「……おかえり」
家に帰るなり、海は華耶に抱きつかれた。強く、腰を引き寄せるようにして腕を巻き、もう片方の腕を背中のあたりでぽんぽんと叩く華耶。海もまた、そんな華耶を両腕できつく抱き寄せた。
「……ごめん、待たせちゃって」
「いいよ。すぐには帰ってきたくなかっただろうから。……旅行、楽しかった?」
「……まあまあ、かな」
「悪くなかったなら、よかったじゃない」
「……」
華耶の嫌味のない声色と言葉に、海はほんのうっすら笑みを浮かべたのだが、玄関の段差をもってしても背伸びをしてやっと海の鎖骨の辺りに顔をうずめている華耶にはその表情は読み取れなかった。海自身も、自分がそんな表情を浮かべているとはまったく思いもしなかっただろうけれど。
しばらくそのままいて、腕を解いた華耶はクスリと気まずそうに笑った。
「……駄目だね。月曜の真昼間からこんなことしちゃってさ。今にもサカっちゃいそうな顔なんて浮かべてさ、あたし。なんだか、わざと距離作って、溜めておいてからさ、その分切なくなったぶん激しく求め合う、なんてことを自分からしてるみたいでさ……悪趣味だよね」
「お前、そういうのさあ……」
「あー!!違う違う!!別にそういう趣味があるとか、そういうのじゃなくて、なんだろう、こう、結婚する前は遠距離恋愛だったじゃない?あの頃みたいなトキメキをあたし、強引に自分から作ろうとしてるみたいでなんか悪趣味だなー、って、自分で地雷踏んだだけでさ。別にそういう、これからもすすんでスワッピングしようねとか言ってるわけじゃあないからね!?」
「お、お前、人聞き悪いこと言うなよな!?」
海は華耶が突然とんでもないことを言い出したことに腕を振って全力で否定をした。
「――で、実際、どっちの抱き心地がよかったの?」
華耶は海にわざと意地悪な質問をし、海がすこぶる不機嫌そうに眉間にしわを寄せたのを見て、海がいつもの海であることを確認し、少し安心した。
帰ってきてなお、田中の件だとか、シリーズ戦の件だとかを大々的に引きずられては――それを癒してやるのが自分の責務だとはいえ、自分に海を癒しきれる自信が、当事者でもなんでもない自分には少し、足りなかったのだ。
「華耶までアイツみたいなこと言いだすのやめてくれよ。俺はアイツとはそんなんじゃない。大体……言っとくけど、これで俺がやっぱ若いやつの肌は違うね、とか言ったらお前どうするつもりだったんだよ」
「えー?そりゃあ……ちょっと妬くし、たぶん、海くんがあたしを求めるよりもずっと、あたしが海くんを求めてやるけど」
「……はいはい」
海は呆れた表情を浮かべながら、居間へと向かった。
スーツケースも、お土産も、その他諸々もすべて宅配で家に届けたものだから、ほとんど海は荷物を持っていなかった。既にテーブルには送ったさまざまな菓子類が盛り付けられていて、子供たちも手をつけたのが確認できた。
「そういえばさ。晴留たちはどうだった?家、泊まったんでしょ?」
「ああ。晴留はなんか地下室使ってるみたいだったよ」
「地下室?なんでまた。勉強なら普段、真結たちと一緒にしたがるじゃない」
「ああ……なんか晴留、楽器やってるみたいでさ。夜の間も練習したいからって。まあ、地下室の鍵、ひとつくらい持たせといても別にいいだろ。大学生になって何か自分なりにやりたいことがあるなら、それでいいじゃないか」
「それもそっか。他になんかあった?」
「まあ、晴留も中学生入るくらいからそうだったけどさ。皆、華耶みたいな身体してたよ。きっと、お前に似たんだね」
「そう、それで気になってたんだけどさ」
「うん?」
華耶はずい、と近寄って海をじっと見つめた。何か引っかかるようなことを言った覚えがないから、海はどうしたものかと華耶をじっと見つめ返した。
「海くんのお母さんはどういう身体だったの?あたしだけじゃなくてそもそも、海くんの血を引いてる可能性だってあるわけじゃん。いいじゃん、そこは別に、謙遜しなくたって。嫌じゃなかったら、思い出の断片から拾い上げてきてほしいな」
「……あまり自分の母親の身体がどうだったかなんて、自分からは進んで言いたくはないね」
