海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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167・ただ、過ぎただけの時間がそこにあって

田中の肩のことに関して、オープン戦までには肩の調子を整えておくという方針こそあれど、その調整は当面二軍キャンプで行う――という告知があったことから、いよいよ田中は本当に開幕に間に合うのかという空気がチームの中に漂っていた。

 

「気が気じゃないですか」

「気が気じゃないね」

「快諾したのは海くんのくせに」

「本人の意思を尊重したからだよ」

「でも気が気じゃないんですよね」

「そりゃ、気が気じゃないね」

数日後には春季キャンプが始まるというのに、海は家族の集合写真を見ながら深いため息をつき、長く艶のある髪をかきむしった。

 

冬休みの間、個人的にジェネルが一人で東京へ遊びに行き、真結と広乃を連れて遊びに行った際に芸能界を名乗る女性スタッフに声をかけられた。

 

いわゆる、スカウトというやつである。

 

なんでも、双子が主演の映画を作ろうとしているらしいのだが、やるからには本当の双子を――という方針らしい。

 

最近はジェネルもオフの間は海と一緒の出演だけでなく単独でのテレビ出演もすることが増え始めたから、もちろんこの大手事務所のことは知っていたし、自分が公に生きる立場の人間だからこそ、すぐに受け取った名刺を本物かどうか確認した上で、二人にその意思を伺った。

二人ともはじめのうちは躊躇っていたが、二人とも『やってみたい』と口にし――海も華耶も、基本的には子供たちがやりたいと言ったことはその意思を尊重するというスタンスでいたから、そこまでは止めなかった。

 

そこからあっという間に事務所入りの話は進んでいき、きょうから本格的に演技指導だとか、そうしたレッスンが始まるのだという。

学業と平行して芸能活動ができるのかと言われたら、真結も広乃もその部分は確かに少し不安はあるらしいが――晴留は一人で高校生活をしてみせたし、新は単身海外へサッカー留学をしてみせた。

二人にできたことが自分たちにできないというのは、それはそれで悔しいところがあると真結も広乃も話していたし、二人とも、決して華やかな世界で暮らしてみたいわけではなく、チャンスがあるなら少しでも挑戦してみて、ダメだったら次のことはあとから考えたい――という考えがあるようだった。

 

二人ともそれができるのは自分たちが恵まれた環境で生きているから、ということも分かっているようだが、恵まれた環境に生きているからこそ、自分たちが思い切ったことをできる状況にいるならば、海にも華耶にも迷惑をかけない程度に、いろんなことに挑んでみたい――ということを二人は話していた。

 

あれだけ小さく、どこか影でこそこそひそひそとしていた二人も、ずいぶんと大人になったものだ――と海は関心した。そうした気持ちがある一方で、やはり、自分たちのように公にその身を晒してる身分としては、芸能界という公私のないような世界で生きるということを考えると、心配でたまらなかった。

 

「田中さんの心配して、真結ちゃんと広乃ちゃんの心配もして」

「でもって自分の心配とチームの心配、と」

「キャンプ前に倒れてちゃ格好つかないですよー、海さん」

ジェネルと華耶が二人で海をつつき、眉間にしわを寄せながら足と腕を組んで荒めのため息ばかりついている海をからかった。

 

「やめろよ。人間、長いこと生きてると自分ひとりのことだけ考えて生きてもいられないんだよ。俺がそうなりたくて、自分からすすんでそうなったんじゃない。周りがそうさせたんだ。俺だってもっと、その辺の起きたばかりのカバみたいな間抜けな顔してるような奴らみたいに、自分のことだけ考えて生きられたならよかったと思うよ。でも、最低限子供たちの心配くらいはするだろ、普通は。田中のことはさておいたとしても。それに――」

リビングについこの間かけられたばかりの青い日本代表のユニフォームの隣で存在感を放つ、真紅のユニフォームを海は眺めた。

 

1月の移籍市場で、新はイギリスサッカーの名門、ヘビーガンFCへの入団が決まった。とうとう新はイギリスで高校生活を終え、そのまま日本に戻ってくることなく海外サッカー――それもイギリス1部という、トップリーグ中のトップリーグでの世界にその身を置くことになった。

