海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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159・ある最悪なサヨナラ

思えば、何かを考えれば考えるほど、思いが空回りしてばかりの24年だったと海は振り返る。きっと自分がユニフォームを脱ぐ日も同じことを考えているだろう――海はそんなことを考えていた。

 

各自解散を告げられた後、ジェネルはなかなかロッカールームから出ようとしなかった。ここで帰ったら自分はこの試合に負けたことを認めたことになってしまう――。かつて、海が試合後にベンチでうつろな目をしたまましばらく動こうとしなかった気持ちが、今なら少しくらいは寄り添って理解できるような気がした。

 

海またも、ロッカールームからはなかなか出ようとしなかった。決して、ジェネルが心配だ、という感情だけではない。海もまた、ここで素直に帰って今野が軽々しく言うように『じゃあ、また来年』なんて言葉で自分を奮い立たせることなどできる気はしなかったし、なにより、来年田中がここにはいないという事実――決してここまで田中一人のために戦ってきたわけではないにしても、ついに最初から最後までここにいた同期すらも失った自分に、あと何が残されているのか――。

目の前でうつむいたまま、じっと黙って動こうとしない一人の野球人が目の前に同じように残っていながらも、海は年長者として何か気の利いた言葉を投げかけることもできなければ、改めて突きつけられた自分の過ごした長い年月に思わず気が遠くなり、身動きが取れなくなっていた。

 

この日マウンドに上がっていた田中は、初回から苦しそうな表情を浮かべていた。誰もが田中は蘇った、と確信していたこの試合、田中は初回からボールカウントを先行し続けていた。きわどいコースへの投球をことごとく審判に嫌われるだけでなく、これまでの田中であれば入っていたであろう四隅を丁寧に狙ったような球は、どこか田中の手元を離れていってしまったようにも見えていた。

 

初回、満塁のピンチをなんとか三振で切り抜けた田中。海には気軽にその肩を叩くことはできなかった。痛みをこらえて投げているのは目に見えていたし、今気安くねぎらってしまったら、田中なりに完全燃焼しようとしている今、その緊張の糸を切ってしまいそうだったから、そういうのは試合が終わってからだ――そう思っていた。

 

2回にも再び満塁からの失点を喫し、大量失点のピンチを自ら招くが、そこからの失点は許さなかった。ボロボロになりながらも常に田中なりに試合を作り続けてきた、決して地味ではなく『静かなるエース』としての意地がそこにはあった。

2回3失点――。とても、褒められたものではないだろう。だが、今の打線なら3点くらいならすぐに返せるほどの勢いがある――海はこのBBLシリーズでも相手投手からの執拗なマークを受け、なかなか調子が振るわなかったが、こうした試合でさえ打つことができれば何もかも帳消しにできる――そう思いながら、3回の守備についた。

 

先頭打者をゴロに打ち取ったとき、田中はこれまでになく険しい表情を浮かべた。衝撃的に痛みを感じたような、そんな苦痛に顔を歪めたような顔だった。ファーストへ近寄ってきた田中の顔には異様なまでの汗が流れていた。田中は険しい表情を浮かべ続けていたが――突如、何かを悟ったような、フッ――と、申し訳なさそうな顔を浮かべ、途端に晴れやかな表情を見せたのが海は気がかりでならなかった。

 

続く打者には変化球を痛打され、その次の打者にもヒットを浴びた。

ストレートをまったく投げず、すべて変化球で――それも、一塁から見てもわかるほど、握りだけは変化球で、ほとんど変化していない棒球だ。どのみち次に打たれたら投手を代えるつもりでいるのか、ベンチは慌しく動き始めているが、海は様子がおかしい田中に対して、何か嫌な胸騒ぎがしていた。

 

ランナーを一・二塁に置いて、タイミングを外すために普段よりもごくクイックモーションで投げられたボールは、なんとしてもストライクゾーンには入ってほしい――という意思だけがそこにあって、ボールを投げたあとの田中はその打球音と共に、その場で一瞬しゃがみこんでいた。

 

打球はレフトの深いところへと転がっていたが、田中はもう一度立ち上がろうという意思だけは見せたたものの――肩を押さえたまま立ち上がることが出来ず、そんな田中に近寄ろうにもインプレーの最中だからそんなこともで出来ないまま、早くどうにかしてプレーが止まってほしい――その思いで、守備がもたついてしまってなかなか戻ってこないその白球の行方と、ホームベースへと滑り込んで4点目を挙げたワイルドベアーズのベンチとを海は交互に見返していた。

 

