海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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157・終わりの足音

「――初回に二者連続でエラーを出してしまって、そのあと押し出しで1点入れられてしまいました。あれさえなければ、田中は本来のピッチングができたと思うんです。このままでは終われないと思って打席に立ったんですが、4回にチャンスを潰してしまって……結果的に僕の3つのミスのせいで田中に勝ちをつけさせてあげられなかったのが本当に悔しいです。あの場面、僕が打っていたらきっと同点か、あるいは逆転できてたかもしれないので」

 

「――田中なりに頑張って投げてるので、なんとしても援護してやりたかったです。なんとしても負け投手にはしてやれないと思って6回の打席は振り抜きました。8回のホームランも、外の甘いコースだったので、しっかり曲がり方を見極めて、ギリギリまで引きつけてしっかりと流して打ちました。山なりのボールが見えた瞬間、自分にしては珍しく、だいぶ一発を狙いました」

「打球を見送った瞬間、右手をぐっと握っていらっしゃいましたね?」

「8回で2点勝ち越しできたのはだいぶ大きいですからね。その後、ジェネルもホームランを打ってくれましたよね。アイツが今日ダメ押しをしてくれたから後ろも投げやすかったと思いますし、誰もが勝利を確信できたと思います。アイツなりに3番打者としての姿を見極めようとしてる最中だと思うので、これからも僕だけでなく、ジェネルのことも応援してやってください。アベックホームランの数だけ、アイツが成長してるということだと思うので――」

 

なんとかぎこちないながらに笑顔を見せた海は敵地・文京ドームでのヒーローインタビューをやりきり、ロッカールームへと移動した。

 

「……気を遣ってくれなくていいんですよ。別に俺は、いまさら勝ちにこだわってるわけじゃないので。かつてのうちの大エースみたいに200勝にこだわってるわけでもありませんし」

「よせよ」

田中はヒーローインタビューの様子を見ていたのか、相変わらず青白い顔をしながら、フッと薄ら笑みを浮かべて海を出迎えるなり皮肉を言ってみせた。

 

「だいたい、今日は俺がミスさえしなければお前は――」

「……制球力でメシ食ってた人間が、何度も経験してきたはずの満塁の場面なんかで日和って押し出しなんか出すほうが悪いんですよ」

田中は海の言葉を遮って、再び力ない笑顔で海を見つめた。

 

「ランナー背負って投げるのは、現役生活の中でずっと苦手なままでしたけど、それでも、肝心な場面で打たれたならまだしも、ああいう大事な場面で大きくボールを外してしまって自滅するようなパターンなんかはしてこなかったつもりです。それすら今はできなくなってしまった――それが今の俺なんですよ。……別に、ひがんでるわけなんかじゃないんです。今の俺にはああいう場面で抑えられるコントロールすら不安定になってしまった――それはもう、事実ですからね。……でも、嬉しかったですよ。そのあとしっかり打ってくれたこと。俺が負け投手になったらなったで、あの監督……うるさいでしょうからね」

「……」

「……大爺さんにも、よろしく伝えといてください。俺なんかが言うより、佳井さんが言ったほうが、きっと喜ぶでしょうから」

 

上着をぺちん、と肩に巻いてロッカールームを出ようとする田中を海は引きとめようとしたが、できなかった。海もまた急いで着替えてホテルへと戻るバスに乗り込んだが、あれこれと考えがめぐりめぐって、なかなか気が晴れなかった。

 

「よくないもんだね、誰かのために野球をするっていうのは。こういう試合のたびに思うよ。こうやって3割だ4割だと競ってる世界なんだから、そもそも残りの6割強は失敗してるのは当然なんだよ。でも、誰かのためにっていう思いが強ければ強いほど、打てなかった6割強の打席ばかりを気にしてしまう。俺は、その辺がよく分かってる人間だと自分では思ってたんだけどね」

ホテルに戻り、ジェネルと向かい合った席で食事をしていた海は、今日の試合を振り返っていた。田中は早めに部屋に戻ったようで、自分が食堂に来たときには既にその姿はいなかった。

 

「一応聞きますけど、誰かのために、っていうのは華耶さんのことですか?」

「……言わせるなよ。お前のためには野球なんかしてないって言ってるように聞こえるだろ」

「なっ――何言ってるんですか。そうやって、時々私をドキっとさせるようなこと言うのずるいですよー、海さん」

「自分が俺をからかうのはよくて、俺がお前をからかうのはダメなのか。ワガママな奴だな」

海は備え付けてあったビールフレーバーの液体を炭酸水に入れ、あまり美味しくなさそうに飲み干した。あまり味が好みではなかったようだ。

 

