくらなんでもあまりに失礼ではないのだろうか――?
考えてもどうにもならないことばかりが、海の頭にぐるぐると渦巻きはじめ、田中のハッキリしない言葉がうっすらとだけ耳に入っては記憶に留まらないまま通り過ぎていく。
とりあえず『お前は傲慢だ』という、一言だけ言っておきたい結論ばかりがそこにあって、途中から田中が何を言っているかは完全に聞き取れずにいた。
主張が右往左往する田中の言葉だけでなく、考えがまとまらないままの自分の頭の中――それが、海から集中力を著しく削いだ。
「――どう思います?」
「まあ、いいんじゃないかな……」
聞いていなかったことを誤魔化そうと、海はとりあえず田中が返してほしそうな言葉を選んだ。選ぶだけ選んでおいて、それから田中の顔色を窺った。
田中は相変わらず冴えない顔のまま、そのどこかすっきりしない海の言葉に対して不快感を露わにした。
「もっと真剣に答えてくださいよ。時折こうやって送られてくるキワどい自撮り、本当は他に男がいるんじゃないかなって気にもなります。第一、こんなもん仮に流出なんかしたら俺、どうしたものか……」
携帯の画面をがんがんと指差す田中。Na0tomoの、とても公になどできない――それこそ、芸能スクープを狙っているような連中が見たら砂糖菓子にたかるアリのようにつかんでは離さないであろう、すさまじいショットが次々スライドされてくる。よくもまあ自分にこんなものを見せようと思ったものだ――というようなものが次々とスライドされていく。
華耶がかつてそうであったように、Na0tomoもまた、会えない寂しさをこうした形で表現していたことに海は少し懐かしさを感じたが、いざこうして他人の恋愛関係のプライベートな一面を見た海は、それと同時に心底どうでもよさを感じた。
「現に俺にこうして流出させてるじゃないか。別にお前の彼女のそういう写真なんか、自分の中にだけとっておけばいいだろ。俺がこんなの見て、どうするんだよ。別に俺に印刷してくれるわけでもないだろうし、大体、俺はこういうのには困ってない」
「……だって、困るじゃないですか。突然リンクだけ張られたメール送られてきてこんな。止めさせたほうがいいって分かってるのに、うれしいって気持ちもあるもんだから……」
「クラウドあたりに保存しとかないで、それをよりによって携帯本体に保存してるお前もお前だよ。携帯、落としたらどうするつもりなんだ」
「……いや、だってリンクなんて送られてきたら気になるじゃないですか」
「まずリンクそのものを疑えよ。いつか詐欺メールに引っかかるぞ、お前」
言葉とは裏腹に、どこか血色のいい田中の表情を見るに、田中も田中でNaOtomoに寂しいから写真なんか送るように連絡でもしたのだろう。
自分だって、華耶から試合後に何度も似たような写真を送りつけられたことが何度もあった。あの時と同じような光景をこうして第三者の立場で見てみると、自分は他人にこんなことを相談しなくてよかった――という気持ちもあったし、真剣に付き合い方に関して相談したかったはずの田中のシリアスな表情が、どこか惚けた表情に変わってしまったのを見て、今の状態の田中なんかよりも早く引退してなるものか――と海は強く思った。
自分の中の闘争心が決して枯れてしまったわけではないことに海は安心感こそ覚えたが、今度はナオとやらの自分にしか見せない表情だとか仕草だのの話をまた長々と話し始めた田中を見て、こんなやり方で自分の心の生死なんか確認せず、ジェネルの家でも尋ねてたほうがよっぽどよかったのではないかと海は激しく後悔した。