〈3番――センター――ジェネル――背番号――10――〉
どよめきとともに、期待のこもった歓声が球場全体に響き渡る。ジェネルはその歓声に笑顔で手を振って応え、スタンドを更に沸かせてみせた。
何年かぶりに3番に帰ってきたジェネルへ、前とは違う、確かに次の時代を担うにふさわしいほどの応援が、オーダー発表の時点から既に甲子園全体を揺るがしていた。
あれほど『そこ以外は守ったことがない』と言い続けてきて、そこしか守れなかったはずの一塁の守備にこの春からついている海は、ベースのあたりから外野のほうをじっと眺めていた。
急いで調整した、昔は嫌というほど使っていたはずのファーストミットは、いまいち手に馴染まない感じが続いていた。時間がきっと解決してくれるだろうが、久々に一塁守備についたことによる雑念を解決するにはまだ少し、時間が足りないように思えた。
かつては見慣れた景色だったはずなのに、いまいち自分が再び一塁を守っているという実感がないまま、どこかフィールディングがふわふわした感じでいる海。
入団してからずっと、仮に一塁だけ守れた世界があったなら――と考えたら負けなのも分かっているが、このままいけば『内野すべてのポジションを一軍でシーズン通して守った経歴がある』ということがネット上の百科事典あたりにでも書かれるだろう。
こんなつまらなく、珍しい功績だけが、かろうじて海のほんのわずかな支えになった。今にも崩壊しそうな木造プレハブの、雨漏りを繰り返すぼろ屋敷の木材くらいの、ほんのわずかな支えだが――。
初回の守備を終え、海はゆっくりとベンチへと戻っていく。相変わらず、自分のイメージとは少しずれた、違和感のあるミットの手ごたえだけがそこにあって、海は首をかしげた。
悲しいかな、3番を打っているわけではないということは、初回の守備は急いでベンチに戻って打撃の準備をしなくていい。初回が慌しくなくなった、ということに海は一度、内野席を見上げる。
確かにそこに、自分の名前の入ったタオルはたくさん掲げられている。
『佳井ー!』と、純粋に自分を呼ぶ声も内野席から飛んでくる。中には親子連れで、その子供たちまでもが手を振っている姿も見える。
初回、それに対して控えめでこそあるが、手を振って応えるほどの余裕が今はある。
一方で、選手という立場や、自分の調子という観点では、今の海にはかつてほどの余裕は全くない。少しでも手を振って声援に応えるくらいなら、結果で示さなければいけない――自分だってそう思っているし、今野らにそう思われてしまっては、自分は更に干されていくだろう。
しかしながら、自分を興業と言い放ったのはコーチである生駒のほうなのだから、自分は最後まで、大衆が求める佳井海でいなければならない。自分が今野から干され始めているからといって、手を振らないわけにもいかない。
ジェネルのことばかり心配しているわけにもいかないのだ――そう思いながら、海は相変わらず控えめに、自分の呼びかけに対して手を振りながらベンチへと静かに移動した。
「……何だよ、一丁前に緊張してそうな顔なんかして」
「ひゃんっ!?」
首に濡れタオルを置かれたジェネルは、珍しく驚いた顔をしながらベンチから飛び上がるほど身体を浮かせ、右へ首を向いた。そこには海がいつもどおり、硬い表情のまま腕組みをしながらベンチに腰掛けていた。
「……やめてくださいよー。私なりに、今後の自分の姿だとか――いろいろ考えてるんですよ、こう見えて。目の前の球を打つだけじゃ、きっとこれからの私は評価されなくなっていくでしょうから」
「ああ、そうだね」
皮肉そうな声色で海はふぅ、と天井を見上げながらため息をつき――ジェネルのほうは向かずに目線を少し落としてじっとグラウンドを見つめていた。
「……逆に、さ」
「?」
「逆に、俺がさ。……そんな日なんて来ないほうがいいに決まってるし、そうならないように俺だって練習はしてるつもりだけどさ。……逆に、俺がちょっとヒット打つだけで喜ばれるようにまで落ちぶれる時が来たとしたらさ。その時もまだ俺って、現役、続けてていいのかな。俺は……俺は俺を続けなきゃなんないのかな」
海の弱気な言葉に、ジェネルは言葉を一瞬詰まらせた。胸につっかえたいろいろな思いをジェネルは強引に飲み込み、海の肩をバシバシと叩きながら――
「なーりーまーせーんーよー。海さんがそこまで落ちぶれる日なんて、来ません」
と、からかうようにして海へ笑顔を向けた。
「3割半ば"しか"打てなくなってるのにか?」
「なッッ……!!何言ってるんですかー!?3割半ば"しか"て。"しか"て!?」
「"しか"だろ」