コーチらに両肩を支えられながらベンチへと戻されていく田中は一度こちらを振り向き――力なく笑った。何かを言おうとしたのだろうけれど、痛みで声が出せないらしく、力なく微笑んだ眼差しだけをこちらに向けて、そのままコーチたちへ担がれる形でベンチの奥へと去っていった。そんな海に言葉は何も出せず、これからまだ打席が残っているというのに、どこか胸につっかえる感覚があった。

 

9回、ジェネルは凡退に倒れた際、これまでになく悔しそうな表情を見せ、思わずバットを高く振りかぶったところで我に返ったのか――そこでぴたりと腕を止め、ゆっくりとその腕を再び下ろした。

完全に一発を狙いに行っていたのか、見ているだけで思わず目の覚めるような力のこもったフルスイングだったが――ボールはわずかにバットの下をかすめ、セカンドゴロに倒れた。

 

これまで滅多に何かに当たろうとしなかったジェネルが、ベンチに戻ってきてから今度はヘルメットを大きく掲げて――そこから何も出来ずにいた。振り上げた拳を後ろの壁に向かって肘を後ろへと下げようとし――その腕をも止めた。

大衆の目というものを分かり始めたジェネルは、残ってある理性に縛られながら――それでも、恐らく今日はもう打席が回ってこないという悔しさを何かに替えることが出来なかった。

 

隣で座っていた海を涙目で、唇を歪ませながら見つめ――それでも、そこから何か言葉を発したら、自分はもう試合どころではなくなると分かっていたからか、じっと目を充血させたままでいた。それ以上のことはジェネルはしなかった。

9回裏の守備につく準備を始めた海は、そんなジェネルに何か声をかけてやりたかったが、いい言葉が浮かばなかった。

 

『この回耐えさえすれば、俺が試合を決めてやる』

 

とでも言えたらよかったのだろうけども、きょうここまで3打席1安打の自分が言ったところで、慰め程度にしかならないだろう――。

2勝3敗。この試合、勝ちさえすれば次の試合は共にあとひとつ勝てば日本一になるということもあって、一気にこちらに流れを引き込むことができる。先に王手をかけた側が追いつかれるとどうしても人間、焦るものだ。人間、追いつかれそうになるから、追い抜かれるから、怯えるのだ――。

 

そう。たったあとふたつ勝てばいいだけの話なのだ。

 

あとふたつ――あとふたつ――。

 

アウトカウントをひとつ灯した敵地、北海道ネクサスドーム。サヨナラになるランナーは二塁に立っている。

ただでさえ俊足な選手が二塁でその瞬間を待っているのだ。ベンチも、球場全体も、外野を抜ける当たりを放てば勝ちということに沸いているが、逆にこの回を防ぎさえすれば延長戦に入る。そうなれば、チーターズも4番からの攻撃になり、10回の攻防が大きな試合のポイントになるだろう。

この試合、4、5番は当たっているから、ワイルドベアーズだって次の守備では神経を尖らせるだろうし、そうなると普段しないミスだって誘発できるはずだ。

 

あと二人抑えさえすれば――

 

「……!」

 

投手が少し体制を崩したのが見てとれた。力むポイントがそれぞれわずかにずれた身体はバランスが崩れ、なんとかボークにも暴投にもしまいと思って放たれたであろうボールは、ものの見事にちょうどど真ん中へと吸い込まれていく。

 

打球音は歓声と悲鳴にかき消され、聞こえなかった。

 

スタンドまでは届かないだろうけれど、確実にその外野の頭を超えていく白球を見て、海はその場にしゃがみこんだ。ボールを追いかけるべきライトは打球の行方だけでなくこの試合の結末を諦めたようで、本能的に打球が放たれた瞬間こそ走り始めたが、数歩ほどでボールを追うのをやめてしまった。

 

センターを守っていたジェネルは、歓声が球場一体を包んで割れんばかりに響き渡ろうとも、フェンスから跳ね返ってコロコロと転がるボールをつかみ――刺したところでどうにもならない二塁へと向かって文字通り矢のような送球をしたが――そこにはもうボールを受け取るべきショートは立っておらず、守備を外れてグラウンドの砂を蹴飛ばしていた。中継に入ろうとしていたセカンドはただただ、天を仰いでいた。

 

ホームベース付近で歓喜に包まれたワイルドベアーズ一同とは対照的に、各々が何か黒く重たいオーラをまとってベンチへと下がっていくチーターズ一同。やけにはしゃいでいるサヨナラのランナーを横切っていくジェネルの意思を纏ったような白球が、まるで、今ジェネルの考えていることなど誰も汲み取れはしないということを暗喩しているようだった。

 