「じゃあ、美人だったかどうかだけでもさ?」
海は華耶のしつこくは聞かない言葉に思わず顔をしかめ、額に指を押しやって少しばかり記憶を引きずり出すようにして人差し指と中指をつまむようにしてしばらく黙り――
「……何度もあんまりこういう話したくないんだけどさ」
「何度も?」
「前に同じようなことを聞いてきた奴がいるんだよ。察しろよ」
「ああ~」
なんとなく誰のことを言っているか想像が付いた華耶はニヤニヤしながらそれ以上のことは言わないでおいた。
「……あんな父親についてくるくらいの女だ。そりゃあ、美人の類だったし、グラマラスっちゃあ……グラマラスだったよ。自分の親のことをグラマラスだのなんだの言うのは、めちゃくちゃ嫌だけどね。そういう、なんだろうな……全体のフォルムが似てるせいでもあるのかな。何度も言ったけど、ふとしたときの仕草が、華耶に似てるんだよ。決して顔が似てるってわけじゃあないけど、ふと、おふくろと華耶がダブって見えたってことは……お前も、おふくろも、どっちも美人だし、いい女ってことだと思う」
「やだなあ、美人だって」
「今更そんな言葉でお前、照れてどうするんだよ」
わざとらしく両手を押さえて照れてみせる華耶を、海は軽くあしらった。
「君、女はいくつになっても綺麗でいたいし、好きな男の人の前では可愛く、可憐でありたいものなのだよ。それが分かるかね?海くん」
「分からなくもないけど」
「自分で言うのもなんだけど、あたし、その辺の同い年より全然若いでしょ?背のせいで綺麗って感じよりは、可愛いだけの感じのままかもしれないけど」
「それはまあ認めるけど――でもまあ、綺麗っちゃ、綺麗だろ」
「……まあ、それは海くんがあたしを枯らさずにいてくれてるからってのもあるわけで」
こうしたときに素直に自分のことを褒めてくれる海の言葉に華耶は一瞬胸を撃ち貫かれたような衝撃を覚えたが、海は無意識に言った言葉のようだったので華耶はいちいち指摘はせずにおいた。
「で、その結果簡単な口説き文句にも照れちゃうわけだ」
「海くんはお世辞を言うタイプじゃあないからね」
華耶はそう言いながら、海の額をつん、と人差し指で突いた。そうなのだ。お世辞で綺麗だの言うタイプの人間ではないのだ。華耶は海から言われた言葉を大事に胸の中にとっておいた。
~~~
「はぁ!?!?!?!?」
華耶に無理矢理起こされ、朝刊を見た海はその一面に震撼し、思わずこれまで生きてきて一番の大声を出した。これまで聞いたことのないほどの大声を上げた海に華耶は驚きながら、どうしたことかと海のもとへ駆け寄った。
「どしたの?」
「……華耶。俺のほっぺたちょっとビンタしてくれ。なんでもいいんだ、話はそれからだ」
「いや……顔は……ちょっと……」
「じゃあ手の甲でいい」
「わかった」
華耶は海の手の甲を思い切りつねり、海は思わず苦悶の声を漏らした。
「海くん。いまどきこんな古典的なやり方で夢かどうか確かめる人、居ないと思うよ」
「そりゃ、そうだろうけど」
華耶はそう言って海の近くへ置いてあったスポーツ誌を手に取った。一面には土下座する球団代表の写真。そして――もう半分に、肩に装具を巻きつけた田中の写真。
『田中、お前しかおらんねん――』
『フロント、魂の再契約要請 田中、衝撃の引退撤回へ――』
一度は球団に見限られ、挙式のために肩のリハビリをしていたはずの田中。ところが、どうやら今年もまたチーターズはFA戦線で他球団に遅れを取り、急務だった投手陣の建て直しに見通しが立たなかったらしく――もう一年だけ投げてくれないか、と、田中に対して異例の引退撤回を頼み込まれたらしい。
いや草wwwwwww
これはメイショウコンノですわ。恥を知れ
いくらなんでもここのフロント無能にもほどがありすぎるのでは
フロントどうこうよりもコーチ陣が無能なだけ。田中の怪我に気づいていなかったとか体制としてどうなの
これはうんちーターズ
だめだこのチーム。50年後も日本一になれてないよ
田中が不憫で仕方がない。あんまりだ
そもそも開幕までに壊れた肩を間に合わせろって酷すぎないか
田中を何だと思ってるんだ
