海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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15・心残り

「ただいまー」

夏休みや冬休みの間、それも、盆正月を理由に地元に帰ってきている友人らと会うためくらいにしかまともには戻らなかった華耶。大学に進学するために長野の実家を出てからは、ゆっくりと家で腰を落ち着かせて過ごすなんてことはこの2年の間なかった。

 

周りから見たら少し大げさに見える、正門の電子錠が解除される。

東京に出るまではなんとも思わなかった広々とした庭があたりに広がった。久々にこうして自宅の整った庭を見ると、本当に自分は今まで不自由ない生活をしてきたものだと華耶は思った。

 

東京に特別窮屈さを感じたことはなかったが、突然ここから両腕を広げて走り出してもまったく構わないどころか、複数人でボール回しをするほどの余裕がある庭の広さに、改めて華耶は本当に自分は自宅に帰ってきたのだなという感覚を覚えた。

 

玄関に近づくと、今度は家の電子錠が解除される音が聞こえた。

玄関の少し重たいドアを開けると、しっかりと暖房のきいた空気がふわっと漂ってくる。まだ11月のはじめだというのに耳までキンキンと凍みてくるような風の冷たさなんかよりも少しやりすぎなくらいのエアコンの暖気のほうが、華耶にとっては懐かしい気持ちを呼び起こした。

 

スーツケースを『よっ』と持ち上げながら、リビングへと向かう華耶。台所では、母の三葉【みつば】が料理を作っていた。

以前海をかくまったホテルのものほどではないが、存在感の大きい薄型テレビからは、刑事ドラマの再放送が流れている。

 

〈――木戸山!大島!今日という今日は本当に辞めてもらうからな!〉

〈いーや、オレたちは辞めない〉

〈だって俺たち、辞めない刑事だから〉

〈ンーン、決まってるねぇ――〉

 

三葉はアクションシーンに見とれているのか、しばらく続いているカーチェイスと銃撃戦を眺めていたが、CMになった途端、その興味を華耶に向けた。

 

「おかえりー」

「ただいまー。お父さん、会社?」

「うん。なんか、プレゼンの企画書ちょっと張り切ってるみたいで」

「へぇ」

「『久々に君にも誇れそうな仕事だ』なんて言っちゃってさ。そんなことしなくたってお父さん、十分かっこいいのに」

「アツいね」

「華耶が思ってるよりずっとね」

自分の記憶が間違っていなければ、まだギリギリ40代前半――確か、44歳と言っていたはずの三葉。今時40代前半なんてまだまだ老け込む歳でもないが、相変わらず若々しく、全身にはハリがあった。

 

ロングヘアを低い位置で結ったタイプのポニーテールを揺らしながら台所を右往左往して料理を続ける三葉の姿に、華耶は勢い負けしそうになった。

久々に会うのだから少しくらい衰えてるのではないかなんて思っていたが、むしろ、また少し若くなったようにすら華耶には見えた。

 

華耶の父、竜匡【たつまさ】の帰りが遅くなっても温めればすぐに食べられるように、と三葉はポトフを作っていた。

最近はずっと仕事が忙しいようで帰りが遅く、少しでも体力がつくように、と普段より肉を多めにしてあるらしい。幸い二人とも、胃もたれをするようなタイプではなかったから、食べ物で精をつけるようにしてるのだという。

 

「先にご飯にしよっか」

「うん」

夕飯のポトフと牡蠣の炊き込みご飯を食べながら、華耶の母は話を切り出した。

 

「――それで?話があるっていうのは?」

「うん。割と、大事な話」

「大学院に行きたいとかそういうこと?」

「んー……もうちょっと重たいタイプの話かな」

「なるほどね」

そう言って、母親はお椀に盛り付けていたポトフをぐっと飲み干し、静かに置いた。

 

「好きな人ができた?」

「好きな人なら、とっくにできてるよ」

笑顔の三葉と、それに対して笑顔で返す華耶。二人とも同じように笑顔だが、自分から少し言い出しづらい分、華耶のほうが押されている。

しばらく笑顔のまま言葉が続かないことに、三葉のほうから言葉を切り出し始めた。

「だろうね。顔にそう書いてあるもん。前よりずっと、華耶、きれいになったもんね。何?カレシに結婚してほしいとか言われた?」

「うん」

これから自分が言うことや考えていることすべてが三葉にはまるで分かっていて聞いているようだったから、華耶はぞっとした。

 

「おお、なかなかやるじゃん。華耶のカレシも」

「ただ――」

「ただ?」

ふっ、と笑顔を曇らせた華耶の表情を、三葉は不思議そうに見つめていた。

 