「こんな……こんな幕切れってあります?必死で今までやってきた選手が、最後の最後の試合で肩を壊して……敵地でみすみす日本一も許してなんて……あります?こんなこと。漫画だったら、アニメだったら……ドラマだったら、今まで何のために作品追ってたんだって、めっちゃ抗議されるやつですよ。昔あったじゃないですか。朝やってるドラマで、最終話まで主人公が報われないまま終わって大炎上したやつ」

『ごめん、そのドラマは知らない』と言って茶化すことは海にはできなかった。

 

「うちらには……うちらの苦労があるんです。きっと、向こうにもそういう負けられない事情みたいなの、あるんだと思います。そんなことくらい私だって分かってます。相手ってもんがある以上、スポーツって、大体そんなもんです。だけど……あんなに苦労し続けた田中さんが、最後につかんだのは何ですか……?どうして……どうしてこう、神様って……意地悪なんですか……?……分かってますよ。苦労した分だけ、その苦労が報われるような世界じゃないってことも。海さんの普段の思考回路から言わせてみれば、自分たちにはそれだけの力がなかった。それだけのこと、ってことも。分かってます、そんなこと。分かってるからこそ……悔しいんですよ」

 

分かってる――と連呼するジェネルは、いつになく取り乱しながら首を振り、自虐的に笑ったような感じの声を挙げながら、両手で顔を覆ってしまった。

 

「私があの打席、あと何センチかだけでもバットにうまく乗せられてたら確実にあの打球はフェンス越えてたと思います。それが私は悔しくてたまらないんです。田中さんの負傷退場がチームの誰の心も動かさないなら、私なりに自分の力でこの試合のケリをつけて、せめて田中さんに明日をつないでやりたかったんです。ええ、そうですね。私にはそれだけの力がないから、あの打席を潰しちゃったんです」

覆っている手を少し丸め、まるで自分の顔をしわくちゃに握り潰すかのようにしてジェネルはそのままうつむき続けた。

 

「こうやって悔しいと思ってる時間があったら、ウダウダ言ってないで練習するべきですよね。でも……必死で練習してきて、上から何言われようが周りから何言われようが頑張ってきたその結果がアレなんてのを見たら……こんな負け方、はいそうですね、って、すぐ練習だとか、監督みたいにヘラヘラと『はいまた来年』っては……切り替えられないですよ。無理ですよ。どうしてそうみんな自分のことだけ考えて都合いいところだけドライでいられるんですか。……ライトの動き、見ました?最後、動いてすらなかったじゃないですか。ショート、最後砂蹴飛ばしてましたよね?なんなんですか、アレ。負けたのは自分の責任じゃないみたいな。皆、自分のことにだけはやたらウェットでいて、自分のことだけかわいくて、自分のことだけ構ってほしくて。そんなに自分にだけ脚光浴びててほしいならゴルフでもボクシングでも、ピンボールでも、ダーツでも、将棋でも囲碁でもチェスでもスケボーでもヨーヨーでも、自分だけ注目してもらえるスポーツでもしてりゃいいんですよ」

 

ピンボールとビリヤードをひょっとして間違えてはいないだろうか――と海は頭の片隅で思ったのだが、黙っておいた。とても、こんな場面でジェネルの思いをそんな言葉で止めるわけにはいかない。ひょっとしたらジェネルなりに冗談を言っているつもりだったのかもしれないけれど、冗談にしては、そのジェネルの言葉はキレも悪く、ジェネルがいかに普段の姿ではないかが露わになっていた。

 

「……どこも、そんな感じなんですかね、それとも。隣の芝は青いって言うじゃないですか。海さんがよく言うように、よそがよく見えてるだけで、うちらみたいなのが実は球界標準なんでしょうかね。野球選手は個人事業主だ、とか言って、結局、自分のキャリアアップだけがそこにあって、うわべだけではいくらでも地域の貢献だとか、なんだとか言っておいて、最終的には自分がどれだけキャリアを残せるかのほうが大事で……」

ふと一瞬前髪をかきあげ、天井を見つめたジェネルだったが、また再び両手で顔を覆ってうつむいてしまった。一瞬見せたその瞼は、涙で赤く腫れていた。

 

「それもひとつの人生でしょうし、そりゃあ、誰だって負けてるよりは勝ってるほうが楽しいですよね。そりゃ、そうですよ。私だってこんな負け方して……全然……全ッッ然、面白くないですもん。でもそれは……そこに海さんとか、田中さんがいるからなんです。私は別に、誰かとビジネスで付き合ってるわけじゃあありません。仮に野球選手っていうものが最終的には個人事業主なんだとしても、自分にかかわってくる人間全員をビジネスだと思ってたら、人間、おかしくなります。私はもっと、高校野球してた頃のような、みんなでただ、ひとつの目標に向かって進んでたころのほうがよっぽどよかったですし……プロって、それが職業だから、そこにお金が絡むようになったとはいえ、根本的な部分は変わらないものだと思ってたんです。……そんなに皆、自分の損得じゃないと動けないんですか?」