FA戦線の出遅れを田中の再契約で穴埋めできると思っているなら頭にウジ虫でも湧いているぞ
それでも田中の金髪は似合っていなかった
田中は球団代表の枕か何かか
こいつの彼女は世界のヒーローだというのにこいつは……
ネットニュースは当然、あまりよくない盛り上がりを見せていた。
海としては、田中が戻ってくる、ということに少しながらの喜びを感じている一方で、なぜお前もお前で引き受けてしまったんだ――と、なぜそこまで無茶をするんだ――という田中への一種の呆れもそこにあった。
もちろん、こんな紙面を朝早く見ている人間は他にもいるわけで――
「……まあ、このタイミングでそりゃ電話かかってくるよな」
と海は誰からの電話からかも見ずに携帯をとった。大体このパターンにも慣れてきてしまっている自分がそこにはいた。
「もしもし」
〈海さん!!やべーです!!!!事件です!!!!朝刊見てください!!!!〉
「見たよ」
〈やべーですよね!!!!!!〉
電話の向こうで一体ジェネルがどんな顔をしているのか――あまり想像したくないほどの語気がそこにはあった。
海は携帯から耳を少し遠ざけていたが、それでもなお耳を突き破ってくるほどの勢いでジェネルは興奮を隠せずにいた。
「分かったから、落ち着け。こんな朝早くからデカい声なんか出して、近所から何言われるか分からないぞ」
〈それは……そうですけど〉
急にしょぼんとした声でジェネルは声を小さくした。冷静でなんかいられるか、というテンションから、急に冷静さを取り戻したジェネルは、その後何を話すかなど決めずに勢いで電話をかけてきたようで、しばらく黙り込んでしまった。
「……切るからな」
海は電源ボタンを押して通話を打ち切ろうとしたが――
〈実際、喜んでいいのかどうか……複雑ですよね〉
と、ジェネルの細い声に海は思わず
「……アイツの決めたことだ。アイツの意思を尊重してやろう」
と一言だけ話して、海は電話を切った。
「……病院、行くんでしょ?」
「……あんな記事見せられたらね」
華耶は電話の最中から海の隣でおにぎりを作り始めていたらしく、袋に詰めたそれを海に手渡した。
「ジェネルちゃんは連れて行くの?」
「いや、一人で行く。一度、二人で話がしたい」
「まあ、そうだよね」
海は苦笑いを浮かべた華耶を背に、車庫へと向かった。
「家には戻らなかったんだな」
「……なんとなく、意地張っていたかったんですよ。ナオが日本に戻るまではここに居て、それから二人で引っ越そうと思ってたんです」
病院内の食堂で海と田中はコーヒーをすすりながら、向かい合って話をしていた。田中の言葉が微妙にかみ合ってなかったのか、海は首を振った。
「違うよ。入院のこと言ってるんだよ。手術が終わったら退院だってできるんだろ。どうしてそんな2週間も病院なんかに」
「……抜糸のためにわざわざまた病院に、って考えたら、なんだか面倒で。家に居てももどかしさで何か変なことをしそうなので、じゃあ別に抜糸までは入院でいいや、って思って。どのみち、右腕がこうですから」
「まあ、そうだね」
「……それに、ここの個室、なかなか快適なんですよ。wi-fiもしっかり強めの電波が通ってますし、コンセントだってちゃんと近くにありますし。安いビジネスホテルなんかよりよっぽどいいですよ」
「バカ言え」
海はコーヒーをストローで回しながら、冗談を話す田中をじっと見つめた。
「で……お前、何で現役復帰なんか選んだ?お前、球団に足元見られた上で好き勝手踊らされてるんだぞ。年俸だってだいぶ下げられて。いいのか、こんなので」
海の言葉に対してじっと目線を逸らさないまま田中は黙っていて、しばらく人差し指で叩いていたリズムをぴたりと止めた。
「……未練があるんですよ。やっぱり。プライドってもんがないのかって佳井さんは思ってるでしょうけど――俺だって、そりゃあ、不甲斐ない最後でしたけど、やっぱり、もう一年だけチャンスがあるっていうなら、足掻けるだけ足掻きたかったんです。無駄な足掻きかもしれませんけどね。……どうせ俺はもとからいろんな人にコケにされ続けてきたんですから、最後までコケにされ続けてやろうって思ったんです。それに――」