「今でも、華耶のために俺は野球をしてるつもりだ。……これも、あまり試合中なんかは強く意識しないようにはしてるけどね。でも、華耶のために野球をすることが、俺のためでもあるのは間違いないんだ。俺は、その対象を増やすことが、若い頃は来るとは思わなかったし、仮に一人や二人増えたくらい、なんてことないと思ってた。でも、華耶と田中とは違う。華耶は俺がどうであれ、家に帰れば出迎えてくれる。その日々に終わりだってない。でも、今の田中には明日がかかっている。俺のワンプレーが今、田中の明日や人生を変えかねない。今までどんな試合だってそうだったはずなのに、突然それが怖くなった」

海は口の中の不快感を潤すようにして水を口に含み、渋い顔を続けた。思考が海をよりいっそう渋くさせたのか、味が海をよりいっそう渋くさせたのか――ジェネルにはそれは分からなかったが、海は眉間にしわを寄せ続けたまま黙り込み、もう一度口に水を含み、再び口を開き始めた。

 

「前に、監督やコーチと揉めたことがあったよな?俺も、お前も」

ジェネルは海の問いかけにこくりと頷いた。

 

「俺が自分のワンプレーが田中の人生を左右しかねない、って思ってるのは……じゃあ、他の選手ならどうでもいいのか?って……思っちゃうんだよな。お前が監督から言われた言葉が、俺にはちょっと残ってる。俺が華耶との約束を意識しすぎておかしくなってるのも、現在進行形で実際おかしいままなのも、自分では分かってるつもりだった。でも、田中が苦しんでるっていうのに、何もできないままっていうのは、それはそれで違う気がしてる。だから俺は、仮にそれが監督からしてみたら愚かしいことだったとしても、俺は田中のために全力を尽くしたい。……で、結局このザマだよ」

「ザマなんて醜態なんかじゃないじゃないですか」

「俺がそう思っちゃってる以上、そうなんだよ。俺の中ではね」

「そんなこと――」

ジェネルの否定を押し切って、海は続けた。

 

「誰かのために野球をするなんて、わざわざ宣言するのもそうだけど、心の中で意識なんか、しないもんだね。うまくいかなかったとき、そうやって自分の悪い部分ばかり気になって、自傷的になってしまう」

 

まだ口の中に渋さが残っているのか、皿に盛りつけた牛肉のやや辛口な煮込みを口に頬張り、海はいったん席を立って代えの炭酸水を持ってきた。手には柑橘類のフレーバーが多めに握られていて、よほど口の中をリセットしたいようにジェネルには映っていた。

 

「でも、今日は私たち二人とも、田中さんに負けをつけずにすみました。田中さんも頑張りましたし……私たちも、完璧ではなかったにしても、形にはした。それで、いいじゃないですか」

「いいものかよ」

「いいんですよ。そりゃあ、こんなところで満足しちゃいけないってことも分かってはいますけど、じゃあ反省してばかりでいられるかって言ったら――反省ばかりするような内容だったとは私は思えません。よかった部分はよかった。それで、いいじゃないですか。この後ポストシーズンだってあるのに、今日のことばっかり気にしていられませんよ。……って考えたほうが、きっと、いいと思います。私たち、つい立ち止まってそこから動けなくなってがちですから」

ジェネルの必死の訴えに海は『そんなもんかね……』と口走りそうになったが、黙った。ジェネルにもジェネルなりの思いがある。それを否定することは、今の海にはできなかった。一人の野球人として、ジェネルなりにたどり着いた結論だろうから、海はその意見を尊重することにしたのだ。

 

「田中さんだってきっと今、本当に視野に入れてるのはポストシーズンだと思います。全力で投げてはいるはずですが、いいイメージだけポストシーズンに持って行こうと……必死なはずです。だから、今日の試合は、もうここでおしまいにしましょう」

「お前ほど日々をポジティブに考えられるなら、世界はきっと生きやすいんだろうけどね。何度も言ってることだけど」

「海さんがまっすぐすぎるだけですよ。海さんから見たら私がまっすぐに見えてるんでしょうけど、私から見たら海さんがまっすぐすぎるだけです。何度も言ってることですけど。大体、私だって言うほどまっすぐじゃありませんしね。身体なんか、ほら。この流線型」

