11回裏、バッテリーとのサインが合わないことで投手が調子を崩したのか、海からヒットを打たれた後、一球もストライクが入ることがないまま4球で海は二塁へ進むこととなった。続く打者に対して相手のバトルシップスは投手を交代したものの、代わった投手もどうしたことか一向にストライクが入らず、あっという間に3ボールという状況になってしまっていた。
サヨナラの絶好のチャンス。それでいて相手バッテリーの波長が合っていないという、これ以上ない好条件が揃っている。こういう場面で自分が打席に立っていたなら――と海は悔しく思いながら、スタートを切る準備をしていた。
なんとかストライクゾーンにと投げ込んだ甘めのストレート。打者はそれをやや大げさなスイングで弾き返した。
ああっ――と、観客席から期待からため息に変わるような声が漏れた。高く上がったフライは、その弾道だけ見ればひょっとしたら一発あるのでは――と誰もが思っただろう。先ほどから急に吹き始めたライト方向への逆向きの風が、ボールを右へ右へと必要以上に流し、ファウルゾーン手前くらいまでそのボールを押し戻していった。
なんとしてもこの試合は勝たなければならない――。
この20数年間、自棄になったり、やけくそで挑んだり、自分の意図しない作戦で挑んだ打席も数え切れないほどあったが、落としていい試合など一つもないと思っていたし、これからも、本来、同じような態度で試合に臨まないといけないことは自分だって分かっているつもりだ。
家族が見に来ているから勝たなければならない、というのはどんな試合も落とさないようにプレーするという海のポリシーに反するが、それでも、結果的にそれが勝利に繋がるなら、家族が試合を見に来てようが見にきてまいが、同じことをきっと考えただろう。
二塁ベース付近であんぐりと口を開いてその白球の行方を見つめながら、外野手の捕球とともにふっ、と笑みを浮かべたのち、おもむろに三塁へ向かって走り出す海。
こうした時に強引なタッチアップを仕掛けるタイプではなかったし、周りも自分がこうしたときに無茶はしないということをよく分かっていたから、外野が少しゆるい動きで捕球体勢に入ったのを海は見逃さなかった。
ベースランニングのタイムがあまり変わっていないからあまり内外にはバレてはいないが、海はここのところ、自分が今までほどまっすぐを速くは走れていないことに気づいていた。自分でイメージしている足の動きよりも、どこか足取りが重いのだ。
決して足腰や膝を痛めているわけではないのだが、一歩、一歩と足を踏み出すスピードが昔ほどきびきびとした動きにならない。それがかえってベースを踏み外さないような歩幅になっているらしく、ベースランニングの速度自体はあまり変化ないのだが、ただひたすら、次の塁目指して走るという点において海は日に日に苦しさを感じるようになった。
なかなか返球が戻ってこないことにやきもきしている三塁手に対しても油断せず、海はその長い足を滑りこませて三塁へと進塁した。
これで一死、ランナー一・三塁。スクイズでも犠牲フライでもなんでも、次の打者は変に詰まらせてゲッツーさえ打たなければ、サヨナラ勝ちとなるパターンはだいぶ増えたはずだ。
自分なりに仕事は果たしたつもりだ。海は控えめなガッツポーズとともに、再び内野席へと手を振った。
続く9番には代打が送られ、3ボール1ストライクという有利なカウントから、打者はストレートを見送った。
3ボール、2ストライク。ややきわどいといえばきわどいコースだし、これを見送れば満塁になる。そうなれば、後ろが打ってくれるだろうと思ったのだろう。
無理して振りにいくよりも、審判があやふやなストライクゾーンでいるほうに賭けたのだろうが、審判だってそういつも自分にとって都合のいい判断をしてくれるわけではない。だからこそ、気持ちのどこかに打てそうだという思いがあったのならば、今のボールは振るべきだった――と海は思った。
誰もが自分のようなスイングを出来るわけではないが、球をよく見るのと、勝負を避けてボールを見送ろうとするのとは、意味が違う。
首をかしげながら打席に戻る打者の顔を見て、海はじれったさを覚えた。もちろん、自分があのくらいの若手だった頃、こうしたチャンスをどれほど潰してきたかだって分かってはいるつもりだが――分かってるからこそ、自分を少し棚に上げた考えをしてしまった。きっと、自分はいい指導者にはなれないだろう――とも思いながら。
当たらないなら当たらないなりに、スクイズのサインでも出したらいいものを、こういうときのコーチや監督が毎回毎回、いちいち頼りにならない。勝負すべきところで勝負したがらなかったり、真っ向な勝負を避けたがる。
どうせ、今の攻撃のチャンスを生かせなかったとしても、12回の攻撃は1番から始まる。1、2番が不甲斐ない結果に終わったとしても、きっとジェネルがなんとかしてくれるだろう。いや、3番を背負う以上、そうでなければ困る――そう思いながら、海はじりじりとそのリードを広げ――投手が投球モーションに入ったと同時にスタートを切った。
