海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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17・幸せの起点

やんわりと吹いていた冷たい風が、一瞬だけびゅうと吹きつけ、華耶のサイドポニーは大きく揺れた。

海を呼び止めた華耶は、風が収まるのを待ちながらずっと海をまっすぐな目で見つめていた。

海もまた、風で揺らぐ自分の長い金髪などお構いなしに、華耶をじっと見つめた。

 

ぴたり、と止んだ風に意を決したように、華耶は語り始めた。

 

「あたしさ、正直――あれから一ヶ月くらい、海くんに会うのが怖かった。海くんはいろんなこと、あたしに打ち明けてくれたけど、あたしは本当に海くんに全部話せてるのかな、とかさ。あたしは海くんを絶対に幸せにしてあげられるとは思ってはいるけどさ――それは、あたしがそう思ってるだけの"幸せ"であって、それが本当に、海くんにとっての"幸せ"かどうかなのかな、とか考えたりしてさ――」

「華耶――」

「ごめん――ちょっと、今は……今だけは、聞いててほしいんだ」

 

一歩踏み出し、『そんなことない』――と否定しようとした海の言葉は、華耶によって抑止された。

普段『でもさぁ』なんて言って自分の言葉をやんわりと遮ることはあったが、こうして華耶が強い語気で海の言葉を遮ったのは初めてだったから、海は言いかけた言葉を引っ込めた。

 

「お母さんとも、お父さんともいろいろ話をした。あたしは――海くんを見てて、自分がどれだけ恵まれた環境で育ってたかなんて、分かってたはずだったのに――お母さんはともかく、お父さんのことずっと――後ろめたくて、避け続けてた。あたしは、お父さんの期待を裏切ってしまったし、自分からその期待を捨ててしまったから。前にも言ったかもしれないけど――あたしが野球を諦めた分、海くんに頑張ってほしいなんて思っちゃってるのは、こういう……お父さんとのこともあったりするからだったりする。でも、海くんはあんまりそれには嫌な顔しなかったよね。嬉しかった」

 

〈ご来場のお客様へご連絡いたします――イルミネーションは――30分後に消灯します――〉

 

「何が海くんにとって幸せなのかは、あたしはまだ――手探りなんだ。海くんのことは、世界中の誰よりも愛してあげられる自信はあるし、海くんを本当の意味で幸せにしてあげられるのもきっとあたしだけだと思ってる」

分かっている――と海も華耶の言葉に対して華耶への強い眼差しで呼応する。華耶は少し次の言葉を思い悩んでいるようなそぶりを見せながらも、目線を逸らさず、少し深呼吸して落ち着かせようとしていた。

 

「……だからこそ、海くんの幸せってなんだろうっていうのは――ずっと、ずーっと、一生考えていきたい。野球選手としての荒屋海には、あたしの荷物を預けてしまったけど……一人の人間としての荒屋海には、たくさん甘えさせてあげたいし、海くんからいつか野球という枷が外れたときも――ずっと愛していきたいと思ってる。……お父さんに言われたんだよ。野球をやってなくても添い遂げたいと思ったのか、って。もちろんそう。あたしはぶっちゃけ……海くんのこと、電車の件もそうだけど――顔が好みだったっていうの、あるよ。割とさ、一目惚れみたいなもんだったんだよ。こんな王子様みたいな人があたしを助けてくれたんだ、って。でも――海くんが突然連絡を入れてきた日、あたし、安っぽい表現かもしれないけどさ、運命を感じたんだよ。あたしは、この時のために生きてきたんじゃないかな、って。あたしが海くんに助けられたんじゃなくて、あたしが海くんを助けるところが、本当の意味のスタートなんじゃないかなって。……重い女かもしれないけどさ、なんだか……ただの顔で決めた、一過性の恋なんかじゃないって、ずっと思ってた――」

 

華耶は左右で組んでいた足をいつしかほどいて、じっと見上げるような形で海の顔を見続けていた。

海もまた、イルミネーションに照らされた華耶の姿をずっと見つめていた。

 

華耶は珍しく、少しぎこちない笑顔を見せていた。きっと、不安なのだろう。唇を震わせながら、大きな瞳を時々ぴくぴくとさせた、滅多に見せない表情をさせていた。

 

