海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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16・愛に覚悟を

結局残業続きの竜匡とは一度も会えないまま、授業のために東京に戻ってきた華耶は、それからしばらく、海と会うことも躊躇っていた。

海もまた、無理に華耶に会おうとはしなかったから、何週間かほどすれ違いが続いた。

 

そうして、東京の町並みにも冬の気配が急激に近づいてきた頃、華耶は再び長野へと赴いた。予報では雨混じりの寒い一日と言われていたから十分すぎるくらいの厚着をしてきたが、駅を降りるとやはり東京のそれとは冷え込みが違う。

東京での生活に慣れてきてしまったからか、前に来たときよりも強烈な長野の冷え込みは華耶にとって懐かしさと同時に、自分がもう東京に染まってしまったような――そんな錯覚を感じさせた。

 

長野から大学まで、毎日新幹線で通おうと思えば、別に通えなくはない。朝6時前くらいに家を出て、2時間揺られれば大学には着けることは分かってたし、その時間を使って勉強することもできることくらい、華耶には分かっていた。

それでも、家から出たかったのは、父である竜匡を後ろめたさからなんとなく避け続けていたからだ。

 

避けていた、というのは、そのまま文字通りのことであって、別に竜匡のことを嫌いになったからという、他意があるわけではない。

中学卒業までのあと1年だけでも野球を続けていればよかったものを、自分がこのまま部活として野球を続けていたらおかしくなってしまうから――という理由で野球部をやめてしまったことで、竜匡を壊してしまったのではないかという思いがあったからだ。

 

そして今、その父親に再び野球という概念を自分は投げかけようとしている――。

 

自分は海よりはずっと恵まれた環境で育っている。

海は父親に言葉を投げかけることだってできなかった。言葉を投げかけてどうにかなるような環境ではなかった。そして、頼る母親だって海にはいない。

自分ほど恵まれた環境にいながら、正面から親と向き合えないのは、海を馬鹿にしているようなものだ――。

 

「ただいま――」

前回よりもさらにトーンダウンした、ぎこちない声で自宅へと上がる華耶。

寮での生活や、海の借り部屋での情事もある。久々に上がった自宅は何度見ても、自分の家はこれほど広いものだったか――そう思った。

自分が住んでいた頃から、もともと佳井家本家で使っていた別荘を譲り受けたという事情もあって部屋数だって大幅に余っていて、その多くは倉庫代わりになっていたし、その他に客室だってある。世間的には豪邸と言われる部類に間違いなく入る家だ。

そんな家に今は竜匡と三葉が、自分たちのためだけに過ごしている。

 

「お父さん」

「あぁ、華耶か。おかえり。お母さんなら、上田のほうまでちょっと遊びに行っているよ」

居間でパソコンを叩きながら、竜匡がやっと気づいたようにして眼鏡を外した。

三葉はそれほど変わらなかったものだから、きっと竜匡だってそうだろう――そう華耶は思っていたのだけれど、しばらく見ないうちに竜匡は眼鏡をかけていて、また一段と歳をとったように感じた。

ずいぶんと白髪も増えたし、かけている大きなレンズの眼鏡がまたレトロ感があり、悪い意味で年寄りくさいものだから、余計に竜匡を老け込ませて見せた。

 

「……聞いてると思うけどさ」

「え?」

「お母さんからちょっとは聞いてるかもしれないけど」

「ああ、うん」

一体何のことだろうか、と竜匡は目を丸くしたが、そのうち理解したようで、タブレット型パソコンの蓋を閉ざし、華耶を見つめた。

 

「……あたしね、今、大事な人がいる。単なるカレシっていう次元じゃないくらい、大事な人」

「結婚、考えてるんだってね」

「うん」

いったんソファから立ち上がり、キッチンに置いてあるコーヒーメーカーから薄めのコーヒーを運んできた竜匡は、華耶をソファに座るよう促しながらコーヒーを差し出した。

 

華耶が竜匡を久しぶりに見て老けたなと思ったように、竜匡から見た華耶もまた、しばらく見ないうちに大人になったように見えていた。

まっすぐで大きな瞳は相変わらずだけれど、それなりに自分なりの世界や、今後の未来が自分なりに見え始めているような、強い大人の一面が竜匡には見えていた。

 

きっと、それほど華耶を成長させうるほどの男と出会ったのだろう――竜匡はそれが嬉しかったと同時に、少し寂しく感じた。ごまかすようにしてコーヒーでも淹れなければ、かえって自分のほうが動揺してしまいそうだった。