左打席についていた代打の打者からは、鬼の形相で『なんとしてでもバットに当てて転がせ』と訴えながらホームへ向かって突っ込んでくる海の姿がよく見えたことだろう。
どうにでもなれ――といった表情で振ったそのバットはなんとか白球を捉え、すくい上げた白球は勢いよく軽快に跳ね上がった。その弾道に、やや前進守備だったライトの頭上を越えそうなことを一瞬で球場の誰もが確信した。
ボールを追うことを諦めたライトから逃げていくようにフェンス際へと転がっていくボールの行方をもはや見向きもせず、打者はこれがサヨナラ打になったことも忘れてしまったのか、ぐんぐんと二塁まで速度を上げて駆け抜けていった。
海はスタートこそ切ってはいたが、その弾道と打者の様子を見ていたものだから、記録上二塁打になるようにと二塁に到達するギリギリまでホームベースのすぐ近くで待ってやり、最後の一歩をゆっくり、しっかりと踏んでホームインした。
二塁でまだ何かいまいち分かっていない打者に向けて、控えめに親指を立ててみせた海。この打席がサヨナラのチャンスだったということを思い出したのか、打者もまた、ガッツポーズを取ってこちらに応えた。
ベンチからは我先にと飛び出した丸毛をぐんと追い越して光の速さでジェネルが海へと飛びついてきて、しばらく離そうとしなかった。
「……あんなスタンドプレー、よくないよな。俺だって分かってる。でも、このチャンスを仮にふいにしても、今のジェネルなら、12回の攻撃で勝ち越しできると俺は思ってた。自分のプレー一つ一つに少しでも勝機があるなら、やるだけのことはやって負けたい――俺はそう思ってる。3番に座ってる俺にバントさせるのと、あの場面、ダメならダメなりにスクイズを試そうともしないのと、どう違うのか、俺には分からない。打撃コーチや監督には『そうまでして目立ちたいか』って嫌味を言われたけど、あの場面、ベンチか誰かが動かないときっと、得点は生まれなかったと俺は思ってる。普段、勝ちたい勝ちたいなんて言っておいて、いざとなったらサイン出す側が及び腰になってたら、こういうガチガチに競っている試合なんて一生勝てない。あいつら、自分たちの采配が下手だっていう自覚がないんだ」
家に帰るなり、試合を見ていた華耶や子供たちが自分を労ってくれたのだが、海は苦い表情を浮かべながら、華耶が出してくれた麦茶を飲み干した。
「でも、かっこよかったよ」
「それは、得点に繋がったからそう見えてるんだよ。あれが失敗したら俺は、打ち首だ」
「いや、そうじゃなくてさ。ヒット」
「ヒット?」
「そ。海くんのヒットから得点が生まれたんじゃん。11回。得点に繋がるかどうかとか、勝ちに繋がるかなんかよりも、あたしたちは、海くんが一本でも多くヒット打ってくれれば、それでいいんだよ。海くんからしてみたら、プレー一つ一つにいろんなこと考えちゃうんだろうけどさ」
「そりゃ、やってる側はね」
海はテーブルに置かれたポットから麦茶をもう一度注ぎ、口につけた。
「……あの場面、仮にボールだったらどうするつもりだったの?」
直人が控えめに海に質問をした。
「大きく外れてキャッチャーが逸らしでもしたらそのままそれが得点になるだろうし、お父さんがホームでタッチアウトになったりでもしても、どのみちランナーは一・二塁には進塁できてる。そこまで大きく外れてないボールだったら、とにかく、バットに当てさえすれば点になると思ったんだよ」
「ふーん」
「お父さんがスタートを切ってる以上、二塁・一塁をアウトにするゲッツーよりもまずはホームを刺したくなるだろうしね。あんな状況でスタートを切る奴なんてそうそういないから、そんな馬鹿な、って、守備のミスを誘発できると思った。……なんでもいいから、ちょっと外れたボールくらい、当ててみせてくれって気持ちだったんだよ。打者に対して。さっきも言ったけど、仮にあの打席でアウトになってチェンジになったとしても、12回はどのみち上位打線に打順も回るからね。まあ、でも、決していい作戦なんかじゃないよ。たまたま得点に繋がったから、結果的によかっただけ。ああいうのを子供には真似して欲しくないね」
「3番にジェネルさんが居なくても、同じことしてた?」
「してたね」
海は直人の問いに即答した。
確かにジェネルならば、という気持ちがなかったわけではないが、3番に誰が座っていても、今の上位打線ならばきっと誰かしらがヒットを打つかホームランを打つか――その可能性は十分すぎるほどあった。
「……まあ、でも、お父さんなりに、意地を見せたかったところはあるよ。俺はまだやれるっていうところを見せたかった。直人やお母さんに向けてじゃない。観客に向けてでもない。監督やコーチに向かってだ。そこ含めて、あのプレーはあんまりよくなかった。野球は、意地でやるもんじゃないからね」