「ばッッ――あのですね、海さん?3割打てないバッターだってわんさかいるのに、"しか"て!?ダメですよほんとそーゆーの。3割半ば"も"打ってるじゃないですか。飛びやすいボールだとか、打者有利のボールだとか、いろいろ言われてますけどね?それでも3割半ばなんて1度くらいならまだしも。40歳越えてなお3割半ばを打ち"続けて"るんですよ、海さんは。立派にもほどがあるじゃないですか。40歳なんてもう3割どころか下手すりゃ2割届くかどうかをウロウロしててもおかしくないなんですから。そんな海さんがある日突然ガクンと打てなくなる日なんて、来ないですよ。これだけ心がボロボロになって、まだそれだけ打ててるんです。きっと、あと10年はこのまま居続けられますよ」
「10年先もこの球団や監督が俺を求めてくれるかどうかだけどね」
海は嫌味を言いつつ、ジェネルの顔をぴくりとも見ないまま、先頭打者がヒットで出塁するのをじっと見つめていた。頭の中では、この状況で自分が3番だったならどこを狙うべきなのか、何をどう打つべきなのか――そんなことでいっぱいだった。
ジェネルの顔なんか見て気をとられでもしたら、仮に打順が回ってきたとして、今の自分がヒットを打てるとは思えなかった。
「ほら、お前も準備しないといけないだろ。とっとと行け」
「はいはい」
分かってますよ、と言いたさそうな顔でジェネルは立ち上がり、バットを握ってベンチから出ようとしたが――
「……海さん」
一度振り返り、海のほうを、ニッと笑顔で見つめるジェネル。自信に満ちた表情の中に、どこか、恐れも見え隠れする、変わりやすい天気のような顔がそこにはあった。
「……打てなかったら、奢ってくださいよ」
「バカ言え。打てないつもりで打席に向かうやつがいるかよ。元3番打者に向かってそんな言葉、嫌味か」
「えへへ」
舌をぺろりと出しながら、ジェネルはネクストバッターサークルへとゆっくり歩いていく。
足取りはどこか、震えているようにも見えた。本人なりに3番の重圧と戦っているつもりなのだろう。海は変にアドバイスすることもなく、前よりも少し大きく見える背番号10をじっと見つめていた。
海が普段使っている細長いバットにしてもらってから、20年近い年月が経っている。何年か前、もともとは視力検査だって余裕で2.0のものは見えていたはずなのに、2.0を切るかどうかくらいまで落ちたのは事実だし、自分では当てたと思っているそのバットがほんの少しだけ手元が狂うことも増えてはきた。
それはメンタル的な要因が強いのではないかと自分では思ってはいたが、反射神経だとか、ちょっとした手先の器用さなんかは5年、10年前と比べたら、数値上は極端に落ちてはいないのだけれども、感覚的なレベルで少しは衰えてきているような気がする。
とはいえ、昔ほど力が入らない気がするとも思っている一方で、別に特段痛んでいる場所だとか、怪我をしただとかも相変わらずないこともあって、視力以外に関しては、人間、衰えたと自分で思うからそこから衰えていってしまうのだ――と海は思っていた。
ちょっとした手元の狂いもカバーできるようにバットの先を太くするだとかも一応、少しは頭の中にはあったのだが、今まで20年近くこのバットの感覚でスイングを続けてきたのに、今になって突然、今の自分に合うバットを急いで作ったとしても、その時点の自分に合うだけでしかない。
これからも、自分が自覚できるレベルかどうかはさておき――少しずつは衰えていくであろう自分の身体に合わせてバットなんか毎年作っていったら、今まで自分の中に感覚として養い、そしてしっかりと形にしていたありとあらゆるバランスを自分の手で崩してしまいそうだったから、海は極力今のバットを使い続けるつもりでいた。
自分だって、打てないつもりで打席に向かうわけではない。それでも、冗談でも『打てなかったら奢れよ』なんて言える相手が居たら、どれほどよかったことだろう。
「今週のケーサンクロリス杯どうする?」
「言うて3歳牝馬やろ。ナゾデスがまあ軸になるわな。ケーサンって距離いくつやったっけ」
「東京の芝2000」
「ナゾデスが軸で、あとはまあ何に誰が乗るかやないの。ストロベリータイムもワンチャンあるかな……まあ、そこにキャッチミーとスマイルアゲインとナイルインブルーあたりがヒモちゃう」
「ナイルインブルーはちょっと厳しすぎない?血統はともかく実績が」
「3歳馬限定やぞ。何がどう来てもおかしないがな」
出番を待つベンチ組の数人がメモをとっているような素振りで競馬の話に花を咲かせる。
1回から突然自分に出番など来ることはないと思っているのだろう。そういう点では自分だって同じ気持ちでここに戻ってきたのだから、海は特段咎めることをしなかった。咎めたところで、1軍と2軍を行ったり来たり、よくてせいぜい準レギュラーに時折昇格しては成果を挙げられずにベンチウォーマーに戻るような生活を繰り返している人間に、今の自分が言葉をかけても嫌味ととられたり、どうせ響かないだろうと海は思っていた。