「……」

ジェネルはニヤニヤと笑いながら、海の顔を見つめた。海は自分の言葉をそっくりそのまま返されたことと、ジェネルがわざとらしく自分のボディラインを見せ付けるようにしてきたことに対して少しだけ不快そうな表情を浮かべながら、厚切りのステーキを頬張った。

 

その翌週、次に田中にローテーションが回ってきた試合、田中は再び不調に陥り、敗戦投手となった。

不思議なもので、田中が打たれた試合というものはとことん後続の投手も打たれるケースが多く、敗因を田中一人に押し付けたくてもなかなかそうもいかない全体的な不甲斐なさに今野は苛立ちを隠さなかった。

 

イニングを食えない田中が悪いと思ったほうがいいのか、そもそも打撃力のチームなのだから、点を取られたら倍で返せばいいものを、一度沈黙するとなかなかその沈黙から立ち直れない打線が悪いと思ったほうがいいのか、打ったところで後続も大炎上し続ける不甲斐ない救援陣が悪いと思うべきなのか――何にその怒りの矛先をぶつければいいものか悩んでいるような表情をたびたび見せていた。

 

全員が悪い、ではいけないのか――と海もジェネルも思っていたが、今野が前に言っていたように、延々と敗因について話したくないから、誰か一人のせいにまとめたくて仕方がないようだ。

 

くどくどと長話をせずに簡単に話をまとめたいという今野の考えそのものは海もジェネルも否定しなかったが、だからといってそうして敗因を一人に押し付けようとする姿勢には二人にはやはりどこか違和感を感じずにはいられなかった。他のメンバーが今野に対してどんな感情を抱いているかは分からないが、二人からしてみれば一度くらい『自分の采配のせい』くらい言ってみたらどうだ、と思わずにはいられなかった。

 

考えてみたら、前任の前野からも一度たりとも選手が監督から守られたことなどないのだから、ひょっとしたら、程度の違いこそあれど、よそのチームの監督なんかも基本的にはこんなものなのではないか――海は無理矢理にでもそう思って、日々を過ごしていた。今更、よそのチームの監督が名将だとか、コーチが有能かどうかなどということも、知ったところでどうにもならないからだ。

 

ポストシーズンでさえ巻き返せば。

 

ポストシーズンでさえ巻き返せば――。

 

監督やコーチも、選手たちも、徐々に秋が本格化していく中で、いつしかその言葉にすがりつくようになった。

確かに、今年もAクラスがほぼ確定した以上、ポストシーズンでの下克上を果たせさえすれば日本一にはなれてしまう。もちろん、そんなチャンスが少しでもあるならモノにしたい、という気持ちは海の中にもある。

 

だが、優勝はできないがAクラスが当確だという状況である以上、あとは、シーズンを適当に流して自分の個人成績だけ考え、その後やってくるポストシーズンでさえしっかりやればいいだろう――というようなチームメイトらの態度も、それを『どうせ今年も優勝はできないことが分かったのだから』なんて態度を取る今野も、海としてはそれはそれで違和感を感じずにはいられなかった。

 

大体、普段の試合でできないことをポストシーズンでいきなりできるわけがないのだからそんな気持ちで試合を消化していいものか――という気持ちが、ポストシーズンでは毎年のように厳しいコースへ投げ込まれて徹底的にマークされ続けている海にはあった。

ポストシーズンというものは短期決戦である以上、普段できることが突然できなくなるし、させてもらえなくもなるのだ。そんなことを言ったところで、きっと、自分の言葉は届かないのだろうけれど――。

 

今年の最終カードを横浜で迎え、2戦目のデイゲームを終えた海はそんなことを考えながら――ベイスタジアム横浜近く、海の見える公園で考え事をしている田中の隣に立っていた。

 

「……俺は、プロ入った頃の佳井さんが羨ましかったですし、ちょっと憎たらしかったんです」

「憎たらしい、ね……」

「当たり前じゃないですか。俺なんかでも知ってるくらいのあの年の甲子園のスターが鳴り物入りで入ってきて、周囲から期待されまくって。俺のイメージよりも『北欧から来た白いサムライ』は威圧感ありましたし、背も高かった。それに、同じ人間でもこんなに差があるのかってくらい、憎たらしいほど美形でした。……でも佳井さん本人は全然野球が楽しそうじゃなくて、なんなら、つまらなさそうに野球してて。練習なんかしてても、ずっと、嫌そうな顔してて、誰とも絡もうとしなくて、コーチなんかも見下したような表情してて」