「だから――海くんがこないだあたしに望んだこと、かなえてあげる。一生かけて。これは――海くんを幸せにするための一歩。だから、改めてその言葉はあたしから言い直させて――」

 

一瞬、再び少しだけ強い風が吹いて、華耶のポニーテールがゆらゆらと揺れた。

風で乱れた前髪を手でなんとか押さえながら、風が収まるのを待ち――着衣の乱れや髪の乱れを直してから、海へ一歩、一歩近づき――その左手を握った。

 

「――あたしと――結婚してください」

 

~~~

 

〈――この冬、辞めない刑事がまたシネマに帰ってくる!〉

〈ンッンー、やんなっちゃうな……〉

 

「――でもねー、華耶。忘れちゃいけないっていうか、たぶん忘れてはないとは思うんだけどさ、一応聞くだけ聞くね?」

いつもどおり、昔流行っていたという刑事ドラマの再放送をBGMに皿を洗っていた三葉は、まだ半分夢心地の様子でいるようなそぶりの華耶に釘を刺すような言い方で話しかけた。

 

「えー?なーに?」

華耶は携帯の画面に映っている海とのツーショットを眺めながら、少し惚けた様子で返事をした。

 

「一応さ、籍入れたりだとか、そういうのは卒論出して卒業が確定してからのほうがいいよ。それに、もうそろそろ就職活動の時期でしょ。そのあたりは大丈夫なんだよね?華耶の将来のことだから、あんまりしつこくは聞かないけどさ、一応……就職、本当にやばかったら叔父さんに声かけてもらうっていうのも――」

「大丈夫だーって。おかげさまで主席まっしぐら。こう見えて、勉強はしっかりやってるんだよ。この3年の間、別にずーっと恋愛ばっかしてたわけじゃないから。卒論だってもう準備始めてるし。あたしを、そこいらの惚けた学生と一緒にしてもらっちゃ困るねー」

 

十分惚けているじゃないか、と三葉はケラケラと笑いながら軽快に皿を次々片付けていく。

 

「気が早くて結構。それで?就職は?」

「一応、20社くらいは考えてはいるけどさ。本当に狙ってるのはそのうち半分くらいってところかな」

「へぇ、10社も興味あるとこあるんだ」

「まぁね。ここじゃなきゃやだ、っていうよりは、いろんなあたしがあると思ってね。一番狙ってる会社は確かにあるけどさ」

「何系?」

「内緒」

にへへ、と笑みを浮かべた華耶の表情は、雲ひとつない晴れ渡ったもので、三葉は安心したようにその表情を見つめた。

 

「あっそ。別にどんな業界だろうけど、人に迷惑かけるような仕事じゃなければ何したっていいけどさ」

 

報告もかねて再び実家に戻った華耶は、海が自分の想いに応じてくれたことがよほど嬉しかったのか、その後通りすがりに撮ってもらった写真や、それまで華耶が撮ってきた写真なんかを見ながらずっと浮かれた様子でニヤニヤし続けていた。

 

「付き合いたてみたいな顔しちゃって、気持ち悪いなあ」

「でもさー、お母さんだって今でもお父さんのこと好きなんでしょ」

「そりゃあね。お父さんの本当の顔を知ってるのは私だけっていう自負があるから」

自分と似たようなことを言い始めた三葉の"女"としての表情を見て、華耶は思わず噴き出しそうになった。

 

「……ま、きっと、華耶もそうなんだろうけど。カレシの本当の顔、カレシにしか見せない顔、たくさん見せ合ったんでしょ」

見透かしたように、母は続けてそう言い放った。

「まぁね」

自信げに鼻を鳴らしてみせる華耶に、三葉は自分の若かった頃をふと思い出した。

 

「でもね、意外かもしれないけどさ、お父さん、結構頑張ってプロポーズしたんだよ。あの時は――」

「ただいま」

くたびれたようにして、竜匡が帰ってきた。珍しく夕飯の時間に戻ってはきたが、仕事が忙しいのかまた一段と頬がこけたようにして、疲れきった表情を浮かべている。

 

「まぁ、その話はそのうちね」

「うん」

竜匡の肩を抱くようにして廊下へと出て行く三葉を見て、こういうのはたぶん血筋というものなのだろうな――と華耶は思った。

 

その頃、球団特集の番組の収録があるとかで、オフだというのに海は一度東京を離れ、渋々大阪へと遠征していた。

