〈――この回からマウンドに上がってます。田中。肩の怪我を理由に一時は引退を表明するも、チーム事情から急遽引退を撤回され、一年限りという条件でマウンドに戻ってきました。チーターズは今季も投手の補強だけでなく、投手事情がなかなかうまくいかなかったということでしょうか?〉
〈チーターズはFA争奪戦にまた失敗しましたし、注目の若手というものもなかなかここ数年遠ざかってますからね。田中くんを引き戻してまで投手陣をやりくりしないといけないということなんでしょう。あまり若手の肩を使わせたくないということに関しては一定の理解はあるんですけど……僕としては新人や中堅どころをこういうときだからこそ使うべきなのではと思うんですけどね。まあ、そうもいかないような、チームに根深い事情があるんでしょう〉
〈内角低め、ストライク。127キロ。田中、一旦ここで間合いを取りました。――と言いますと?〉
〈チームがね、思い切り負けることを恐れてるんですよね。チーターズは20年前とかと比べたらもう全然強くなりましたけど、チーターズがこれまで強かった時期っていうのは、大体どこかしらから選手を引き入れて一時的に強かっただけなんですよね〉
〈なるほど。現在のチーターズでここでじっくり育ってきた選手というと、佳井、田中、そしてジェネルが思い浮かびますが〉
〈この20年、まともに自前で育成してきて今もチームにいる選手というとその三人のほかにはいないでしょう。育ち始めた芽なんかは全部チームから出て行ってしまいましたし、伸びそうな芽をチームや監督たちが我慢できずに摘んじゃうんですよね。それでチームから出て行った選手は大体みんな活躍してるでしょう。それくらいチームに不満があるってことなんですよ〉
〈はぁ、そうなんですか〉
〈多分チームとしてはなんとしても優勝したいし、優勝できる力があるはずって思って采配してると思うんですけどね、今ある戦力を履き潰すことだけ考えてて、次の一手を打とうとしてないんですよ、今野監督。これはたぶん今野監督どうこう以前に、現場とフロント、選手と監督やコーチ、それぞれの信頼関係が築けてないことの表れだと思うんですよ。フロントがしたいことと監督のしたいこととのギャップと、そして現場の選手とのギャップが、結局あとひとつを勝ちきれないチームや環境を作り続けてると僕は思うんですね〉
〈なるほど、そういう見方もありますか〉
〈今日はベンチ外の佳井くんも確か同い年でしたよね。二人とももう40歳を過ぎたでしょう。大概、うまくいってるチームっていうのは世代交代を――〉
〈外角高め捉えた!ボールはセンター前へ転がってヒット!一塁ランナーは二塁ストップ。田中、早速苦しい場面を迎えてしまいました〉
〈田中くんもねー、この調子じゃ開幕は厳しいと思いますよ。そうまでして田中くんを投げさせないといけない理由を僕は聞いてみたいですね、今野監督に〉
〈逆にバイソンズはチャンスとなりました。昨年は100敗を記録してしまいましたバイソンズですが、こうした場面でいかに勝ちきる野球ができるかがチーム再建のポイントとなりそうです――〉
今までオープン戦の様子すらほとんど見ようとしなかった海が、この日ばかりは田中の復帰戦ということもあってBSの生中継を追っていた。
球場で海と一緒に軽く自主練習をしていたジェネルもそのまま家についてきて、二人でその試合の様子を真剣な眼差しで見つめていた。
相変わらず肩の上がりきっていない田中は、かなり低めのスリークォーター気味に投げる投球が続いていた。
もともと球の速さで勝負するような投手ではないが、見た目の球速以上にキレやスピンが効いてない、それはあまりにもプロとしてふさわしくないように見えたそのボールは、手術からの復帰があまり万全でないのか――それとも単純に田中が力んでしまっていたり、何か精神的な枷があってうまく投げられていないのかは分からないが――とても見ていられるものではなかった。