 

ようやくポケットから取り出したハンカチで顔を拭ったジェネルだったが、結局涙がしばらく止まらなかったようで、再びうつむいたまま、ぽつりぽつりと呟き始めた。

 

「……ごめんなさい、なんか私…………違うんです。こんな話だって、したかったわけじゃなかったのに……ただ、田中さんに勝利を届けられなかったのが悔しかっただけなのに……」

「……」

「……私、ポストシーズンが終わった後にベイスタでうつむいてる海さんを止めたことがありましたよね。あの頃は私、ちゃんとは分かってなかったんです。どうして海さんがそんな、ずっと思い悩んでばかりだったのか、なんて。でも今日、本当に――本当になんて言ったら、海さんには失礼かもしれませんけど、それでも、少しくらいは分かった気がします。肝心な試合で自分が不甲斐ないプレーすることが、どれほど自分を狂わせるか、って。……駄目ですね。私、今日はもうあんまり喋らないほうがいいみたいです。錯乱してます。錯乱。秋には桜は咲かないっていうのに」

 

再び大粒の涙をハンカチで拭いながら、ジェネルはユニフォームを脱いで着替え始めた。海もまた、ジェネルから背を向けるようにして自分のロッカーへと向かい、着替えた。沈黙が痛くて二人ともそそくさと着替え、再び目線を合わせたが――次に出す言葉がなかなか浮かばず、どことなくぎこちなく、よどんだ空気が相変わらず漂っていた。相変わらず、他に誰も残っているわけでもなく、誰かが居た残渣がまるで残っていないロッカールームが生々しく、すぐにでも出て行きたい気分だった。

 

10月も中旬を折り返し、夏場はとても暑くて着られたものではない海の愛着している革のジャケットを着ても、よほど日差しの強い日にでも出くわさない限り汗ばまない季節になった。球場を出たらきっと、秋の北海道の風はひときわ冷たく感じるだろう。風が冷たく感じるのはきっと、それだけではないのだろうけれど――。

 

「……なぁ、ジェネル。どうせ、ホテルに戻ったって、暇なんだろ。どこかで夕食にして、ホテルで気が晴れるまで飲もう。このまま明日大阪に戻ったって、気が晴れないだろ。少なくとも、俺は晴れない」

「……」

「第7戦があったていで、札幌のあたりでもいい。函館のあたりでもいい。平日だし、連休の時期でもないから、どこに行くにもそんなに混んでないだろ。どこか、気の済むまで遊びに行こう。家族にはちょっと悪いけど……大阪に戻って、変に人目を気にして外を歩くよりよっぽどいいだろ」

替えのやや厚手の上着を羽織りかけたジェネルは、こちらを振り向かないまましばらく黙って背中を見せ続け――そのまま黙って上着を羽織ったジェネル。

そのまま、最後まで振り向かずに部屋から出るのではないか、というようなそぶりで返事をせずにいたものだから、海は機嫌を損ねただろうか――と不安になったが――

 

「慰安旅行、ってやつですか」

と、精一杯の笑顔で振り返って見せた。

 

「……お前が頭に浮かべてる慰安旅行の意味、たぶん違うと思うけどね」

海は『そもそも慰安旅行の慰安ってこいつの言うような字面どおりの意味だったっけ……?』などと自分でも少し日本語に不安を覚えながら、ジェネルの手首をつかんだ。

 

「早くここから出よう。センチメンタルに浸り続けても、田中は帰ってこない。負けが帳消しになるわけでもない。こんなところに居続けたら、俺たち、本当にダメになるぞ」

前を行く海はそう言ってジェネルを引くようにして通路を歩いた。海だって悔しくてたまらなかったし、このシリーズを勝ち取ってさえいれば自分だって田中と一緒に現役を辞める――そのつもりでいたから、感情を整理するのに時間がかかりそうだった。

 

今ここにいても、自分にとってはプラスにはならない――そうは思いつつも、来年一年を戦い抜くほどの英気を、たった数ヶ月のオフシーズンの間に無理矢理にでも引き絞れるかといわれたら、怪しい。

 

そんな自分の中のマイナスな感情をジェネルに読み取られる前に、海はどんどん前に進みながら――とにかく、少しでも飲み食いでもしていないと自分だってどうにかなってしまいそうだ――そう思い、やけに長く感じられる通路を歩いた。

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