おおよその収録は東京でもできるものと思っていたが、関西ローカルの番組は東京で収録するわけにもいかないだとかなんとかで、強制送還をくらった形だ。

 

何かと理由をつけて断りたかったが『ドラフト1位という建前』だとかなんとか、自分の意思では断れない状況を作られてしまっているようで、海は苛立ちながら新幹線のチケットを取ることになった。

 

数日後には正月を迎えるというのに、休ませてももらえない。

それがテレビの向こう側の世界に生きる人間の宿命なのだろうし、年末年始だって働いている人は自分たちだけではないことを知っているから、なんとか海は納得しようとした。

それでも、新幹線の中は帰郷を意識した人々が多く――海は長い髪を束ねて帽子を深くかぶった。

どうせ自分のことを荒屋海だと思って話しかける人はいないだろうけれど、そうした社会から今はいったんはじかれていたい気分だった。

 

「いやー、どうですか荒屋選手。プロ2年終わりましたけど」

正式には俺はもう荒屋じゃない――とうっかり口を滑らせそうになったが、海は慌てて喉に力を入れて言葉を気道から押し返した。

一応、結婚の約束こそしたものの、寮から出られることになる来年のシーズン後――そして、華耶の卒業が確定するであろう来年の今頃くらいまでは籍を入れずにおく、ということで話をつけたのだから、まだこのことを話すわけにはいかなかった。

 

「まぁ、プロが生半可な世界じゃないとは思っていましたが、正直言ってそこになかなか適応できなかった僕が悪いですね」

「今年はなんかスランプっぽい雰囲気もありましたけど」

「監督が長打打てって言うんで、長打狙いにいった結果があれです。去年なんかは素直に弾き返せた打球もいくらかあったと思うんですけど、なんか俺のスイングあんまり好きじゃないみたいで」

「ちょっ……ふふっ、ちょっと!それカメラの前で言っちゃっていいんですか?!」

「そういうまずいシーンを編集するのが皆さんの仕事なんじゃないんですか」

 

海の真正面な言葉に思わず現場からは笑いがこぼれた。

司会の――なにやら世間では10年ほど前から人気らしいが、10年前はまだ日本にいなかった海にとってはよく分からない芸人も思わず腹を抱えて笑っている。

人を笑わせるのが仕事の人も、他人のことで笑ったりするのだな、と海は素直に感心した。

 

「えーっと……スタッフの皆さん、ここアカンのでマジで使わんといてくださいね。え?ひょっとして荒屋選手、あんま監督のことは」

「どうせカットするんでしょう?こういうまずいところは。……正直言うと、あんまりその日その日の成績のことにはまだ口挟んでほしくないですよね。俺一人がホームラン打って試合に勝てるならいいですけど、代打でしか使ってもらえないのに、試合に負けたの全部俺のせいにされても正直言って腹は立ちますよ。ドラフト1位がどうだのってよく監督は言いますけど、同じチームで野球する以上、そんなの関係ないはずじゃないですか。よそはどうか分かりませんけど、広報が必死でチームの雰囲気を宣伝してくれててますけど、ああやって外から見える世界ほど、うちらの先輩たちだって互いにリスペクトしあってなんかないですし。自分のことが一番、みたいな顔してる人多いですよ。俺だって先輩となんか交友があるわけじゃないですし」

 

海の言葉に対し、かなり食い気味に芸人は手を振り回しながら反応した。

「アカンアカンアカン!!これ絶対カットしてくださいね。ダメですよ、こんなん放送したらテレビ的にはおいしいかもしれませんけど!荒屋選手!頼んますよ!テレビってもんをもうちょっと考えてください!殺されますよ!世間に!一応、球団のエエ感じの雰囲気とか、そういうのを紹介する番組なんですから!」

そう言いながら、イスから転げ落ちた司会の芸人が思わず膝を叩く。

 

何がそんなに面白いのか、海には分からなかったが、芸人はまだ面白いようで、ケラケラと笑いながら――