 

もちろん、日本のチームからの打診も数件あったらしいのだが、新はこれを全て断った。

契約金だとか、スタメン確約だとか、そういったチームが提示した条件は別にどうでもよかったようで、『佳井海が世間から忘れられない限りは日本でプレーしたくない』――たったそれだけの理由だったようだ。

 

仕方がないことだと思うし、自分が新の立場だったとしても、日本サッカー特有の地域との密着性の高さやファンとの距離感において、そこに『佳井海の息子』ということを延々いじられ続けるのは、自分だって嫌だ。新の判断は海からしてみてもそれほど間違っていないと思っている。

 

……そう強く思ってはいるのだが、その一方で、イギリスサッカーのトップリーグという厳しい世界で、しかもスタメンも確約されているわけでもない状態で単身生き続けるということだとか、決して近くに住んでいるわけではないしその生活の実態が見えない新が果たしてどんな生活をしているのかだとか――親として、今の状態の新を心配するのは当たり前のことだった。

 

どれほど新が自分を憎んでいて、どれほど新が一人で生活できると言い続けたとしても、海外で一人暮らしをする新卒の18歳というものがいったいどれほど過酷な日々なものだろうか。

決して肌の色を通しての人種差別だってSNS上の世界だけではないこと含め――自分によく似た顔つきではあるものの、純白人からしてみれば純粋な白人ではない新が果たしてどんな扱いを受けるかなどを考えると、海はそれだけでも心が痛んだ。

痛んだところで新のほうが自分からは距離を取っている以上どうにもならないし、それを理由に新が日本に帰ってくるかと言われたらそこまで軟弱な人間でもないから、新は自分からは絶対に帰ってこないことも分かってはいるのだが――。

 

「新のことなら、大丈夫だって。あの子は自分から一人で生きられるって言って家出たんだから」

「……それはそうだけどさ」

華耶が海の肩をぽんと叩いて、ニッと笑った。

「見せてもらおうじゃないの。欧州サッカーのトップリーグで活躍する姿ってもんをさ。そんなに日本が嫌なら、やってもらおうじゃないの。ってくらいでいいんだよ。現に代表戦でもゴール決めてるわけだしさ。なんか聞けば、今年のワールドカップにもこのままマジで代表として選ばれるかもしれないって話だし。心配ないって」

「だといいけど」

海はため息をつきながら、紅茶を手にとった。

 

「大体海さん、自分のこと心配したほうがいいですよ。私が言うまでもないことでしょうけど」

「分かってるなら言わないでくれよ」

「でも、去年もそうでしたけど、今じゃ三塁すら守らせてくれてないじゃないですか。久々に守った一塁もなんだかふわ~っとしてて」

 

海は決してその身体の動きが鈍ったわけではなかったのだが、スポーツテストでの俊敏性だとか100m走だとかいった数値が数年前よりはやや落ちていることを理由に、今野から一塁へその守備を回されていた。

もっとも、海の不調は精神的な部分も大きいこともあり、そうした部分からも三塁を年間通して守らせて怪我でもされたら困る――という小室の提案が裏にあったことは、誰も知らないのだが――。

 

「そうなんだよ。なんだかね……一塁しか守ったことなかったはずなのに、20年ぶりくらいに守ったらさ、俺、昔はどうやって一塁守ってたかなんて……なんだか思い出せなくてさ。勘とかでなんとかやってるつもりなんだけど、よくないね」

「最近うちら、また内野の守備結構やばくなってきたじゃないですか。そりゃあ、打ち勝つ野球しようとしてるんだから守備がザルになりがちなのは仕方ないですけど。なんか、守備がザルなのを今度は海さん一人になすりつけようとしてるんじゃないかって思って、あの監督」

「それは……まあ、あるだろうね。他の連中が一塁守れるかっ言【つ】ったら、たぶん、すぐには一塁をきびきびと守れないよ。一塁守備、軽視されがちだけど決して楽な仕事じゃないからね」

