海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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156・晩夏

夏の甲子園が終わると、季節はあっという間に過ぎていく――。

……という言葉を日本人はよく使いたがるが、海はどうしてもその言葉に馴染めなかった。

 

日本の夏は長い。夏至を過ぎて日に日に日没が早まっていくわけだから、夏の甲子園が始まり、大会が終わる頃にはそれだけ日没の時間が夏の始まりよりも早く感じられ――実際に早くなっているのは事実だ。

とはいえ、その後に世間にしっかりと周知されているそれと肩を並べるような大きな夏のイベントというものがなかなかないことや、日本特有の"盆休み"というものが終わったり、夏休みが終わる時期が大体重なることから、夏の最後っ屁を甲子園に担わせることで『今年の夏も終わり』なんてことにしておいているようにしか海には感じられなかった。

 

もともとフィンランドで過ごしていた海にとっては、日本の9月の暑さだって十分すぎるくらい暑く感じるものだ。海にしてみては、9月の半ばくらいまでは夏として扱っておいて、人々に不用意に季節の移り変わりのセンチメンタルを押し付けないようにするべきなのではないかとすら海は思っていた。

大体、夜はそれなりに涼しくなっていることが秋の訪れを――なんてこともテレビなんかでは言うものの、本当にその涼しさを本当に体感するのは10月に差し掛かってからだろうに――と海は思っていた。

 

「そんなことなんてどうでもいいんだよ」

「な、なんですか、いきなり……」

 

隣でびっくりした様子を見せるジェネル。海はジョッキに注がれたお茶をテーブルにやや粗暴に置き、腕を組んだ。はぁ、とため息をついて、眉間にしわを寄せ――自分の中の感情を整理しているような、そんな様子がジェネルからは見て取れた。

 

「……俺はこの国の夏という季節も、文化も嫌いだ。でも、今年の夏がそう簡単に終わってもらっちゃ困るんだよ」

なんとなくジェネルは、海が何を言いたいか分かるような気はしたが、あまりに突拍子もない流れだったものだから、本当のところは海が何を考えているのかまでは、分かるようで分からない――そんな状態だった。

 

「海さん、そんなに私の水着姿が見たいんですか?だったら――」

「お前の水着姿なんて――」

シリアスな思考に陥っているであろう海を、茶化すつもりではないが、少しでも気が紛れてくれれば――とジェネルは海に向かって前のめりに身体を押し出し、やや無防備な胸元をいつもどおり見せ付けてくる。

海のそっけない態度を期待していたジェネルは、海がその後言葉をしばらく発さずにじいっと自分を見つめ続けていることに、気まずいような、小恥ずかしいような――なんとも自分でもリアクションしがたい状況に陥ってしまった。

 

「や……やだなー、海さんってば。そこはほらー、俺には華耶がいるから、とか言わなきゃいけない場面じゃないですかー。らしくない」

「……いや、華耶の水着姿"自体"は、全く見てないわけじゃ、ないんだよ。でも――」

「……でも?」

自体は、という言葉にそこはかとなく生々しい夜の実態をジェネルは感じたが、黙っておいた。

 

「お前、入団してから毎年のように球団公式グッズの水着なんて着て宣伝させられてたじゃないか。チーター柄の水着がどう、とか」

「あ、はい。今年も売れ行き好調みたいで増産体制だそうですよー。ま、私のおかげですよね。海さんだって私のショットがたくさん見られて嬉しいでしょ?……で、それがどうかしたんですか?」

「華耶は別に、着ろって言ったら、着るし、俺が着ろって言わなくても、着てくれる。風呂をプール代わりになんかしてね」

「だから私にも同じことをしてくれ、と?」

「いや、そういうわけじゃなくてね」

海はうーんと腕を組んで、改めてジェネルを見つめた。ジェネルは面と向かってその真意が分からないままに海に見つめられると、どこか照れくさく、気恥ずかしさがあったので目線を逸らしてわざとらしく胸元をぱたぱたと扇いでみせた。