それを押し通してでも咎めるほどの実力が今の自分にはもう伴っていないことに、海は悔しさと虚しさを感じた。
「楽しそうだな、お前ら」
生駒がその会話に割り込んでいく。さすがに止めに入るか――と海はその様子を横で聞いていたのだが――
「俺はニジノドリーマー単勝で行こうと思ってる」
海は聞こえてきた生駒の言葉に対して大きく咳払いをしながら、ジェネルの打席を見つめていた。
「……低い」
甘いコースのストレートを見逃したことで調子が狂ったのか、続けて投げられた低く沈んだスライダーに手が出てジェネルは三振して帰ってきた。
「……ランナー二塁に置いて三振は、ちょっとダサかったですよね」
「あれが俺自身の打席だったなら、もっとダサいと思っただろうけどね」
「フォローのつもりかもしれないですけど、全然フォローになってないです」
「まあね」
海の隣に打席から戻ってきたジェネルが座りこみ、バットの握り方や手首のこなしを確認する二人。
隣でジェネルがあれこれ話してくれるから、競馬の話が耳に入ってこなくて海は少しだけ助かったような気持ちになっていた。
結局この日、ジェネルは5打席を無安打――海もまた、4打席を無安打、2つの三振を喫した。チームも4安打という悲惨な結果に終わり、守っては11の安打を許したチーターズだったが、奇跡的にそのホームまでは破られないまま、試合を引き分けで終えた。
「負けたようなもんだよね。引き分けっちゃ、引き分けだけどさ。いったい、4安打でどう勝つっていうのかな。初回に得点圏にランナーを置いてチャンスを生かせない奴もいるし。全体で相手を打てないなら打てないなりに、めぐってきたワンチャンスを生かすような打撃してくれないと困るよね。で、下位打線は下位打線で、そうやって上位打線の破壊力に甘ったれてちゃ困るわけ。最近ずいぶんと、監督に物申したいタイプの選手が出るようになったけど、まあ、世代ってやつなのかもしれないけどね。物申すなら、結果出してからにしてくれると、僕も助かるんだけどねぇ。何かあったとき、周りから真っ先に叩かれるのは僕なんだから、そろそろ僕に苦労かけないでいただきたいんだけどね、君たち」
最近、今野は何かにつけてカリカリとするようになった。ミーティングも言いたいことを言い倒した後は手短に終わらせる傾向にはあるものの、それが以前よりもきつめな文句だけ――ということも多くなった。
結局、今野が以前よりも周囲に不満を散らすようになった本当の原因が何なのかは誰にも分からなかったが、そうして今野が一人でカッカしている状況が増え始め、ベンチやミーティングルームの空気はよどみ始めた。もっとも、よどんでいる原因を作っている大半は選手なのだから、海からしてみれば自分のことを言われている自覚が足りなさ過ぎる――という思いはあったのだが。
「――あれ、更年期なんですかね?」
「バカ。そういうのよくないぞ」
「海さんの前だから言うんですよ。他の人には言いませんよ、こんなひどい冗談」
「俺の前でもよしてくれよ」
ジェネルは約束どおり海に食事を奢られ――いつもどおり近くの焼肉屋で夕飯にしながら、そんな冗談を口にした。
「で?年間通して3番は打てそうなわけ、お前は」
海は今野の話など別にしたいわけではないから、話題を即座にジェネルのことへとすり替えた。ジェネルは顎に手をやり、少しだけ考えた素振りをしながら――
「たぶん、こなせるとは思うんです」
こなせると思う、というジェネルの割と前向きな言葉に海は感心した。今野から見て3番で使い続けてくれるのかなんかよりも、自分の手ごたえについて真っ先に話したジェネル。そこには確かに、今までにはなかったベクトルの自信がある――そんな風に海には感じられた。
「今日の打席でそう思えたのか。お前、なかなか根性あるよ」
「嫌味ならやめてください。……いや、でも本当、たぶん、きっと私……できるとは、思うんです」
歯切れの悪い様子のままジェネルは肉を焼きながら、目線を逸らしたり落ち着かないような様子でしばらく話を途切れさせた。
「じゃあ、何が気になってるんだよ」
「……私、やっぱり、海さんが居る間は海さんが3番を打ったほうがいいと思うんです。別に、日和ってるわけでもなければ、自信がない、ってわけでもないんです。でも――」
海はジェネルの言葉を少し鬱陶しそうにしながら肉を食べ続けていた。
「ファンも、私に期待してくれてはいます。大きい歓声は、正直……気持ちよかったです。これから私は、海さんの後を名実ともに継ぐんだ――って。でも……」