 

差し出されたコーヒーを「ありがとう」と素直に受け取った華耶は、冷めないうちに二口ほどそれを口に運び、再び話を続けた。

 

「それでね、カレシさ……あたしを嫁にもらいたいんじゃなくて、うちに婿に入りたいんだって」

「聞いたよ、そこも」

「そっか。……じゃあ、お母さんがお父さんに話してなさそうなことだけ話すね」

 

『本当に不安なことは、もっと別なところにあるんでしょ?』

 

『華耶が一番不安に思ってること話してもらわなきゃ、お母さん、華耶のカレシのことは別に気にしないけど、華耶がその人を幸せにできるって確信できない――』

 

三葉はきっと、自分が何を気にしているのか分かっていたんだと思う。

分かっていたからこそ、厳しい言葉を投げつけてきたし、きっと竜匡にも、自分が本当に気にしていることを黙っている――華耶はそう思いながら、再びコーヒーを口につけ、ぐっと全部飲み込んだ。

カップを空にしてしまった以上、もう後には退けない――華耶は決心し、改めて竜匡をじっと見つめた。

 

「その人ね、プロ野球選手なんだ。まだ入団したばかりの駆け出しだけど」

「……」

「でもね、あたしは別に、カレシが野球やってたから付き合ったとかいうわけじゃない。もちろん、お父さんへのあてつけだとか、お父さんの分までどうだとか、そんなつもりで付き合ってるわけでもない。あたしは……ただ、カレシがたまたま野球やってたから野球やるのを応援してるだけ。……そんなに野球、好きそうじゃなかったから、あたしの分の夢を乗せて欲しい、とは言っちゃったけど……お父さんのこととかは、カレシには黙ってる。だいぶ昔にプロに入ったご先祖様がいることくらいは話したけど……別に、そういう佳井家のプレッシャーを背負わせたくないから。そういうの話したら、変に気負っちゃうタイプだから。お父さんのこと話して、変にお父さんに同情させちゃうのも嫌だし、お父さんと直接会ってなんか気まずくなるのだって嫌だし、お父さんだって、できればあたしのカレシとはそういうの抜きにして、一人の人として接したいだろうから」

 

いざ竜匡と面と向かって話すと、なかなか言いたい言葉がまとまらずに華耶は首のあたりをかいた。

何を言いたいか、原稿くらい書いてきたらよかったのだろうけど、きっとそういうのは違うからと、華耶は直接自分の言葉で話すことを選んだ。

とはいえ、多少はメモくらい用意しておけばよかった――と、じっとこちらを見つめる竜匡の顔を見ながら華耶は後悔した。

 

「お父さんの夢の分までだとか、あたしがお父さんの夢をかなえさせてあげられなかったからとか、そんな慰めのつもりであたしはカレシと結婚するんじゃなくて、あたしがカレシを支えたいから結婚するんだけどさ――でもきっと、お父さんがあたしに夢を託したように、きっと、あたしのカレシにも、あたしは、あたしだけじゃなくて、お父さんたちの夢だって託しちゃう日がくるんじゃないかなって思ってる。お父さんの事情だって、あたしはあたしなりに知っているつもりだから。……ううん、なんなら、もうあたしの分は託しちゃってるから、きっと時間の問題だと思う」

 

一度席を立った竜匡は、華耶のカップにコーヒーのおかわりを黙って淹れ、そして再びソファに浅めに座って華耶の顔をじっと見つめた。

今度はそのコーヒーに手をつけることなく、華耶は自分の意思で言葉を続けた。コーヒーに逃げ道を作ってなるものかと、華耶はカップには目もくれなかった。

 

「だけどね、お父さん。なるべくカレシには今は……自分と――あたしのためだけに野球をやっててほしいんだ。さっきも言ったけど、抱え込みがちな性格だから、思いの強さを肩の荷物にしてあげたくないんだ。だから――これもさっき言ったかな……。あたしのカレシには、あくまでもプロ野球選手としてじゃなくて、一人の人間として接してあげてほしいんだ。あたしも、お父さんのことをそういう目で見ないように、ってカレシには言っておくからさ。……ごめんね。あんまり上手に言えなくて。結局、うまく考えまとまんなくてさ。うちを取り巻く野球のこととか、いろいろあるしさ」

 