 

「……別に、お前でいいや、って思ってるわけじゃあ、ないんだよ。でも……こんな仕事なんかしてると、夏に海に行くなんてこと、できないじゃないか。……いや、あったとしても……一度きりだったんだよ、夏に海に行くことなんて」

「一度?……ああ」

ジェネルが携帯を取り出し、写真のデータをスワイプしていく。

 

3年前の優勝旅行としてオーストラリアに行ったときの写真がそこにはあった。海と華耶、そしてジェネルと薫が写った写真や、そこに晴留、真結、広乃の三人が自分たちも入れて欲しいと、女子組で撮った写真――。

 

普段は夏の間はシーズン中で、とても家族総出で海に連れて行ってやれないからと、日本とは四季が逆のオーストラリアの旅行ではビーチでの観光を特に希望していた海。ジェネルには『そんなに私の水着姿が見たいんですか』などと茶化されたが、海としては、父親として一度くらいは家族でビーチを駆け回ったりしたかったのだ。

1週間あまりの旅行を存分に満喫した――つもりでいたが、それでも、その1週間ほどの間に自分が父親らしくあるという清算がしきれたかというと、ないだろう。

 

父親としての自分、という点でも海の中では疑問が残っていたし、そうして旅行をすることで、海の中ではどうしても、こうして野球に身を捧げている間に自分は歳をとっていってしまい、ビーチに行っても恥ずかしくない身体でいられるうちにとうとう海辺には行かぬまま人として旬を過ぎていくことへの思いも胸の奥に残っていた。

 

家族も居る以上、毎年のように個人でオフの間に――それこそ正月の間だけでもオーストラリアに、なんてこともなかなか思い切れない。いっそ、一回行ってしまえばまた気持ちも変わるのだろうけれど――。

そうしたモヤモヤがある以上、水着、と言われると、海辺をどうしても連想してしまう海は、誰とでもいいから海に行きたい――そんな思いすら芽生え始めていた。

今はそれどころではない時期だということも分かってはいるのだが、背中には常に、自分も一般の人間としての生活をしたい、という気持ちがのしかかっていたのだ。

 

「自分の名前が、嫌になるね。名前に"海"なんてついてるのに、海に泳ぎに行ったのは、日本に来てからはあの一回だけだ。しょうもないダジャレみたいになってしまうからわざわざ言うことも控えてたけど、俺だって、海には行きたいよ。移動日なんかの日程の隙間でちょっと行って、なんてことができたらどれほどいいものかとも思う。でもきっと俺たちが夏の間に海なんか行ったらきっと大騒ぎになるから、そうもいかない」

「ま、そうですよね。曲がりなりにも私たち、国民的スターですし」

お前は国民的スターか……?と海は思ったが、あえて指摘はしないでやった。

 

「お前の水着姿だって、自主トレの間にプールで嫌でもお前が見せ付けてくる。でも、別に水着が見たいっていうことじゃあなくて、海に行くことが大事なんだよ」

「でも海さんが普段見てるのは競泳水着の私じゃないですか。ほら、オーストラリアの旅行のときは割と皆に配慮して普通めのビキニですけど」

「どこがだよ」

オーソドックスな形状こそしているが、自分の女性的な魅力を一切包み隠そうとしない、その布面積のやや少なめなローレグ気味でやや全身をきつめに締めた真っ赤なビキニを海は画面越しに一瞥した。

 

「いーや、あんなんまだまだかわいいほうですよ。私、着ようと思えばもっとすっげえ奴を――」

「まあ、それはいいとして」

それはいいとして、と海に軽くあしらわれたジェネルは頬を膨らませながら海を睨んだ。

 

「そういう意味では、そうだね。お前が若くて綺麗なうちに、もう一度、浜辺でお前のちゃんとした水着姿くらい、拝んでおきたいね」

パァ、とスイッチでも入れたかのように表情を明るくしたジェネルの言葉を先回りして潰すようにしながら海は続けざまに「もちろん華耶や、子供たちとも一緒とにだけど」と言ったものの、その後、ため息をつきながら――