「でも、意地を張れなきゃ勝負はできないじゃない?」
華耶は口を挟んだが、海は首を振った。
「確かに、意地やプライドで勝負を仕掛ける場面だってあるだろうし、そういうものがさっきみたいにいい結果を生むこともあるかもしれないけど……大体、意地だとかプライドだとか、そんなものは、勝負の世界には捨ててこないといけないんだよ。意地を張って勝てればいくらでも美談になるけれど、きっと皆、そういうものに縛り付けられてたくさん負けたり失敗したりを繰り返してるはずだから、結局、意地なんてものは勝負に邪魔をするものでしかないんだよ。お父さんもそうして何度も失敗してきてるからね。今更美談になんて、ならないよ」
海は自嘲気味に笑ってみせて、再び麦茶に口をつけた。
「これからもね。たぶん、最後の日まで、お父さんもこんな偉そうなこと言って、意地張りたがると思う。ろくなもんじゃないよ。みんなが思ってるほど、お父さんは大した人間なんかじゃない。お母さんがこうしてお父さんのことすごいすごいって褒めてくれるから、ちょっと誇張して大きく見えてるだけだよ」
「そんなことないでしょー。実際、凄いじゃない。シーズン日本記録も二つ持ってて、世界一にだって二回導いて。海くんが過剰に自分を低く評価してるだけだよ」
華耶がもう一度口を挟むが、海は再び首を振りながら直人のほうを向いた。
「……まあ、直人がお父さんのさっきのプレー見て何を思うかは、自由だよ。お父さんは、あの場面、少しでも賭けなきゃ勝てないって思ってた。でも、心のどこかで、自分の意地なんかも絡んでた。その光と闇、どっちを心に刻むかは、直人の自由。直人に見せてやれる姿が全部、光側の一面だったらよかったんだけどね」
「いや、別にそんなことは僕は気にしてなんか……」
直人は返事に困った様子を見せながら、誤魔化すようにして自分も麦茶を飲んだ。
『投げることが私の自己表現だと思ってたから――』
薫は直人の前でそんなことを言っていた。海なりに、あのスタンドプレーは単なる強引なプレーではなく、自己表現だったのだろう。
薫が投げ続けることでしか自分を表現できないように、海もまた、自分に出来るプレー一つ一つが表現であり、戦いなのだ――直人はそう思ったが、思ったからといって、今の自分に何が出来るかと言ったら、別にまだ何もできそうな気がしなかった。
「――でも、さ」
髪を乾かし、バスローブ姿になった華耶と同じくバスローブ姿で軽くゲームをしている海の隣に座る。
「うん?」
「自分の口から見に来て欲しいって言った試合であんなに活躍してるの見たら、やっぱりあたしは素直に嬉しかったよ。復帰戦だよ?復帰戦。体調だって万全じゃないのにさ。よくやるよ、ホームに突っ込んでくるアレとかもさ」
「復帰戦だろうがなんだろうが、どんな試合でも俺がやるべきことは決まってるからね」
「そりゃそうなんだけどさー。海くんはそう思ってるかもしれないけど、見てる側はそうはいかないんだよ。海くんがしんどそうにしてる姿だって、今だけじゃなくて、これまでも、ずーっと、ずーーーっと見てきたわけだし。本当に今度こそ、最後なんじゃないかなとか思っちゃうわけ」
「やめろよ、縁起でもない」
海はコントローラを置き、思わず華耶の方を振り向いた。
「辞めたいって気持ちと、まだ抗っていたいって気持ちとがせめぎ合ってるんだからさ。最後だとかなんだとか、言うなよ。俺だって、本当にいつまで自分の身体がもつのかなんて、分からないでやってるんだから」
「……ごめん。ちょっと迂闊だったね」
華耶は真剣な眼差しで訴えかける海の表情から目を逸らし、頭を下げた。
「俺なりに、自分にハッパかけたつもりだったんだよ、きょうの試合。華耶たちが見てる見てないにかかわらず、俺は一試合一試合をしっかりやらなきゃいけない。華耶たちが見てる試合でバッチリ打てるなら、ポストシーズンなんかは毎試合呼んでいたい。でも、勝負の世界はそんな単純なんかじゃない。それは分かってるんだけど、自分から呼んだ手前、何も出来ずにこの試合を終えてしまうようなら、本当に今度こそ俺は終わりなんじゃないかって気持ちは、確かにあった。でも……素直に俺は俺がもう終わったものだって認めたくない気持ちだってある。ワガママでいいよ、って華耶は俺に言ってくれたけど、俺はやっぱり、華耶が言うよりもずっとワガママだと思うよ。……自分でも、本当は俺がどうしたいのか、たまに分からなくなるんだ」
海は頭を抱えながら、うつむいた。
「それでもさ、喜んでくれたなら、嬉しいよ。それは素直に思う。……あとは日本一になるだけなんだよな、本当に。それさえ手元にあったなら、すぐにだって辞めて――きれいに後腐れなく辞めて、しばらく静かに、父親として暮らせるのにね」
海の言葉に華耶は何も言えず、ただ、肩に手を回すことくらいしかできなかった。