「クッキー焼けたよ。食べる?」
「……ああ、悪いね」
「すみません、ありがとうございます」
「お前のぶんじゃないよ」
「えー」
「いいんだよ。ジェネルちゃんも食べて食べて」
「ほらー。華耶さんは誰かさんと違って優しいですね~」
それは遠くで見つめていた華耶からも明らかなもので、焼きあがったクッキーをすぐさま運んでいったん二人が――正しくは自分を含めた三人が野球から目を逸らすきっかけがほしくて、少し割り込むような形で話しかけた。
手際よくアイスコーヒーを続けざまに運び、バニラとバターの少し甘ったるい香りと、コーヒーの苦々しい香りとが入り混じった空気を華耶は生み出し、海もジェネルもまた、話題を逸らすようにしてしばらく無言でクッキーを食べ続けた。
「……見てられないね」
海はジェネルも華耶もあえて口に出さなかった言葉を吐き出した。
「上がってきますよ、さすがにここからは」
「上がらないよ。あんな投げてて辛そうな顔、テレビに映していいもんじゃない」
ジェネルの必死で笑顔を取り繕った言葉を遮って、海は深いため息をつきながらぼやいた。
「決して美談にしちゃいけないよ、あれは。確かに怪我はあったとはいえ、もともとチームの都合で戦力外突きつけられたやつが、今度は穴が埋まらないからって、こうやって晒し投げをさせられている。どいつもこいつも、投手の肩をなんだと思ってるんだよ。田中は、それでも構わないから投げさせろって感じなんだろうけど……こういう時、選手を守ってやるのがチームなんじゃないのか。見ろよ。野手の誰もが寄ってこない。こんなチームじゃ一生無理だよ」
海はそう言って、コーヒーを口に含んだ。眉間にしわを寄せたのは、決して苦味のせいではないことは二人にはよく理解できた。
「誰だって、田中の肩が元に戻って投げてくれる姿を祈ってる。俺だってそうだ。でも……田中は、決して俺たちの負の歴史の遺産なんかじゃない。一度壊した肩を無理矢理半年で治してきて、もう一度その肩を壊させるような使い方して、『やっぱり田中じゃダメだったね』みたいな感じにしようとするのは、俺は……俺には、ちょっときついよ。その分打って、打ちまくって……アイツの負けを帳消しにしてやればいいだけの話なんだろうけどさ」
〈――田中、ここで降板です。結局この回、1/3イニングを3失点でした〉
〈まあ、しょうがないでしょう。ストレートが全然走ってませんからね。調整をしっかりして開幕には間に合わせてほしいですね〉
首を振り、歯を食いしばるような表情でマウンドからベンチへ向かう田中の姿がテレビに映る。
青ざめた表情でマウンドから降りてばかりいた田中の姿はそこにはなかったが、歳相応に頬がこけはじめ、自らの不甲斐なさに怒りをむき出しにする田中の姿は、見ているこちらも辛くなるような、胸がつかえる感覚を与えた。
「……あ、ところで」
ジェネルは場の空気を変えようと、携帯を取り出し、ネットニュースの画面を見せた。
「新くん、来月の親善試合にまた呼ばれてるみたいですね。マジでこのままワールドカップに呼ばれそうな勢いらしいですけど」
「あれはあれでまた見てられないんだけどね。プレーがわがまますぎて」
海は苦笑しながら、クッキーをつまんで食べた。
「26ある枠のひとつを新に与えようとしてるんであれば、多分、『気を緩めてるとお前らすぐに世代交代の憂き目にあうぞ』って意味で呼ばれてるんだと思うよ。まさか本気でワールドカップに呼ぶつもりなんか、ないと思う。こないだ確かにゴールは決めたし、足は速いし技術もあるし、何より若さゆえの体力はある。でも、国際試合にあの視野の狭さは致命的だ。今のままだと、新は自分を過信しすぎて致命的なミスをしてしまうと思う」
「えー、辛辣ぅ」
ジェネルは海の痛烈な言葉を聞きながら、クッキーをつまんだ。
「バター、多めに焼きましたよね?これ」
「そうだよ。練習の後って聞いたから、少しでもエネルギーになればと思って」