「――俺をもらってほしいんだ」

 

きょとん、と華耶は不思議そうな顔をしながら――呆気にとられたような素振りでしばらく海を見つめた。

いたって本気で話している海の意図がまだ理解はしきれず、二人の時間は少しだけ止まった。

 

「えっ……?ええ……?いやいやいやいや、あたしはもうほら、海くんのものだし、海くんはもうあたしのものみたいなものじゃん。何を今更」

「そうじゃなくて……その……なんだっけな……日本語でなんかこう……あっただろ、そういうの。結……婚……?プロポーズのこう、なんかちょっと普通と違うかんじのやつ……」

「……あぁ!」

思い出したようにして華耶はハッとした顔で海を見つめ直した。

じっと海の表情を見たまま、海が言った言葉をもう一度思い出し、そして少しだけ赤面した。

 

「い……一応だけどそれ、プロポーズしてるってことだよね?」

「……プロポーズって言っていいのかな、これ……。だって、俺は……ほら、その……」

「まぁ、うん。海くんの環境だと確かに、ちょっと特殊だもんね。えーっと……あれでしょ?つまり……結婚はしたいけど、あたしが海くんのお嫁さんになるんじゃなくて、海くんが婿に入りたい……あ、えーっと……あたしの家に入って、あたしのとこの苗字名乗りたいってことだよね?」

海が言いたかったことをなんとか解釈しながらも、赤面したまま華耶は海を見つめる。

 

「そう、それ。婿。……言葉で説明するにも、難しい漢字だから説明できなくて。そうか、あれ、"ムコ"って言うんだったか」

少しだけ恥ずかしそうに海は横を向いた。

婿という字や婿入りを説明できなかったのが恥ずかしかったのか、プロポーズのことが恥ずかしかったのか――あるいはその両方だろうか。真剣だった表情が急に真っ赤になり、子供のようだった。

 

「あたしは海くんにもらわれるのも、もらうのも、どっちでもいいよ。海くんとしては、あたしをもらうんじゃなくて、あたしにもらわれたいんだよね。もらわれたい、っていうか、こう……」

「……こんなことしたって、俺の生まれが変わるわけじゃないんだけどさ。華耶の苗字をもらって本当の意味で日本人になりたいんだよ、俺。何したって、どこまでいっても、俺は日本人のまがいものなんだろうけど。……婿って字を説明できないくらいの男をもらうってことはさ、華耶だって……華耶の両親だって、何言われるか分からないよな」

「そんなこと、あたしは気にしないよ」

いたってまじめな顔で華耶は海を見つめた。見つめたものの、突然の海からの言葉に戸惑いも隠せなかった。素直に喜んでいいのかどうかだって、迷った。

 

「でも――」

「分かってるよ。俺もまだまだだし、華耶だって来年無事に過ごして、ちゃんと卒業しないといけないし」

「そうだね。卒論だって書かないといけないし、就職だってあるし」

「うん」

「前向きに検討させて。海くんきっと、お父さんのことでいろいろ思いつめてるところあると思うから――」

 

「えー、結婚の話、保留しちゃったんだ?」

「……うん」

三葉は思わずテーブルに置いた肘を少し前に出し、せり出すようにして華耶を見つめた。

 

「何が不安なの?」

「ひとつは、海くん……彼氏のお父さんの件。お父さん、こないだニュースに載っちゃったんだ。逮捕された、って」

「別に華耶のカレシが直接何かしたわけじゃないからそんなこと気にしなくても。え、何?そのくらいでうちの会社揺らぐと思ってた?」

テレビの前に飾られた社章入りの時計がキラリと光ったように見えた。よく磨かれていて、埃がこびりついている様子もない。

 

かつて独立リーグの球団も持っていた企業――現在は主にコンピューターゲームやスマートフォン向けゲームを開発している企業、ヨシイ・エンターテインメント。華耶の実家は、その創業者を遠い親族にする一族――いわゆる、佳井ファミリーの一員だ。

単なる大企業を持っているだけではなく、遠い過去にはプロ野球界に進出して活躍した者もいる、野球とも根深い関係にある一族でもある。

 

一族の名がどうこう――ということを華耶自身が考えたわけではなかったけれど、自分の意思だけで海を果たして自分の両親が受け入れてくれるのかどうかは、不安だった。

 

「そういうわけじゃないけど――反対されたらあたしも家出ようかなって思ってた」

「そのくらい真剣なんだ。若いね」

「お母さんほどじゃないよ」

「そういう意味で言ってるんじゃないよ」

華耶の冗談は噛み合わず、妙な空気が流れた。華耶は少しばつが悪いようにしながら、髪をかきあげた。

 