「……でも?」
「あの歓声は、今はまだ、海さんのものです。あの場所もまだ、海さんのものだと私は思ってます。海さんが海さんであり続けているうちは、海さん、6番になんて居ていいわけがありません」
「さっきも言ったけど、50にもなってヨボヨボになってまで俺は現役なんて続けたくないよ」
「だからですよ。海さんが海さんでいられるうちは、やっぱり、3番じゃなきゃダメだと思うんです。海さんがもう3番じゃ居られない、って思うまでは、続けるべきだと思いますし、そういうこだわりで生きてもいいと思うんです」
「……」
海はまっすぐな視線のジェネルを見て少しだけ笑い――
「それでお前が俺より先に引退でもしたら、笑いものだね」
と冗談を飛ばした。
「でも――」
海は箸を置き、腕を組みながらジェネルを見つめた。
ジェネルも、海の真剣な目つきを見て、思わず箸を置いた。
「ハッキリ言おう。6番は、俺には合わない」
やっぱりな――という顔でジェネルは海の顔を見つめた。ここで6番に甘んじてもいい、なんて言い始めたら、水でもかけてやろうと思っていたくらいだったから、ジェネルは心の底から安心した。
「……よそで打つならきっと、6番でも俺は構わないのかもしれない。でも、今のチーターズで俺が6番をなんとなくで打ち続けてるのは、あまりよくないと思う。あんな采配、誰のためにもならない。大体、お前が打ったところで、下がちゃんと回っていかないじゃないか。あいつら、ここぞって場面でも大振りしかできないから、大事な場面で併殺ばかりだ」
うんうんと頷いたジェネルにはあまり気づいていない様子で、海は言葉を続けた。
「投手に初回からプレッシャーを与えていくっていう意味でも、ランナーを背負ってる率が高いところに俺がいたほうが、たぶんうちの初回の攻撃はうまく回ると思うんだよ。きっと6番に座っている俺っていうのは、3番に居るときほどそんなプレッシャーは与えられないと思う。何より、俺が6番を打つってことは、俺が仮に3番に戻ったときにも、今までほど俺が怖い打者じゃなくなってしまったんじゃないか、って相手に思われてしまうだろ。俺は、これまで残してきた成績でうまいこと存在感を食いつないでるところがあるから、この遺産をうまいこと切り崩していけば、多少ハッタリだってかませると思う。お前は率も残せるタイプの打者だから、お前の前を俺が打っているべきだとも思う。どうせ、俺とお前くらいしか長打も率も期待できる打者はもうスタメンにはいないんだから。でも……きっとそんな訴えを起こしても監督は動かないだろう」
「……」
海も、ジェネルも、最近の今野がいやにピリついていて、これまで以上に言動に一貫性がないことを思い返していた。何をどう考えているかを周囲にはしっかり伝えないから、余計にやりづらい。
それでいて選手の訴えなんかも、のらりくらりと理詰めでいなしてしまうから、たちが悪い。
「一回ああなってしまったなら、考えが変わるまで、放っておくしかない。だからこそ……何とかして、俺は実力で3番に帰らないといけない。……俺が俺で居られる唯一の場所は、いつしか『一塁を守ってる俺』じゃなくなってしまった。打順なんかにこだわりなんてないし、何番を打とうが、俺は俺だって、今までは思ってた。でも、最近やっぱり、今の俺の置かれてる立場は、俺らしくないと自分でも思ってしまうようになった。きっと、それなりに、自分の任されてきた仕事に変にプライドがついてきてしまったんだな。でも……今の成績じゃ、ダメだな。もっと打たないと、今野だけじゃなく、世間も俺に納得してくれないだろう」
海の強い眼差しとともに、全身からにじみ出る悲壮感。
ジェネルは、日本一になる、なれないにかかわらず、ひょっとしたら海がこのまま優勝できなかったとしても、あと何年かで自分の意思で現役から退こうとしてるのではないかと最近思うようになった。それほどに最近の海は『自分らしさ』や『自分らしさをプレーで表現すること』にこだわっていた。
3番を剥奪され、6番という打順で打席に向かうここのところの海の姿は、試合中はともかく、普段なんかは今までほど覇気がなく、自分はもう終わってしまったのではないか――という雰囲気が出るようになってしまった。
いやな鞭の打ち方だとは思ったが、いくらか目の前にいる海の瞳に闘志が戻ってきたことをジェネルは感じていた。
自分の言葉で海が少しでも、一日でも、一年でも、自分と一緒に野球を続けてくれるのなら――海が海らしく野球をしてくれるなら――そして、その間に一緒に日本一になれるなら――。
自分にできるやり方で、海とのこの戦いを続けていこうとジェネルは改めて思った。