時間が少しでも止まればいい――そう思いながら、函館の夜景を見て回ったり、翌日丸一日かけて函館の市場だとかレンガ倉庫だとかを歩き回り、路面電車に乗ったりなんかしてベタな観光名所を転々としたり――少しでも気を紛らわすことで海もジェネルも精一杯だった。
ただ、楽しめば楽しむほど、時間というものはあっという間に流れていく。
週明けの記者会見――その場で田中が何を話すかは分からない。せめて田中を自分たちだけでも送ってやろうと、週明けまでには大阪に戻ることを決めたものの――いざ、現実逃避のための慰安旅行の最中に直接そうした予定をばっちりと決めてしまうと、なんだか無理矢理夢から叩き起こされてしまったような気分で、海もジェネルも、辛いことをなるべく忘れて楽しもうと思っている気持ちに影が侵食し始めていることに気づいていた。
いっそこのまま自分たちも勢いで二人揃って引退表明でもしてやろうか――などとも冗談で言ってみたが、そこから先が二人とも続かなかった。軽い気持ちで言った言葉がそのうち冗談にならなさそうだったからだ。
函館には結局2泊し、ついでにフェリーで立ち寄った青森市内を軽く見て回ってから飛行機で東京へと移動し、ジェネルに世田谷の新居を見せたりした。
東京に立ち寄ったついでにせっかくなので人気テーマパーク・ウィズミーランドに晴留と真結、広乃を連れて遊びに行き、少しだけ"父親らしい"こともして田中のことや野球のことを忘れようと思ったが――これも結局、ほんの気晴らし程度にしかならなかった。
「……戻ってきちゃったな」
ビュオオ……と強い風が吹き、旅の最中にジェネルが海にねだって買ってもらった帽子が吹き飛びそうになる。ジェネルはそれを大事そうに押さえながら、空港のタクシー乗り場へと向かう足を少しだけ止めた。
「……もう一晩だけ一緒に居ませんか。このまま朝を迎えるの……私は、嫌です。次の朝が来たら、ひとつの時代が終わるっていうことが今の私には……心細くて」
「お前、見境なくなったね」
海はそう言ってジェネルを一度軽く蹴った。それが今海に出来る精一杯の軽口だった。
「田中の最後の日を前にしてこんなんじゃ、俺の最後の日なんかはお前、どんな手段使ってでも俺を独占してそうな気がするよ」
「……さすがに、海さんの最後の日くらいは華耶さんに譲りますよ。私だって、そのくらいはわきまえてるつもりです」
「わきまえてる、ねぇ」
軽口を叩いた海も、正直なところ、このまま朝を迎えることに抵抗はあった。
自分には華耶という、感情のはけ口がある。ただ、ジェネルにはそれがない。華耶はもしかしたら、自分のためなのではなく、ジェネルのそばにいてやれというつもりでこの逃避行を許したのではないか――そんなことを海は考えたりした。
ジェネルはこのあと家に帰って一人になって、一体誰に感情をぶつけるのだろう。
自分だって永遠にこの世界に身をとどめていることはできない。そのときジェネルは果たして一人で生きられるだろうか。いや、さすがに一人で生きられないなんてことはないだろうけれど――ジェネルにだってそろそろいい男の一人や二人くらい、いてもいいはずだ。ジェネルが自分に対して一方的な愛情をぶつけてくるのは自由だし、このまま一生、自分に傾倒し続ける――それもまたジェネルの人生なのだろうけれど――それは本当にジェネルにとって幸せな人生なのだろうか――?
それでもジェネルがいいと言うのであればまた別だが、それを海自身が自分の口から聞き出すことは野暮にもほどがあると思ったし、きっと自分から聞いたところでジェネルは強がるだろう。
だからこそ、いつかジェネルが自分自身で答えを出せばそれでいいだけなのだが――やはり、自分にいくらなんでも人生を賭けすぎなのではないか、という気持ちは常にあったし、そうさせているのは自分自身のせいでもある、という後ろめたさも確かにそこにはあった。
そんなことを分かっているのにジェネルを自分は都合よく隣に置くことを受け入れてしまう。最低な男だな――海は自分をそうあざけ笑いながら、ほんの20分かかるかどうかのジェネルの家までの道を、一言もジェネルとは口をきかずに黙って外の景色ばかり見ていた。
朝早いうちに会見を済ませておいて、その後は一日をゆっくり過ごしたい――そんな田中の要望もあって、翌朝9時にその会見は行われた。
球団事務所の入り口で、田中が戻ってくるのを今か今かと待っている海とジェネル。その記者会見で一体何を語ったのかは、二人とも知らない。
これだけ球団一筋に尽くしてきてもなお、特にその会見がライブ中継されているわけでもないし、地元のテレビ局がその様子を放送しているわけでもない。
海もジェネルも、それはあまりではないか――と思いながらも、所詮、数多く存在するうちの中の一人の野球選手の最後なんてこんなものなのだろうと、声には出さなかったが時折見詰め合ってそんなことを考えていた。