「分かってるってば。あたしのカレシ……お父さんからずいぶんひどいこと言われたみたいで、今は家も出てしまっててさ。結婚を期に、完全に縁を切りたいみたい。お母さんもだいぶ前に家を出ちゃってるみたいでさ」

「そっか」

具体的に何をされたのかを三葉は聞こうとしなかった。

 

「……でも、それだけなら別に縁だけ切ればいいだけって思うじゃん」

「まぁ、そうだね」

「日本人じゃないんだよ。いわゆる帰化人。だから、自分の苗字も嫌ってる。この苗字を名乗ってるうちは、日本人になれないなんて言ってさ」

「……」

「あとは――」

「華耶」

しばらく、聞き手に回っていた三葉は、割り込んで華耶の顔をじっと見つめた。いつになく真剣な眼差しで、組んでいた腕をほどき、テーブルにその両手を置いて、そのまま目線を逸らさずにいた。

 

「お母さんは反対しない。今までも、華耶の意思を尊重し続けてきたから、これからだってそう。なんとなく、華耶のカレシのお父さんと相当縁を切らないといけないような事態になったことも想像はついた。でも、お母さんちょっとだけ言いたいことがあるの」

「……」

「本当に不安なことは、もっと別なところにあるんでしょ?わざわざ長野に戻ってきたってことは、それを話しにここにきたんだよね?今言ったことも、きっと説明しないといけないくらい大事なことだったんだと思うけどさ。華耶が一番不安に思ってること話してもらわなきゃ、お母さん、華耶のカレシのことは別に気にしないけど、華耶がその人を幸せにできるって確信できない。カレシの生まれのことなんて些細なこと、お母さんは気にしない。でも、華耶がちゃんとその人を幸せにできる自信がないなら、お母さんは、カレシを佳井家に入れることに賛成できない。カレシのためにならないからね」

母親というものは、いくつになっても自分より大きなものだ。手の内など、いつまで経っても読まれてしまっている。

 