「気が利きますね~。どっかの誰かさんと違って、気配りのできる人ですよ。ほんっと、華耶さんは素敵な奥さんです。誰かさんには勿体無いくらいですよ。ね~」
華耶の笑顔にジェネルも思わずにんまりと笑顔を見せ、海のわき腹をつんつんと肘でつつき始めた。
「俺が気が利かないどうこうは今どうだっていいだろ。お前が新の話を振ったんだから」
「そらそうですけど」
ジェネルは頬を膨らまして海を睨んだ。華耶はその様子をニコニコしながら見つめている。
「華耶。お前、最近のサッカーはゲームくらいでしか知らないだろ。そんなお前から見て、新のプレーはどう思う」
「えっ、ちょっと……ひどい言い草だなぁ。海くんが思ってるよりはまあまあ見てるんだよ、これでも。……でも……うん、そうだね。新らしいっちゃ、らしいよね。ボール持ってからの俺様感っていうか」
「私はああいうの、子供らしくて好きですけどね。きっと海さんもサッカーやってたらこういう一面もあったのかなーって気持ちもちょっとありますけど」
「……俺はあそこまで俺が俺がと周りに気づかないくらいまでボールキープなんかしないよ」
ジェネルの声に海は苦笑しながら、首を振る。不意を突かれたような驚きもそこには確かにあったのか、海はつまもうとしたクッキーを二度ほど空振りした。
「そりゃ、普段はしないと思いますよ。でも、きっとムキになったら同じようなことしてたと思います。新くんほど海さんは自分本位って感じじゃありませんから。でも、海さんのDNAはやっぱちょっと感じますよ、プレーの節々に。男らしいというよりは、海さんらしい、と表現したほうがきっと的確な言い回しだと私は思いますねー」
「褒めてるんだかけなしてるんだか」
「まあ、DNAです、って言われたら、響きはいいよね。あたしは海くんがサッカーしてる姿を見たことがないし、口でしか説明されたことがないから、海くんがほんとはどんなプレーヤーだったのかとかも全然分からないから、ジェネルちゃんの言うことには確かに一理も二理もある」
「二人ともやめてくれよ。あそこまでパス求めたり、パスが来ないからって両手広げて味方にキレ散らかしたりなんかしないよ、俺は」
海は参ったような素振りを見せながら、少しだけ不機嫌そうにコーヒーを飲み干した。
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「『死んだフリ作戦』?」
海は思わず噴出しながらも、すぐに眉間にしわを寄せ、今まさに食べようとしていた焼き鳥の串を思わず皿に置いた。
「そうです。死んだフリ作戦。……だそうです」
田中は自分でも言ってる言葉がおかしくてたまらないような表情でビールを口にし、ジョッキを置いた。
「死んだフリっていうか、死んでるだろ、お前」
「えッッ……遠慮ないですね、佳井さん」
「自分でも本当はそう思ってるだろうから言っただけだよ」
海は田中にそう言い放つと、田中もフフッ、と笑みを浮かべながら――やがて口を大きく開けて笑った。
「……まあ、そう言われるのを待ってた俺もいるんですけど」
そう言った田中は、携帯で術後の写真を海に見せた。痛々しい縫合の痕を海は直視できなかった。
「やめなよ。肉食ってるときに見るもんじゃないよ、こんなん」
「すみません。……でも、こんな手術痕見たら、半年後にマウンドに立ってるなんて誰も思わないじゃないですか」
「そりゃ、そうだね」
「だから、今日とりあえずマウンドに立った姿を見て、やっぱり田中はダメなんじゃないか、って思わせておいて、開幕まではまた調子を整える、っていう作戦だそうです」
「作戦って。開幕までにお前の肩は調子が戻るのかよ」
「戻るわけないじゃないですか」
田中の即答に思わず海は頭を抱えそうになった。威張って言うほどのことではないだろう――という思いが海に頭痛を引き起こし、むしゃくしゃした。
「じゃあ作戦じゃないだろ」