 

「……まぁ、でもね。それはあくまで理想論だ。ぶっちゃけ、相手は誰でもいいんだよ」

「誰でもってことは、木村さんとかとでも――」

「木村とだけは嫌だ」

海は茶化す場面じゃないぞ、とジェネルを睨みつけるとジェネルは少し申し訳なさそうな笑みを浮かべて自分の唇に指をわざとらしく当てて黙った。

 

「……たまたま、条件に合うのがお前くらいしかいないんだ。こういう言い方をお前にするのも、お前に失礼だってことは分かってるよ。だけど俺は、華耶が俺と二人きりの浜辺でどんな動きをするのかとか、逆に、お前が浜辺で俺と二人きりだったら、お前はどんな風にはしゃぐのかとか――あるいは、一緒に海に行ったのがもし薫だったら、薫がどんな顔を見せるのかとか、いろいろ考えちゃうんだよ。俺はお前らのことを知ってるようで、意外と知らない部分だってまだまだあるからね。そうこうしているうちにまた今年も夏が終わって、海に行くような季節だって終わる。そうやって延々とその繰り返しをしているだけで本当にいいのかな、って俺は常々思ってる」

 

店内にずっと続けて流れている夏物の歌に、きっとこれもあと何週間かしたら秋物の歌に変わるのだろうなと、海はうんざりしたような表情を浮かべながら深くため息をついた。ビールでも飲んだときにとっておいてほしいような、しみるようなため息だった。

 

「お前だったら、なんとか俺を連れ出して海に連れてってくれるんじゃないかとか思ってしまってる自分も、正直言っていないわけじゃない。でも俺たちの身分からして、仮にどっか海に行くってなると、沖縄とかくらいまで行かなきゃ――お前だってさすがに休日の混んでるビーチにいきなり俺と二人で、ってのは、ちょっと考え物だろ」

「私は別に構いませんよー。……って言いたいところですけど、一般客に邪魔されるのはちょっと考え物ですね」

「だろ。なんだか俺たち、人間としての旬を……そりゃあ、こんな仕事してるから仕方ないんだけどさ。あまりに、いろんなものを犠牲にして生きてる気がしてさ。だから、夏なんか終わらなきゃ、どれほどいいだろうな、なんて……思って…………あれ……?」

海はその後の言葉が自分の中でうまく繋がらないことに気づき、思わず頭に手をやった。

 

「どうかしました?」

ジェネルは心配そうに海を見つめるが、海は平気そうな素振りを見せ――

「……いや、別に調子が悪いとかじゃなくてさ。なんだろう……違う気がするんだよ」

「違う?」

「海に行きたいって話は確かに俺の心の中にある問題の一つなんだけど、俺、違う話をしようとしてた気がする」

「えぇー……?」

「ちょっと待って。思い出すから」

海はこめかみに中指を突き立てるようにしながら、目を閉じてぶつぶつと何かをつぶやきはじめた。そんなポーズで記憶を呼び戻すのか――とジェネルは海の個性的なしぐさに笑いをこらえていたが、海はじっとジェネルを睨んで、言った。

 

「お前が水着の話をするもんだから、忘れちゃっただろ。余計なことをペラペラペラペラと自分でもよくもまあ言ってしまったものだと思うよ、正直言って。……違う。違うんだよ。お前がどんな水着着てこようが別にどうでもよくてだな……俺が本当に言いたかったのは、今年の夏が終わって欲しくない理由っていうのはそういうのじゃなくて――」

その続きを、海は少しだけ躊躇い――振り上げていた右腕を下ろし、ぽつりとつぶやいた。

 

「……そうだよ、思い出した。いや、忘れようと、本能的に話をこうやって逸らそうとしてたのかもしれない。……田中の奴、本当にもうダメなのか、って話だよ。夏が終わったら、今年のシーズンももうすぐ終わるってことだろ。アイツがこの間覚悟を決めてから、確かに、ボコボコに打たれる場面だってなかったわけじゃない。でも……」