田中は鼻でフン、と軽く笑いながら、少しだけ自嘲気味に――
「……一年かけて引退試合をさせてもらえるって思ったら、いいもんです。ポストシーズンの前でしたっけね。事務所から電話がかかってきて、なんだろうと思ったら『引退試合は肩が治ったあとででもいいか』なんて言ってたのに」
「そんなこと言われてたのか、お前」
「ええ。わざわざメディアには言ってやりませんけどね。……それが突然、『契約解除を取りやめるから引退を撤回して春までに肩を治してきてマウンドに戻ってきてくれ』ですよ。俺たちが戦ってきたチームは……俺たちの戦争は、所詮、こんなもんです。誰の心も――なんなら、味方の心すらも揺さぶらることもできなかった。だったら、最後まで敗者らしく、華々しく負けてやろうってだけのことです」
どうして負ける前提なんだ――と田中を咎めることは海にはできなかった。田中なりに思っていることはたくさんあるだろうから、海はじっとしていた。
「……たぶん、仮に奇跡的に俺が来年調子がよかったとしても、一年限りでしょう。俺だって、さすがにずるずるとこの先何年もやるつもりはありませんし、先に肩がまたダメになります。それに、次に肩をやるときはきっと野球人生どころの怪我じゃないところにいってるでしょうから。……そうでもしないと、きっと今度は俺の未練が勝って、球団に迷惑かけちゃいますから。コーチ兼任、なんて顔じゃあないですしね、俺は」
「……」
海は田中の言葉を笑わずに黙って聞いていた。塞ぐことも、遮ることもせず、ただ、田中に言葉を吐かせ続けてやった。
田中はなおも笑いながら――
「……よくできたドラマだと思いませんか?一度終わった男が……一年だけ現役に戻って、もう一度優勝を目指すなんて。……最初はなんだかんだ、現役から逃れることができて俺は……本当にせいせいしたんです。もう誰からも何も文句を言われないし、マウンドからもベンチからも罵声を飛ばされることもない。フロントに足元を見られることだってない。痛みをこらえて投げる必要だってない、って。でも……俺、やっぱり野球でしか生き様を表現できないんだと思います。佳井さんみたいに。俺だってこんなこと馬鹿馬鹿しいと思ってますし、佳井さんがいなかったら、こんなチームで投げ続ける理由なんて、ありません。佳井さんが移籍するつもりだったならきっと、断ってたと思います」
「俺を盾にして動機にするなよ」
「……すみません。でも……もう一年だけ、本当の最後の最後……もう一度、目指しましょうよ、頂点。……目指すって言うだけなら、楽ですけどね。そんな都合のいいドラマだってなかなかないことくらい俺だって分かってるつもりですし、俺はそんなキャラじゃないってことも」
「一応聞く。勝算は」
「……肩のこと、聞いてるんですか」
「そうだね」
田中は笑いながら天井を見上げ――珍しく笑顔を向けて、言った。
「ないです。正直言って」
「ダメじゃないか」
「それを分かってて球団だってもう一年俺を雇ってくれるんです。たぶん、最後の最後まで、俺という投手はダメだったって、晒し投げさせておいて補強の材料にしておきたいんでしょう。だったら、俺もその思惑に乗ってやろうと思います。投げて、投げ抜いて――今のチーターズはこんな男を現場に戻さないといけないほどの状態なんだ、って、一年かけて晒し投げてやろうと思います」
「お前、優勝したいのか、ダメでありたいのか、どっちかにしなよ」
「……そりゃあ、優勝はしたいですよ。俺なりに、ベストは尽くすつもりです。でも、単純に、勝算がないんです。俺一人の力だと。……させてくれるんですよね、優勝。俺一人なら無理でも……佳井さんと大爺がいれば、きっと、できるはずです」
「そんな甘くないよ」
海はコーヒーをすすりながら、笑った。
そうして席を立ち、その場を去ろうとした海を田中は一度呼び止めた。
「……佳井さん――本当は俺――」
海はふと振り返り、田中を見下ろした。
「……いえ。なんでもないです」
「……なんだよ。気持ち悪いやつ」
海は鼻で笑いながら、その場を去った。