「だからですよ。海さんが一塁守備でやらかせばやらかすほど、あの監督、何かやべーことやってのけそうな気がして」

「やべーこと、ねぇ……」

海はぼうっと天井を見上げながら――

 

「まあ、仕方ないよ。勝つべき時に勝ちきれないまま、ずるずるとここまで現役を続けてしまったんだ。監督やチームが血の入れ替えをしたいっていうなら、そりゃあ、俺を槍玉に挙げるのは仕方ないことだ。田中にもう一度声かけたのだって結局、田中を晒し者にして、次にああなるのはお前たちだぞ、って見せしめたいところがあるんだと思う。だから田中は逆に躍起になって、今年一年限り復活するけど、何とかして優勝したい、って言ってる。あいつ、優勝したいとは毎年言い続けてきたことではあるけどね。俺たちの戦争っていうのはきっと、そうやって終わっていくんだ。チームからしてみれば、俺たちはテロリストみたいなもんなんだろう」

そう言って、苦笑した海。

 

「ジェネルちゃんの前でこう言うのもなんだけど、海くん、ほんとに……大阪にだけこだわらなくていいんだからね。子供たちだってもう家から出始めてるし、東京にも新居建ててるんだからさ、いざとなったらFA権だとかなんだとか、好きに使っていいんだから」

「……使えないよ、今更。ジェネルがいるからじゃない。もうね、今からじゃ世間が許してくれないよ。東京に家建ててることだってバレてるんだから、あいつら、俺が移籍なんかしたら火でもつけかねない」

「やめてよ、縁起でもない」

「おかしくない話だろ。……まぁ、それは冗談としてもだよ。あれほどここで戦い続けることを選び続けてきた俺が、今更ここから移籍するほどの大義名分がない。そこまでして試合に出たい俺っていうのはきっと、ファンからしてみれば、違うだろうし。……それをきっとお前たちは俺に、考えすぎだ、って言うんだろうけどね」

「……」

「……」

華耶もジェネルも、それぞれ、何か反論したり、あるいは何か言ったほうがいいのだろうか――という顔をしながら、それぞれが顔色を伺って、黙ってしまった。

 

「別に、俺は悲劇のヒーローになりたくてなってるわけじゃないんだよ。誤解してほしくないのはそこだ。俺が大事な場面で打てさえしたら、きっと勝てるんだよ、このチームは。そりゃあ、うちのチームには何かが足りないとかはまったく思ってないわけじゃないし、なんなら、いつも、このチームは何もかも足りない、って思ってる」

フッ、と自虐的に笑った海だったが、華耶もジェネルも笑わなかった。冗談になど聞こえなかったからだ。

 

「でもね、俺はよそのチームのことは何一つ知らない。だから、移籍したら移籍したできっと、また同じように満ち足りなかったり、本当に優勝する気あるのかこいつら、とか……ひょっとしたら俺の想像のつかないようなレベルのことに出くわして、あれこれ考え込んだりすると思う。環境を変えてよくなるならよくなるほうを選びたいけど、俺は……仮に、これ以下の環境にブチ当たったとしたら、本当に狂ってしまいそうなんだ。……これ以上、野球、嫌いになりたくないんだよ。華耶のためにも、ジェネルのためにも、薫のためにも。そして――俺に無茶な願いを託した馬鹿二人のためにも。お前ら二人や、今ここにいない奴ら――それぞれが俺にいろんな感情を抱いてるからこそ、俺は今の俺以下になりたくはない。……この話はここまでにしよう。どうあがいても、暗い話にしかならないだろ。ま……暗い話にさせてしまったのは、俺なんだけどさ」

 