「……」

「入団してすぐ、前野監督にボロクソ言われてる姿だって見てました。あれは、俺は最初、佳井さんの態度が悪くて言われてるもんだと思ってました。佳井さんが普段あんな顔と練習態度でやってるもんでしたから。でも、清兵衛さんがある日俺を飲みに連れてったときに――」

 

「――なァ田中よ。お前さん、アイツのことを随分毛嫌いしてるようだな」

「……あんな、不満が服着て歩いてる奴。楽しくないなら、野球なんて……辞めてしまえばいいのに」

ガン、とジョッキを叩くようにしてテーブルに置いた田中は、清兵衛にふと海の話を振られ、何で食事の時間帯にまであんな男の話をするんだ――と言わんばかりの嫌そうな表情を清兵衛へ向けた。

 

「俺にゃ、お前さんも同じような顔して、同じように野球してるように見えるがね」

「……そんなことありませんよ」

「いンや、あるね」

あるものかよ――と訴えたかった田中だが、虎のような強い眼差しで清兵衛は田中を睨みつけていた。清兵衛自体は決して威嚇しているつもりではないのだろうけれど、その眼力に田中は思わず出かかった言葉を飲み込んだ。

 

「ちょっと投げるだけでしかめっ面して、ストライクゾーンからちょっと外れようもんなら死にそうな顔しやがって。お前さんが、自分がイメージしてるようなことがうまくいかなくて、それがすぐに顔に出てるように、アイツもうまくいかないのが顔に出るタイプだ、と、俺ァ思ってる」

「……それは、清兵衛さんが勝手に思ってるだけでしょう」

ぐっ、と日本酒を飲み干して沁みるような表情を浮かべ、カーッ、とわざとらしい鳴き声のような声を出した清兵衛は、田中へ再び鋭い眼差しを向けた。

 

「なァ、田中よ。知らねェってのは、理解できねェ存在ってのは、怖ぇもんだし、嫌なもんだな。そりゃあ、アイツはスカした野郎だ。アイツを何も知らねェ奴からしてみたら、天才天才と持ち上げられながら、それをうまくプロの場で表現しきれねェ、いわゆる『いっこうに芽が出ねぇ、高校時代がピークなタイプのやつ』だ」

「清兵衛さんは、荒屋はあのままだと思いますか」

「アイツは、あんな監督に出会っちまったのが運の尽きだ。今のままだとアイツは埋もれる。つまらねェよな。監督の趣味に合わねェだけで、毎日あんなふうに言われてよ。だが俺ァ、アイツがあのまま、本来芽が出るはずだった芽も出せないまま埋もれるのは、つまらねェことだと思ってる」

「……監督が無能だからって、そこで芽が腐るなら、そこまでの人間だったってことでしょう」

田中の辛辣な言葉に、清兵衛はガハハと笑い声をあげながら追加で頼んだビールを飲み干した。

 

「アイツが何を思って野球をしてるかは、俺にもまだ分からねぇ。だが、アイツが休日に球場でひたすら、鬼の形相でたった一人で自主練してる姿を見かけたときにな、少なくともアイツは、ドラ1ってもんを鼻にかけてるような奴じゃあねぇと確信したね。あれは、よそのチームに入団してたなら、今頃もっと自由にプレーできてて、お前さんのヘロヘロな球なんか簡単に打ち負かしてただろうね」

「ヘロヘロって――」

「ま、お前さんの言うようにここで腐ったならアイツの負けだがよ。アイツのことをスカした野郎だと思う気持ちは分かるが、アイツの練習量は侮らねェほうが、お前さん、身のためだぞ。アイツを潰しきったあと、次に監督に才能を潰されるのは、お前さんかもしれねェからな。ま、信じるか信じねェかは、お前さん次第だがよ」

「……でも、現に今日、アイツをここには連れてきてないじゃないですか」

田中は清兵衛の熱弁をあざ笑うかのように、鼻で笑いながらテーブルを指差した。

 