「そうですよ。……こんなハッタリ、誰も引っかかりませんよ。うちの監督も、もうダメかもしれませんね。俺をこの一年、自分の政治のために使うつもりなんでしょうけど、こんな作戦で首位奪還なんてできるほど、バトシの選手層は薄くないですよ。なんなら、リーグ全体、こんな作戦で誤魔化せるほど生ぬるくないですよ。補強に長期で失敗してるのは、うちらだけなんですから」
田中は乾いた笑いを浮かべながら、自虐的に自分の肩を指差した。
「多分、今シーズンが終わったらまた手術です。医者からも言われてます。本当にもう一回マウンドに戻るつもりなら、次にマウンドを去るときはきっと、今よりもっと長いリハビリになる、って」
「俺もさ――」
「はい?」
海はふと、目を伏せて口を挟んだ。田中は急に海が口を開いたものだから、少し驚いてその様子を窺った。
「俺もいつか、選手生命を脅かすほどの大怪我なんてしたらさ、そういう……なんだろう。安っぽいドラマみたいな演出のために、あの監督や、フロントどもの演出に付き合わされるのかな」
「まさか。佳井さんはそんなことになる前にきっと、辞めるんじゃないですか」
「辞めさせてもらえないよ、きっと」
「だとしても……辞めるっていうか、今まで大きい怪我もなく、今だってどこも悪くないままプレーしてるじゃないですか。……メンタル以外は」
ふとどこも悪くない――と断言しかけた田中ははっとした表情で、付け足したように海の病状を案じた。海は気にも留めないような表情で『どうでもいい』といった仕草で手をひらひらとさせてみせた。
「だからきっとアレですよ。あの監督、次に何やるかって言ったら、俺の引退を口実に次は佳井さんを干して、どうにかして佳井さんをチームから追い出すつもりですよ。突然やたらと豪華な引退試合とか用意なんかしたりして、後腐れなく終わった、みたいな演出だってすると思います」
「……正直言って、最悪にもほどがあるね」
海はうんざりした表情を浮かべながら失笑した。
「この世に、『あの監督のためになら命を捨てていい』とかいうドラマじみたチームが本当にあるなら、見てみたいよ。よそのチームがどこまで本当のことを言ってるかなんて、俺たちはその実情を知らないからなんとも言えない。よそのチームが表に見せている団結っていうのも、所詮俺たちが普段見てるような世界とそう変わらないのかもしれない。よそは別であってほしい、っていう、世界を信じたい気持ちもあるし、よそも同じであってほしい、っていう、俺たちが見ている地獄を、よそも見ていてほしいっていう気持ちも常にあって、複雑だ」
「分かりますよ」
「ただ……少なくとも、俺たちのところにはとうとうこんな歳になるまで、そんな空間はなかったことだけが、今俺たちが見ている現実なんだ。漫画やアニメやドラマみたいな、胡散臭いほどの世界の綺麗さが――誰もが分かってて続きをついつい見ちゃうような、使い古されたドラマが――俺たちの世界にもあったらよかったのにね」
「でも、まだ俺たちの世界は終わってません」
吐き捨てた海の言葉を田中は半笑いで拾い上げ、海をまっすぐな眼差しで見つめた。今年一年で終わりだということを決意してるせいか、いつになく田中の眼差しは強く、まっすぐで、ブレなかった。いつしか田中の持つ独特の間や一言目の鈍重さだって、なくなっていた。
「終わっちゃないけど、もうほとんど終わりかけてて、どうしようもならないことだって、分かってるだろ。熱が通りきってしまってどうしようもなくなった形の崩れて破けてしまったオムレツのようなもんだ、俺たちは」
「それは言わない約束です。分かってても……負けるって分かってても、それでも、戦わないといけないんです、俺たちは。佳井さんがずっと背中で、そう教え続けてくれましたから」
「だとしたら、安い背中を追ってきたもんだね、お前も」
海は田中の眼差しをかわすようにして、笑った。信じる強さを帯びた田中の眼差しが、海の痛んだ心にはいやに突き刺さってきたからだ。