ぎこちなく笑みを浮かべながら、少しぬるくなった二杯目のコーヒーに手をつけた華耶。

竜匡の趣味らしく、香りは立っているが、少し薄い。薄くてもしっかりと苦味を感じられる、風味の強い豆を使っているらしいが、竜匡はそこに砂糖とミルクを大量に入れて飲んでいる。

そこまでしてコーヒーが飲みたいのか、だとか、そこまで甘くするならば市販のコーヒーではだめなのか、と思ったことはあるが、ずっとこんな飲み方をしているあたり、この豆を使ってこうして飲むのが一番好きらしい。

 

「華耶。ひとつだけ聞いてもいいかい」

同じくしてコーヒーに口をつけた竜匡が、華耶に問いただした。

 

「もし華耶の彼氏が野球をやっていなかったとしても、華耶はその人と一生添い遂げたいと思ったほど、華耶はその人のことを愛しているのかい」

「うん」

「じゃあ、もし華耶の彼氏が、突然野球を辞めたいと言い出したとしても――華耶に相談なく突然野球を辞めてしまったとしても、華耶は一生かけて彼氏を愛することができそうなのかい」

「……うん。絶対あたしは……そんなカレシを一生かけて守るよ」

二つ目の問いには少し躊躇したが、強い眼差しで華耶は竜匡を見つめた。

 

『そうだよね、そりゃあ、甘えたくもなるよね。頼る相手だっていないし、自分のことで精一杯生きてきたんだもんね、きっと――』

 

運命めいた出会いはともかく――海と越えたあの夜、華耶の中では腹は決めていたつもりだった。海がその気であれば、自分がこの男の彼女となり、母親の隙間を埋める者になるのだ、と。

そして、その先の未来を見守っていく者になるのだ、と――。

 

「じゃあ、僕からは何も言わないよ。華耶が自分の意思で野球を辞めたいって言ったように、これもまた、華耶の意思で決めたことだろうから」

「……ありがとう」

 

竜匡は遠い目をしながら、テレビの横に飾ってある、少し色の落ちた昔の自分と三葉とが映っている、結婚するずっと前に撮ったデートの写真を見つめていた。

 

「僕もね、ずっと考えてた。僕が華耶の人生を狭めてしまったんじゃないかとか、華耶まで野球のことを引きずって――それこそ、ご先祖様みたいにね、野球のことをずっと諦めきれずに苦悩したりしてしまわないかとか、本当は野球そんなに好きじゃなかったんじゃないか、とかね」

同じような位置に飾ってある、小さい頃の華耶との3人での写真。

 

家族で文京ドームへエンペラーズの試合を見に行った少し後に撮った、エンペラーズのユニフォームをかたどった子供用の衣服に身を包んだ華耶の姿と今の姿とをふと見つめ、竜匡は目の奥に一瞬熱いものがこみ上げそうになり、それを何食わぬ顔でこらえた。

 

「華耶が自分の意思でその人を幸せにしたいって思ったなら、それは華耶が自分で決めた人生だ。僕にああしろこうしろと言われなくても、華耶が自分で自分の人生を見つけて、そして、自分の意思で幸せをつかもうとしている。それを親がダメと言う理由は、少なくとも僕にも、お母さんにも、ないよ。それくらい華耶が本気なのが分かってるからね。華耶の彼氏のお父さんがなんだとか、日本人の血が流れていないとかも、そんなことは僕らには関係ない。華耶が好きになった人を、そんな理由で突っぱねなんかしないよ。華耶がそういうところを気にしすぎなだけだと思うな。……そう育ててしまった僕の責任なんだろうけど」

 

そう言って竜匡は、残ったコーヒーをぐっと飲み干した。

一気に飲むには少し熱かったのか、少し苦しそうにしながら、しばらく横を向いて顔を伏せ――ごく自然に瞼を拭って、もう一度華耶の顔をじっと見つめた。

 

「華耶が迎えようとしている彼氏を、全力で幸せにしてあげなさい」

「うん」

それは、華耶がしばらくぶりかに見た父親の笑顔だった。

自分の知っている父親よりもずっと年をとってしまったが、長らく自分の浅い記憶にある父親というと、ずっと寂しげな表情や、憂いを帯びた表情だったから、子供の頃はずっとこんな、もともと細い目を糸目になるほど細める笑顔をしていた父親だったな――と華耶は懐かしさを覚えた。