「お前さんがまだアイツを知らなさすぎるからな。お前さんがアイツの本当の姿を見てからでも遅くはねェだろ。それに、誰だっていつも予定が空いてるわけじゃあねぇ。俺が別にお前さんと毎日飲んでるわけじゃねェように、俺にも、お前さんにも、アイツにも、それぞれ予定ってもんがある。ひょっとしたら、俺はもうアイツととっくに飲んだことがあるかもしれねェ。なァ田中よ。知らねェってのは、怖いな。怖ェことだな」

「……どうですかね」

田中は半信半疑な様子で清兵衛を見つめた。清兵衛はニタニタと笑いながら、再びオーダーした日本酒を飲み干し、顔を先ほどよりもやや紅潮させながら焼き鳥を景気よく食べ始めた。

 

「……俺は自分からは動けるタイプではありませんでした。だから、佳井さんを遠くから見るくらいしかできませんでしたし、そうして佳井さんが練習に打ち込んでる様子を見てて……俺、自分の練習量だとか、自分の中のこう……目標だとか、見通しだとか、自己評価だとか……改めないといけないって思ったんです。俺なりに自分ではプロ生活を順調にうまくやれてるつもりだったんですけど、俺は……そうして、佳井さんがいろんなものと戦いながら野球してるのを見て、自分もこんなところで縮こまってちゃいけない、って思ったんです」

「よせよ、そんな話」

海は軽く笑いながら田中の言葉を遮ろうとしたが、田中は止めなかった。

 

「俺は……結局、昔みたいに豪腕でねじこむスタイルには戻せませんでした。佳井さんがじっくり時間をかけて昔の自分を取り戻していく姿を見ながら、俺もこのままじゃいけないって思いながらも……それでも、自分が時間をかけてなんとか修正して、努力して、球界でも指折りの制球力って言われるようになった技術を、中学の頃140km/h台半ばを出したことある程度の豪腕を過信して失うのが怖かったんです」

 

派手ではないが、コーナーの四隅ギリギリを直球でしっかり突いてくる田中の技術は並大抵の努力では身につかないものだ。田中があえてもともとの速球を取り戻そうとしなかったことへの覚悟の大きさは、海には想像ができない。

意地を張り続けて自分で居続けようとした海、一度固まりかけていた自分を捨ててまで新しい自分を手に入れた田中――。

その田中に『派手さがない』という風潮があったことに田中がどれほど苦しんできただろう――海はそう考えると余計な口を挟めなかった。

 

「もし俺に少しでも、佳井さんみたいに昔の投球を取り戻しながら、今の俺とのちょうどいいところを見定められていたら……俺はもう少し、違ってたのかもしれないです。俺は俺に負けたんですよ。小手先の技術でムービングファストなんかに頼らずに、俺がもう少し俺というものを見誤らなかったら――」

「そんなことないだろ」

田中の自虐を否定した海の強い言葉は、遠くの汽笛の音がかき消してしまったようで――田中は力なく笑った。

 

「たぶん、俺は……明日の登板が最後になると思います。ポストシーズンは、おまけみたいなもんです。だから、明日の登板が最後のつもりくらいの気でいます。40過ぎて防御率5点台のロートルなんて、今時どこも雇ってはくれません。だから……明日、よりによってバトルシップス戦ですけど……俺なりに、本当に最後のつもりでいこうと思ってます」

「バカ、最後になんかさせるかよ。まだポストシーズンがあるだろ。甘ったれるなよ。お前が本当に最後を迎えるのは……今年のシリーズ戦だ。この期に及んで、そんなに簡単に幕引きなんてできると思うなよ、お前」

「……佳井さんならきっとそう言うと思いましたよ。……分かってますよ。明日を最後になんかしてくれないってこと。……明日勝って……そのまま、ポストシーズンでもバトシを倒せれば、いいんですけどね」

「夢でなんて終わらせるような言い方するんじゃないよ、バカ」

 

海はそう言いながらも、自分自身も衰えてしまった今、本当にバトルシップスを打ち破り、その後シリーズ戦を勝ち抜けるほどの力が今、自分たちにあるのだろうか――という気持ちは確かにそこにあった。

しかしここでそんなことを言ってしまっては何もかも台無しになるし、冗談としても笑えない冗談だから、それ以上言わず黙っていた。

 

この時間、夏ならばもう少し明るかったであろう横浜の夜景が、長いシーズンの終わりを告げると同時に、本当に今年の夏がとうに終わってしまったことを感じさせていた。

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