いつか自分の最後が来たときにはどんな場を用意してもらえるだろうか――など、つい自分のことを考えてしまいながら、なかなか戻ってこない田中の帰りを待ち続ける。フロアに用意された自販機の近くのソファでは、相変わらずどうでもいいことで騒ぎ立てるワイドショーの音だけが鳴り響いていた。
肩の脱臼――。
田中は数年前、個人練習の際に肩を脱臼していたらしく、これまでもたびたび肩を痛めていた――そう知らされたのは、特急に乗っている際のBINEでのことだった。
その頃から徐々にストレートを投げ込むのが辛くなり始めていたらしい。それでも、もとから速球をあまり力まず投げていたものだから球速がほとんど変わらないまま数年の間は投げられ続けていたし、力むべきポイントを絞れば肩の負担を減らして投げることもできたし、周りにも肩の不調を疑われずにローテーションを守り続けることができた――そのツケが、今年になっていきなり出てきたらしい。
自分では振り上げたはずの肩が上がりきらなかったり、稼動域が普段よりも狭いものだから、ちょっとした投げ分けなんかも一苦労した。
それでも自分なりに抑えられる方法をリリースのポイントだとか、肩の高さをコロコロと切り替えるなどして見出していたものの――やはり生兵法ではプロの世界は通じず、結果的に契約解除を示唆され、その上最後は自滅してしまった――。
清兵衛のこともあるし、いっそ、1年かけて肩の治療をすることも考えたらしいのだが、ここ数年、毎年のようにチームが優勝争いやAクラス争いに加わっていて、ポストシーズンでの下克上だってしっかり狙えるほど大事な局面を迎え続けている――そんな中で1年かけて休んでいては、一体、再び投手の層の薄さが露呈しはじめたこのチームの中で誰が他に先発をするのか。それに、大エースとは程遠いところに自分はいるにしろ、自分が休んでいる間にAクラスから落ちたりなんかしていては、海のチャンスを自分のせいで潰すことになる――。
自分が先発の要になっている時期はもう過ぎたとはいえ、自分の代わりができる若手だってろくに育っていないことを田中は分かっていたから、自分なりにやり方を工夫して痛みをこらえて投げ続けてきた。なんとしても、海と――ジェネルと、そして、この世界のどこかでまだ生きているはずの清兵衛の魂を連れて、日本一になる――それだけをひたすら投げる動機にし続けてきた。
「……海さん。一応、聞いておきますけど」
ジェネルは再び目に大粒の涙をため、それを拭って海を見つめた。
「……海さんは、どこも痛くないんですよね?どっか傷めててもきっと海さんのことですから、痛くないとか言うんでしょうけど。……本当に、心以外は怪我してないんですよね?」
「その心がお前の想像に及ばないレベルで大怪我してるんだよ」
海はぶっきらぼうに答えた。
肩が上がらないなんてことも特にないし、もともと遠視だったらしいその視力は、ここ数年の間に少し目のいい人間くらいに落ち着いた。
これまで無駄に遠くまで見えていたものが今は人並みくらいにしか見えていない以上、自分が思っているよりもちょっとしたプレーの判断にいちいち支障をきたすものだから、そこに関してはちょっとした老化は否めない。
足だって、さすがに30代前半の頃までほどきびきびと速くまっすぐ走れるわけではないが、もともと多少歩幅の都合から加減して走っていたベースランニングにおいてはほとんど支障はない。
本当はまっすぐ走るだけの速度だって老化なんかよりも、自分の心の問題で足が遅くなっているようになっている可能性だってある。骨の検査だって毎年しているが、まるでどこかおかしな点はない。いかんせん、肩だって調子が悪いわけでもないから、心だけがボロボロな分、身体だけは確かに頑丈なまま、そこにあった。
「……海さんはどっか傷めても無茶しないでくださいね。清兵衛さんもそうだったし……田中さんだって結局、身体を傷めて引退してしまいました。海さんには……そうなってほしくないんです」
「そうなってほしくない、ったって、こういう世界で生きてたら、そうもいかないんだよ。誰だって怪我をしたくてしてるわけじゃない」
「それは……そうですけど――」
「お前だって、でかい怪我とかしたことないからまだそんなことが言えるんだよ。清兵衛が治療をしなかったように、田中が治療をしなかったように、きっとお前もいつか、本当は痛いところがあるはずなのに、無茶して試合に出る日が来る。個人競技じゃないっていうのは、こういうところが面倒だよな。黙って自分の意思で休養だってさせてもらえない」
「……でも、海さんは――」
ジェネルが何か言いかけたところで海は腕を出して遮り、言葉を振り払った。
「……俺だってね、怖いんだよ。あの二人みたいに、いつか身体に傷を背負ってプレーしなきゃいけない日がくるのが。俺だって怪我にだけは本当に……本当に気をつけてるつもりだけど、いつ何が起きるか分からない世界だ。お前の願望だけが全部叶うわけじゃない。今までがそうだったように、これからもだ」
「でも、それじゃあんまりじゃないですか――」