「いやこんな番組……こんな番組って言ったら失礼かもしれませんけど、『恋の空振り三振』あたり出たほうがええんとちゃいますか荒屋選手?」

などと言うが、海には全く響かなかったようで――

「いや、別にテレビ出たくてこの仕事してるわけじゃないんで……」

「そういうとこやで!荒屋選手!」

芸人はよほどツボに入ったのか、しばらく収録をストップするほどには一人で笑っていた。

 

海の言葉は、遠慮がなかった。司会の芸人も現場のスタッフも爆笑しながら現場を回していたが、一旦休憩になってから『どこ使えばいいんだこの映像……』と会議をしていた。

 

海自身、別にすすんで爆弾発言を言おうとしているわけではなかったが、監督に感謝しているなんて微塵も思っていないことを映像として流されて既成事実とされるのも嫌だったので、素直に思っていることを話しただけだった。

それがかえって面白く、いい意味でも悪い意味でもスタッフを悩ませたらしい。

ともすると、この国で流れている映像というものは随分とそうした遠慮のもとに流れているものが多いのだろうな、と海は思った。

本当のことを言うと空気が読めないやつ、と言われるのだから、面倒くさい世の中である。

 

「じゃあえーっと……荒屋選手。どうです?いわゆるイケメンの部類ですけども。去年もキャンプ入りの際にバレンタインデーのチョコ、殺到したって聞きましたよ」

「ありましたね、そんなことも。チョコもらって、そんなに嬉しいですか」

「嬉しいに決まってるでしょう。ああいうのは、どれだけ人気があるかの指標なんですから」

「そうなんですか。そういうの、日本に来てから経験したのでどうにも……」

やはりこの国のバレンタインデーをめぐる事情はなかなか理解しがたい……と海は思った。

 

「どうですか。恋愛関係とか。あるいはこう……大人のお店とか行ったりはせーへんのですか」

「恋愛、ですか」

海は腕を組んで、少しだけ迷った。しばらく迷ってから――「これもできればカットでお願いできますか」と断りをいれてから、「付き合ってる人はいます」と白状した。

 

「ただ――」

「ただ?」

司会はどんな掘り下げがあるのだろうとウキウキした様子を見せたが――

 

「俺らみたいな仕事してる人間は公の人みたいなもんなんでこんな風に取材受けてますけど、相手の人は一般人なわけじゃないですか。一般人にまで取材巻き込んだり、相手のこと詮索して、それであいつの彼女はだれだれだ、とか探ったり、それでファンが人の彼女にどうこう言ってくるのもあれなんで……付き合ってる人はいますけど、どんな人か、っていうのはあんま電波に乗せないでもらえれば」

と海が言うと、司会も「そういうところは常識があるんですね」と笑いながら頷いた。

 

自分の中ではここまでも何もおかしいことを言ったつもりはないのだが――と海は少し不満そうに足を組んだ。

「……この取材、2時間くらいやってますけど、テレビじゃどのくらい使う予定なんですか?」

「一応、15分くらいの予定です。荒屋選手、テレビじゃなかなか使いづらいこと言ってくれるので、ちょっとこの後も個人的な質問しますけど、もうちょっと無難な項目用意しますね」

「ここはなんかカットされなさそうですね」

「ええ。ここは使います。一応僕らも取材はもともと1時間半くらいを予定してたので」

「テレビって大変なんですね」

「お前のせいじゃ!ハハハ……」

 

思わず素でツッコミを入れた芸人もまた、きっと普段から大変なのだろうな――と海は思った。

それと同時に、とっとと東京に帰って華耶に会いたい――そう思いながら、なかなか進まない取材に少しだけ苛立ちながら、手渡されたお茶を飲み干し、いったんスタッフと映像の確認に入った。

 

カットされるであろう交際に関してのシーンは、あの日結婚指輪を渡されていて、何も思わずに今日つけてきていたならば、きっと突っ込まれてぐいぐいこられたのだろうな……と思うと海は少しだけぞっとした。

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