華耶はグラスに注がれた水に少しだけ口にして、不安げにしばらく目を伏せながら――口にしていいかどうか迷っているその言葉を吐き出すタイミングをうかがっていた。

 

~~~

 

華耶の父、竜匡の膝に座る華耶。竜匡もまた華耶を後ろから肩を掴む形でソファに二人で座り、じっと大型テレビに映る季節はずれの甲子園の映像を眺めていた。

打席でバットを構える真剣な眼差しの竜匡は、華耶の知っている父親としての表情よりもはるかに険しく、真剣そのものだった。

 

〈――さて、この試合注目のバッター佳井。先ほどの打席はショートの頭上を抜けそうないい流し打ちだったんですが、ショートを守る白崎の好プレーで阻まれています〉

〈身体能力の高さを見せ付けましたよねー。並みのショートでは捕れないでしょう〉

〈こちらもプロ注目の大型内野手です、白崎。どうでしょう、佳井としては少し意識してしまいそうな場面ですが〉

〈まぁ、佳井君の持ち味というと、高校生離れしたバットコントロールと、なんたってあの渋いバッティングセンスですからね。少しでも相手が嫌がるところに打球をしっかり狙ってくるわけですから。でも、左打席の佳井君からしてみたら、流し方向を意識すればするほどそこに白崎君がいますよね。それだとバッテリーの思うつぼなんですよ。ランナー進めたい場面なのは分かるんですけど、彼の器用さを、白崎君に対する意地で汚してほしくはないですね。ここは冷静に、自分のできる仕事をしっかりするべき場面ですよ〉

 

それまではそれなりに饒舌だった竜匡も、自分の打席の姿のときだけは口を閉ざして真剣な眼差しで画面を見つめていた。

そんな華耶もまた、父親を邪魔しまいと黙って打席の様子を見ていた。まだ幼い華耶からしても、ここで口を挟むべきではないことはよく分かっていた。

 

〈二球続けて外側、ボール。やはりここでも選球眼のよさが光ります〉

〈いいですよ。あれを落ち着いてスイングしないのが彼の持ち味です。振ってくれ振ってくれといわんばかりのボールに手を出さずに、そのうち真ん中に来たボールを素直にはじき返せばいいんですから〉

〈三球目、これも外ですが……打った!これは抜けるかァアアーっと!!ここも白崎!白崎だ!白崎が止めています!6-4……3のダブルプレー!佳井、ヘッドスライディングを試みましたがこれはアウトでした〉

〈うーん……やっぱりここも、白崎君の守備が一枚上手でしたよね。佳井君も決して悪い打球だったわけではないんですが、反応速度が一枚も二枚も上でしたね。これに飛びついてからの正確なスローイングを決められてしまうと、ショート方向に転がしてチャンスを広げるというのはちょっと厳しくなりますよね。もっと甘い球をしっかりセンター前にはじき返す意識を持たないと、なかなか攻撃の形は作れないかもしれません――〉

 

「華耶。お父さんこの打席は本当にこれが抜けたと思ってたんだぞ」

自慢げに、でもどこか寂しそうに竜匡は幼い華耶と録画した映像を見ながらそう言った。

「そうなの?」

「ああ。でも、打球は転がすだけじゃダメだ。華耶はきっとお母さんに似て背が伸びるはずだから、その時は甲子園のバックスクリーンまで飛ばして、そのままプロ入りするんだぞ。やっぱり野球ってのは、一打で流れが変わるのを皆好き好むから」

「でも、あたしはお父さんみたいなこういう打球も好きだけどなあ」

「好きだけじゃ、野球なんかできないんだ。力こそパワーだ。ほら、言ってみろ」

「力こそパワー!」

 

華耶はそんな竜匡を、嫌いにはならなかった。自宅に飾られた本家の先祖の写真や、父親の若い頃の写真。どれも、野球をしているその写真は輝いているように見えた。

だからこそ、華耶は野球をやや強要されているような形となっても、野球も、竜匡のことも嫌いにはなれなかったし、憧れを抱いていた。

 

「やめなさいよ。英会話だって習ってるのに、そんな英文法が崩れそうな言葉なんか覚えさせちゃ」

三葉がそれを遮るように――それでも、笑顔でそのやり取りを止めさせようとする。

 

「きっと顔も性格も君に似てるから、背も伸びるだろう。まだせいぜい小学校高学年なんだから、焦ることはないさ。僕の同級生だって、中学や高校に入ってから突然身長が伸び始めたやつもいるんだ。小学生の身長事情なんて、明日には変わってるかもしれないんだからさ」

「何それ。ふふっ」

「笑うことないだろ」

「ううん。なんか幸せだなって。でもね、忘れないでね。私は、今のあなたも好き。どんなあなたも好きだから、私はあなたと結婚したんだから」

「一生そう言ってもらえるようにがんばるよ」

「今のあなたが好きだから、今のあなたのままでいいの。無理にがんばらなくたって」

「でも僕は――」

「それ以上はダーメ。そういう性格が華耶に移ったらどうするの」

そんな"大人の会話"の意味は幼い華耶にはよく分からなかったが、高校の頃の映像をそうして繰り返し見ながら、どこをどう改善すればいいのか、などとバットを構えながら竜匡と談義する休日が好きだった。

 

高校を卒業してからの映像を竜匡は『勉強や仕事で野球どころじゃなくなったからね』となぜか見せることはなかった。その頃の華耶は大人というものはそういうものだと思っていたし、何も違和感も抱かなかった。

大学野球がそれほどテレビで取り上げられないように、大学でまで野球を続けている人間がその頃はあまり多くないものだと華耶は思っていたのだ。

 

中学二年の秋の大会が終わったあと、華耶が野球をやめると言ってから、竜匡はひどく憔悴した。

どうにかして野球を続けないか――怪我をしたわけでもないのだから、諦めずに続けていたらいつか――と引き止めたが、毎日のようにポジションを代わる代わる入れ替えられ、後輩からも次々身長を追い越され、徐々に部内の紅白戦ですらレギュラー落ちし、便利屋として使い潰された華耶は重度のスランプに陥り、自ら野球をしたいとはあまり思えなくなってしまっていた。

 

それ以降、竜匡は夜中に一人で当時の映像を見ながら酔い潰れている姿を華耶は何度も見たことがあった。寝言だって何度もあった。

あるときは華耶の名を呼びながらひたすら謝り、あるときは『自分はまだやれる』という趣旨の言葉をつぶやき、そしてあるときは酔い潰れながら――『怪我さえなければ僕は今頃』――だとか『僕が佳井家の希望だったのに』――と泣き崩れる姿をトイレに起きたときに華耶は見たことがあった。

 

そうした姿を見るたびに、華耶自身、野球をやめてしまったことへの後悔だとか、父親の期待に応えられなかったことだとか――自責の念にとらわれることもあったし、そうして夜な夜な、いまだに野球のことを引きずって、過剰なまでに三葉の期待に応えようとしている父親の姿に、形容しがたい虚しさを感じたりもした。

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