海はそう言いながらポットからお茶を注ぎ、再び口をつけた。

 

~~~

 

「……よし、全員いるね。それじゃ、怪我には気をつけて練習するように。ダラダラ話してても仕方ないから、早く練習始めましょう。怪我にだけは気をつけるように。僕もつまらないことで取材対応なんか、したくないからね」

今野がキャンプの開始挨拶を、相変わらずなんとなく――ただ、毒舌気味で進める。

 

根性論だとかそういったものをあまり好き好まない海ではあったが、やはり、締めるべき部分をしっかり締めずに、抑揚のない挨拶を手短にするというのは、一年間を戦うという点においてどうなのだろうかと思わずには居られなかった。

相変わらず、隣で同じようなことを強く感じているジェネルが不満そうにぷりぷりしながら地面をならしていた。

 

「絶対リーダーシップ足りてないですって、あの人」

「やめろ。聞こえるぞ」

「聞こえたって私は構いませんもん。そのときは二人でチームから出て行きましょう」

「キャンプ始まってすぐに騒ぎ起こす気か。お前、もう若手じゃないんだぞ。お前が何か騒ぎ起こしたら、まあまあ大きく新聞なんかに取りざたされる存在になってしまったんだ。そのときのお前がよくても、お前の次の10年をお前自身が殺しかねないんだぞ」

「でも、おかしいことはおかしいって言わないといけないじゃないですかー」

「それは間違ってないんだけど……分かれよ。今はその時じゃないんだよ。とりあえず、落ち着け。俺たちはやるべきことをやって、結果で示せばいいだけなんだから」

「……そりゃー、そうですけど」

海になだめられながらジェネルは少しだけ機嫌を直し――ランニングが始まると同時に、先導するように前に出た。海もなるべくそれについていくように、少しペースを上げて前に出た。

 

「若手のみんなー!ただ走るだけじゃ意味ないんだからね。走るからには、ちゃんと自分のペースだとか、体力つけること意識するだとか、そういうの考えて走ろうね!メニューだから仕方なく走ってます、とかじゃダメだよ!」

ジェネルが後ろを振り向きながら、嫌そうに走ってる中堅どころや若手に向かって声を張る。

 

先頭にジェネルを置き、少し距離を置いて海、そしてそこからまたしばらく距離を置いて残りのメンバーが走っている。

あえてゆっくり走り続けるというやり方もあるらしいのだが、どちらかというと全体がうんざりしながら走ってるような気配が海には感じられていた。

 

海だってもちろん、ただのランニングは好きではない。ランニングをするよりであればスクワットだとか、単に体力をつけるだけなら他にいろいろやり方があるはずだとは思っている。

ただ、ジェネルの言うように目的意識のない練習はそれこそ、怠惰でしかない。まして、注意力が低くなるから怪我の原因にもつながる。

そんなことだって分かっているはずの今野はあまり口を出さずにそれらを放任しているし、生駒もあえて俯瞰で見て選手の様子を伺っているようだった。

これではまるでジェネルがコーチではないか――海はそう思うと、自分も後ろを振り向いて――

 

「二番手走ってるのが40代で恥ずかしくないのか!ランニングが嫌なら自分で代わりのメニューを提案して監督にでも伝えて、別の練習に切り替えたらどうだ!」

海は少し煽るような言い方で声を張ったが、ペースを自分なりに考えて走っているようなベテランの先発投手だとか、そういった選手たちはともかく、嫌そうにダラダラと走っている選手たちにはあまりその声は届いてそうになかった。一部のベテランや中堅は入団したての選手に絡みながら、ニヤニヤして走っている様子だって見える。

 

「……ダメだな、これじゃ。新みたいなのが一人居れば全然違うのかもしれないのに」

海は首を振りながら、独り言をつぶやいた。

顔も覚えたくないような中堅と若手にまみれた列の表情が海からしばらく離れなかった。

 

『環境を変えてよくなるなら、よくなるほうを選びたいけど――』

 

よそのキャンプがこんな光景じゃなければ、自分はもっと頑張ろうと思えるだろうか――と考えもしたが、考えれば考えるだけ自分を追い詰めるだけだと思って、先頭を走るジェネルの揺れる大きな尻を見て気を紛らわそうとした。

さすがにそれはジェネルに悪いと思い、海はジェネルと併走をはじめた。

 

「……なんか海さん、心なしか顔赤くありません?熱あります?」

「……なんでもない」

海は横を向きもせず、まっすぐを見て走り続けた。

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