 

~~~

 

「何もこんなところで待ち合わせしなくても」

実物大の、なにやら大人気なロボットアニメの……いずれかのシリーズの主役ロボットが立っているとされているお台場で華耶を待っていた海。

もとから待ち合わせの時間よりは早く来る二人だったが、今日は予定よりも1時間も前から現地に入っていた。海は華耶が来るよりさらに早く、かれこれ30分近く実物大ロボットの近くで待機していた。

 

海の長身は目立つとはいえ、近くを歩く人というとこのロボットのほうに用があるものだから、変な場所で立っていると写真に映ってしまうのか、カップルや地味そうな男に『とっととどけよ』という目で見られたり、露骨にハンドサインでどくように指示されていた。

別に好きで写真に映ってるわけではないのだが――と海は少し不快に思いながら、やや離れた場所で一人、華耶が来るのを待っていた。

 

「目立つ場所に目立つ人が立ってたら確実じゃない」

「俺は20mには巨大化しないぞ」

「でも巨大化はするじゃん」

「巨大化?するか?俺が?」

 

華耶の目線から巨大化の意味を察して軽く華耶の側頭部にげんこつを放った海は「それだけ言いに来ただけなら帰る」と不機嫌そうにして帰ろうとしたが、華耶が「近くのちゃんとしたとこで夕飯予約してあるから」と必死でなだめた。

なんとか機嫌を直してもらい、近くの商業施設にあるオーストラリア料理店まで海を連れて来たのはそれから30分ほど後のことだった。

 

ステーキのついたコース料理と別に仔牛のシュニツェル、そしてこの店の一番人気だというパンケーキを食べながら、海は周囲の浮かれた気分を見て『どこも似たようなものか』という素振りで見つめていた。

 

久々のデートにクリスマスイブを指定するのは、海からしてみると『とても日本人風』なように思えていた。

積もるほどの量ではないが、今年は珍しく東京でもクリスマスに雪が降るということで、周囲は浮かれきっていた。家族連れはともかく、ロボット像から離れると歩いている人は自分たちをはじめかなりの量がカップルで、いかにも何かと理由をつけてデートをしたがっている雰囲気が海には感じられていた。

 

大体、こんなもの、降ったものに入らないだろ――と思いながら、バレンタインのときもそうだったが、クリスマスだからといって浮かれて男女がつつきあいたがる日常風景を不思議そうに海は眺めていた。

それでも華耶がそうして自分を誘ってくれたのだから、あまりよそのことを悪く思うのはよそう、と思考を切り替えることを繰り返していた。

 

華耶は華耶で大学の講義の話なんかをしたりして、大学が順調に進んでいることを話してくれた。

経営学だとか、社会学だとか――授業がないときも他の学部の講座なんかを聞きにいったり、興味のある授業を行っている教授の研究室を訪ねてレジュメだけでももらってみたりと、随分と勉強熱心らしく、今期も順調に終えることができたと自慢げに話していた。

 

今シーズン、打率は昨シーズンより落として.200に終わり、とうとう本塁打どころか長打もほとんど打てなかった海からしてみたら、華耶のそうした未来を見据えた姿はきらきらと輝いて見えた。

自分が稼いで奢るべき場面だというのに、華耶は『きょう誘ったのはあたしのほうだから』と支払いまで自分で済ませてしまい、海は自分の未来の窮屈さに辟易した。

 

店を出てから、遠くに見えていたイルミネーションへと誘うようにして華耶は海の腕を引きながら、前へ前へと歩いていった。

この地域は、定期的に商業施設が林立しては再開発でまた消滅して、そのたびにまた別の商業施設が建て直されることを繰り返している、というとを華耶は話してくれた。それはまるで、この人工的な光が土地から命を吸い上げているような風に海には感じられた。

 

そんなにイルミネーションなど、いいものだろうか……なんて海は思ったものの、スカイツリーから見下ろす夜の光なんかはまたそれはそれで綺麗に見えてしまったのだから、イルミネーションや夜景というものはまた不思議なものだ。

 

あたりがこんな光一つに浮かれているのは、自分たちがフィンランドにいた頃は夏至をありがたがったりしていたものと同じようなものだろうか――海はそう思いながら、華耶のテンションについていけてないながらに空気を楽しもうと工夫をした。

 

近くのカップルたちが思い思いに腕を組んで歩いたり、人目もはばからずに抱き寄せてみたりなんかしたり、写真を撮ったりなんて姿がそこらじゅうに見えた。

そんな生々しい空間に海は少し嫌悪感を感じていたが、華耶が楽しいなら別にいいか……と海は思ったが、その華耶は突然立ち止まり、海を呼び止めた。

「海くん。あのね――」

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