「それは、お前が俺たちの戦いは結局、何もつかみ取れないまま終わるって心のどこかで思ってるからそう思うんだろ」
「――!!」
痛いところを突かれたジェネルは目をはっと開きながら海を見つめた。どう言葉を返したらいいか迷ったように――気道に穴でも開けられたように、口を開いたけれど声が音を伴うことはなく、ただただ呼吸音だけがうっすらと室内に響いた。
「……やめてくれよ。俺たちは別に悲劇の主人公を演じたくて意地張ってるわけじゃない。だから俺だってそんなこと、なるべくは考えないようにしてるんだ。だけど――なるべくって言ったよな。そうなんだよ。なるべくってことは、ゼロってわけじゃない。ついそうやって考えてしまうから、結局心を怪我した。……お前にはこうはなってほしくないんだよ」
海は吐き捨てるように――それでも、ジェネルの心にはしっかりと楔を打っておいた。ジェネルだけでなく、自分の心にも楔を打ちつけて、力が及ぶ限りはずっとこのまま――ジェネルがそこに居る限り――居なくなったとしても、それでも戦い抜いてやる――そう海は思った。
しばらく沈黙が流れ、どれほどの時間が流れたのだろう。憑き物が取れたような、少しだけ明るさを伴った表情で、会見を終えたスーツ姿の田中は二人の前に現れた。戦うことから開放された一人の男として――その姿を海もジェネルも責めなかった。肩にあまり負担をかけてはいけない、と、ジェネルはほんのこじんまりとした花束を田中に渡し、一言――
「お疲れ様でした」
と田中を労った。
田中は海を見つめ――
「……何を言っても、僕からはもう、言い訳になってしまいますし……思いの押し付けになってしまいますからね」
「何を今更」
海は鼻で笑いながら、田中の額を小突いた。
「……楽しかったかどうかで言われたら、きついことのほうが多かったですし……振り返っても、振り返っても、辛い場面ばかりよぎります。でも――」
田中は笑顔を見せたのだが、ふと天井を見上げて――そのまま涙声で――
「……きっと、FAで出て行ったりしてたら、俺は……ここまで……最後まで、投げ抜こうとは思わなかったと思うんですよ。ナオが俺と付き合ったあたりで……もういいかな、ってきっと、辞めてたと思うんです。俺なりに色々と、限界を感じてた頃に現れた天使ですから、アイツは。……佳井さんがいなかったら、きっと、俺……もっと楽に生きれたし、きっと、もっといい人生が待ってたと思います。でも……佳井さんがいなかったら、ここまで俺は……自分自身と向き合ったり……意地なんて張ったりしなかったと思います。……だから……これでよかったんだと思います。……悪くなかったですよ、この20何年間。……佳井さんみたいな言い方すると、ですけどね」
と、時折鼻をすすりながら田中は途切れ途切れに話し、瞼を腕でこすった。
「……とにもかくにも……まずは肩を治療しないといけないです。別にもうボールなんて投げなくていいんですけど、さすがに、肩が上がらないんじゃあ日常生活でも困りますから。式なんかも、その後ですね」
「お前の彼女、まだアメリカにいるんだろ」
「……来年の春、帰国する予定なんです。ナオなりに色々、考えることがあるみたいで」
「子供のこととかか」
「……まあ、そういうところなんかも……いずれ」
田中は少し照れくさそうにしながら――出口で待たせてあるタクシーに向かって歩き始めた。その背中は、二人が知っているものよりも随分細くなったように見えていた。
ロビーの入り口から出る直前、田中は一度振り返り――
「……たまにでいいので、僕のこと思い出してくださいよ。……忘れられやすい顔でしょうから、念のため」
と、笑顔で手を振った。いつの間にかもとのうっすらとしたアッシュカラーに戻した黒髪は、どこか前よりも白髪が増えたように海には見えていた。
「お前、分かってると思うけど、式にはちゃんと呼べよ。お前じゃない。お前の彼女と一緒にバンドしてたやつに、俺は用があるんだ」
「分かってますよ」
海の軽口に田中は背を向けながら手を振り、自動ドアから出て行った。
タクシーに乗り込み、完全に田中の姿が居なくなったロビーは、随分がらりとした感じが漂っていた。空いたドアから漏れこんだ冷たい風だけが一瞬そこにあって、暖房に紛れて消えていった。
「……俺は、最後の日、あんな笑ってられる気がしないよ」
「笑えるような最後を迎えたいから、さっき私に向かってあんなこと言ったんじゃないんですか?」
「そういう意味じゃなくてさ。……きっと、どんな転び方しても、最後の日は後悔してると思うんだよ。なんか、そんな気がして」
「笑えるようにならないといけないですね、自然に」
「自然に……ね」
海は隣で笑顔を向けるジェネルを見ながら、よくもまあ簡単に口角を上げることができるものだ――と思いながら、海は自分の去り際を、あまり考えたくはなかった。
それでも、考えたくないものほど考えてしまうもので――どうしても色々と思いがよぎってしまい、ずっと海は無愛想な顔をし続けていた。