「……」

 

前回の登板でレッドフィッシュ相手に7回無失点に抑えてみせた田中。

確かに、今日はスカイクロウズ相手に4回4失点、被安打10と散々な内容だったものの、後続のリリーフだって決して完璧にスカイクロウズ打線を抑えられたわけではない。そもそもスカイクロウズ打線が強力なのだから、しょうがないところはあるのだ。

 

実際、今日の試合でチーターズは6回に勝ち越しているわけだし、試合を作れなかったのは確かに田中の責任ではあるかもしれないが、この試合の敗因すべてを田中のせいにするには、少し乱暴すぎる気がした。仮に、試合が作れなかったのが田中の責任だとしたら、その田中のミスを後続がカバーしてやれなかったことだって、十分問題なのだ。

 

確かに、8月に行われた後期混合戦で、スカイオーシャンズ相手に4回を7失点KOされたというのも印象が悪かったのかもしれない。

今野の中で、もはや田中は4回が目処という烙印を押されつつある。登板するたびに立ち上がりの調子の悪さが気に入らないのかもしれないが、だからといって田中の負けが物凄く先行しているわけでも、毎回立ち上がりを打ち込まれてしまっているわけでもない。

 

もちろん、打たれた分はどこからでも点を取り返せる今の強力なチーターズ打線だからこそ田中は負け越していないだけであって、普通のチームなら大きく負け越していても仕方ないと言われても文句は言えない。

だが、どのチーム相手に投げたとしても、まぐれで7回を無失点に抑えられるほど野手に苦しんでいるようなチームはない。田中は田中なりに、まだ自分がやれることを証明しようと必死なのだ。

 

それが無駄なあがきに思われているであろうことも、抱かれてしまったネガティブな印象を覆すほどの材料が圧倒的に足りなさ過ぎることも、海もジェネルも分かってはいた。

勝負の世界に変な同情だとか忖度をすると、とたんに世界が陳腐になってしまうことも理解はしていたし、『何もできないくせに知ったような口を利くな』と、清兵衛の去り際の時に海がジェネルに対して放った言葉が二人の中で再び突きつけられていることも分かっていたが――。

 

「……ダメだね。自分のことだけ考えられてた頃はよかったのにな。清兵衛が辞めるって言った時はその覚悟を受け入れられたのに、今じゃ、周りにたった2、3人――それでも、こんなしょうもない男の周りに何人かだけでも人がいることに慣れすぎたから、湿っぽくなってしまう。俺は、あの時ほどお前に偉そうなことを言える人間じゃなくなってしまった」

「違いますよ。……海さんが海さんなりに、人を信じることを覚えたからですよ。きっと」

ジェネルの些細な励ましに海は自嘲気味にヘッ、と情けない笑い声を上げ、水を口にした。最近どうにも、こんなひねくれた笑い声を出してしまう癖がついてしまったように思って、海は自分が嫌になった。

 

「お前が思ってるほど、信じるだとか、そんな分かりやすくてストレートで、綺麗な感情なんかじゃあないよ、俺のは。お前ほど俺は、まっすぐな人間じゃないからね」

「いいえ。私からしてみたら、海さんはまっすぐです。歪んでるんじゃなくて、繊細すぎるだけなんです。昔から、ずっと。海さんが自分で気づいてないだけで」

「……褒めても何もしないよ、俺は」

海の言葉に、ジェネルは海らしさを感じながら笑顔を向け――

 

「最後まで信じましょう、田中さんのこと。信じてどうにかなるほど甘い世界じゃないことくらい、私だって分かってます。でも……私たちだけでも信じてあげましょう。それが田中さんにできる、せめてもの応援だと思います」

「……お前は、ずっとそのままでいろよ」

ジェネルの精一杯の笑顔に、海はぽつりと、本音を漏らした。

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